〜その後1〜


トランクを転がしながら歩いてくるその人を見つけた瞬間、俺は鼻の奥がツンと痛くなった。
こんなことで感情がこみ上げてくるなんて思ってもみなかった。この不意打ちに、自分が どれだけ弱っていたのかを実感せずにはいられなかった。
「吉沢さん!」
軽く手を振って合図を送ると、吉沢さんも俺に気づいて小さく頷いた。
そして、一瞬目を合わせた後、吉沢さんはうつむいたまま視線を逸らして俺の方に近づいて 来る。
何故そこで、照れるんだ!と突っ込みたくなったけど、俺だって実のところ直視してられる 自信はなかった。
頬が熱く、多分他人から見ても赤いだろう。 近づいてきた吉沢さんが、俺の数歩前で止まる。ゆっくりと顔を上げ、俺と視線を合わせ ると、緊張した笑顔で言った。
「深海、久しぶり」
「吉沢さん……」
ああ、そうだ。これが吉沢さんだ。この場で抱きしめたいのをぐっとこらえ、俺も社会人 の顔をして頭を下げた。
「お久しぶりです。長旅、お疲れ様でした」
「なんで、他人行儀なんだよ」
十分あなたもですよ、と心の中で呟きながら頭を掻いてフォローする。
「えっと……久しぶりで距離感わすれちゃって」
「たかだか6ヶ月だろうが」
「俺には永遠の苦行のような時間でしたよ」
それは間違いじゃない。吉沢さんを肌で感じられないこの6ヶ月。仕事に忙殺されながら 心も身体も淋しかった。
淋しい、辛い、泣き言を言ったのは先週のことだった。それまでは、我慢して我慢して 絶対に泣き言は言わないと決めていたんだけど。
結局爆発して、吉沢さんを呼び寄せてしまった。
会いに来てくれた嬉しさと、煩わせてしまったことへの後ろめたさ。吉沢さんが「俺に会 いたくて」来てくれたのだと願うばかりだ。
胸がズキズキと痛む。抱きしめたい衝動を抑えると呼吸が乱れそうだ。
「荷物持ちますよ」
「ああ、ありがとう」
「早く、アパート帰りたいです」
「深海?」
「感動の再会に、抱擁もできないなんて辛すぎる」
「ばーか」
吉沢さんが俺の背中をぽんと叩く。吉沢さんの触れたところからジーンと熱が伝わって 背中が蕩けそうだった。



乗り継いでモスクワまでやってくると、陽は少し傾き始めていた。通りは休みの人で賑わって いて、俺はどさくさに紛れて吉沢さんの手を握った。
「あの向こう側が「赤の広場」です。またあとで行ってみます?」
「観光……してる暇あるか」
「あ?一日くらいは暇な日、あるんですよね?」
「暇かどうかは、お前次第だな」
吉沢さんはニヤっと笑って俺の視線を外す。
「どう言う意味ですか」
俺がその視線を追いかけて覗き込むと、吉沢さんは含んだ笑を零した。
「お前がいつもみたいに寝坊しなければってこと」
「え?あっ……はは……自信、ないな……」
その含まれた言葉の意味を俺は悟る。ああ、恋人との会話だなあ。同時に、出掛ける約束 の前日にセックスして朝寝坊した数々の思い出が蘇って、俺はつくづくダメな男だったと 再認識した。
「観光したいと思ってきたわけじゃないから、どっちでもいい」
吉沢さんの呟いた一言に、今度こそ後ろから抱きしめてしまうかと思った。






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