なかったことにしてください  memo  work  clap




家族は他人の始まりで、家族は他人の集まりなのだと彼は言った。



外は雨だった。雨粒がはじけるように周りの景色を包み込んで、空気を重くする。扉を一歩
出ただけで、風は冷たく感じた。
 高瀬湊(たかせ みなと)はアパートの玄関でビニール傘を開くと、見送りに来た男を
振り返る。
「じゃあ、な」
「ああ」
僅かに目を逸らしながら、男は玄関で湊を見送った。そこにはいつもの行為も台詞もない。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
沈黙は2人の間に出来た溝を更に深くしていくようで、その淵に足を取られて、暗い谷の底
に墜落してしまうような気分だ。
「また明日」それはもう二度と口に出来ない禁句。湊は言葉すらも失った。
外に出れば直ぐに足元が湿って、ジャケットの裾が傘の雫で濡れた。
無言で見上げれば、男は苦笑いと気まずさで読めない表情をする。湊はそれ以上見ることが
出来なくなって、何も言わずに歩き出した。
 一歩一歩男から遠ざかる。振り返ることはしない。いや、できない。
湊が歩き始めると、直ぐに玄関のドアは閉じた。ガチャンと重たい音は、まるで自分を
拒絶するように心に響く。もうあのドアが自分のために開くことは、ない。

アパートの階段を下りて、細い道路に出る頃には、ジーパンの裾は雨でぐっしょりと
濡れていた。
 それでも、湊はそれを気に留めることもなく黙々と歩く。一刻も早くここから離れる
ために。
「終わったんだな・・・・・・何もかも」
ビニール越しに空を見上げると、どんよりとした10月の空が映る。雨はビニールにボツボツ
と当たって一定のリズムを刻んだ。
「雨だれ、か・・・・・・」
湊は、今日の生徒が弾いていたショパンの雨だれを口ずさむ。静かなメロディの途中で
思い出したように笑う。
「あの子の雨だれは、雨だれっていうより夏の嵐みたいだったけどなあ」
湊はL社の音楽教室で3年ほど前から講師をしている。音大を出た後、プロを目指すわけ
でもなく、かといって音楽と離れる事もできず、講師の道を選んだ。
 再び雨だれを口ずさむと、湊は漸く今しがたの出来事を反芻した。

湊はゲイだ。高校時代から自覚はあったが、男と付き合い始めたのは音大に入ってから
だった。
 探してみれば、意外と同じ嗜好の人間は多く、湊はそれほど恋愛に不自由しなかった。
そう言う意味では恵まれた環境だったのだ。
 音大では3人の男と付き合った。最初の2人は長続きせず、最後の1人はたった今まで、
自分の恋人として分かり合っていたはずたった。
 湊はつい先ほど、振られたのだ。
昨日まで、優しく囁いてくれていたはずなのに。好きだと言って、身体を重ねて、「また
明日」のキスをして、そうやって永遠に続く気でいたのに、今日になって男は、重い口を
開いた。
 長い間ずっと溜め込んでいた思いを湊は聞かされて、何もいえないまま湊は男のアパート
を後にした。


「何がいけなかった?」
その問いは無意味だ。
「湊が悪いんじゃない」
その答えは予め用意されていたのだから。


 泣き喚いて駄々をこねても、男の心をこちらに戻す事が出来ないと、彼の性格をよく知って
いるからこそ分る。忍び寄っていたすれ違いに湊は気づかない振りをしていたのも事実で、
上手くいっていると、自分を騙しながら過ごしてきた。それでもいいと思っていた。
 けれど、綻びは日を追うごとに大きくなって、先に根を上げたのは男の方だった。
「ごめん」
その一言の重さは、今までの幻想を全て破壊していくほどの威力を持っている。無理矢理
夢から覚めさせられて、檻の外に放り投げだされたようなものだ。
 けれど、戻りたいといって、檻の中に入ることはできない。自分にはまだ多くの気持ち
が残っているけれど、1人で癒していくしかないのだ。
「自棄酒でもしようかな」
もうこの道も通ることはないだろう。気まぐれにコンビニに立ち寄って目に付いたものを
適当に買った。
 ささやかで、湿っぽい、自分のためだけの惨めなパーティをするために。




 コンビニを出て暫く歩くと、そこからいきなり田畑が広がる。収穫の終わった田んぼは
がらんとして、寂しい。
 土手の草も雨でぐったり倒れていた。湊はレザーの靴を浅い水溜りでピチャピチャさせ
ながら歩いた。
 幼い頃、雨が降ると長靴の足で水溜りの中に勢いよく飛び込んで「爆弾!」と言っては
周りを困らせた下級生を思い出す。
 靴越しの水の中はどこか安心感があった。
 レザーの靴の隙間から水が湿ってくる。冷たいと感じながらも、湊は暫くそこから抜け
出せなかった。
「寒いな。冬のコート出したいくらいだ」
 一雨ごとに寒さは増す。去年買った冬のコートは湊によく似合っていた。彼が「うーん」
と唸りながらも、小声で似合うと笑ってくれたヤツだ。
「やんなるよな・・・。3年以上も一緒にいると、何でも思い出が付きまとう」
湊は傘を持ち直すと、再び家に向かって歩き出す。―――誰もいない我が家に。


 田畑が広がる一本道の突き当たりは二級河川が横たわる。小高くなっている河川沿いまで
勢いをつけて駆け上がると、そこから川沿いを歩いた。
 パカパカと消えかかる街灯がどこかの三流ドラマみたいで、余計に惨めになる。
車一台がすれ違えるほどの川沿いの道は、普段ならば散歩やウォーキングの人で賑わって
いるが、今日はまだ誰ともすれ違っていない。
 流石に3日も雨が続くと、誰も外に出る気にはなれないのだろう。湊は薄暗い道を歩き
続けた。
 歩き続けると、二級河川をまたぐ形で高速道路の橋が架かっているところまで辿りついた。
高速道路の直ぐ脇には側道用の橋も架かっていて、湊たちはいつもお互いが家に来る時は
ここまで送り、そこで別れるのだ。
 この橋を渡れば、湊の住む町になる。湊と男を隔てる川。湊と男を繋いだ橋。
「じゃあ、また明日」
そう言うと照れながらこっそりとキスをくれる。高速道路の高架下でいつまでも、別れを
惜しんだり、尽きない話をしたこともあった。真夜中に来て、スリリングな体験をしたこと
もある。夜中に響いた自分の声と彼の掠れたうめき声。どうしてあんなことが出来たんだ
と、今では不思議に思う。
 湊と彼を結んだこの橋。もうこっちの街にくることもないだろう。この街は彼の中に
あった。彼との時間の全てが、この街と共に消えていく。
 最後に心に焼き付けるつもりだったのか、それとも忘れるためだったのか、湊は一度
彼の街を振り返った。
 さよなら、心で呟いて最後にぐるっと一周すると、高速道路の高架下に目が行く。
たくさんの思い出は、今は残酷だ。苦しくなって湊は目を反らそうとした。
その瞬間目が留まる。不思議な光景だった。
「誰かいる・・・・・・」
雨で霞む高架下にぼんやりと映るのはスーツ姿の男。蹲って膝を抱えて土手に座り込んで
いるが、雨を凌げているようには見えなかった。
 自分達だけの特別な場所に知らない誰かがいる。あの場所は自分達だけの特別だった。
そこに異質なものがあるだけで、湊の心は苦しくなる。
 時間が流れる。終わっていく。その感覚だけが強くなって、湊はこみ上げてくる涙を
必死に堪えた。

 湊は吸い込まれるように、そちらに近づいた。足音に気づいて、スーツの男が顔を上げる。
会社帰りのサラリーマンのようだが、とてもそんな風にはみえなかった。ビジネスバッグ
は雨に濡れてふにゃりと曲がっている。
 よれよれのスーツに無精ひげ。ぼさぼさの頭。
(もっさい人だなあ・・・)
スーツの男はうつろな目で湊を見上げた。目が合うと湊は自然な動作で自分の傘を差し
出していた。
「傘、あげるよ」
「・・・・・・」
「この傘さ、この前の雨の日にアイツがコンビニで買ってくれたんだ。・・・・・・悔しいから
貰ったものは、全部この街に捨ててくことにした」
何言ってるんだろう、湊は自分でも信じがたい行動をとっていた。スーツの男の上に傘を
置くと、ぐるりと向きを変える。傘を手放した瞬間から細かい雨に身体が濡れて一気に寒く
なった。
 はあっと手に息を吹きかけると、こんどこそそのまま橋を渡った。
さよなら。
湊の後ろで彼の町が一つずつ消えていくみたいだ。家に帰ったら風邪ひくだろうな。
「コンビニの袋の中までびしょ濡れ・・・」
橋の真ん中辺りで一度振り返ろうと思ったが、現実が笑っているようで恐ろしくて止めた。
 頬に当たる雨粒はいくらか涙がまじっていて、湊はそれを拭いもせず黙々と歩いた。



 橋を渡り終わったら、いきなり雨が止んだ。湊の頭上で。
驚いて回りを見渡すと、さっきのスーツ男が湊の方に向かって傘を差していた。
「・・・・・・それじゃあ、君が濡れてしまうよ」
男の声は思った以上に柔らかく響いている。
 ぐすっと鼻をすすって見上げると、困った顔で佇んでいる男。見上げたその角度がいつも
より高くて、何故だか新鮮だった。
「・・・・・・るって言ったのに」
「はい?」
「あげるって言ったのに、その傘。せっかく、あっちの街に置いてきたのに」
「・・・・・・」
湊は自分の真意など伝わるわけはないと分っていながら、男に言う。スーツの男は案の定
対処に困っていた。
「・・・・・・戻ったほうがいいのかな」
「もう、戻れないよ」
あの街には戻れない。彼のところには、戻っても跳ね返えされるだけ。
「・・・・・・」
そうしている間にも、傘を向けた男の体は雨に濡れ、おでこに張り付いた髪の毛から、雨の
雫が頬を滴り落ちていく。
 びしょ濡れの男と、心がびしょ濡れの自分。そんな些細な共通点だけで湊は自然と次の台詞
を口にしていた。
「あんたにあげたその傘で、家まで送ってよ」
「え?」
「お礼は熱いシャワーとコーヒーでどう?」
雨と涙でベタベタの顔を僅かに歪ませて、湊は無理に笑った。男は眉間に皺を寄せて湊を
見下ろす。
「早く決めてよ。寒いから」
「・・・・・・それじゃあ、その案に乗らせて貰います」
男がビニール傘の半分に自分も入ったのを確認すると、湊は再び歩き出した。
 もう橋は振り返らない。
雨でけぶる景色を湊は男と無言で歩いた。







 門灯に明かり付いていない家の前で立ち止まると、湊は男に言った。
「送ってくれてありがとう。誰もいないから、気にせずにどうぞ」
「ここ・・・?」
男は2階建ての一戸住宅を見上げた。住宅街の中でこの家だけが明かりが無い。誰もいない
ということは、家族がまだ誰も帰ってきていないということなのだろうか。
「そう。シャワー浴びていくでしょ?」
「・・・・・・いや、でも・・・・・・」
 いきなり知らない人間が家に上がってシャワーなんて浴びていたら、帰宅した家族に遭遇
でもしたら不信に思われるのではないだろうか。
 男の遠慮がちな態度に、湊は苦笑いした。
「遠慮しないで。家族なら少なくともあと5年は帰って来ないから」
「え?」
「この家に住んでるの、今は僕1人だから」
男は一瞬目を見開いて湊を見下ろす。けれど、湊はその視線をやんわりとかわして言った。
「父親が海外赴任で、母親も一緒についていっただけ。姉は結婚して家を出たし、込み入った
事情はありません」
「・・・・・・そう、ですか」
湊はポケットから鍵を取り出すと、玄関の扉を開けた。その先には真っ暗な闇が続いていて、
湊は手探りで電気のスイッチを探す。
 一つ明かりが灯ると、ぽうっと玄関が浮き上がった。
1人で住むには広すぎる玄関だ、と男は漠然と寂しさを感じた。




「タオルどうぞ」
「・・・・・・本当にいいんですか」
「家に上がっておいて、その台詞もどうかと思うよ」
湊は軽く笑って、男にタオルを手渡した。
「そうですよね」
男も素直にそれを受け取った。
「スーツはクリーニング出さないと。着替えは僕のだけど・・・・・・ちょっと小さいかな」
湊は男の頭から足先まで眺めて、自分のサイズよりもかなり大きい事を改めて確認する。
「ちょっとくらい足がはみ出ても、笑っちゃうのは僕だけだから勘弁してよ」
茶目っ気いっぱいに湊は言ってスウェットを手渡した。
「お言葉に甘えて、お借りします」
「あと、髭。ちゃんと剃った方がいいよ」
男は湊から着替えとタオルを手渡され、浴室に追いやられた。
 白い壁に清潔な洗面台。大きな鏡がみすぼらしい男の顔を映し出している。彼は鏡の中
の自分に自嘲して、無精ひげだらけの頬を手でさすった。
 疲れてるなあ、そう思いながらふと洗面台の隅に目をやると、そこにはコップに刺さった
2本の色違いの歯ブラシが仲良く並んで、その存在を男にアピールしていた。
「恋人かな・・・。でも、歯ブラシの色のチョイス、なんで青と水色なんだろうな」
男は、湊の隣で小柄でかわいらしい女性が、水色の歯ブラシ咥えて仲良く歯を磨いている姿を
想像して、笑った。
 そして、自分の置かれた立場を思ってその笑顔はあっという間に消えていった。



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