なかったことにしてください  memo  work  clap




「珍しい曲弾いてるんですね」
風呂上りに、武尊は体から仄かに湯気を上げながら湊のピアノに近づいてくると、そう言った。
 湊が弾いていたのは週末に控えた小コンサートで弾く予定のポップスだ。クラシック
ばかり弾いている湊にとっては確かに珍しい。
「週末にね、コンサートの手伝いするんだ」
「手伝い?」
「うん。大学時代の友人にチェリストがいるんだけど、彼のコンサートで伴奏頼まれて・・・・・・」
「へえ、すごい」
「小さな内輪のコンサートだけどね」
「それでも、俺みたいに何の特技の無い人間からしてみれば、舞台の向こう側に立つって
凄い才能だと思いますよ」
「主役じゃないけどね」
武尊は、グランドピアノの上に散乱しているスコアに目を落とした。
「これも弾くんですか?」
武尊が指をさした先にあるのは、「戦場のメリークリスマス」の表題。いつか映画でみた
音楽が武尊の頭に浮かんだ。綺麗で切ないピアノの音が印象的で、クリスマスソングといえば
武尊は真っ先にコレが浮かぶ。
「うん。ちょっと早いけど、クリスマスコンサートの先取りみたいな感じで。クラシック
もジャズもポップスもごちゃ混ぜの気楽なコンサートにするみたい」
「面白そうですね」
「興味あるなら、武尊さんも来てみる?」
何気に言った一言に武尊はうれしそうに頷いた。
「行ってもいいんですか?」
「うん。勿論。・・・・・・でも、意外だなあ」
「俺も、自分でも意外だと思うけど、ずっとこうやって湊君の演奏聞いてたら、ちょっと
興味が出てきたみたい」
「それは、嬉しい。・・・・・・当日は、僕なんかよりもずっと才能のあるチェリストが素敵な
曲を聞かせてくれる事は保証するよ。一応世界を相手に駆け巡ってる人だから」
「聞き分けられるほどの耳を俺がもってるか・・・・・・」
「大丈夫。いい演奏は、誰が聞いてもいい演奏に聞こえるものだよ。彼、性格は問題あり
だけど音に関しては、超一流だから期待してるといいよ。・・・・・・僕の伴奏が下手すぎて
申し訳ないくらい」
「下手すぎって・・・・・・俺は湊君の演奏も凄いと思いますよ」
「ありがと。普通の人が相手なら、僕も気後れしないんだけどね・・・・・・相手があれだとなあ」
「そんなに凄い人?」
「うん。いろんな意味でね」
湊はそういいながら、ピアノの上のスコアの下から、封筒を探し出す。茶封筒の中からチケット
を取り出すと、武尊に渡した。
「駅の近くのライブハウス・・・・・・こんなところでクラシックのコンサート?」
「うん。時々クラシックもやってるみたい。でも今回の演目、ジャズもポップスもありだから
ホントめちゃくちゃなヤツだよ」
「楽しみだな」
武尊が笑う。なんでそれだけの事で、こんなに心が揺れるんだろうと、湊は焦った。
 聞かせたい、聞いてもらいたい。どんな風に弾いたら、武尊に届くんだろう。
 届ける・・・・・・何を?
 武尊の無骨な指がチケットを握っている。男の手だ。不器用そうだけど、強くて、暖かい
手なんだろう。いつだったか、抱きしめられたあの感触が蘇る。ぎゅうっと身体が絞られる
ような痺れが走った。
 その手に自分の手を重ねてみたくなる。酔った勢いじゃなくて、あの手を握れたら・・・・・・
手を伸ばしそうになった瞬間、玄関の開く音が遠くで聞こえた。
 湊の身体がピクリと小さく震える。それと同時に正気に戻った。何をしようとしてた?
武尊に対して、求めてはいけないと、自分に言い聞かせているのに。
 顔を上げれば、武尊はピアノの上に頬杖を付いていた。
「・・・・・・紺野、やっと帰ってきましたね」
「10時かあ」
「説教する立場でもないしなあ」
「・・・・・・でも、子どもが10時過ぎに帰って来ると小言の一つも言いたくなるよね」
自分の学生時代なんてまるっきり棚に上げて、湊と武尊は苦笑いした。



「あ?・・・・・・なんだよ?」
リビングの扉を開けると、いきなり2人に見詰められて紺野は動きを止めた。
「はいはい、お帰り。随分と遅かったね」
「別に」
「ご飯は?食べるなら、冷蔵庫におかず入ってるけど」
「いらない。・・・・・・あんたらこそ何してんだ、そんなとこで」
紺野はグランドピアノの上に散乱しているスコアを怪訝そうな顔で見た。
「週末にコンサートの手伝いするの」
湊は苦笑いしながら、武尊と同じ説明をする。それから、試しに紺野にもチケットを差し
出した。
「全然興味ないとは思うけど・・・・・・来て見る?」
突然差し出されたチケットに紺野は戸惑う。けれど、同時に湊の長くて綺麗な指に心を
奪われた。あの手はスポットライトの下で照らされながらどんな音楽を奏でるのだろう。
綺麗なものに心を持っていかれる、そんなシンプルで純粋な理由で紺野は湊の手が好きだ。
「・・・・・・あんたも弾くんだろ?」
「伴奏だから、後ろの方で目立たないけどね」
「行ってやるよ」
想像していなかった返答に湊は内心驚いた。紺野は武尊のように湊の近くで演奏を聞いたり
それについて発言したことなどない。興味などないと思い込んでいる。
 湊は紺野の想いに微塵も気づいていないのだ。
「偉そうだなあ、紺野は」
どうせ冷やかしにでも来るんだろうと湊はそう思って紺野にチケットを渡した。









 ライブハウスの楽屋に入ると、真っ先に嘗ての級友の顔が目に飛び込んできた。
「湊、遅い」
「久しぶり!・・・・・・遅いって打ち合わせ時間の10分前にちゃんと着いてるよ」
「俺より遅ければ、遅いんだよ」
「・・・・・・満、そういうとこ全然変わってないね」
友人、松下満はチェロを丁寧に拭く手を止めた。世界中を駆け回っているクラシック界では
知らないものはいないほど、今では押しも押されぬチェリストは、学生時代とは変わらない
表情で湊に話しかけた。
「3年や4年で別人に変わってたら怖いって」
「そうだけど。でも、満の肩書きは別人みたいに変わってるでしょ。今や世界を股にかける
異端児・・・・・・じゃなかった新鋭チェリストだもん」
「異端って何。俺、すっごく普通に仕事してるつもりだけど?」
「こんなお忍びみたいに日本帰ってきて、シークレットライブやるチェリスト他に聞いた
こと無いよ」
「俺も無いよ」
満はヒヒっと少年のような顔で笑った。端整な顔立ちの銀縁メガネには不釣合いなほど
やんちゃな笑顔だ。こういう表情の時の満は機嫌がいいということを湊は知っている。
掛け値なしで楽しんでいる満は珍しい。
「しかも、こんな一介の音楽講師を伴奏者に選んでさ。大学の発表会じゃないんだから」
「そういえば、音大の時のあの発表会はエライ好評だったよな。うちのチェロの教師なんて
湊のこと絶賛しまくってたもんな。あれ2年の時だったか」
「あの時はまだ、留学とかプロとかいろいろ夢見てたからね」
少しだけ感傷が混じるのは、満を見て懐かしいと思うからだ。プロの道には未練などない。
 親に縁を切られたとき、何もかも吹っ切ったつもりだ。
 湊ははにかみながらスコアを広げた。
「そんな昔話より、さっさと今日の打ち合わせしようよ。満ってばスコア送ってきたきり
本気でぶっつけ本番にするんだもん。流石に焦るって」
「大丈夫、なんとかなるさ。リハもあるし」
「そんないい加減な」
「俺を誰だと思ってんの」
「世界一のチェリスト、デショ。でも、僕はただの講師だって!」
何年ぶりかにする満の伴奏に湊も心を躍らせているのは確かだけど、それ以上に不安が募る。
相手はプロなのだ。
「湊は誰か招待してる?」
「・・・・・・うん。知り合いと、あと音楽教室の同僚がどうしても見たいっていうから。あ、
勿論満目当てでね」
「ふうん。そう。・・・・・・俺が湊の魅力まで、引き出してやるよ」
「凄い自信」
満はスコアを広げると大雑把な説明を始めた。




「さてと。そろそろリハだ。話してても仕方ないし、さっさと合わせてみようぜ」
満が愛器を抱えて立ち上がった。
「うん」
「湊がどんだけ腕上げたのか楽しみだな」
「それ、すごい嫌味だね」
「純粋に楽しみにしてるだけだって。俺、こう見えて耳に自信あるんだぜ?」
満はやっぱり少年みたいな笑顔になって、湊の背中を押した。









 アンコールで2回も引っ張り出され、最後は湊まで挨拶させられて、やっとコンサートは
幕を下ろした。耳の奥ではまだ拍手が鳴り止まず、チェロの残響と一緒に頭の中を駆け
巡っている。
「湊、お疲れ」
「お疲れー。流石っていうか、凄かった」
湊は興奮気味に言った。今まで経験したどの演奏会よりも、昂揚した気分だった。
「凄かった、か。半分はお前に引っ張られたな」
「まさか」
「最後のラプソディインブルーは、完全に持ってかれたし」
「満が、あんなに無茶苦茶なアドリブ振ってくると思わなかったからさー」
「お前の魅力引き出してやるって言っただろ。おかげでやりすぎたっていうか、ミイラ取り
がミイラになったっていうか。食われたな。面白かったけど」
満は楽屋のパイプ椅子に座ると、丁寧に愛器を拭き始める。蛍光灯に照らされても、満の
チェロは艶かしい輝きをしていた。
「冗談やめてよ。あそこにいたお客さんの9割以上は満のお客さんで、満を見に来てたんでしょ?
僕の伴奏なんて誰も聞いてないって」
湊は冷蔵庫から冷えたペットボトルのお茶を2本取り出すと、1本を満に渡して、もう1本は
がぶ飲みした。興奮で喉がからからだった。
「そうでもないぜ。よう目の肥えた客は、湊のこともちゃっかり見てた」
「不釣合いだって思ってたんじゃないの?・・・・・・でもまあ、ホントのトコお客さんには
悪いけど、僕はすっごい楽しかったけどね。こんなにワクワクしたの久しぶり」
「今からでも遅くないぜ?世界目指すの」
「ばっか。それこそ悪い冗談。僕は音楽教室の講師っていう職業気に入ってるから」
「だろうな。・・・・・・でも、お前の演奏、随分今日は色が付いてたな」
「へえ?そう?」
満が弦を拭く手を止めて顔を上げる。切れ長の鋭い眼光に見詰められて、湊は心臓がひっくり
返る程緊張した。顔は笑っているのに、その瞳の奥は冷静で笑っていなかった。
 興奮で饒舌になり掛けていた湊は瞬間で固まった。
 満のこの視線は苦手だ。人の心の内を全て見尽くしたような、掌で踊らされているような
そんな錯覚を引き起こさせる。
「大学の時からそうだったけど、お前の演奏は分りやすいんだよ。『悩んで、揺れて、聞いて
ほしくて、伝えたくて、でも・・・・・・』っていう乙女みたいな演奏だった。面白かったけど。
特にwhen I fall in loveなんて、お前のための曲みたいだったぜ?」
「ご、ごめん。伴奏なのに・・・・・・」
確かに、あの曲は陶酔しかけてた。チェロの心地よい音が自分の中に染み込んで、心に特定
の人を描いてしまった。
「恋しちゃった〜?」
クスクス笑われて、湊は口ごもる。それを認めるのは、まだ躊躇いがある。けれど、否定
する材料がもう残ってない気がした。
「相手が『恋してもいい相手』だったら、素直に頷けるんだけどね」
「なんだ、人妻か・・・・・・あ、湊は人『夫』の方か」
「・・・・・・」
大学時代に満にもカミングアウトしているから、湊がゲイであることを満は知っている。
知った後で「俺の周りにも結構いるから気にせえへんよ」とあっけらかんとして言って
くれた時、湊は満の懐の深さを恐ろしく思ったものだ。
 カミングアウトしてからも、満は何の変わりもなく接してくれる。自分の両親とは正反対
だ。音楽業界にこういう「変人」ばかりを想像してたから、自分の親の良識人っぷりが
余計に冷たく感じた。
「ひょっとして見に来てたあのサラリーマン?もしかして大穴でもう1人の金髪のやんちゃな
子とか?湊の趣味から行くと、リーマンの方が本命だけど」
「・・・・・・満、どこまで目がいいの?」
「俺の視力はどっちも0.1ないよ」
「もう、敵わないなあ・・・・・・」
「湊の視線、時々泳いでたから」
探してたのは間違いない。武尊がいる事を確認して、そうしたら気持ちが逸った。
「初めは、どーしちゃったの湊ちゃん?って驚いたけど、湊の動き見てたら納得した。
『恋しちゃいけない相手』ってお前が思ったから、こんな演奏になるんだなあ。誰かに恋
でもしてるような気はしてたんだけど。湊、切ない音出してたもんな」
「切ないって・・・」
「切ないんでしょ?既婚者なのに、自分の傍にいてくれて、だけど一線張られちゃってる
から手の出しようもない。なんでそんな人を何で好きになっちゃったんだって顔に書いてある」
「そこまで人の心読まないでよ」
あながち間違っていないのが凄いと、湊は満の洞察力に呆れた。
 武尊は未だ自分の家族に未練を残しているし、そもそもゲイじゃない。そんな人間を好きに
なるのは、無謀だ。恋なんてしないほうがマシだ。
 満は大切に愛器をしまうと、弓のねじを緩めに掛かった。多分あの弓だけどウン十万もする
んだろうと、湊はそれを眺めながら思う。
 滑らかな手つきに見惚れていると、満がわざとらしく溜め息を吐いた。
「だけどさ、そもそも『恋しちゃいけない相手』ってなんなの?そんな相手、世の中にいる
のかよ」
「そりゃあ、いるでしょ」
「この国は思想の自由を保障されてるんじゃなかったのか」
「満は、背徳者だから」
「失礼な。せめて博愛主義者くらい言ってほしい」
「満はさー、世界中回ってるし、変人のお友達も多いから、簡単にそんなこと言えちゃう
んだろうけど、実際、問題を目の前にすると凡人は自由になれないよ」
「それは、湊が思ってるだけだろ。気持ちを伝えるかどうかは別として、思うことに、何の
制約もない。俺は心を殺す必要なんてないと思うけどな」
「そんな片思い、辛いだけじゃん」
「そりゃ、そっからは湊のテクの見せ所でしょ?恋愛はゲームでも遊びでもないだろうけど
テクニックは必要なんじゃないの」
「そうだけどさー」
「あ、認めちゃった?」
ダンボールにガムテープでぐるぐる巻きにして開かないようにしていた気持ちを、満は丁寧
に、剥がしていく。普通の人ならテープがこんがらがってベタベタになって、こじ開けられた
不満が爆発しそうなのに、満は恐ろしいほど丁寧に湊の心を暴いた。
 本当は自分だって認めたくて、背きたくなかったんだって、そんな気持ちすら生まれる
から不思議だ。
「・・・・・・恋、してるのかな」
「when I fall in love、なんでしょ?」
「そうかも。もうゼロには戻れない」
武尊が好きだ。その言葉を湊の心は待っていた。スポンジのようにぐんぐんと吸収して、
乾いていた気持ちを膨らませる。体の中一杯に膨らんで、張り付いて、満たされた。
 不自然だった生活も、気持ちも、やっと自然になる。
武尊が好きだ。それが湊の出した答えだった。



――>>next

よろしければ、ご感想お聞かせ下さいvv

レス不要



  top > work > 家族の風景 > 家族の風景11
nakattakotonishitekudasai ©2006-2010 kaoruko    since2006/09/13