なかったことにしてください  memo  work  clap




 初めから「手に入れたい」という明確な意志があったわけじゃない。ただ隣にいてほしい、
それが紺野の願いだった。

深夜に家を飛び出していったきり、武尊は戻ってこなかった。残された湊と紺野は、どちら
ともなくリビングを後にして、コンサートの余韻は気まずい雰囲気でかき消された。
 紺野は部屋に戻って、着替えもせず布団の上に転がった。
駆け出していく武尊を見送った湊の顔が頭に張り付いて離れない。紺野にとって武尊が
どうなろうと知ったことではなかった。邪魔者が消えてくれれば清々するとまで思う。
 けれど、湊のあの顔を思い起こすとどうにも遣り切れないのだ。
紺野は湊がゲイであることを知らない。知らないけれど、ここに来て、一緒に生活して
いるうちに、湊の武尊を見詰める視線が自分と同等のものであるような気がしているのだ。
 紺野が湊を想い、湊は武尊を想う。一方通行の行き着く先は、壊れた家族を修復しようと
しているノンケの男。
 誰も彼も報われないこんな関係、さっさと止めてしまったほうがいいんじゃないかと
思うけれど、ここから出て行く踏ん切りはつかない。
 ここを出ても行くところなど無いのだ。あんな家に帰る気にもなれない。
家のことを考えると不快な気分が増した。強制的に頭の外に追い出して紺野は目を閉じる。
目を閉じていると急激に眠気がやってきてそのまま眠りについてしまった。




 日曜日、ピアノの音で紺野は目を覚ました。湊がリビングで弾いている。この曲は、先日
のコンサートで湊が歌っていた曲だ。
 紺野はこの曲がなんであるか知らなかった。パンフレットも見ていないし、この曲に
どんな意味が込められているのか予想もつかなかったけれど、湊がこの曲を弾きながら
武尊を探していたのだけは覚えている。
 あれは絶対に「武尊」を探している視線だった。特別な眼差しで。
 だから、再び湊がこの曲を弾いているということは、また湊が武尊を「探している」の
だろうと思った。
 武尊は戻って来るつもりはあるのだろうか。布団に入ったまま、紺野は湊のピアノを聞く。
コンサートの時よりも、更に切なく感じるのは寝ぼけている所為にした。
布団から抜け出す。時計を見れば昼近くになっていた。
今日は仕事ではないのかと不審に思ったが、深く考えるのは止めた。
カーテンが日の光を遮って、肌寒い空気が部屋に残っている。Tシャツを脱いで深く呼吸
をすると一気に目が覚めた。
 湊のピアノを遠くに聞きながら紺野はダラダラと身支度を整える。どうせ出掛ける予定
もないし、やる事も無い。
 リビングで時間つぶしにテレビでも見るだけだ。ピアノの練習中にテレビを見ると湊は
気が散るといって怒るが、多分今日も紺野はテレビを見る振りをしながら、湊のピアノに
耳を傾けるだろう。
 そんな一時が、切なくも紺野にのって幸せな時間だ。
紺野が部屋を出ようとしたとき、曲の途中で湊のピアノが止まった。
「・・・・・・?」
どうしたのだろうと、リビングの扉の前まで来ると、中から湊の声が聞こえた。紺野は扉
に手を掛けたまま止まった。
 扉の真ん中にはめ込まれたガラスの隙間から覗くと、ピアノの前に座って湊が携帯電話を
耳に当てていた。誰かと電話しているらしい。紺野は息を呑んだ。
 立ち聞きに後ろめたさを感じたけれど、相手が武尊かもしれないと思うと聞かずには
いられなかったのだ。

「・・・・・・うん、うん。あはは、そうなんだ。満の上客にも満足してもらえたんならよかった
よ。自分の伴奏の所為で台無しなんて言われたら、もう顔向けできないってちょっと不安
だったんだよね」
相手は武尊ではなかったようだった。満という名前と話の内容から、相手は多分、先日の
コンサートのチェリストなのだろう。
 湊の声は武尊や自分と接しているときとはまた違う、少し幼いしゃべり方に思えた。
親しくした友達に見せる顔なのだろう。
「・・・・・・また、そういう無茶を言うんだから!・・・・・・無理無理。僕が引き受けられるのは
せいぜいあのくらいのお忍びコンサートの伴奏だって。満と対等に演奏しようなんて、
恐ろしくて出来ないよ。まあ、誰も聞いてないなら、純粋にやってみたいとは思うけどね。
満の演奏は・・・・・・なんていうか、弾いてるとワクワクしてたまんなくなるんだよ。・・・・・・
あ、でもダメだよ、満の知り合いになんて聞かせられないって。・・・・・・まあ、プロの耳を
持ってない人ならいいけど。・・・・・・ああ、うん、そうそう、うちにいる2人とかね」
武尊じゃないのなら聞き耳立てる意味も無いと思ってリビングを後にしようとした瞬間、
湊の口から自分達の話が出て、紺野は固まった。
 湊は自分達のことを、あのチェリストになんと言ったんだろう。
「・・・・・・うん、よかったって言ってたよ。やっぱり、この業界じゃない人によかったって
言われるのはうれしいよね。素人でもっていうか、素人に言われるのはうれしい」
湊はそこまで言うと、急に黙りこくった。相手は電話口で何を言っているんだろう。
 紺野は神経を研ぎ澄ませて、湊の言葉を待った。
「伝わってたら困るって・・・・・・それに・・・・・・実は・・・・・・」
湊の声のトーンが下がる。
「上手く行ってないとか、そんなんじゃなくて・・・・・・あの人、出てっちゃった、みたい」
あの人・・・・・・その呼び方に紺野の身体が強張る。ドアノブに掛けた掌が汗ばんだ。
「参るよね・・・・・・深夜に家から呼び出しされて、飛んで出てった。そんで、連絡なし・・・
・・・・・・やだなあ、変な心配しないでよ。・・・・・・あ、満が心配なんてするわけないか。どうせ
高みの見物で笑ってんでしょ?悪趣味。・・・・・・別に、いじけて無いし、落ち込んでも無いっ
て。そんなの当たり前なんだしさー」
ああ、やっぱりそうなのか。紺野は唇を噛み締めた。湊は一呼吸置くと、自分に言い聞かせる
ように言った。
「・・・・・・待ってるしかないでしょ」
切なそうに呟いた湊の声を、紺野は絶望的な気持ちで聞いた。





 その夜は、2人きりの夕食になった。昼間の会話を聞いてしまってから、紺野の淡い夢見
心地だった想いは凍りついた。ただでさえ口数が少ないのに、食事が始まっても一言も
しゃべろうとしない紺野に、湊は思わず溜め息を漏らしてしまった。
「・・・・・・なんだよ、俺と2人じゃそんなに不満なのかよ?」
溜め息に紺野が顔を上げた。
「何で今日はそんなに不機嫌なの」
「別に。普通」
「拗ねてるみたいだよ」
「あんただって、落ち込んでるだろ」
「え?」
「・・・・・・あいつがいなくて落ち込んでるだろ」
「そんなこと・・・!」
「湊は、あいつのこと好きなんだろ?」
「いきなり、何言い出すの。確かにいきなり飛び出してって、連絡ないから心配はしてる
けど・・・・・・」
歯切れの悪い言い訳に紺野は苛立ちを覚える。
 好きなら好きと、いっそすっぱり言ってもらったほうが楽だ。
「それだけじゃない」
「それだけ、だって!一緒に住んでるんだもん、心配するでしょ。夜中にあんな血相変えて
出て行ったんだから、奥さんがどうかしたんじゃないのかとか、娘さんになんかあったんじゃ
ないのかとかね」
「湊が心配してるのは、武尊だろ」
言われて、湊は瞬間固まった。それから、出来るだけ大人の対応をしようと、平静を装って
答えを搾り出す。
「もちろん、武尊さんも心配だよ」
特別な感情ではなく、同居人として心配なんだと言わんばかりの態度に、紺野は益々苛立った。
「・・・・・・必死に隠してんじゃねえよ」
紺野は乱暴に箸を置くと、半分以上食べ残して席を立ってしまった。遠くで紺野の部屋の
扉が乱暴に閉まる音がする。
 紺野が苛立っている理由を湊は見つけることが出来ず、去ってしまった紺野の席を呆然と
見詰める事しかできなかった。
 仮初の家族はこのまま空中分解して終わってしまうんだろうか。





 月曜日になっても、武尊から連絡は無かった。機嫌の悪い紺野と、落ち込む湊の2人きり
の朝は、すがすがしい晴れ渡った空とは対照的に暗く重い空気が流れていた。
 リビングのレースのカーテンの向こうには、ハナミズキの赤い葉っぱが風に揺れてヒラヒラ
と舞い落ちていた。その葉っぱが朝日を浴びて最後の輝きのように、緋色に燃える。もう
少し季節が進めば、完全に落葉してしまうだろう。外の世界がモノトーンになる前に、紺野
の中は色を失くしてしまいそうだった。
「紺野・・・・・・ねえ、紺野?」
何度か呼ばれて、紺野はだるそうに振り向いた。朝食に出されたパンとコーヒーはとっくに
冷めていたが、紺野はそれに殆ど手をつけてなかった。
「何」
「僕、もう支度して出掛けるから、紺野も早く用意して学校行きなよ?」
湊は紺野を視界の隅にとどめながら、グランドピアノの上にある教材を鞄に突っ込んでる。
「うっせーなあ」
「そういう事言わないの。約束でしょ?」
湊はマフラーと手袋を取ると、鞄を肩に掛けた。見れば自分も遅刻ギリギリの時間だ。紺野
に説教している暇はない。
 武尊がいない所為で、生活のリズムが少し狂った。気持ちも重い上に身体もだるい。けれど
仕事は待ってはくれないのだ。遅刻しても、怒られるだけの紺野を、「子どもはいいよな」
と半ばあてつけのように思う。
「じゃあ、僕行くから、戸締りよろしく」
湊は紺野の抱えている感情を気に留めることが出来ず、慌てて出て行った。
 紺野はぼさぼさの金髪頭にスウェットのまま湊を見送った。






 久しぶりに学校をサボった。湊の家に転がり込んでから、紺野は一方の約束は真面目に
守っていた。
 毎日学校に通うならここにいていいと言われ、紺野は素直にそれに従ったのだ。学校に
行ったところで真面目に勉強するわけでも無いし、友達と戯れたり、楽しい事があるわけ
じゃないけれど、とにかく湊に行けといわれたから、紺野はそれを守った。
 けれど、今日はそんな気にはなれなかった。
湊をもぬけの殻みたいにしてるのは武尊だ。武尊がいなくなった所為だ。武尊を想う湊
の言う事なんて聞く気になれない。子どもじみた抵抗だけど、湊を困らせたら、少しは自分
の方にもあんな視線を向けてくれる気がして、はみ出さずにはいられなくなる。
 湊や武尊が知ったら、好きな子にいたずらする小学生と同じレベルだと笑われそうな
我がままだった。



 昼過ぎまで、リビングのソファで惰眠を貪った。午後の日差しがレースのカーテンを超え
て紺野の瞼を刺激する。
 眩しさに負けて、紺野は目を覚ました。時計を見れば1時を超えている。
だるい身体をソファから剥がすように起して、紺野はふとピアノに目をやった。
湊がいつも弾いているピアノ。近づいて、その椅子に腰掛けた。紺野は音符すら読めない。
音楽の才能など皆無だと思っていたけど、湊のピアノは好きだった。
 ピアノの蓋を開けると、白と黒の鍵盤が行儀よく並んでいる。白鍵部分の低音部に黒い
鍵盤が並んでいるのは、このピアノの特徴なんだと、いつだったか湊が武尊に説明していた
のを思い出した。

「普通のピアノよりも更に低い音が出せるんだけど、間違えないように黒色にしてあるんだ」
「こんなところまで使うんですか?」
「滅多にっていうか、殆ど使わないよ」
「飾りみたいなもの?」
「うーん、そう言ってしまえば終わりだけど、これがあるために、他の弦に響きや影響を
与えててね、だからこそ、弾きにくいっていうか、弾く人を選ぶって言われてるんだ」

 鍵盤の上を滑っていく湊の指を心に描く。きっと、湊はこのピアノに選ばれた人間だ。
紺野は自分の指を鍵盤の上に置いてみた。つるつるとした手触りなのかと思っていたが、
感触は指に少し引っかかって、柔らかい感じがした。
 真ん中のあたりにある音をポンとひとつ押さえると、リビングに波紋のように音が広がった。
湊と同じ音を共有した気がして、紺野は胸が苦しくなる。こうやって、湊も胸の詰まる
思いで、武尊を待っていたのだろうか。
紺野は静かに蓋を閉じた。





 湊の帰りが遅い。そう思ったのは、リビングの時計が9時を回った頃だった。
帰って来るのが嫌なほど落ち込んでいるんだろうか。浮つき出す心を持て余しながら、
紺野は窓の外を何度も覗いた。
 リビングをうろうろしていると、聞きなれないエンジンの音が家の外でした。車の停まる
音に、2人の声がする。

『わざわざ、送ってもらっちゃって、ありがとう』
『いえ、どうせ同じ家に帰るんだし』

 外から近づいてくる声に、紺野は唇を噛み締めた。
なんで、あの2人が一緒に帰って来るんだ。一日中湊を待っていた自分はなんなのだ。
落ち込んでいる湊を、ひょっとしたら慰めてやれるのは自分かもしれない、そう思って
いた自分の甘さに、紺野は辟易した。
「ただいま」
玄関が開くと、いつも通りの湊の声がする。
 湊に自分など必要ない。気づいてしまえば、そこにあるのは、湊を想う自分の滑稽さだ。
「ただいま」
少しだけ小さな声で武尊の声も聞こえた。
こんなところで、湊と武尊の茶番劇に付き合う気になれない。
湊を待っていた自分にイライラした。
両手に荷物とスーパーの袋を持って湊がリビングに入ってくる。紺野を見つけると、親の
ような視線で苦笑いした。
「遅くなってゴメン。買出ししてたら時間掛かって・・・・・・」
「・・・・・・」
「紺野も晩ご飯まだでしょ?」
「・・・・・・いらねえ」
「なんで?!」
「勝手に2人で食ってればいいだろ!」
紺野は2人を睨みつけ、その間を割ってリビングを飛び出す。湊は紺野の感情についていけ
ないようで唖然として動けないでいる。紺野が何に怒っているか、湊は予想もつかない。
 玄関のドアが乱暴に開く。
「紺野!?」
「勝手にしろっ」
紺野の捨て台詞に、武尊も湊も固まってしまった。



 寒空を紺野は1人駆けた。
 暗闇の中を小さな星が幾つか瞬いて、紺野の頭上を照らした。走るたび、冷たい空気が
肺の中に染み込んできて、内側から切り裂けるように胸が痛んだ。
 自分が出て行った後の2人を想像しそうになって、頭を振る。
考えるな、と自分を止めた。
駅の裏通りにあるコンビニまで来ると、紺野は駐車場の隅に腰を下ろした。呼吸が激しく
乱れているのは走ってきた所為にした。苦しいのは全力で走った所為だ。
 湊と武尊の所為じゃない。自分はそんな事で苦しくなんてならない。言い聞かせる。
忘れろ、あの家ごと全部忘れろ。紺野は頭を抱えて自分の出来る最大限の防御をする。
こんな事で傷つくのも嫌だったし、実際傷ついてる自分が女々しくて腹が立った。


「なあ、紺野じゃねえ?」
掛けられた声に顔を上げれば、そこには数人の男が立っていた。誰も彼もたばこの臭いが染み
付いて、紺野は眉を顰めた。
 彼らは、紺野が留年が決まりかかった頃、深夜につるんでいた奴らだ。素性も年齢も
名前すら知らないヤツもいる。中には見たことも無いのもいて、彼らの集まりが流動的だった
ことを思い出した。
所詮自分はこういう奴らの方が似合ってる、そう思って紺野は皮肉に笑った。
「うっす、久しぶり」
紺野は、湊を意識の中から追い出して、彼らに手を振った。



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