なかったことにしてください  memo  work  clap




「これって、帰ってこないつもりかな・・・・・・」
ダイニングテーブルに2人分の夕食を並べたまま、湊は頬杖を付いた。
 手付かずの夕食はとっくに冷めている。時計は9時半を少し過ぎたところを指していた。
いつもならば遅くても8時を少し過ぎた頃までには武尊は帰ってくる。もう残業する必要
もなくなったと、開き直ったのか諦めたのか、残業もせずに早く帰って来たことをそんな
言い訳で説明していたのを思い出した。
 湊には理由など別にどうってことはない。ただ一緒に食事をする相手がいるというだけで
十分満足だった。
 それが、たった一瞬で崩れてしまったのだ。
昨日、湊の元恋人が家に来たのだという。そこで武尊は湊の秘密を知ってしまった。隠し
通せる自信があったわけでもないし、いつかはカミングアウトするかもしれないとも思って
いたけれど、こんな形でしかもこんな早くにゲイだということがバレるなんて不本意だった。
 きっと拒絶される。湊の経験上、免疫の無い人間にゲイを告白すれば、必ず自分を見る
目が変わる。湊はあの瞬間の自分を拒絶した目を見るのが嫌いだ。
 同じ人間なはずなのに、異物でも見るような瞳。異質だというなら、人間すべて異質じゃ
ないか。髪質が違う、体系が違う、食べ物の好みが違う。そういった違いは認められるのに
何故ゲイだというだけで拒絶されるのか。
 湊は昨日の武尊の顔が忘れられない。武尊もみんなと同じだ。
「おなか空いたなあ・・・・・・」
湊は自分の夕食をレンジで温め直して、武尊の分にはラップを掛けた。それから1人を
紛らわす為にテレビをつけると、一番騒がしそうなチャンネルに合わせて夕食を取った。





 武尊が帰ってきたのはそれから更に一時間も経ってからだった。
ピアノの前で転寝をしていた湊は玄関の開く音で目を覚ました。
「帰ってくるんだ・・・・・・わかんないなあ、武尊さんは」
キッチンに向かってくる足音を聞きながら湊は苦笑いを浮かべていた。

「おかえり」
「あ、遅くなってすみません」
武尊は気まずそうな顔でリビングに入ってきた。そこでダイニングテーブルの上にすっかり
冷めてラップまでしてある夕食を目にして、益々気まずそうな顔をした。
「ご飯、どうする?」
「外で済ませてきてしまいました」
「そっか」
「すみません、仕事が立て込んでいたので」
相変わらず、武尊は嘘が下手だ。武尊の表情はどうみても、自分と一緒に食事をするのが
いやだったというのを必死で隠しているようにしか見えない。
「あ、あの・・・・・・せっかく作ってもらったのに・・・・・・」
「いいよ、僕が勝手に作っただけだし。僕だってご飯食べるわけだし、ついでだから」
湊は立ち上がって、武尊の分の夕食を冷蔵庫にしまった。それから、湊は武尊のその真面目
さを気の毒に思って、出来るだけさりげなく聞いた。
「仕事、また忙しくなるんだ?・・・・・・だったら、明日からはご飯用意しておかない方が
いいのかな?」
「・・・・・・そうですね。すみません」
武尊は湊と目を合わせることが出来ず、ぼぞぼぞ返事をするとキッチンを後にした。







「・・・・・・センセ?・・・・・・湊センセ!!」
いつの間にか演奏が終わっていた生徒に声を掛けられるまで、湊はグランドピアノに肘を
付きレッスンをぼうっと眺めていた。
 肘から顔を上げて生徒を振り返ると、生徒は少し呆れた顔で湊を見ていた。
「ごめん、ごめん。弾き終わってた?」
「センセー、勘弁してよ。聞いてなかったの?」
「聞いてたよ。心地よくてぼうっとしてた」
「嘘ばっか。あたし、何度も弾きなおしてたのに」
「そうだっけ」
「もう!教本だって、3ページ目から捲ってくれないし」
言われてみれば、ページを捲るのも忘れていた。ピアノの譜面台にはベートーベンのソナタ
「ワルトシュタイン」の1楽章最後のページが開かれていて、途中から彼女が自分で捲っていた
ことを知る。
 年末の発表会に向けて猛スピードで仕上げに入っているのだが、なかなか思うように
仕上がってこない。彼女の小さな手で大曲を弾き上げるのは至難の技なのだが、彼女のたって
の希望で選曲したのだから、湊もそれなりの力を入れてレッスンしてきた。
 恋人に振られてからもそのスタンスは守り続けてきたし、レッスンはいつも通り行って
来た。こんなに集中できないのは武尊との微妙な空気の所為だ。
 あの日、武尊に自分がゲイであることを知られてしまったあの夜以来、武尊との間に出来て
しまった障害。
 分厚い壁でも、底の見えない溝でもなく、オブラートのような先が見える薄い膜。けれど
それに包み込まれて苦い薬の味を隠すように、武尊の心も隠されてしまった。
 それは湊にとって拒絶よりも辛かった。細かい砂嵐のような傷を無数に付けられている
ようで、すりむけたところからヒリヒリと痺れが何時までも続くような痛みに似ていた。
 きっと武尊の人生の中に自分のような人種がいなかったんだろう。自分は異端だ。それは
痛いほど分ってる。理解してくれる数少ない友人はいるけれど、世の中の多くの人間には
自分は「おかしい」と思われてるに決まっている。
 だから武尊にも自分を無理に理解してもらおうとは思わないけれど、ただこの生活は
ひどく歪で居心地が悪い。
 何故自分は彼を拾ってしまったのだろう。ほんの少しでも武尊に対して、恋人と別れた
寂しさを埋めてもらおうという下心があったのは事実だ。
 でも、だからと言って武尊と身体を重ね合わせたいとかそういう直接的な欲を求める
つもりは無かった。少なくとも傷の癒えない今は。
 ただ人が恋しかっただけで、誰かと一緒にいたかったのだと湊は自分の行動に必死で
理由をつけた。
 けれど、それを武尊に言ったところで武尊のオブラートの膜が溶けることは無い。
近いうちに武尊は出て行くだろう。
「結構いい感じだと思ったんだけどな。上手くいかないなあ」
湊が溜め息を吐くと女子生徒が眉を潜めて言った。
「センセー、聞いて無いのにダメだし?」
「・・・・・・聞いてたよ。ほら、5ページ目。左の16分、粒そろえて弾く。それから、次の3連符
旋律がどこにあるのかちゃんと感じ取って弾かないと。手前じゃなくて、3連の最後の音
をちゃんと聞いて・・・・・・」
「・・・・・・はぁい」
女子生徒は大袈裟に肩を窄ませて返事をする。湊は意識を持っていかれないように彼女の
たどたどしいワルトシュタインに必死で耳を傾けた。







 湊が武尊の行動の矛盾の理由に気づいたのはそれから更に5日経ってからだった。
武尊は夜遅く帰ってきて、湊となるべく一緒にいる時間を減らしていた。それでも、家を
出て行くことをしなかった。
「そんなに嫌なら、さっさと帰ればいいのに」
やさぐれていく気持ちのまま、湊は、そんな武尊と相変わらず薄皮一枚隔てたような生活を
送った。
 湊の勤める音楽教室は駅前の自社ビルの6階にある。1階から3階までは楽器や楽譜、CD
ショップが入っており、5階以上が音楽教室になっている市内でも大きな部類だ。
 水曜日はビル全体が定休日になっていて、湊は珍しく朝寝坊した。
武尊の出勤していく音をベッドの中で聞いて、家中がしんとするまで寝返りを打っていた。
いつまでこんな不自然な生活をしてるんだろう。心は当然疲れているけれど、身体まで
だるくなってしまう。
「あー、もうっ」
のそりと起き上がると、湊は遅い朝食を作りに掛かった。
 武尊は朝食を取っていったのだろうか。シンクにはコップが一つ置かれただけで、食べて
行った形跡はない。男の朝なんてそんなものなんだろう。
 湊は例え自分1人の暮らしでも、3食きっちり取らないと気が済まない性質で、朝食を抜く
人の気持ちが分らない。
 湊の元恋人も朝食を取らない人種で、湊が「生活していると実感できる瞬間は食事をして
いるときだ」と説得すると苦笑いを浮かべて一緒にいるときだけは無理無理朝食を取って
いたものだった。
 トーストにサラダ、スクランブルエッグとベーコン。1人分の食事を作って、新聞を広げた。
目ぼしい記事に目を通して、味がよくわからない朝食を口に詰め込んだ。
 マグカップのコーヒーを口にしてリビングの窓から外を見ると、すがすがしいほどの
秋晴れが広がっていた。
 窓を開ければ、すうっとした風が湊の頬を掠める。湊のブラウンの髪の毛が風にふわりと
巻き上がって、湊はくすぐったそうに手で掻きあげた。
「あー、天気もいいし、掃除でもしようかな」
湊は一つ伸びをして庭を見下ろした。庭の隅に母が植えていったハナミズキが風に揺られて
一枚、また一枚と葉を落としていった。





 掃除機を引っ張り出して、リビング、キッチン、湊は黙々と掃除を進める。
掃除機の音が脳の中を満たして、余計な思考を停止していった。何も考えていない時間が
今は一番休まるような気がする。
 恋人との別れ、武尊への弁解、現実はもどかしい事ばかりだ。
階段を上がって、自分の部屋を一通りきれいにした後、湊は廊下で立ち止まる。左側は
元姉の部屋で、今は武尊に貸している部屋。突き当たりは両親の寝室になっている。
 どちらに入るのも躊躇って、両親の部屋には背を向けた。
「こっちはどうしようかな」
ぴたりと閉じられた武尊の部屋の戸の前に立つ。開けてみたいと思ってしまったのは、それが
武尊の心の扉のように思えてしまったから。
「別に深い意味があるわけじゃないんだけどさあ」
 迷った挙句、湊は武尊の部屋を開けた。
 他人から借りた部屋だからなのか、武尊の性格なのか、武尊に貸した部屋は綺麗に使われて
いた。
 ここは元々は姉の部屋だ。結婚して家を出てもう4年以上経つ。滅多に帰ってこないし、
姉の私物も殆ど無い。ただ、彼女が置いていったシングルのベッドとテーブルだけが置いてある
寂しい部屋だ。
 テーブルの上には武尊の持ってきた資料や鞄、壁にはシャツが掛かっていて、僅かながら
別の匂いがした。
 他人が使っている部屋はたった一つの物があるだけで、別人の顔に変わると湊は思った。
湊は深呼吸をすると、掃除機を引っ張って武尊の部屋に入った。
「やだな、緊張してるよ・・・・・・」
武尊に特別な感情があるわけじゃないはずだ。このドキドキは、他人の部屋に入る後ろめたさ
から来るものだ、きっと。湊に思わず苦笑いが浮かんだ。
 窓を開けると、さあっと風が吹き込んできた。秋風が湊の髪を巻き上げる。冷たくなり
掛けている空気は心地よかった。
 二階の窓から外を見下ろす。閑静な住宅街の中にある湊の家。家の前の道を小さな子ども
を連れた母親が、子どもと楽しそうに会話をしながら歩いているのが見える。
 隣の家からは、掃除機の音。どこからか、リズミカルに布団を叩く音も聞こえた。
生活の音はどれも幸せな音だと湊は思う。幸せな家庭の音。湊は暫くそれらの音に耳を
傾けていた。
「あっ」
さっきよりも強い風が吹き込むと、机の上に置いてあった武尊の会社の資料がばさばさと
音を立てて舞った。
「あーあ、やっちゃった」
湊は窓を閉めると、資料を拾い集めた。一つずつ綺麗に纏めていって、ふと手が止まる。
「こ、れ・・・・・・」
そこには、しわくちゃになった緑色の薄っぺらい紙が手紙と一緒に落ちていた。
 湊はむき出しになっていた手紙に思わず手が伸びた。拾い上げて目を落とす。
かわいらしい女性のような文字で、それが直ぐに武尊の妻のものだと気づいた。


『パパがいなくなって、もう1週間近くです。
この手紙をいつ見てくれるのかわかりませんが名前記入して、あなたが届けてください。
親権のことや今後の事を話したいから、一度連絡ください』


 手紙の下にあるのは緑の紙。しわくちゃになっているのは武尊が握り潰したからだろう。
自分には一番縁遠い紙切れ。
「婚姻届だって触った事無いのになあ。離婚届って緑色してるんだ」
見ることも無いと思っていたものを前に湊は不思議な気分になる。暫く自分の感慨にふけって
そして、我に返った。
「武尊さん、家に帰ったんだ」
多分、自分がゲイとバレた次の日、帰りが遅かったあの日、武尊は家に帰るつもりだった
に違いない。もうここには帰ってくるつもりはなかったんだろうと、湊は思った。
 武尊は家に帰って、もう一度話し合うつもりだったはずだ。やり直したいと、武尊は語って
いたのを湊は覚えている。けれど、家に帰ってみれば決定的な決裂――離婚届が置いてあった。
 武尊の心境を考えると湊は切なくなる。どこにいても気まずくて、せっかく見つけた家には
ゲイがいて、決心して帰ってみれば最悪の結末が待っていたのだ。
 別に、ここに帰ってきたかったわけじゃない。帰る場所がなかったのだ。帰れる場所の中
で一番マシなところがここだった、それだけのことなのだ。
 嫌ならさっさと出て行けばいいのに、そう不貞腐れ気味に思っていた湊は、胸がちくちく
と痛み出す。
 帰る場所がない痛みは、湊にもよくわかる。分りすぎる痛みだった。
「だから、ここに帰ってきてたんだね・・・・・・」
湊は資料の下に離婚届を滑り込ませると、それらを机の上に戻す。
 武尊の家には、今どんな音が流れてるんだろう。
不協和音に耳を塞ぐように、湊は武尊の部屋から出ると静かにドアを閉めた。



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