なかったことにしてください  memo  work  clap



 それから2時間ほど雑談をして店を出た。5月と言えど夜はまだ少し冷える。冷たい空気
が肺に染みて気持ちよかった。
 それほど飲みはしなかったが、火照った体が徐々に冷えて、酔いが醒めていくようだ。
吉沢さんは相変わらず赤い顔だったけれど。いつも酔ってもこんなに赤くなる人だったかな。
「本当にご馳走様でした」
「ああ、いいよ。それよりも、覚悟してやれよ」
「はい。ありがとうございます。・・・吉沢さん顔赤いですけど、大丈夫ですか?」
「あ、ああ。ちょっと酔ったかな。深海、気をつけて帰れよ」
それはあなたですよ、と心の中で突っ込みながら、これから駅に向かう俺は、家がここ
から徒歩で数分という吉沢さんと店の前で別れた。俺はもう一度頭を下げて駅に向かった。
 俺は吉沢さんに勇気付けられたことを反芻した。ああいうかっこいい先輩になりたい。
後輩に慕われて、目標にされるような・・・。まあ、そんなことを願っている間は理想の人間
になどなれないだろうけれど。
 それにしても、吉沢さん顔赤かったけど、大丈夫かな。席立ったときもふらついてたし。
なんとなく気になって振り返ったのと、吉沢さんが近くの電話ボックスの扉を支えに倒れ
掛かったのはほぼ同時だった。
 (なんだよ、吉沢さんやっぱり体調悪いんじゃ・・・)
俺は慌てて踵を返すと吉沢さんの元に駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか?」
反射的に支えた体はぐにゃんとしていた。吉沢さんは俺の方を見ると、バツの悪い顔をして謝った。
「思ったより、大丈夫じゃなかった。かっこ悪いな」
「かっこ悪いとかそんな問題じゃないでしょう」
デコに手を当てると、思った以上に熱かった。普通に熱あんじゃん。
「俺なんかに気を使わないで、熱があるなら、さっさと帰ってくれれば良かったのに。
すいません、付き合ってもらった上に体調まで悪化させて」
これで、明日吉沢さんが休んだら絶対俺、みんなに責められるな。
「大したことないと思ってたんだけど、こんなに熱が出るなんて何年ぶりだろう。深海、
ホントにごめんな。偉そうなこと言って情けないな」
吉沢さんは発熱した人の独特の目で俺を見つめる。潤んで腫れぼったい瞳に何故か釘付け
になってしまった。この人、こんなに可愛かったかな。
 思わず邪な考えが過ぎり俺は全力で目の前の現実に引きずり戻した。
とりあえずこのままにしておくわけにもいかないだろう。タクシーを拾って家まで送り
届けよう。それくらいしないと罰が当たりそうだ。
 俺は道沿いのタクシーを一台拾うと、吉沢さんを奥に乗せた。吉沢さんからなんとか家
の住所を聞き出すと、運転手にそれを告げ、向かわせる。吉沢さんは見るとさっきよりも
もっとぐったりとしてシートに埋もれていた。

 タクシーを走らすこと5分程で吉沢さんの家に到着した。俺は料金を払い、吉沢さんに肩
を貸して部屋まで向かった。
「吉沢さん、部屋どこですか?」
「708」
消えそうな声に混じって内ポケットから鍵を出す。俺はそれを受け取り、エレベータを
使って708の吉沢さんの城へと向かう。
 玄関を開けると実に吉沢さんらしい部屋が飛び込んできた。らしいとはどういうことな
のか明確には説明できないけれど、吉沢さんの清潔そうな匂いが立ち込めている感じがす
るのだ。1人暮らしには快適な2LDKの賃貸マンション。無駄な家具がなく、モノトーンの落
ち着いた部屋だ。
 吉沢さんをソファーに座らせて、キッチンにお水を取りに行く。水切り用のカゴにコップ
が伏せてあるので、それを使わせてもらう。
 コップに水を注ぎ、自分の鞄の中から常備薬の鎮痛剤を出した。
「吉沢さん、薬、飲めますか?俺のバファリンなんですけど。それとも、どこかに常備
してある薬あります?」
 首を横に振ると、吉沢さんは俺から薬を受け取って飲んだ。
「ごめんな、深海。こんなところまで、つれて来てもらって」
相変わらず申し訳なさそうに謝る。いつもの聡明さのかけらもない口調で。
 たぶん、それだけ辛いのだろう。熱が出たときは誰だって苦しいものだ。俺はこんな吉沢
さんの姿を見て、幻滅どころか、親近感すら覚える。
 吉沢さんも所詮人の子なのだ、ととても失礼なことを思っていた。
それにしても、どうしたものか。
 ここまで連れてきたのだから帰ってもいいのだろうが、この空気が帰りづらかった。別に
死ぬわけでもないから、帰りますと、一言言って帰ればいいだけのことなんだけど。
 俺がそんなことで悩んでいる間に吉沢さんの意識はどんどんと薄れていくようだった。
「課長、吉沢課長。吉沢さーん。こんなところで、眠ったら悪化しますよ」
俺の呼びかけに微かに返答するのだが、殆どうわ言だろう。
 困った。これじゃ、益々帰りづらいじゃないか。
「あのう・・・せめてベッドでお休みになられた方がいいかと思うんですけど・・・」
「うん・・・暑い・・・苦しい」
吉沢さんはネクタイに手を掛けて解こうとしている。が、力が入らないのだろう、指を
引っ掛けた状態で止まってしまう。
 発熱の上に酒を飲んだのだ。体が熱くて当たり前だ。俺は仕方なしに吉沢さんのネクタ
イを解いてやる。首回りがしっとりとしていた。
 リビングの脇にハンガー掛けがあったので、そこに吊るす。ジャケットも掛けた方がい
いのだろうか。
 ・・・寝ているところを無理に脱がすのも気が引けるのだけれど。
別に疚しいことをしているわけではないのに、相手が吉沢さんというだけで妙にドキド
キしてしまう。この人は男で、俺の上司だ。そして、今体調を崩して、助けられるのは俺
だけなんだと、頭の中で3回繰り返して念じ、吉沢さんのジャケットを脱がした。
 うわ、吉沢さん細い・・・。ジャケットを脱がせるために触れた腕は女のように細かった。
この細さで重い山積みの書類をガツガツ持って移動してるんだもんな。一体どこが筋肉な
んだろう。細腕繁盛記みたいだ。・・・それじゃ女将か。
 「うう・・深海・・・」
「え?あ、はい、あの、すみません、課長、苦しそうだったので、ジャケット脱いだ方
がよいかと思って、あの、別に、そういう訳じゃ・・・」
「・・・」
・・・。なんだ、うわ言か。って言うか、俺、何言い訳してるんだ。そういう訳ってどう
言う訳なんだよ。何か俺、ここにいるとおかしくなりそうだぜ。
 俺はそれ以上何も考えないようにすばやくジャケットを脱がしこれもハンガーに掛ける。
それからシャツの一番上のボタンを一つだけ外してやると、吉沢さんは幾分か表情が和ら
いだ気がした。
 廊下の左にあった部屋が寝室かな。勝手に入っても大丈夫だろうか。俺はしばし逡巡した
が、これ以上吉沢さんに自分のペースを狂わせられるのも嫌だったので、吉沢さんをベッド
に運ぶことにした。ベッドに寝かせておけば帰っても大丈夫だろう、と勝手な魂胆だ。
 思ったとおり廊下の左側にある部屋が寝室だった。俺は電気を付け、カーテンを引いた。
掛け布団を捲り、主人の受け入れ態勢を整える。
 さて、運ぶか。
リビングに戻り、念のためもう一度声を掛けてみる。自力で行ってくれた方がありがたい。
「吉沢さん、ベッドまで歩けますか?」
「・・・いい、ここで・・・」
俺がバタバタと行動したせいか少し意識が戻ってきたらしい。が、動く気がない。時計を
見ると11時を回っていた。あー、帰って研修資料作らないと・・・
「吉沢さーん」
「・・・」
もう一度名前を呼んだが、もう返事はなかった。
 一つ、ため息を付いて、俺は吉沢さんを担ぎ上げた。・・・いや、抱き上げた。
うわ、意外と軽いな。この人、何食ってるんだろ。まあ、あれだけパワフルな仕事の仕
方してるんだから、体力はあるんだろうけど。
それにしても、とても誤解されそうな状況だ。俺の記憶の中では人生初の「男をお姫様
だっこ」だ。別に誰が見ても堂々と正論を言えば通ると確信しているのに、誰にも(吉沢
さんにも)見られたくない状況だ。吉沢さん、どうぞ、そのまま寝ぼけたままでいてくだ
さい。
 俺の切実な願いは、一応叶ったようだった。吉沢さんをベッドに運んで、横たえる。
「うう・・・ふか・・・」
「え、わ、うわ」
ベッドに降ろして寝かせていると、突然吉沢さんの腕が俺の首に絡み付いてきた。
 え、何・・・?瞬間何が起きているのかわからなかった。そして、吉沢さんの腕が自分の
首の周りにまとわり付いている姿を確認して、誘われてるみたいだと思った。
(って、んなわけあるかよ)
案の定、吉沢さんの名前を読んでみても(しかも首に絡まれてるせいか、吉沢さんの顔
がものすごく近くて、耳元で囁くなんてなんとも、エロいシチュエーションだ)反応は
なく、絡まれた腕はすぐに外せた。
 ダメだ・・・。これ以上ここにいたら俺おかしくなる。
俺は吉沢さんに布団を掛け、寝室を出た。それから、リビングにメモを残すと、吉沢
さんの部屋を後にした。
 この部屋に入った直後は、けして会社では見られない吉沢さんの姿を見て、俺は親近
感を覚えていた。それが、部屋を出たらどうだ、親近感を飛び越えてしまいそうだ。
 それじゃあまりにも吉沢さんに失礼だと思い、あまり多くない「良識」を引っ張り出し
て俺は全力で否定した。
 あー、なんか、顔が熱い。赤くなってるんだろうな。吉沢さんの熱、うつったかも。


 俺は、同性愛者を否定するつもりはないが、自分にはその素質はまったくないと思って
いる。現に、今まで付き合った人間は全て女だ。グラビアの女の胸を見ればググっと熱い
ものを感じるし、可愛い女の子が好きだ。それは絶対、一生変わらない。
 だけど、さっきの吉沢課長のあれは何だ。仮にも上司で年上の男だぞ?ナシかアリかっ
て言えば、常識的にナシだろ。
 クソ、反則だぜ。
例えば、高校の頃、同じクラスの友達だと思っていた女を何かのきっかけで急に意識す
る時に似ている。今まであんなに近くにいたのに、ふざけあって頭を小突いたって、何も
感じなかったのに、ある日を境に話すだけでドキドキしてしまう。
 明日からどうしろって言うんだ。
夜道を歩きながら思う。最悪、俺が吉沢課長を好きになったところで、相手に伝わるこ
となんて絶対ありえないのだから、そのうち、バカな考えにも頭が冷えて忘れられる。思
いも伝わらないまま振られるのは切ないが、如何せん相手は男で俺の上司だ。
 この一時のドキドキを好きという感情に摩り替えてはいけない。大丈夫、明日には女の
ケツ眺めて鼻の下のばしてる。
 俺は変に自分を慰めながら、夜の街を急ぐ。研修資料・・・間に合うだろうか。

<<3へ続く>>








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