なかったことにしてください  memo  work  clap


 12.第三の男2




研究棟を出ると体を刺すような日差しを浴びて、郁生は顔をしかめた。夏は行ったり来たり
を繰り返している。駿也を探して彷徨う自分のようだ。
大学の時計台が12時を知らせ、郁生の胃が空腹を訴えた。
「はっ……」
ポケットから取り出したハンドタオルで汗を拭うと郁生は植物園に向かって歩きだした。
日曜日ということもあって、植物園には客が何組か来ていた。郁生は陶子から貸して
もらった許可証を首に掛け受付を通り過ぎると、まっすぐ温室へと向かう。
瑛はあそこにいるはずだ。また話をはぐらかされるだけかもしれないが、今は会って話を
したかった。もう一度会って駿也のことを聞きかなければならない。その使命の裏にもう
一度瑛の顔が見たいという自分の欲望が溢れ返っていることに郁生は目をそらした。
温室に入ると、あの日と同じじとっとした湿度で覆われていた。恋人を待つ肌のように、
湿って甘くむせぶような温室を郁生は楽園のようだと感じた。
夏の暑さで敬遠しているのか、温室には誰ひとりいなかった。中央の大きな池を一周するが
温室に瑛は現れることはなく、ただ、池の隅に淡いブルーの睡蓮が咲いているだけだった。
「僕の分身、か……」
確かあの睡蓮を見て、瑛はそんなことを言っていた。郁生にはどういう意味なのか分から
なかったが、この青空にも溶けて消えてしまいそうな淡いブルーの睡蓮を見ていると、
魂を奪われてしまう畏怖のようなものを感じてしまうのだ。
「怖いな……」
郁生は池の縁に座り、あの日と同じようにぼんやりと池を眺めた。
「どこにいるんだろ……」
空調用の大型扇風機が睡蓮の葉を小さく揺らす。淡いブルーの睡蓮が「捕まえられるもん
なら捕まえてみな」とでも言っているように見える。
郁生は手を伸ばして、そこに咲いている睡蓮を全部むしり取ってしまいたかった。
「こうやって……」
こうやって駿也も瑛に心を絡め取られていったのだろうか。郁生は無意識の中で池の水を
指で弾いていた。跳ねた水がジーンズにシミを作る。郁生はハッとして自分の考えを否定
した。
自分は心など奪われるはずがない。そんなことはあってはならないのだ。
郁生が俯きながら邪念をふり飛ばそうとしていると、温室に響くような革靴の足音がした。
「!?」
即座に足音のする方を振り返ると、温室の奥から見たことのない男が歩いて来る。
そういえば刑事達があの奥にあるらしい部屋で瑛を探していなかったか?では、この男は
瑛のことを知っている人間だろうか。
知りたいという欲は心の中で爆発しかけていたが、郁生は躊躇った。足音をさせて近づいて
くる男は、気軽に話しかけられるようなオーラを発していなかったのだ。
男は黒いシャツにサングラスを掛け、一見すると自分と違う世界の人間のように思えたが
歩き方は紳士的だった。
男は郁生の存在に気づき、一瞬足音が乱れたが、直ぐに何事もなかったように出口へと
向かって歩いてくる。郁生の前を通り過ぎる時、一瞥したが、そのまま通り過ぎようと
していた。
「あ……」
すれ違った瞬間、思わず声を上げていた。男は初めて足を止め振り返り、少し威圧的な
態度で郁生を見ると
「何か?」
とテナーボイスで囁いた。
目の前の男は年齢不詳で、ものすごく年寄りにも映るし、監督の佐伯より若くも見えた。
自分よりも10以上は年上の男に思える。佐伯と同年代だろうかと思い巡らせてみたが、すぐ
に自分の考えを放棄した。そんなことはどうでもよかったのだ。
この男の年齢などどうでもいい。そんなことよりも、もっと重要なことを突きつけられて
いる。郁生は自分の体が震えだしそうになるのを池の縁を握り締めてこらえていた。
目の前の男は、間違いなく瑛と関係がある。
「同じ……」
「何?」
同じ匂いがする。あの日、瑛が纏っていた匂いと同じ香りがこの男からもするのだ。
体中の体毛が逆立つほど郁生の神経が尖った。
何故だ。何故、この男から瑛の匂いがするのだ。
目の裏側で瑛が激しく乱れる姿が湧き上がり、心の中に芽生えていた小さな炎が一気に
噴射する。黒い炎が郁生の理性を焼き尽くしていくようだった。
無意識に奥歯を噛み締め、男を睨んでいた。
「俺に用か?」
射すくめられるような瞳で見つめられると、郁生は咄嗟に我に返った。噴火口は静かに
消沈した。
「……いえ、すみません」
「そう」
男は踵を返すと、再び歩き出す。けれど郁生は遠ざかる背中を逃がすことができなかった。
「あの!」
男は二、三歩、歩いて止まると、面倒くさそうにもう一度振り返った。
「なんだ」
「……瑛さんはどちらに?」
「ふうん?」
男は郁生を瑛の相手だとでも思ったのだろうか。その言葉に男は急に納得いったような顔
を見せ、ニヤリと笑った。
「瑛に会いに来たか」
「……お話を伺いに来ただけです」
「痴話喧嘩か」
男はサングラスを指の腹で押しあげた。
「違います!俺、瑛さんとは何にも……あの!陸上部の先輩がいなくなってしまって、
それで昔からの知り合いだっていう瑛さんなら知ってるかもしれないって言われて……
瑛さんと知り合いなんですよね?……何か知りませんか」
「陸上部?」
「あ、俺、H電機の陸上部で」
そこまで言うと、男は眉をぴくりと動かした。
「佐伯のところか」
「え?あ……監督をご存知で?」
「まあな」
「じゃ、じゃあ、花里駿也さんは?」
「駿也ねえ……勿論知ってるけど」
その言葉に郁生は一筋の光を見る。
「あの!行方不明なんです!もう半月近く行方がしれないんです」
郁生の言葉に男はにわかに目を見開いた。
「まさか」
「こんなこと冗談で言うわけないじゃないですか」
「まあ、それもそうだ」
男は逡巡したあと「そういうことか」と呟いた。
郁生は男の呟きを聞き逃さなかった。
「どういうことですか」
男はサングラス越しでも感じるほどの鋭い眼光を向け、低い声で吐き捨てた。
「瑛の機嫌がすこぶる悪い。何があったのかと思ったが、恋人がいなくなったか」
「……駿也さんは本当に恋人だったんですか!?」
「だろうな。まあ、何番目のかは知らないが」
「!!」
また、瑛の匂いが漂う。この男から発せられるものは間違いなく瑛のものだ。だとしたら
この男も瑛の恋人なのだろうか。
わけもわからない嫉妬心が湧いて、郁生は目の裏が真っ赤に燃え上がった。恋心などある
はずもないのに、何故こんな感情が湧き上がるのか。
郁生のそんな態度にも男は慣れた様子で流している。
「瑛はしばらく出てこない。今日は諦めて帰ったほうがいい」
「な……なんで……」
なんでそんなことがわかる。何をしていたのだ、あの中で。この花園の奥で。あの中には
何があるのだ!!
抑えきれない言葉の渦が口を付きそうになったとき、男は郁生に興味を失せたのか歩き出
していた。
「まっ……」
「お前も同じ道に進みたいなら、止めないけどな」
男はひらっと手を振った。瞬間、また瑛の香りが郁生の鼻腔を掠めていく。
この匂いが香水なのか体臭なのかはどうでもよかった。郁生はこの男を敵だと認定していた。





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