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楽園アンビバレンス


 5.毒と誘惑




二年後、夏―――



朝からどんよりとした曇り空だった。夏の湿度は一層増し、身体に纏わり付いてくる湿った
空気に辟易しながら、郁生は天気と同じくらい湿った気分で陸上部の部室に向かっていた。
膝を痛めて2年。怪我は完治したが、復帰後のタイムは芳しくない。無意識に怪我をかばって
いるのか、微妙にフォームが崩れていると指摘された。
「焦るなよ」
そう声をかけられる度、自分は焦っていない、これはチャンスだと思ってきた。実際、怪我
をしたばかりの頃は、筋肉強化ができる絶好の機会だと闘志を燃やしてもいたし、怪我が
癒え、再び走ることができた時には、この上ない幸せを感じた。しかし、問題だったのは
怪我からの復帰ではなかった。
「タイムが伸びないっす」
「だから、焦るなって。怪我からの復帰の難しさはそこなんだから」
「……」
怪我によるスランプはよくあることだ。そういう人間を何人も見てきたし、それで選手生命
にピリオドを打った友人も知っている。
だから、その怖さは分かっているつもりだった。いや、実際は哀れみながらその姿を見て
自分でないことにほっと胸をなでおろしていたのかもしれない。
自分は怪我などしない。もし怪我しても、復帰したら前よりももっと走れるようになって
いるはずだとどこかで過信していた。
しかし、実際怪我をしてしまえば、自分が見てきた前例と同じだった。自分もあまたいる
怪我で泣く凡人の一人だと実感して、虚無感に襲われた。自分は選ばれた人間でもなく
ただちょっと走るのが速かっただけの普通の男だった。
見えない闇に少しずつ心も身体も毒されていく様だった。二年前には笑っていたことが
笑えなかったり、溜息が増えたことは自分でも実感している。気にかけてくれていた人達
の視線が苦痛になり、気にならなかったヤツらの視線が気になりだした。
何度も腐りかけて、けれど諦め切れなかった。そのうち、何のために走っているのか、
そんなことまで考えるようになって、郁生は前よりも気持ちが塞ぐ日が増えた。
焦りと自虐という今まで自分の中にあり得なかった感情に翻弄されながら、郁生は2年の
月日を過ごしてしまった。
元々前向きで、後悔のない人生を歩むことを自分で勝ち取ってきた郁生にとっては、初めて
の大きな挫折かもしれない。
そうしているうちに、事態は益々悪い方向へと向かっていた。陸上部の大幅縮小が決まった
のだ。
「だるいな・・・・・・こうも湿度が高いと、筋肉が痛む・・・・・・」
郁生は部室の前で大きく伸びをすると、小さな声で挨拶をしながらドアを開けた。



「おはようございまー・・・・・・」
「おっ、リストラ塚杜」
扉を開けると、先に来ていたマラソンの選手がにやっと笑って手を上げた。
「先輩、勘弁してくださいよぉ」
「はは、俺も全然人のことは言えないんだけどな」
「マラソンは4人でしたっけ?」
「そうだけど、ボーダーラインの身分としてはお前と一緒だ」
郁生は苦笑いしながら自分のロッカーを開ける。リストラ、その表現が正しいものなのか
分からないが、今自分の置かれた状況が厳しいものであるのにはかわりない。
成績は残せないのに、かといって部を辞める踏ん切りもつかない。前にも後ろにも進めない
状態で、会社から突きつけられたのは陸上部の部員削減だった。
昨今、企業内部活動が廃部になる例は珍しくない。企業は利益を揚げるために資金を回して
いるのだから、採算の取れない部活などに経費など回したくないのだ。
郁生たちの陸上部は伝統もそれなりに実績もある部活だが、近年の不況、赤字削減などで
経費の削減を余儀なくされた。
経費削減は、すなわち部員削減だ。陸上部のメンバーはそれぞれ営業部や総務部に属して
いるが基本的にはそれらの仕事は一切しない。
郁生も入社して以来、一度もデスクワークなどしたことはないし、多分自分の机もないだろう。
朝から晩まで付属の運動場で身体を動かしている。それでも給料をもらっているのだから、
影で給料泥棒といわれているのは郁生も知っていた。だから、不況のあおりを受け、専属
部員が削減されるのは仕方のないことだと理解もできるが、今の状況は郁生にとって、けして
歓迎できるものではなかった。
少数精鋭でいくとは社長の言葉で、専属メンバーを今の半分、トラック競技の選手枠は1人
となったのだが、トラック競技――100メートルの選手は郁生と先輩の駿也だけで、一人は
残れるが、もう一人は任意の部員になってしまうという。
任意になれば、昼間は自分の所属する部署で仕事をし、勤務時間外で部活動を行うことに
なる。
勤務時間外だけで身体作りなど出来るはずないし、今まで入社して何年もデスクワークなど
やったこと無い人間に、明日からやれなんて言う事自体、事実上のクビとなんら変わりない
と郁生は思う。
そのクビを掛けて駿也と争わなくてはならない。そのことが更に郁生の気持ちを暗くさせた。
「塚杜達は、次の大会で決まるんだよな」
「そうっす」
どちらがクビかは、今秋の陸上大会の結果で決まることとなった。成績上位の者が残れる
というシンプルな戦いだ。今までの戦果が反映されないということは、郁生にもチャンス
があるのだが、裏を返せば、現状駿也の方が優位、今までの結果を考慮せずとも駿也で
決まりということだ。
「駿也を倒すのは、今の塚杜には至難の業かもな」
「正直キツイですよ」
「だよな。駿也が怪我するか、失踪でもしない限りお前がここに残る道はないもんな」
「さらっと嫌なこと言わないでくださいよ」
軽く冗談で流すが、郁生の中に僅かに芽生えた感情を読まれた気がして、内心キリキリと
痛んだ。
駿也さえいなければ……その思いをかき消す度、自分が卑しい人間に思えて仕方なかった。
「んで、肝心の駿也が、今日はまだ来てないみたいだけど?」
「ホントっすか?おかしいなあ、昨日何にも言ってなかったけど」
駿也が無断で遅刻することなど今まであったことがない。それどころか、必ず郁生よりも
早く来て、郁生がロッカーで着替えてる頃にはグランドでウォーミングアップしているのだ。
「風邪でもひいたか?夏風邪はなんとかが引くっていうけど」
「風邪っすかね?休みの連絡来てないか、監督に聞いてみますよ」
郁生は手早く支度を整えると、蒸したグランドへと出て行った。





オレンジ色に輝き始めた太陽に目を細めて監督は溜息を吐いた。
「塚杜、本当に何か聞いてないか?」
「本当に何にも聞いてないです」
今日、そのやり取りを何度繰り返しただろうか。日が暮れ始めたグランドに駿也の姿を
見つける事は出来なかった。監督は首をかしげる。
「自宅に電話したらいつもどおりに出勤したって言うしなあ」
「さっき確認してみましたけど、ロッカーに出勤した形跡なかったです」
今朝ストレッチで筋肉を温めた後やってきた監督も、駿也の行方については何も聞いてないと
のことだった。
時間が出来れば何度も携帯電話を鳴らしているが、留守電になってしまい駿也が出る事は
なかった。こんなことは初めてで、皆勤賞の「健康優良児」の駿也が、無断欠勤するなんて
余程のことが起きてるのではないかと郁生は思い始めていた。
「明日まで連絡取れないようだったら、警察に連絡した方がいいかもしれんな」
「駿也さんの家ここからそれほど遠くないし、帰りにちょっと寄ってみますよ」
「そうだな、頼む」
落ちていく夕日に背を向けて、郁生は入念にストレッチを繰り返した。





駿也の家を訪ねるのは2年ぶりだった。怪我をした自分を心配した駿也の妻、莉子が自分の
為に手料理を振舞ってくれるというので、訪れたのが最後だ。
あの日、莉子が覗かせた心の闇を郁生は未だに忘れられない。そして、駿也が自宅では無い
方向へと車を走らせるのを見つけてしまう度、郁生は自分の心の中の黒い塊が広がっていく
気がしていた。
自分の立場が弱くなるほど、駿也に対する憧れと嫉妬の振り幅が激しくなった。怪我もせず
コンスタンスにタイムを出し、日本陸上界のトップクラスを走り続ける。人格者で郁生に
対しても厳しくも優しい先輩で有り続けていること、全てが尊敬に値する。そう思う一方
で、全く別の顔を持っている駿也を、これをネタに貶めてやりたいと卑しい自分が顔を出し ては消すことの繰り返しもしていた。
「……余計なことは考えるなっ!」
車の中で自分に喝を入れ、庭の空きスペースに車を滑り込ませると、郁生は静かに車を降りた。



会社を出る前に一度電話して、行く旨を伝えると、莉子は心なしか元気のなさそうな声で
承諾した。
「こんばんは」
「……はい」
「塚杜です」
「……お待ちください」
インターフォンで会話したときも、莉子の声はくぐもって聞こえたが、実際姿を目の前に
して、郁生は大きく驚いた。
2年間で人はこれほどまで変わるものだろうか。郁生は瞬間老け込んだと思ったが、莉子の
緩慢な動作に、魂が別のものに変わったんじゃないのかとさえ感じだ。
2年前ここを訪れたとき、莉子は美しく優しそうな微笑みを浮かべて郁生を迎え入れてくれ
た。誰もが羨む駿也の妻だった。
確か、莉子は今年で26になる。まだまだ若いはずの莉子の表情からは、とても二十代とは
思えない重たいオーラが漂っていた。
「あ…あの、こんばんは。夜分にすみません」
「いえ、わざわざありがとうございます」
玄関で挨拶を交わしリビングに進むと、駿也の娘の沙耶が眠い目を擦っていた。沙耶も
随分と大きくなって、郁生は時間が流れていたことを実感する。
莉子に勧められてソファに座ると、沙耶が近づいてきた。
「こんばんは」
「おじさん、だあれ?」
「沙耶ちゃん大きくなったね」
「沙耶のこと知ってるの?」
「うん。ちょっと前にも来たんだけど、忘れたかな。パパと同じ会社なんだよ」
「ふうん。ねえパパは?」
「今日は遅くなるから、先に寝ててって言ってたよ」
「えー、つまんない」
「沙耶、お部屋に行ってなさい。ママも後からすぐに行くから」
「はあい……」
ソファの上の大きな犬のぬいぐるみを抱きかかえると、沙耶はリビングを出て行った。
莉子は郁生にお茶を出すと、疲れきった顔でソファの隅っこに座った。
暫しの沈黙が訪れる。郁生は部屋を見渡した。
家の中は2年前と何も変わらなかった。50インチ近くある大きなテレビに、革張りのクリーム
色のソファ。壁にかかった時計も気品があり、駿也が恵まれた生活を送り続けていることは
容易に想像できた。
けれど、この家の中を漂う薄暗いオーラはなんなのだろう。二年前には感じたこともな
かった邪気が部屋中に満ちていて、郁生は一刻も早くここから立ち去りたくなった。
「すみません、突然お邪魔してしまって」
「いえ……」
「やっぱり、まだ連絡取れませんか」
「はい」
「俺も何度もメールと電話を繰り返してるんですけど、全然つかまらなくて。でも、電波は
生きてるので、きっとどこかで読んでると思います」
「……そうですね」
莉子は疲れきった顔で頷いた。郁生は自分の描いていた花里家と目の前の現実に違和感を
覚える。郁生は「心配で不安で仕方ない妻」の莉子を想像していたのだ。
家に行けば、動揺しているか気丈に振舞っている莉子がいるのではと思っていた。
幸せな家族の中に突然現れた事件。偶然の事故。現状が飲み込めない妻。郁生が描いていた
キーワードはどれも当てはまらないどころか、莉子はこの状況をずっとか早くから理解
しているように思えたのだ。
「今朝は普通に出られたんですよね?」
「はい」
「何か変わったこととかは?」
「特に……」
「でも、駿也さんがこんな風に、突然連絡取れなくなるなんてこと、今まで無かったです
よね?少なくとも、無断欠勤とかは俺の知ってる限り初めてですし……。トラブルに巻き
込まれたりしてなきゃいいけど……」
郁生の言葉を、莉子はやけにきっぱりとそれを否定した。やはり莉子は何かを知っている。
「それは無いと思います」
ぞくりとする瞬間だった。二年前、一瞬莉子が見せた姿。あの姿が蘇った気がした。夫の
不貞を疑ったあの黒く苦い色は消えることなく、それどころか更に色濃くなっていると
郁生は思った。
「あの、心当たりとか……」
郁生が切り出すと、莉子は唇を噛んで俯いた。膝の上で握られた拳が小さく震えている。
交通事故や誘拐事件など、あらゆるトラブル、事件を想像していた郁生は、その中に2年前
の莉子との会話の問題も入っていた。まさかと思いながらも「ない」とは言い切れない
ないものがある。不倫相手のことでトラぶったのではと疑った自分をいやらしい人間だと
否定したが、莉子の姿が確信に変えた。
「差し支えなければ、話してもらえませんか」
「心当たり、ないんです」
莉子は首を振ったが、郁生は納得できるわけがなかった。莉子から出ているオーラが違う。
「なんでもいいんです。思い出してください。もしかしたら、重大な事件に巻き込まれて
いるかもしれないんですよ?!」
「いえ……本当にわかりません」
莉子の頑な態度に郁生の気持ちが揺れる。これを言ってしまえば、自分も悪魔に魂を売り
渡すことになると思いながら、郁生は言わずにはいられなかった。
「すみません、本当はずっと黙っているつもりだったんですけど……」
「?」
「駿也さんは、仕事帰りに時々、首都高に乗ってどこかに行っていました。俺が気づいた
のは2年くらい前です……」
莉子は目を閉じてゆるゆると首を振った。言った後ですぐに後悔は湧き上がってきたけれど
下品なプライドが駿也を打ち負かしたと喜んでいるのも確かだった。
「……」
持て余した感情を背負いきれず、すぐに後悔で一杯になる。
「すみません……」
郁生が頭を下げると、莉子は胸に手を当て、大きく息を吐いた。呼吸を整えようとする度
瞳が潤み、赤く光っていく。
莉子は郁生に向き合った。
「あの人の所なんです。絶対に」
振り絞った声にあわせて、莉子の瞳からぽたりと涙が零れ落ちた。





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