なかったことにしてください  memo  work  clap

恋人はミルク




「落ちました」



そう言われて、佳哉(よしや)は自分の足元を見下ろした。てっきり親切な通行人が落し物
でも教えてくれたのだと思ったのだ。
ぐるり一周見渡してそこに何も無いことを確認。右肩に引っ掛けているギターケースは当然
落ちているわけはないし、首にかかったmp3プレーヤーのイヤホンもちゃんとあることを手
で触って確かめると、そう言ってくれた親切な通行人と目を合わせた。
「俺の事…?」
見れば、その「親切な通行人」は先ほど、すれ違い様に目が合ったサラリーマンだった。
佳哉とほぼ背格好は一緒だが、黒縁眼鏡に商社マンの鑑のようなスーツを着こなしている。
ジャージにハーフパンツ、金髪の髪の毛をツンツンさせてギターケースを引っさげている
佳哉とは正反対のような男だった。
年は佳哉よりも僅かに上に見えたが、スーツ姿の所為で年どころか人間の「格」すらも上
に思えてしまい、佳哉は身体が強張った。
その男とは、先ほど目が合ったまま視線を外せずに気まずい空気が流れて、佳哉はそそくさと
逃げたはずだ。どうしてその相手が目の前にいる?
不審な顔をしている佳哉に対して、黒縁の眼鏡を掛けたスーツ姿の男は、普通な振りを
してもう一度
「はい。落ちました」
と言った。



「落ちました」



こいつはそう言ったのだ。
「落ちましたよ」でもなく、「落し物ですよ」でもなく、断言系で「落ちました」と。
聞き間違いではない。だから佳哉も
「何にも落ちてねえよ」
と返すしかなかった。
「いえ、落ちたんです、俺が」
「は?」
今度は本当に聞き間違えたのかと思って、右耳のイヤホンを外した。
「恋に、落ちました」
「はぁ?!」
佳哉の声に周りの通行人も驚いて振り返る。こんな通勤通学客の多い駅前の道で、この男は
朝から一体何をほざいているのだ。
新手の嫌がらせかと思って、佳哉はこの男を無視することに決めた。真面目そうに見えて
中身はとんでもない人間だっているのだ。こういう危ないヤツには関わらない方がいい。
ただでさえ今は慎重にならなければいけない時なのだから、無用なトラブルは避けたい。
佳哉は自分の抱えている事情を思ってここから立ち去ろうと男から視線を外した。
「本気ですから」
すると、すかさず男は佳哉の視界に入って来てそう宣言した。
「あんた何?俺のファン?それともアンチ?そんなにメジャー行きがむかついてんの?」
佳哉は肩に掛けたギターのケースを背負いなおして男を睨む。確かに最近、外野が騒がしい。
地元でそこそこ売れてるバンドのメジャーデビューなんて、たかがと思うかもしれない
けれど、佳哉たちの周りではそれはもう大事になってたりするのだ。
ファンの子からの応援は、時に行き過ぎて警察沙汰になったりとか、この男が佳哉の正体を
知っていてこれをやってるとしたら、嫌がらせ以外なんでもないだろう。
けれど、男は眉を顰めてそれを否定した。
「30秒ほど前に初めて君の存在を知りました。よかったら名前を教えてください」
「……まっ」
マジかよ!
「君は大学生?」
「……半分。てか、あんた、マジで言ってんの?」
佳哉のバンド活動を知らないで言ってきたということは、こいつは『ホンモノ』と言う
ことだろうか。
体中がむず痒くなってくる。バンドマンとしての自分を差し引きしても更に惚れてくれる
人間なんているんだろうかと、デビュー前のちょっとセンチになってきた気分に触られた
ようで、佳哉は平常でいられなくなった。
「信じられないのなら、ここに来てください」
そう言って、眼鏡サラリーマンは名刺を取り出した。おそらく自分の名前が書かれている
その名刺の後ろに、手書きでなにやら書き込むと、佳哉に渡した。
「そこで待ってますから」
真面目な顔で渡された名刺に手を伸ばすと、男と手が触れた。ただそれだけなのに、ぞくり
と背筋が痺れる。
佳哉は渡された名刺を素直に受け取ってしまい、動揺を隠せないまま逃げるようにその場を
離れた。





地下へ向かう階段を下りると、重い扉を開けた。ここは佳哉が拠点にしているライブハウス
で、今日もワンマンライブを予定している。
スタッフに挨拶すると、会場の奥にある小さな楽屋へと進んでいく。ライブ会場特有の
閉塞感を受けながら廊下を進み、楽屋のドアを開けると、そこには既にメンバーがそろって
いた。
「うっす」
「うっすー」
「あ、ヨシ、おはよ。1時間後にリハになったから。セットリスト確認しといて」
「うぃーす」
ベースの高井に言われ適当に頷くと、自分の定位置に座った。目の前の大きな鏡に魂を
持って行かれたような顔の自分が映る。
先ほどの出来事に頭を占領されて、何を言われても素通りしてしまう。心なしか心拍数も
上がったままだった。
むき出しの蛍光灯の明かりが鏡に反射して、佳哉は目を細めると鏡に映る自分の姿を見た。
何の変哲も無い男だと思う。どこにでもいそうな大学生。金髪の頭は多少目立つだろうけれど
一目惚れしたと告白されるほど、突出したかっこよさもカリスマ性も持ってないと自分では
思っている。
その自分に、あの男はどうして惚れたり出来たのだろう。佳哉はポケットに仕舞った名刺を
取り出した。
名刺の真ん中に「津村紘武(つむら ひろむ)」と名前が書かれ、佳哉でも知っている有名な
社名とそのロゴが右上に印刷してあった。
佳哉は名刺をじっと見詰めた。男の顔が思い出される。真面目そうで、それでいてどこか
深みのありそうな男だった。
バンドマンではない自分に惚れたという津村に、佳哉の心は揺れた。
名刺を仕舞い、動揺を隠すように髪の毛をセットし始める。無心になろうと、ひたすら
金髪を捻り上げた。
段々と出来上がっていくボーカル「ヨシ」の自分。ただの冴えない男、佳哉から、ステージ
で華やかなパフォーマンスを繰り広げる、駆け出しのスターにスイッチが切り替わる。
ファンの黄色い声をさらりと交わし、ギターのテクニックをリードギターの「ロージ」と
魅せ合い、ステージ上で大暴れする人間が、実はこんなにも素の自分に自信をなくしてる
なんて、きっと誰も知らないだろう。
仮面を外した自分に価値なんてあるのだろうか。
自分たちのバンドがメジャーデビューの話を持ちかけられてから、日々強くなっていく
この思いを佳哉は持て余していた。
「切り替えろっ」
小声で自分を叱咤すると、佳哉は無理やり頭の隅に男の顔を追いやった。





ステージ上では歪んだギターの音が最後の雄叫びを上げ、ドラムが終止符を打つと、客席
からは黄色い歓声が湧き上がった。
「あー!!!ちょっとタイム!休憩!いっちゃいそう!」
笑いながらMCを挟み、ペットボトルの水を含む。佳哉はあがった息を整えながらマイクを
持つと、客の顔を見渡した。
自分たちの言動に期待している女の子達の顔が見える。佳哉は心の中で苦笑して、右手を
あげた。
「えーっ、ここで、皆さんに、重大な、お知らせがあります!」
それだけで客席からは悲鳴が上がった。佳哉は隣にいるギターのロージを呼び寄せると
ロージの腰に手を回して、耳元に口を寄せた。
客がざわつき始める。
「えっと……今まで黙ってたけど……俺たち……結婚します!」
佳哉が腰を引き寄せると、ロージも佳哉の肩に頭を乗せた。
客の反応は二通りで「きゃああああっ」と悲鳴を上げる女の子と「ぎゃはははは」と豪快
に笑うその他の客。
勿論、お決まりのショータイムで、ライブに頻繁に来る常連にはこれ目当ての子も多い
らしい。
「ヨシ、俺たち、認められてないみたいだから、諦めよう……」
しょんぼりした演技でロージが離れると、客席から「がんばって」と声援が飛ぶ。小さな
ライブハウスだからこそ出来るお遊びだ。
「俺は諦めないぞっ!新しいシングルの告知するまでは!」
「俺と告知どっちが大切なんだよ」
「お?今流行のツンデレだな」
「うるさいっ俺はいつでも、こういう性格なんだよ!」
そんなやり取りで、客席は歓喜の渦。佳哉はもう一人の自分が自虐的に笑っているのに気づき
ながらも、テンションをあげたまましゃべり続けた。





ライブが終わると、楽屋で倒れ込んだ。終わった後はいつもぐったりしているが、今日は
いつもにまして虚脱感が強かった。
目を閉じていると、メンバーが何か言っているのが聞こえるけれど、ライブの残響とマイナス
思考で何も入って来なかった。
やっと意識が戻ってきたときには、楽屋はすっかり綺麗に片付いていた。ベースの高井に
腹を蹴られて、重い体を起こすと、冷蔵庫に入れていたパックの牛乳を一気に飲み干した。
「ふはっ」
「その年になっても牛乳好きってどうなん」
高井に笑われるが、佳哉は口に付いた牛乳をぺろっと舐めて言い返した。
「俺はまだまだでっかくなるんだよっ」
「まあいいけど。あ、この名刺、ヨシの?」
高井はポケットから名刺を取り出して、佳哉に渡した。
「……!」
驚いて高井を見返すと、高井は落ちてたんだよとさらりと言った。佳哉は顔に出るほど
動揺してたようで、高井は意地悪そうな顔をして
「わけアリだな」
と笑った。



「うひゃひゃ」
今朝の話を冗談半分ヤケクソ気味に話すと、高井は豪快に笑い転げた。
「モテモテじゃん。んでそのサラリーマン男ってーのは、どんな顔してたの。お前好みの
男だった?」
「普通。……って、俺好みって!」
「今更俺の前で隠してもねえ」
「……うるさいっ」
佳哉はバツの悪そうな顔を高井から逸らした。
一生の不覚だと思う。佳哉は自分の中の一番守りたい秘密を、こともあろうに同じバンド
メンバーにばれてしまったのだ。
自分がゲイであるというのは、出来れば一生身内にはばれたくなかったのに、佳哉は自分
の誕生日に「恋人」と路上で熱いキスをしているのを高井に見られてしまったのだ。あの
時の事を思うと、自分の迂闊さに腹が立ったり恥ずかしかったりで、佳哉はいてもたっても
いられなくなる。
「ゲイは、設定なんだよ!」
苦し紛れに佳哉が言い返すと、高井は鼻で笑ってあしらった。
「確かにファンの間ではお前とロージが恋人っていうのが『設定』になってるけどな」
「お前がやれって言ったからだぞ」
佳哉は目下ボーカルの「ロージ」と熱愛中と言うのがファンの間での定説なのだ。今日の
「結婚します」ネタも高井がやれやれ言って、実現したものだ。
殆どがネタであることはファンの女子も分かっているが、誰かの特定の「モノ」になるより、
ファンタジーな設定で永遠に彼女なんて作ってほしくないと願うファンの気持ちも働いている
のかと佳哉は思う。
けれど、ライブパフォーマンス中にわざとロージとの絡みを入れて、ファンを煽っている
所為で、佳哉の設定はクロかシロか分からなくなっているというのもまたファンの中での
定説だった。
「バンギャル心理をよーく心得た高井のありがた〜い助言で、女の子のファンは増えてる
らしいのはありがたいけど!やらされてる俺らの恥ずかしさをちょっとは考えろっつーの」
そんな佳哉に高井はニヤニヤ笑って言った。
「バンギャルの心理を逆手にとって遊んでるように見せかけて、実は最高のカモフラージュ
を手に入れてるって一石二鳥だと思って感謝されてもいいのに。今なら誰と絡んでも、
ライブで『ネタでした』って言い訳できるだろ?」
「誰彼かまわず絡むかよ!」
「……はは、そうだよな。お前は本当は不服なんだもんな」
「は?」
「だって、佳哉は『受』だもんなー」
「はぁ?なんだその『受』ってーのは」
「知らないのか。ファンの女の子の事はちゃんと研究して来いよ」
高井は楽屋に落ちていたスティックで佳哉のことを指した。
「お前、ネコってヤツだろ。前の恋人見たらまあそうだろうとは思ったけど」
「……」
「『受』ってーのは、入れられる方で、その反対が『攻』っていうんだよ、女の子達の間
では。ちなみに、お前とロージでは、お前が攻でロージが受らしい」
「なんだそれ。そんなもんまで決まってんのかよ!?どっちでもいいじゃん、俺とロージ
がホントにヤルわけじゃないんだし」
残念ながらロージに対して恋愛感情はこれっぽっちも沸かない。ギタリストとして尊敬は
できるけれど、恋愛対象としては全く論外だ。
「ものすごい重要なことだよ」
「まさか」
「反対になったら、戦争が起きる」
「アホか」
「お前、カップリング戦争の恐ろしさをしらんな」
「知るか!」
どうして高井はそんなことに詳しいのか、一度聞いてみたい気もするが、高井の懐を覗く
のが恐ろしくて、佳哉は口を噤んだ。
「だから、お前がどこで誰とちちくりあってても構わんけど、くれぐれもファンの前では
それを引き摺って『受』の顔すんなよってこと」
「うるせえっ、さっさと帰れ!」
「はいはい」
高井はひらひらと手を振りながら楽屋を出て行った。
静かになると、自然と大きなため息が出た。佳哉は名刺をじっと見詰め、もう一度津村の
顔を思い出していた。



「……俺だって……」
タイプだったから目が離せなかったのだと、佳哉は自嘲した。




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