なかったことにしてください  memo  work  clap
男ヤモメに恋が沸く沸く―晴の情事―



どうして、天野さんが昇進できたのか、甚だ疑問でしたが、こうやってしゃべってみると分かる
気がします。
部下に言われた一言はこう続いた。
「天野さん見てると、周りの人間が放って置けずに、つい手を出してしまいたくなるんですよね」

 ボーナス月は、太っ腹になる所為か、飲み会がやたらと増える。俺もボーナスが出て以来
部下やら同僚やらと飲みに行っている。・・・実際の所行かされてるんだが。
 特に部下との飲みは結局こっちが払ってやらなきゃならないので、行けば行っただけ大赤字
になるんだけど、日頃の働きぶりを労ってやらないわけにはいかない。
 そもそも、俺なんか有能なわけじゃないから、気の利く部下がたくさん持ち上げてくれて、今の
自分のポジションがあるわけだし。部長にも
「天野君は、部下に恵まれてるんだから、自覚しなさいよ」
とまで言われる始末。まあ、反論はできない。こんな風にしか還元できないっていうのも上司としては
情けない気分だけど、あいつ等はただ酒が飲めるっていうだけで、十分らしい。
 俺は金づるかよ。今日も2軒目まで付き合って、フラフラに酔っぱらって、そろそろ解放して
もらおうとしているところだ。
 俺は元々、酒に強い方じゃないし、ビールもジョッキ2杯飲めばもういっぱいいっぱい。帰って
丘やアツシに酒臭いって怒られながら、いびき掻いて寝たいところだ。
「天野さーん、次行きます〜?」
「いや、もういいよ。今日はこれで帰るから・・・」
「えー。ノリ悪いですよ」
「お前等なあ・・・。2軒も行けば十分だろ。明日は土曜日なんだから、俺は家族サービスすんの」
あー、やばい。地面が揺れてきた。
 俺は一刻も早くこの場から解き放たれたいのに、悪酔いした奴らが俺を引っ張って3軒目を
目指そうとした。
 勘弁してくれよ。これ以上飲めないし。金を渡して帰ろう。そう思ってスーツの内ポケットから
財布を取り出そうとしたその時、自分を呼ぶ声がした。
「あれ?天野さん?」
 正面から見たことのある顔が近づいてくる。
「あ・・・」
自分よりも若くて、かっこよくて、今日はしっかりピアスまで付いてて。髪の毛のねじりは今日も
しっかり決まってる。
 一瞬その場がしんとなった。どういう関係?みんなが不思議そうな顔で俺を見る。一般的に
考えたら、こういうタイプの男とは接点ないよな。
 俺が固まってると、井原は俺をのぞき込んだ。
「アツシ君のお父さんですよねー?あれ?だいぶ、酔ってます?」
子どもの名前が出てきたところで、回りの空気が和らいだ。
「あ、ああ。井原先生、どうも、こんばんは」
「えー、先生なんですか〜?」
「アツシ君ってことは、保育園の先生です〜?」
後ろから女の子達の黄色い声が聞こえる。やっぱり女の子から見たってかっこいいんだ、こいつは。
「あ、どうも、こんばんは。アツシ君の担任の井原です」
井原はその女の子達にも律儀に挨拶をした。女の子達は嬉しそうに井原の回りを囲む。
「先生もよかったら、これから飲みに行きませんか?」
調子に乗って、誰かが井原を誘う。冗談やめてくれよ。こんなに酔っぱらってる姿見られる
なんて恥ずかしすぎる。
 井原は瞬間俺を見て、首を振った。
「せっかくなんですけど、保育園に仕事残してきてあるんで、帰らないといけないんですよ」
ナイス、井原。
「えー、残念」
「また今度、飲みに行きましょうねー」
女の子の黄色い声をさらりと交わし、井原は俺の方を向く。
「天野さんも、飲みに?」
「いや、俺はこれで帰ろうと思ってて」
「じゃあ、駅まで一緒にいきますか?」
「そうします」
「あ、そうだ。実は、今日アツシ君が・・・」
井原が子どもの話を始めたので、これはチャンスだと半ば無理矢理その輪を抜けて、部下達には
軽く手を振る。
「じゃあ、また来週な。お前等、あんまり飲み過ぎるなよ」
部下の恨めし顔を後ろに、俺は井原と歩き出す。酔っぱらっている所為で、まっすぐに歩いて
いるのかどうかも怪しい足取りだ。
「・・・助かりましたよ、ありがとう」
俺が井原を上目で見ると井原は笑っていた。
「困っていそうだったので、つい声を掛けてしまいました」
「・・・見てたの?」
「ええ」
何か俺、格好悪いな。酒のせいなのか、井原の隣に並ぶと心臓がドクドク言って目が回りそうだ。
 まずい。意識しないようにと思っても、井原の香水が嗅覚を刺激して、全身に甘い痺れが走る。
 園と自宅は別路線のバスだ。駅まで着けば、井原と離れられる。隣に並んでたら、俺の心臓
もたない。やばいよな、やっぱりこんなのは。
「これから帰って、仕事ですか?」
井原は笑って否定した。
「真逆。天野さんが困ってらしたので、口実作って、一緒に逃げようかと」
「・・・」
ノックアウト。
 そんな風に笑われたら、この気持ち押さえようがないじゃないか。体中に感情が駆けめぐる。
甘酸っぱさよりも、酸っぱい気持ちで、俺はうずくまった。
「あ、天野さん、大丈夫ですか?」
 うえー、気持ち悪い。やっぱり飲み過ぎだこれは。俺の意識はぷつりと切れた。

 見慣れない天井だ。子ども達の部屋だろうか。いや、あそこの天井は丘が小さい頃につけた
クレヨンの落書きがあるはずだ。
 アイツ、器用にも竹の棒にクレヨンくっつけて天井に色塗ろうとしてたんだよな。
「だって、ぼくのおそらにも、ほし、かきたかったんだもん」
そんな風に真剣に訴える丘を俺も弥生も叱れなかったんだよな。あれは丘に初めてプラネタ
リウムに連れて行った日のことだったか。
 昔の思い出で、意識が急激に覚醒した。
って、ここどこなんだ。
がばっと起き上がると、頭がぐわんぐわんと回る。き、気持ち悪い・・・。
ああ、そうか。飲みに行って、酔っ払って、井原と駅まで歩いて、それから・・・
それから!?
あたりを見渡すと、どうやらここはワンルームマンションのようだった。誰のかなんて
聞かなくたって、どう考えたって・・・
 気持ち悪さと緊張でその場に固まっていると、扉が開いて、ホカホカの湯気を体中から
発散させた井原が現れた。頭をタオルでごしごし拭きながら、俺が起きたのを見つけると
笑って声をかけてきた。
「天野さん、気がつきました?」
「俺は・・・」
「駅前で、いきなりうずくまったかと思ったら、気失っちゃったみたいで。放っておくわけ
にもいかないので、家つれてきちゃいましたけど・・・」
井原は頭からタオルを外し、そのタオルを首にかける。ジャージのズボンに、上半身裸の
その出で立ちは、ひどく俺の目のやり場を困らせてくれた。
 セットされていない髪。見た目よりも遥かにある腕の筋肉。わき腹にある痣。やり場に
困りながらも、気がつけば凝視してた。
「天野さん?」
何、何、何なの、このトキメキみたいな、俺の感情。
馬鹿だろ、俺。絶対、無理無理。さすがにそれはナシだっつーの。
「あ、あの、すみません。ありがとうございました。帰ります」
お礼もそこそこに、とりあえず帰るしかない。このままいたら、何をほざきだすか、この口に
自信はない。
 勢いよく立ち上がって、駆け巡ったアルコールの所為で派手に転んだ。
「天野さん?!」
痛ってえ・・・。ガコっという鈍い音がして、俺は腰をフローリングにぶつけた。
井原が慌てて俺を抱きかかえる。実にその自然な動きに、俺は何の違和感も感じずに、井原の
首に腕を回した。
 しっとりした肌。小麦色に焼けた健康そうな首周りに自分の腕が絡みつく。見上げればすぐ
目の前には、井原のアップが。かっこいい顔してるんだな、間近でみても。
 どちらが先に近づいたのか、後になってもよく思い出せない。ただ、次の瞬間には、俺は
目を閉じていて、唇には生暖かい感触を味わっていた。

ん?
「ええーーーっ」
びっくりして、俺は井原を思いっきり突き飛ばす。井原は後ろにあったローテーブルの角に
背中をぶつけた。
「痛っ」
「すみませっ・・・」
唇を押さえると、しっとりと湿っていて、この感覚が嘘ではないのだと、思い知った。
 俺、今、絶対に井原とキスしたよな?
顔から火が出るほど恥ずかしくなって井原の顔なんてまともに見れなくて、その場で俯いて
しまった。
 どう弁解しよう。つい、酔ったはずみで?顔がたまたま近くにあったから?井原先生の顔が
かっこよくて、思わず見惚れて?・・・ってそれ弁解じゃない。
 脳みそフルパワー。フル回転。どうすんの、俺。
「あの、今の、やっぱりなかったことに・・・」
散々迷った挙句、俺が搾り出した言葉に井原は爆笑した。
「天野さん、何それ、新手のギャグ?」
「いえ、その・・・」
「随分と、身体張ったギャグだね。・・・俺一瞬ほだされちゃったかと思ったもん」
真逆、そんなわけないだろ。井原は余裕綽々そうに背中を摩りながら、こちらへにじり寄って
きた。こんなところで弱み握られたら・・・。いや、そんなことで脅すような先生じゃないとは
思うけど・・・。
「天野さん、人は見かけによらないって言葉知ってますか?」
「・・・先生、腹黒いんですか」
随分と間抜けな質問をして、恥ずかしくなる。そんな質問してハイなんて答える馬鹿はそうそう
いないだろうが。
「俺は見かけ通りですよ?」
そういうと井原を俺の方を指差す。
「え?俺?」
「そう。天野さんは見かけによらず、大胆なんですね。そういう趣味なんですか?」
「違います!」
そんな趣味ってどんな趣味なんだ。意味も分からず即答して首を横に振る。井原は笑いを
こらえるように我慢していた。
「天野さん、テンパリすぎですよ」
耳元で井原のテナーが響く。なんだか身体の力が抜けてゾクゾクしてしまう。耳の先が赤く
熱を帯びる。やめてくれよ。それ以上接近されたら、せっかくのど元で止めてる言葉が口を
ついてしまう。
「もう、勘弁してください・・・。俺、おかしくなってて。いろいろ失礼な事して申し訳ありま
せん。気分害されたら、お詫びしますので・・・」
「お詫びとかよりも、キスの理由の方が聞きたいですけど?」
教えられる分けないだろうがっ。
「あ、のですね。理由はありません。ホントに申し訳ないです」
俺は井原に向かって頭を下げる。何とか乗り切らなくては。ポイントは、謝り尽くす。そして
隙を見て早く逃げる。いや、間違えた帰る。この二つだ。
 でも、井原のその声には、俺の言い訳を許す気はさらさらないといった力がこもっている。
井原にしてみればいきなりキスされて、無かったことにしてくださいなんて、意味分からない
よな。まあ、俺だって意味分かんないけど。
「あの、その・・・。多分」
「多分、何ですか?」
「・・・」
井原は優しく声を掛けてくれるが、これ以上言葉を発して良いのか、自分でも分からない。
お互いにメリットもないし、気まずくなるだけだと分かっている。
 振られるのは構わないとはいわないけど、仕方ないし、俺は告白しないでうじうじ悩むより
玉砕する方が性に合ってる。砕けたくはないけど、砕けると分かってても、向かってくのが
男だなんて、古臭い「男らしさ」にちょっとあこがれたりして。・・・でも、それは全部普通の
恋愛の話であって、相手が男だとか、保育園の先生だとか、ましてやそれが息子の担任だとか
にまで通用する話なんだろうか。
 影で変人と称されてる俺にだって、ワキマエってもんはあるさ。
「気にしませんから言ってくださいよ」
うじうじ悩んでいると、井原は眉をヒクつかせて言った。その挑戦的な発言に俺は思わず
口をついてしまった。
「気にしてください」
「はい?」
「俺のこと、気にしてください。そういう意味で、気にしてください。そういうことで、
キスしたし、そういう対象で、君をみてます。俺は井原先生が好きなんです」
い、言ってしまった。
 井原、どんな顔してるだろう?困ってるよな、絶対。教え子の父からの突然の告白。ショック
で、寝込まれたらどうしよう。アツシ、別の保育園に転園することになっても、悪いのは全部
父さんだ。ごめんな。
 気持ち悪さに罵られる覚悟もして、伏せた顔をゆっくりと持ち上げる。
 だが、井原から出た台詞は、俺の少々腐りかけた度肝ですら抜いていった。
「何だ、じゃあ、慎重にいかなくてもいいんだ」
その途端、井原はニコニコからニヤニヤに笑顔を切り替えて、俺はすぐ後ろのベッドに引きずり
あげられてしまった。隣に井原が座ると、ベッドのスプリングがぎしっと唸った。
「は、い・・・?」
「だって、天野さん、ノーマルでしょ?」
「え?ノーマルって・・・」
「ノーマルって、性対象として男なんてアウトオブ眼中でしょ、普段は」
「はい・・・」
次に井原が吐き出した言葉に俺はこれとないダメージを受けた。
「俺、真性なの」
「はい・・・って、ええ?!し、真性って・・・」
「そ。俺、正真正銘のゲイなの。ホントは、天野さんのこと、始めて見たときからずっと
いいな、なんて思ってて。だけど、あなた、ノンケでしょ?どう攻めてこうかいろいろ考え
あぐねてたんだから。だけど、思わぬ告白に・・・こういうの何て言うんです?棚から牡丹餅?
勿怪の幸い?鴨が葱背負って来る?ああ・・・思う壺!」
俺は井原に耳をべろっと舐めあげられて、びっくりしてのけぞった。
 な、なんか、性格・・・違うんですけど・・・?
「あー、なんだか、すっげー嬉しいなあ。こんなに早く手に入っちゃうなんて。1年くらい
かけてゆっくり落とそうって覚悟してたのに」
 俺の気持ちが分かった途端、井原は突然態度を軟化させ、いや軟化どころか、腹に据えた
黒さを爆発させ、勢いに任せて、顔やら耳やら唇やらにキスの大盤振る舞い。
 俺は気持ちが通じて嬉しいどころか、薄ら寒くなった。お、俺・・・なんか間違った人を
好きになってしまったんだろうか・・・。
「ちゃんと、言ってないですね。えっと、俺、天野さんのこと、大好きですから」
大好きですから、いただきまーす。俺にはそう聞こえた。
 井原は俺を押し倒し、ワイシャツのボタンに手を掛けている。あれ、俺ネクタイいつの間に
外してたんだろう。
 井原の手は器用で、シャツもスーツのスラックスもするりするりと脱がされてしまった。
脱がされてしまったって、おい、ちょっと待って!
「あのさ、あのっ・・・」
井原の腕を掴みこれから起きようとしてるこの行為について俺は固まった。
「ぶっ・・・天野さん何、その乙女みたいな反応。あ、大丈夫ですよ、ローションもゴムもちゃんと
揃ってるし、初めからやり遂げようなんて思ってませんから」
まさか想いが通じるなんて思ってもみなくて、その次の段階のことなんて、綺麗さっぱり頭には
準備されてなくて。でも・・・。
「あ、あのさ・・・ちょっと確認なんだけど・・・。その、俺ってやっぱり・・・」
「うん」
井原はにっこりと笑って掴んだ俺の手を外した。
「あのさ、俺、想像してたのと逆、みたいなんだけど・・・?」
「あはは、大丈夫。天野さんには素質あるよ、きっと」
「素質ってなんだよ、素質って」
「知らないの?アナルで感じることができるのは100人に1人なんだよ」
それが、なんで俺なんだよ!
 井原はパクパクしてる俺の口をきゅっと摘んで、
「だって、耳舐めただけで、ココがこんなにビンビンになってるんだもん、あるよ素質。
それにね、俺、入れる方専門だから。バックバージンは誰にもあげる気ないの」
俺もないよ!!
 そういいかけた口を今度は唇でふさがれて。思いが通じたショックに、俺の思考はそこで
完全ストップした。
 後は野となれ山となれ。嬉しさ40、戸惑い30。後の成分は、多分、井原への恐怖と畏怖。
 井原がにっこり笑って、愛してますよ、愛してますよ、ちゃんと愛し合いましょうねと
寒気のする台詞を口走っている。
 ああ、もうっ。
もういい。それでも、俺はこの二重人格みたいな男が好きだし、顔も好きだし、身体も
目が釘付けだし、既に股間なんかパンパンだし。
 ここは男らしく、がつんと受けてやろうじゃないの。
俺は井原の首に掛かったタオルを引き寄せると、濃厚なキスを交わした。むくむくと
わき上がる性欲にあとは任せて、溺れるだけだ。
 目を合わせると、井原は優しく笑って、「大事にしますね」と歯の浮くような台詞を吐いた。
だけど、そんな台詞にすら、胸がきゅんとなるのは、俺も相当ヤバイんだろうな。
子ども達に連絡してないことを思い出して、丘の不機嫌そうな声が蘇るが、電話をかけるのも
面倒くさくなって、俺は井原との過激すぎるスキンシップにひたすら没頭するのみだった。


 次の日、思った以上にふらふらな身体を引きずって、家に着くと、玄関で、丘が目を真っ赤に
して立っていた。
「泊まってくるなら、連絡してって何度もいったよね?」
「ご、ごめんな〜・・・急遽泊まることになって、夜も遅かったし、連絡しそびれちゃって・・」
「ふうん」
丘はご立腹だ。こういうところも弥生にそっくりに育ったよな。
丘の足にまとわりついて、アツシが
「ぱぱ、あさがえり、なのー」
とどこで覚えたんだか分からない恐ろしい台詞をのん気に呟いていた。


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【天野家ことわざ辞典】
男鰥に恋が沸く沸く(おとこやもめにこいがわくわく)
男鰥は、独り身で淋しい反動が一気に爆発すると、恋の泉に溺れてしまう






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