Beautiful_dreamer
「ううっ・・・」
うめき声で翔は再び目を覚ました。
疲れているのか、浅い眠りで夢ばかり見る。
「ひどい夢」
翔は手探りでテーブルから飲みかけの水を引き寄せると、残りを一気に飲み干した。喉が
カラカラに乾いている。
額に湧き上がった汗は、炎天下の名残にも思えた。
苦笑いですまない自虐的な夢も何度も見てきた。亮太に嘲笑われる夢も、自分を見下して
いる夢も。うなされて起きることだってあった。
「ったく・・・・・・。嫌になる」
未練なのだろうか。
今まで見た夢の中でも、忘れられない部類になりそうだ。バッターボックスから蔑んで
いた自分の瞳と、スタンドで身体を震わせながら恨みで壊れてしまいそうだった自分。
どちらからの傷も同じぐらい痛くて、翔は顔を擦って深呼吸を繰り返した。
亮太が引退すると知らせてきたあの日から、淋しさともどかしさを感じていたのも確かだ。
何かから解放される嬉しさと、労いの気持ちが全面に出て、心の奥を覗こうとしていなかった。
それが夢になって現れているのかもしれない。
亮太へ続く気持ちは許せたから終わりではない。純粋に隣に並んでいたあの頃も、恨んだ
日々も全て背負って今を歩いている。そのときの気持ちを消すことはできないし、なかった
事にしようとも思ってはいなかった。
穏やかな生活の中でふとした拍子に湧き上がる矛盾を、翔は嵐が通り過ぎるように待つしか
なかった。
気持ちに逆らうことなく、受け流す。長く生きて身に着けた大人の賢さ。あるいは狡さ。
翔は空のペットボトルをサイドテーブルに戻すと、携帯電話を開いて時間を確認した。
思いの他時間は過ぎていないようで、まだもう一眠りはできそうだった。
天井を見上げ、逆さまになった世界で部屋中を見渡す。背後にある大きなリビングボード
の一角には、亮太の記念ボールがボールスタンドの上に飾られている。ボールスタンドは
3つ並んでいて、200号ホームランの記念ボールと、三冠を取ったときの記念ボールが綺麗に
乗せられていたが、もう一つは何も乗っていなかった。
あの二つのボールも亮太が直接翔に手渡してきたものだ。ボールスタンドはわざわざ翔
が注文したものだった。
自分のオフィスにボールスタンドが届いたとき、社員が何事かと翔の周りを囲んだもの
だった。
「社長、野球なんてするんですか!?」
「しないよ」
「プロ野球マニア?」
「そうでもないかな」
「じゃあ、なんでボールスタンドが3つも?」
「うちに汚いボールが転がってて、置く場所がないからね」
翔はそう言って周りに集まってきた社員を手で散らした。
「こんな豪華なボールスタンドに汚いボール飾るんですか〜」
「スタンドくらい綺麗に見えないと」
翔は誰にも分からないように小さく笑った。
これやるから、そう言って無造作に手渡してきた時の事を翔は思い出す。こういう時の
亮太のぶっきら棒はいつになっても直らないようで、ボール受け取りながら翔は苦笑いに
なっていた。
「200号ボールがこんなところにあるなんてマニアが知ったら、がっかりするだろうな」
喉から手が出るほど欲しがっているマニアが何人もいることを翔は知っている。勿論、この
ボールを所蔵していることを誰にも話したことはないし、自慢する気もない。
けれど、翔は手放すつもりもなかった。
飾られたボールを見ると、悪夢で開きかけた傷がゆっくりと閉じていく気がした。
簡単に恨みや怒りに流されることはないけれど、今でもこういう夢を見ると痛みが残って
いることを実感する。それを現実の亮太が癒してくれるのだ。
しんとした部屋を眺めた後、翔は再び目を閉じた。
「いい目覚めで球場に向かわせてくれよ・・・」
今度の夢は、小学生の頃の夢の続きだった。自分達が将来の夢の話をしているところだ。
亮太と翔がお互いプロ野球選手になると豪語しながら歩いていると、さっきの夢では存在感
の殆どなかった満がいきなり出てきて、翔と亮太の心に水を差した。
「どっちかがプロにならないとかそういうことは考えないんだな」
「まっちゃん、ひどい!」
慎吾がぶすっと膨れた。
「例えばだって。だって、亮太だけプロになることも、翔だけプロになることもありえる
だろ?まあ、どっちもなれないことだって十分あるだろうけど」
「夢の無いこと言っちゃダメ!」
慎吾がふくれっつらのまま満を見上げた。
「だから、例えばだって」
「夢なんだから、何思ったっていいじゃん」
「まあまあ聞けって。夢は夢としておいといて、2人ともプロになりたいって思ってても、
1人しかなれないことだって、あるだろ?」
満が翔に向かって言う。何故自分に同意を求めるのだと翔は眉間に皺を寄せた。
「そんな時、相手の引退試合をフェンス越しで見るのってどんな気持ちなんだろうな・・・・・・」
ぼそっと呟いた言葉は、小学生の満の発言じゃない。きっと違う。そんなこと言うはずない。
それは、そう。今の翔へと投げかけられている言葉だ。
17の満が、27の満が、自分を嘲笑いながら見ている気がした。
「そういう時はお疲れ様って言えばいいんだよ」
悠の呟きも翔には届かない。
一瞬昇った血がゆっくりと引いていく。満の挑発だって、今は流せるんだ。
フェンス越しで引退試合見ながら、ざまあみろなんて思ってやるもんか。
そんな小さな自分はとっくに捨てたんだよ、満。
ふん、と挑発的な顔で満を振り返った瞬間、暗転して、一瞬のうちに大歓声の渦に巻き
込まれた。夢が飛んだらしい。
場面が突如として変わり、自分は当に亮太の引退試合を見ていた。
隣に座る悠が
「本当に亮太引退するの?あんなにバンバン打ってるのに」
と名残惜しそうに言った。
「代打になったときから決めてたんだってさ」
若手にポジションを奪われて、代打専用になったときに引退は近いと覚悟していたのだと。
引退試合の今日は特別にレフトのポジションに座っている。久々に見る守備の姿に、懐か
しさと切なさが湧き上がった。
最後の姿。本当に、これで終わり。
プロになったときは、追いかけられないほど遠くの存在になったと思ったけれど、今は
グランドとここの距離はこんなに遠いのに、亮太の考えていることは手に取るように分かる。
フェンス越しに見下ろすと、亮太が丁度打席に入るところだった。
『久瀬の最後の打席ですねー』
『歓声が一際上がってきました。この選手が引退することを惜しんでいるのでしょう』
隣に座った観客のラジオから試合の解説が聞こえてくる。
『今年は代打ばかりでしたが、その存在感は大きかったですから』
『チームの顔ですからね、久瀬は。彼が辞めるっていうのが信じられませんよ』
『今日は4打数2安打と当たっている久瀬です。ピッチャー振りかぶって、投げました!』
初球から亮太は振っていった。タイミングがずれ、かすったボールが内野席の方に吸い込ま
れて行く。
『ファールボールにご注意ください』
場内アナウンスは歓声で殆ど聞こえなかった。
「亮太、打つかな」
「・・・・・・」
やるんじゃないかと思っていた。立て続けにファール2球とボールで追い込まれた後、亮太
は狙っていたかのように次のフォークを振りぬいていた。
打球が伸びて、伸びて、ボールがどんどん大きくなって、降ってくる、と思った瞬間、
翔は亮太の放ったボールを素手で受けていた。
歓喜の声に耳の中を犯されているようだ。メガホンがあちらこちらで舞い上がって、応援
団のラッパの音も割れんばかりに、亮太の応援歌を吹き鳴らした。
翔の周りには、ボールを取りそこなった人間が押し寄せてきて、翔はもみくちゃにされ
ながらも掌を必死に守った。
「離れろ、痛い!」
「下がってくださいー」
人の山を悠が押しのけてくれる。翔は握った掌をゆっくりと開いていった。
掌が焼けるように痺れる。
「翔!大丈夫!?」
「痛てぇ・・・」
掌で止まったボールが熱い。自分の手の感覚がおかしくなったのか。赤くはれ上がっている
気がする。
フィールド上では、亮太が腕を上げてベースを駆けて行くところだった。翔はその姿を
見下ろしながら、ポトリと涙をボールの上に落としていた。
「翔・・・?」
「手が、痛いんだよ、あの馬鹿」
絶対にこっちに打つと思っていた。自分目掛けて打つと。亮太の気持ちが飛んできた。
翔は手の中でもう一度ボールを握り締めると、大きく息を吐いた。
この掌の痛みは亮太と自分の痛みだ。逃げずに受け止めた痛みを、翔は愛おしそうに
抱きしめた。
やっと最後の一つが埋まるぜ、うちのボールスタンド。
ありがとうなのか、ごめんなのか分からない気持ちが溢れて、ボールにもう一粒、涙が
跳ねた。
サイドテーブルの上の携帯電話がビィビィと震えて翔は目を覚ました。
「夢のオンパレードか、今日は」
ゆっくりと起き上がると、夢の興奮がまだ続いているような気がした。未来の夢。それも
このあと直ぐの・・・・・・
「正夢?ありえないって」
携帯電話に手を伸ばして、確認すると、悠からのメールだった。
『そろそろ出掛けるよ。慎吾と康弘は先に入って待ってるって。それから、満も来る事に
なったから。じゃあ後で』
時間を確認すると、翔は再び深い溜息と共にソファに沈んだ。
「全然疲れ取れてないな・・・・・・」
翔は両手で顔を覆いながら、最後の夢を反芻する。それから、サイドテーブルの上のチケット
を引き寄せると、座席を確認した。
「招待席なんだから内野席だよな、普通」
苦笑いしながら、翔は夢が正夢にならないことを少しだけ淋しく思った。
「期待してんのか、俺は」
招待された内野席からはどんなに頑張ってもファールボールしか取ることは出来ない。応援団
の入り乱れた雑然とした外野席の応援が羨ましくなる。
外野席に飛び込んでいく亮太のホームランボールを、観客がもみくちゃになりながら
取り合いになるのは想像に難くない。
自分がそのなかにいないことを翔は残念だと素直に思った。亮太のホームランボールを
取ることはもう二度とない。そのチャンスすらもうないのだ。
亮太はいつも自分目掛けてホームランを打とうとしていた。数えるほどしか球場に足を
運んだことは無かったけれど、亮太は自分を見つけると、必ず自分の方に打っていた。
実際ホームランボールを取ったことは無かったけれど、亮太からのメッセージは自分の
ところまでちゃんと届いた。
球場で出来るたった一つの会話。その想いをもう受け取ることは出来ない。
取って欲しいと言われたことは無かったけど、亮太は絶対に取って欲しいと思っている
ことくらい翔でも分かった。
想いを告げることを禁じたのは翔だ。けれど禁じられたからと言って、想いが消える
訳ではない。ホームランは、そんな翔への亮太からの唯一のメッセージなのだ。
けれど、その想いも一度も叶わぬまま、永遠に叶わなくなる。
翔はそれもまた人生だと息を吐いて、立ち上がった。
それから財布の中にチケットを仕舞うと、ジーンズのバックポケットに財布ごとねじ
込んだ。ジャケットを羽織って携帯電話を拾い上げると、悠にメールを返す。
『こっちも今からでるよ』
送信ボタンを押そうとして手が止まった。一瞬過ぎった迷い。誰かが背中を押している
気がして、翔は次の瞬間、メールの続きを書いていた。
『あ、そうだ。誰か知り合いで外野席のチケット持ってるヤツ知らない?』
打ってから、ばかげたことしてると自嘲したけれど、自分が亮太にしてやれる選手生活
最後のプレゼントだと思って、翔は小さな望みに賭けた。
亮太が自分のところに打てるとは限らないのに。どこかであの夢が正夢になることを
祈っている自分がいるのだ。
振り返れば、静かな部屋の中で、ボールスタンドがその役目を果たせるのを今か今かと
待っているような気がした。
「絶対打てよ。・・・・・・打たなかったら、あのボールスタンド代請求してやる」
翔は独りごちながら、玄関を後にする。
外は、10月の晴れ渡った空がそろそろ夕暮れを迎えようとしていた。心地よい風を受けて
翔は一つ、欠伸をした。
「さて、行きますか」
夢の続きを翔は歩き出していた。
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