はしま道中流離譚―橋は道連れ、世は情け―
車の中は暫く無言だった。ラジオからはローカルニュースと数年前のヒット曲が流れて
いて、それが自分の迷子になりかけている気持ちを現実に引き止めているようだった。
流石にあの一言は来た。未練なんてものは一つもないけれど、あんな去り際のテクニック
使われたら、良心が痛むじゃないか。
何度か溜息を吐いていると、板橋が僕の髪の毛をくしゃくしゃと撫で回した。
「揺れてるの?」
「まさか!」
「ふうん」
「・・・・・・自分が悪者になってるような気分で、ちょっと気持ちが落ちただけ」
「それが社長の作戦だったら、意外と策士だな」
「板橋!」
口が悪いというか・・・・・・うん、わかってる。板橋なりのヤキモチなんだ。僕は頭を撫でて
くれた手を取ると、ぎゅっと握り返した。
「まあ、いいや。悪者でもなんでも。板橋が一緒なら」
「俺まで悪者はいやだけど」
相変わらずの口を利くので、僕は思わず噴出してしまった。
板橋は目的地の方向に車を走らせていたのだけれど、社長からの電話のあと、来た道を
引き返して、大通りに面したコンビニに車を止めた。
「あんたの携帯も北海道に来てるってことは、どこで会えるかってことだけどさ」
「どこだろう」
「不倫旅行で行くなら、どこいくよ?」
そんなことを僕に聞かないでよ。意地悪だ。僕が睨みつけると、板橋は笑って僕を軽く
あしらった。
・・・・・・っとに!
「札幌、小樽、函館・・・・・・あと、観光で有名なのってどこが思いつく?」
「えー・・・旭川とか?富良野、美瑛・・・・・・」
僕が思いつくまま旅行雑誌で見た地名を挙げていくと、板橋はうーんと唸った。
「結構あるな。的を絞ってそっちの方向に行ってみようかと思ったけど・・・・・・これは、連絡
が取れるまで動かない方がいいかもな」
途方に暮れそうになりながら、車の中でぼうっと外を眺めていると、ダッシュボードの
電話が鳴り出した。
板橋と顔を見合わせる。手に取って液晶画面を見ると、着信番号は見覚えのある数字だった。
紛れもなく自分の番号だ。
「自分の携帯番号から掛かってくるなんて変な感じ・・・・・・」
「あはは、早く出なよ」
「うん」
僕はそう言いながら通話ボタンを押した。
「もしもし」
『・・・・・・もしもし、小島君?』
「そうです」
『やっぱり、そうだったのね。・・・・・・今どちらにいるの』
「北海道です」
北海道の言葉を聞いて電話口では一気に声のトーンが上がった。きっと向こうでも、携帯
電話が摩り替わってることで大騒ぎだったんだろう。ほっとした声が聞こえる。
『・・・・・・ああ、よかった!私もなのよ!どこ?札幌?今ちょうど千歳の空港に付いたトコ
なんだけど』
ああ、最悪。そうだよね、不倫旅行で橋を見に来るわけないし、こっちは有名な牧場がある
けど、そこに行く確率と札幌に行く確率どっちが高いかっていえば、きっと札幌だ。
不倫旅行なんだもん、人が少なくて目立つところは避けるのが鉄則だ。
僕は電話の向こう側の安心した気分を一気に突き落とすことになる地名を告げた。
「いえ、帯広です」
「帯広!?本当に?札幌にいないの?」
「札幌じゃないです・・・」
電話の向こうで、帯広ってどれくらい掛かるの、と小声で話しているのが聞こえてくる。
本当にどれくらい掛かるんだろう。お互いの場所は確認できたけれど・・・・・・横目で板橋
を見ると僕の声で相手が札幌にいたことを知ったのか、既にナビで検索を始めていた。
板橋は唸った後で、一つの場所を指差した。僕に目配せしてくるので、僕もその場所を
告げる。
「えっと・・・夕張の辺りまで来てもらえます?そこで交換でどうでしょう?」
『いやよ!なんで私がそんなところまで行かなきゃいけないのよ。こっちはそんなに時間
ないのよ?』
それはこっちだって同じ台詞だ。しかも、地図を見る分だけでもこっちがかなり譲歩して
指定してるっていうのに・・・・・・。
「でも、こっちも多分2時間くらいは掛かると思うし・・・」
『札幌に来る予定無いの?』
「・・・・・・ないです」
『そう・・・・・・ちょっと、待って。考えるから』
電話の向こうでは、彼女が不倫相手と夕張まで取りに行くことを話し合っている。時々漏れて
くるのは、彼女の後ろ向きな言葉ばかりだ。僕も不安になって板橋を見た。
そうこうしているうちに、彼女からの返答。
「せっかく北海道に来てるんなら、札幌までいらっしゃいよ。ね?それじゃダメなの?」
いやいやいや。それじゃ何のために、わざわざ帯広で降りたんだよ。
そりゃあね、僕だって札幌行きたかったよ?だけど、この旅の目的と主導権は全部板橋に
あるわけだし。そもそも、携帯電話を間違えて先に拾ったのはあなたですよ!!
言いたかったけれど、無用なトラブルは避けたかったし、どうしても彼女には負い目を
感じてしまうので、僕は黙るしかなかった。
頭を下げて、もう一度説得するか、板橋に無理を言って札幌に行って貰うか・・・・・・。
迷っていると、板橋が電話をよこせとジェスチャーを送ってきて、僕は躊躇いながら、携帯
電話を差し出した。
「あー、話の途中ですみませんけど、先に間違って拾ったのあなたですよね?」
『もしもし?何?あなた誰よ』
「小島君のツレですよ。こっちも時間がないんで、夕張が無理なら、諦めてください」
『諦めるって』
「携帯交換するの神奈川帰ってからでもいいじゃないですか」
『嫌よ』
「じゃあ、それでお願いします。夕張インターまでは行きますから。ナビだと2時間って
なってますから、2時間前後見ておいてください。じゃあまた後で」
気がついたら、板橋は電話を切っていた。
・・・・・・板橋って時々強引過ぎる。確かに一番初めに出会ったときも、よく分からない
強引さがあったけど、それが若さなのか板橋の天然さなのか・・・・・・。マイペースだよなあ。
それに助けられてるのだから、文句は言えないけど。
「何?」
「・・・・・・ありがとう」
そんなわけで、オデッセイは夕張に向かって走り出すことになってしまった。
次に会ったときの彼女は不機嫌の塊だった。多分板橋のあの態度が完全に切れさせたん
だろう。不機嫌な彼女を見るのはどうも精神衛生上よくない。
彼女の怒りの矛先は、携帯電話を取り違えて、しかも夕張まで足を運ばされたことにある
ことは分かってるんだけど、怒っている彼女を見ていると、彼女には何もかも見透かされて
いて、自分が嘗て犯した過ちを責められているような気がしてならないのだ。
社長は「妻にばれそうなんだ」って言ってた。それでもう終わりにしたいと言ったのだ。
「ばれそう」っていうのは、不倫がばれそうなのか、不倫相手が誰なのかがばれそうなのか
そこまでは分からなかったけれど、後者だったら、それこそ気まずすぎる。
一刻も早く彼女に携帯を渡して去りたかった。
「っとに、なんでこんなに遠い上に、何にも無いのよ」
レンタカーから降りてくると彼女は文句を言った。レンタカーの運転席には見知らぬ若い
男がタバコをふかしてこちらを見ている。あれが不倫相手か・・・・・・。他人事とは言え、
こういう現場を見るのは気持ちのいいもんじゃないんだな。冷静になると、余計に辛くなった。
僕の前に立つと、彼女は直ぐに僕の後ろへ視線を逸らした。板橋と目が合ったのだろう。
彼女はむっとした表情を作った。
「小島君の随分と若いお友達なのね」
「・・・・・・さっきは失礼しました」
僕が謝っても、彼女は板橋の無礼を許す気にはなれないようだった。
「あ、これ・・・・・・」
差し出すと、彼女は僕の手の中から携帯を取り上げてすばやく中身を確認した。
「メール、見た?」
鬼みたいな形相で僕を睨みつけるので、僕は恐縮しながらこくりと頷いた。
「見たの?!」
「・・・・・・すみません、だって、自分の携帯に見覚えのないメールが届いてるのかと思って・・・
あ、でも初めの1つくらいしか見てませんから」
「本当に?!」
「むやみにプライベートを覗くような失礼な真似はしてません」
「・・・・・・そう」
彼女は半信半疑のまま、僕の携帯も返してくれた。
「このストラップ、まだつけてたの?」
「お土産に貰って丁度よかったし、ストラップに頓着しないので・・・・・・」
「まさか、同じ機種に同じストラップが付いてたなんて、ホントに嫌になっちゃうわ。
あーあ、半日損しちゃった」
それはこっちも同じ台詞だ。気が付けばもう夕暮れは直ぐそこまでやってきていて、5月の
北海道は肌寒く感じた。
今日橋を見て、明日と明後日は観光になるはずだったのに。これじゃ観光するって、どれ
だけ時間とれるのか・・・・・・。北海道に来て、蟹もいくらも食べないで、橋見て帰るなんて
そんなオタクなことだけはしたくない。
「じゃあ」
彼女は用事を済ませるとさっさと車に戻ろうとしたので、僕は慌てて社長の一言をその背中
に向かって放った。
「あ、あの!社長から、伝言なんですけど・・・・・・」
「!?」
途端彼女が振り返って、目を見開いた。
「あなた、電話に出たの?!」
「・・・・・・社長からの電話を間違って切ってしまったら、嵐みたいに電話がなり続けたので
・・・・・・あ、でも、ちゃんと説明しましたから」
「ちゃんと説明って!?」
彼女の顔がどんどん険しくなっていく。後ろのレンタカーの男が気になるのだろう。時々
振り返ったりして、唇をかみ締めていた。
「あ・・・・・・別に、余計なことは言ってませんから」
苦笑いで答えると、彼女は更に僕を睨んできた。
「・・・・・・言いたければ言えばいいじゃない。昔から小島君は社長の味方だったものね」
「言いませんって!」
「じゃあ馬鹿なことしてるって軽蔑してるんでしょ?・・・・・・分かってるわよ、私だって。
でも、最初に裏切ったのはあっちだもの!私だって、誰かに慰められたいわよ!」
裏切ったって・・・・・・やっぱり彼女は社長が不倫してたことを知ってたんだ。この態度だと
相手が僕だってことまでは気づいてないんだろうけど。
不倫なんてリスクばかりで何も生みませんよと言いそうになって、僕はやめた。
そんなこといえる義理じゃない。それに、彼女の不倫の切っ掛けが自分にあるのなら、それ
こそ、悪いのは僕なのだから。
「僕は、何にも言いませんって。もう社長と会うこともないだろうし・・・・・・」
「・・・・・・ああ、もう最悪!せっかく誰にも邪魔されないで北海道来たと思ったのに」
彼女はイラついて言った。その言葉がいけなかったのか、さっきまで黙っていた板橋が、
火に油を注いでしまった。
「誰にも邪魔されたくないなら、観光客でごった返すとこ来る方が間違ってるんじゃない?」
「?!」
「板橋っ!ちょっと、失礼だって・・・」
「あなた一体何なのよ」
彼女に睨まれても板橋は動じなかった。それどころか、僕の腰を引き寄せて、ふんと鼻を
鳴らした。
「あなたたちより、ずっとか健全な関係ですよ」
こんなところでカミングアウトかよ!
板橋、余計なこと言うなって。ホントに君は、人を挑発するのが好きだな・・・
途端に彼女の表情が固まって、それから恐ろしいものを見るように僕に視線を戻した。
「・・・・・・はぁ」
その溜息と一緒に吐き捨てられた感情を僕は考えたくなかった。
そういう反応はもう慣れた。慣れたけど、傷つかないわけじゃない。同じ傷を付けられ
続けると、痛みが麻痺するようなもんだ。
「・・・・・・お互い秘密持ちみたいだから、口外はしないわよ。それでいいでしょ」
秘密持ちか。確かに、僕と板橋の関係は男女のカップルよりも公にはしにくいけど、不倫
なんかと一緒にされたくない。
僕は彼女から顔を逸らさずに、じっと見つめてやった。これで、逃げたらなんだか負けた
気になる。
彼女はそれでも、僕達の関係に一定のマイナスな感情を持っているようで、異質なものを
見るように僕の視線をかわした。
「携帯電話も返してもらったし、もう行くわ」
「はい。あ、社長が連絡取りたがってたので、電話してくださいね」
至って冷静になったつもりで僕が言うと、彼女は僕を睨んだまま頷いた。
「わかったわ。ありがとう」
彼女は最後まで不機嫌なままレンタカーに戻っていった。
有事は起きてしまった。すっかり日の落ちた大地を僕達はひたすら走っている。どこを
走ってるのかナビが無ければ分からなくなりそうだった。
オデッセイの中は快適だけど、外は多分寒いだろう。夕食を済ませた後はひたすら走り
続けているけれど、一向に街らしきところには付く気がしなかった。
それもこれも、転んでも橋を見るまで起きない板橋の橋オタク根性の所為だ。どうせ夕張
に来たんだからと、何故か夕張で橋巡り。
夕張なんてメロンと財政破綻の言葉くらいしかイメージがない僕にとって、新たに「板橋
と巡った初めての北海道橋旅行」というどうでもいい情報が加わることになった。
「今日の宿、どうするの?っていうかさ、宿って取ってたの?」
不安げに板橋を見ると、暗闇にぼうっと浮かぶ顔がニヤリと笑った。
「あ!やっぱり宿取ってなかったんでしょ!!」
「明日の分は取れたんだけどな」
まあ時間も無かったし、車中泊は慣れてるから、文句は言わないけどさ。
「じゃあオデッセイで雑魚寝かあ」
「今からホテル探す?」
「こんな大自然の中で?」
「高速沿い走ってたら一つ二つは出てくるんじゃない?」
確かにそれもそうだけど、北海道にまで来てオデッセイで雑魚寝するのと、北海道まで来て
ラブホテルに泊まるのって大した差がない気がして、僕は諦めた。
「いいよ、オデッセイで」
「有事に備えておいてよかっただろ?」
板橋が子どもみたいに勝ち誇って言ったので、僕はその板橋っぷりに、笑うしかなかった。
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