なかったことにしてください  memo  work  clap




 T高を破った興奮はじわじわと沸きあがって、思い返すたびに心が高鳴った。
「ホントに、俺達勝ったんだな。T高に・・・・・・」
「海野、喜びすぎ。まだ決勝が残ってるんだぞ」
「そうだけどさー!去年は準決勝で敗退したから、去年よりも一つ前に進めたってだけで
やっぱり興奮するよ」
「それで満足するなよ。次も勝つ」
部室でミーティングを終えた後、3年生たちは中々帰ろうとしなかった。
 最後の夏。一つ甲子園が近づく度、彼等の興奮は高まる。下級生には分らない苦労が3年
にはある。
 無名だった豊山南を一気に強くした湧井達の努力。湧井の組んだ練習は厳しかったし、
それで辞めてしまうメンバーもいた。
 数少ない上級生への配慮や、チームの方針。走り始めの頃はチーム内でもごたついていた。
ゆっくりじっくり時間を掛けて湧井が育ててきたチーム。3年のメンバーにしてみれば
苦労が多い分、決勝まで来た感慨も深いに違いない。
 陽斗はそんな3年を尻目に部室を後にした。


 外に出ると夕方だというのにむわっとした空気が身体を包んだ。湿気を多く含んだ風が身体
にまとわり付いて気持ち悪い。
 陽斗は今日の試合を思い出しながら、駅までの道を歩いた。
最後の歩のピッチングは一体なんだったんだろう。まるで自分が憑依でもしたような不思議
な感覚だった。
 あれは自分。歩の中で自分も一緒に投げていた。確かに、自分は金子に向かって引導を
渡していた・・・・・・。
 そんなことを考えながら駅に向かっていると、途中の公園で見知った顔を見つけることに
なった。
「アユ先輩?」
歩は公園のベンチに1人座って手にしたボールをじっと見つめていた。
 陽斗が近づいていっても気づかない様子で、目の前に立つと驚いたように後ろに身体を
反らした。
「陽斗?!」
「・・・・・・どうしたんですか?こんなところで」
「うん。ちょっと」
「?」
「反省会」
「反省会?」
陽斗は歩の隣に少し距離を置いて座った。
 歩は陽斗に目をやると、困ったように呟いた。
「俺・・・・・・ダメだなあ・・・・・・」
「何がですか?」
「今日の試合。・・・・・・あれだけ、K高戦の時、私怨で戦うなって言われて自分の気持ちを
コントロールできないヤツは出さないってプレッシャー与えられてたのに・・・・・・」
「?」
「アイツの顔見てたら、我慢できなかった」
「アイツって?」
「T高のキャッチャー」
「?!」
陽斗は背筋に悪寒が走った。
「アユ先輩、真逆、金子先輩になんかやられたんですか?!」
「別に殴られたとか、そんなことはないよ。ただ・・・・・・」
歩はそこで黙り込む。陽斗は金子が自分だけでなく歩にまで嫌がらせをしていた事に腹が
立つ。どこまで、人を追い詰めれば気が済むのだろう。
「やっぱり・・・・・・あのデッドボール、態とだったんですね?!」
「・・・・・・キャッチャーが狙ってデットボール投げることは出来ないと思うよ」
「でも!」
「・・・・・・うん。あの人、陽斗を引きずり出したかったみたい。それでどうするつもりだった
のか知らないけど、でも引きずり出して真剣勝負したいっていうわけでもなさそうだった」
「真逆、それでアユ先輩にボールぶつけて負傷させようとしてたんじゃないですよね?!」
怒りが湧き上る。
 金子が自分を引きずり出したかったのは、間違いなくあのマウンドで自分を弄ぶ為だ。
そんなことの為に、大切な歩に怪我までさせようとするなんて・・・・・・。
「許せない」
「うん。許せなかった」
「・・・・・・」
「絶対に、アイツは許せないと思ったんだ」
「え?」
「陽斗をそんな風に傷つけて喜んでるやつを俺は許せない、そう思ったの」
「アユ先輩・・・」
「打席に立ったとき・・・・・・色々聞かされたんだ」
体中の毛穴が立ち上がる。聞かされた?何を?もしかして、金子との過去を?
 歩は申し訳なさそうな顔で陽斗を見る。
「俺にはよくわかんない。でも、陽斗があのキャッチャーの事で中学時代に傷ついたって
ことだけは分った」
「・・・・・・」
恥ずかしさと惨めさで、陽斗の頭は混乱する。あの過去を歩に知られた?!
「最悪だ・・・」
頭を抱えて蹲りたい気分だ。
「そしたらさ、もう頭の中、陽斗の事で一杯になっちゃって。陽斗の為に絶対このキャッチャー
打ち取ってやるってそればっかり考えてた。陽斗ならどうやって投げるかとか、陽斗のストレート
ってこんなんだったかなあ、とか。・・・・・・最後、アイツが出てきたとき、自分が陽斗にでも
なったつもりで投げてた。みんなには勝手だって言われるだろうから、秘密だけど、俺、
本当にあの瞬間、陽斗の為に投げてた。みんなの勝利の為じゃなくてね」
歩ははにかみながら陽斗に告げた。その優しさが陽斗の心をじわりと熱くさせる。
「アユ先輩・・・・・・」
「陽斗の為に勝ちたいって思って投げてたんだ」
最後に見たあれは、幻じゃなかったのかもしれない。歩の思いが陽斗にも届いたから、見せて
くれた歩の心の残像。
「俺、最後、自分が投げてるような気がしてたんです」
「あはは、陽斗のところまで届いちゃったのかな」
歩はそこで言葉を区切ると、手にしたボールを強く握った。
 声のトーンが低くなる。
「でも、本当はこんなのはダメだね」
「・・・・・・」
「颯太が言ってたじゃない。野球に私怨を持ち込むなって。試合はみんなのものだって。
皆が一つの勝利に向かって進まなければ意味が無いんだって、俺も思う。だから・・・・・・」
歩は身体ごと陽斗に向き合った。
「だから、決勝戦は絶対に何があっても陽斗の事は忘れる。思い出さない。みんなの為に
チームの為に勝つ」
「はい」
「そんでもって、試合が終わったら、陽斗への気持ちの答え言うよ」
「え?!」
「ちゃんと自分の中の答え、見つけておくから」
そう言うと歩はベンチから勢いよくジャンプして立ち上がった。
「アユ先輩?!」
「じゃあね!」
歩は一方的に話を切り上げる。それから笑顔で手を振ると、そのまま夕暮れの中に消えて
いく。
 残された陽斗はむず痒い気持ちをどこにぶつけて良いのか分らないまま、呆然と歩の背中
を見送っていた。








 じりじりと照りつける太陽。
 今日も絶好調に天気はよく、グランドは暑かった。決勝の朝はそれぞれの思いで溢れて
いる。
豊山南高のメンバーはグランドに集まるとキャッチボールを始めた。その顔は誰もが
興奮と期待と少しの不安が入り混じっていて、静かな緊張が包んでいる。
 颯太は歩と組んでキャッチボールを始めていた。
「歩ー」
「何?」
「・・・・・・調子どうだ?」
「いつもどおり!」
歩は肩を温めながら身体の調子を感じてみる。昨日もよく眠れたし、精神的にも落ち着いて
いる。地方予選始まってから考えれば、絶好調だと自分でも思う。
 笑顔で返答する歩に颯太の顔は少しだけ曇った。
「・・・・・・完全に立ち直ったって、彰吾は言ってたけど、どうなんだ?」
「何が?」
「だって、お前さ・・・・・・この前の試合でなんか変だったから」
準決勝、9回の歩のピッチングで違和感を感じたことを言っているのだろう。
「・・・・・・ごめんね、颯太。心配かけて」
「最後、お前の球受けてるような気がしなかった・・・・・・」
颯太はキャッチボールの手を止めた。
 あれはまるで山下陽斗のストレート。
長年歩のボールを受けていれば、歩の調子くらい手に取るように分る。歩が何を思って
あの時投げていたのかも、想像するに難くない。
 集中してたし、文句を言う筋合いはないのだろうが、颯太は面白くなかった。
「・・・・・・仲直りでもしたのか?」
「?!・・・・・・颯太、俺と陽斗が喧嘩してたの知ってたの?!」
「何となくは」
「そっか・・・・・・。心配かけて、ごめん。もう大丈夫」
歩はグローブを構えてボールを要求する。
 大丈夫、その言葉に颯太は余計に気持ちが萎えた。大丈夫とはどういうことなんだろう。
もう2人の仲は大丈夫。心配しなくても上手くいっている?
 自分の入る隙間はもう無い?
颯太は自分の気持ちを歩に告げる気はない。ずっとなかった。それでも一緒にいられる
のなら構わなかったし、これからもそうやって一緒にいるつもりだった。
 なのに、いきなり現れて横から掻っ攫っていこうとしている人間がいる。そして、その
人間の所為で調子を崩したり、びっくりするようなストレートを投げたり、颯太は段々と
歩が分らなくなった。
 歩が少しずつ変わっていく。歩の心はどこに向かっている?陽斗に惹かれてるとでも言う
のだろうか。
 その変化に颯太は、置きざりにされた心を更に踏みにじられているような気がして、落ち
着かなかった。
 自分だけの歩だったはずなのに。
けれど、颯太はこの気持ちを告げる術を持っていない。
歩に投げた白球は確実に歩の元に届くのに、自分の気持ちだけは何時までも心の中で飛び
跳ねたまま、投げられない。届かない。
 颯太は歩の吹っ切れた笑顔を複雑な思いで見ていた。








 ロッカールームは心地いい緊張感で包まれていた。
それぞれ思い思いにストレッチやウォーミングアップをして身体をほぐしている。あと
数分もすれば、炎天下の中に飛び出していかなければならない。
 戦前の僅かな休息。
最後までスコアブックとにらめっこをしていたのは湧井だった。
「決勝の西丘高って、どうなんですか?」
陽斗の問いかけに、スコアブックを放り投げて湧井が言う。
「わからん!データがない」
「強いんですかね?」
「それもわからん!でも、四天王の残り二つを倒して決勝に上がってきたってことには
間違いない。最初の1校を倒したときはまぐれかと思ったけど、準決勝でM高も破って来た
ってことは、運だけじゃないだろう。実力もある」
「M高が出てくると思ったんだけどな・・・・・・」
「準決勝、めちゃめちゃな勝ちかたしてきたから、怖いよ」
隣でストレッチをしている海野が口を挟む。海野は偵察がてらもう一つの準決勝戦も見て
帰ったらしい。
「めちゃめちゃな勝ち方って?」
「M高相手に、送りバントの嵐。これがまたよく決まる。長打はなくても、コツコツと点を
積み重ねてくタイプの学校なんだろうな、西丘高っていうのは」
海野が告げると、湧井も頷いた。
「俊足が揃ってる。ピッチャーもそこそこ良い。うちと似てるかもしれない。・・・・・・ただ
一発を持ってる彰吾がうちにはいることを考えると、その分ちょっとは有利かもな」
「ついでに、鉄壁の二遊間を有してるのも、ちょっとだけ有利だよ」
茶化しながら海野が言った。
 陽斗は湧井が投げたしたスコアブックを手にした。M高との準決勝のスコアが記入された
それに目を落とすと、確かに地味な攻撃に見えた。
「お互い、どっちが早く投手を打ち崩すかだな」
湧井が横で呟く。
「アユ先輩は絶対負けません」
「お前がそんなに自信持ってどうすんだ」
「だって、ホントですもん。アユ先輩は絶対に打たれません!・・・・・・ね!アユ先輩!」
陽斗は振り返って、歩に返事を求める。
「あれ・・・?アユ先輩?」
歩は相変わらず、試合前は気配を消しているのか、存在感が薄れている。どこにいるのか
陽斗にも分らなかった。
 ぐるっと見渡して、部員の群に埋もれながら隅の方で小さくストレッチをしている歩を
見つけると、改めて声をかける。
「アユ先輩!」
「ん?」
歩は陽斗を見上げる。その顔は心地よい緊張が現れているように見えた。
「打たれませんよね、絶対」
「・・・・・・そのつもりではいるよ」
「頼むぜ、タカラ」
「がんばります・・・・・・」
「エース様、そろそろオーラ出せよ!」
湧井が笑った。時計を見ると、時間が迫っている。湧井は立ち上がると、手を叩いて部員
の気を集めた。

「さあ、行くぞ!」
「ウイッス」
「絶対に勝って、甲子園に行く!」
豊山南の最後の戦いが始まる―――。







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