なかったことにしてください  memo  work  clap




 夏の暑さは日に日に厳しくなっていた。
見上げればどこまでも深く青い空の中にギラギラと太陽がその存在を主張している。
テレビから漏れてくる甲子園中継を湧井大和はリビングのソファで寝転びながら見ていた。
甲子園はベスト8が出揃い、その中には湧井達を破っていった西丘高校の姿もある。
 テレビ中継は丁度その西丘高校の試合を映していた。
「大和、何時までそんなところでくつろいでるの!」
「はあ?」
「だらだらしてんじゃないわよ。受験生でしょ!」
キッチンからは母が鬱陶しそうに湧井を叱る。
「大体、あんたは部活終わったんでしょ?どうするの夏期講習は!8月の終わりの分なら
まだ間に合うんじゃないの?」
リビングの机の上に無造作に置かれた夏期講習の申込用紙は、1ヶ月以上前からそのままに
なっている。短期集中コース後期分の申し込みの締め切りは3日後だ。
 地方予選の決勝が終わって半月あまり。湧井は抜け殻のような毎日を送った。
負けたことも、自分が戦ってきた3年間も全部幻のように自分の手の中から消えてしまった
みたいだ。この喪失感は一体何なのだろう。
 チームメイトの多くは既に部活から受験に頭を切り替えているはずなのに、湧井は未だに
今年の夏を引き摺っている。
「黒田君はどこかの塾行ってるんでしょ?あんたも、黒田君のこと少しは見習って欲しいわ」
「あー、もう。はいはい。分ったから。申し込んでくればいいんだろ」
母親の小言から逃げるように湧井はソファから起き上がると、夏期講習の申し込み用紙を
手で丸めてリビングを後にした。
 階段を駆け上がって自分の部屋に入ると、机の上に申込用紙を投げ捨ててベッドにダイブ
する。エアコンが効いて涼しかったリビングから抜け出した所為で、体温は一気に上昇した。
「はあっ・・・・・・」
寝返りを打って仰向けになると、湧井は無駄にデカイ溜め息を吐く。
 もどかしさだけが自分の中を支配して、何も手につかなかった。
甲子園を目指した夏は終わった。確かにあの瞬間、全てが終わった。自分達は負けて
3年間必死に手を伸ばし続けた甲子園は目の前でするりと逃げていったのだ。
 分っている。そんなことは分っているのだけれど、湧井は気持ちの中でしっかりとした
決着が付けることが出来ないままでいる。
「クソッ」
寝転がっているだけで背中にはじわりと汗が滲む。湧井は起き上がり机の上の申込用紙を
一瞥すると、そのまま部屋を出た。
 階段を下りて、玄関で靴を履いているとリビングから母親が顔を出してくる。
「どこ行くの」
「ちょっと」
「ちょっとって」
「学校!」
「何しに行くの」
「・・・・・・忘れ物、取り入ってくる」
「ついでに夏期講習の申し込みもしてらっしゃいよ!」
「・・・・・・」
湧井は母親の小言にこれ以上付き合う気になれず、家を飛び出した。






 毎日通い詰めたグラウンドと部室。目を閉じても、何がどこにあるのか手に取るように
分る。部室棟の隣に新しく建てられたプレハブ小屋。そこが野球部に当てられた部室だ。
部員が増えるごとに引越しさせられて、既存の部室棟では収まりきらず、今年はついに
別棟を立ててもらうまでに昇格したのだ。
 湧井にとってそれは名誉な事だ。自分が育てた部活が周りにも評価されている。湧井は
プレハブの部室の前に立つと入り口の前で見上げた。
 決勝で敗れてから一度もここには立ち入っていない。3年間溜まった荷物も放置したまま
になっていたのは、単純にここに近づけなかったからだ。
 片付けてしまうという作業は全てを終わらせるという事。自分の夏を、甲子園を目指した
熱さを、野球への思いを全て終わらせるという事だ。
 湧井は母親からの小言から逃げるために、半ばやけくそでここに来てしまった。
「来てしまったものは仕方ない」
部室の前で深呼吸をすると、湧井は扉に手を掛けた。






誰もいないと思っていた部室には先客がいた。しかも湧井にとって一番微妙な人物。
湧井は瞬間眉を顰めてその人物の名を呼んだ。
「黒田?!」
「ウッス」
「・・・・・・何してんだ?」
「片付け」
「そう」
黒田は机の上に携帯のラジオをセットして自分の荷物を片付けている。ラジオからは甲子園
の中継が聞こえる。西丘高校の試合模様が湧井の耳に届いた。
「湧井は?」
「俺も、荷物引取りに来ようと思って」
「溜まってる、かなり」
「だろうな」
個人のロッカーはレギュラー陣にしか与えられない特権だ。早々に片付けて、新しいチーム
へと引き渡さなければならない。
 湧井は黒田の隣に立つと、自分のロッカーのものを引きずり出した。
「うげっ、いつのタオルだコレ」
今にも悪臭を放ちそうな雑巾のようなタオルや突っ込んだままの靴下。私物のボールも転がり
落ちてきた。
 横を覗けば黒田のロッカーは黒田の性格と同じようにきっちりと整理されていて、引っ張り
出すというより、そこにあるものをそのまま鞄に詰めれば今すぐにでも終わりそうな勢いだ。
「黒田のロッカーは相変わらず綺麗だなあ」
湧井が感心しながら言うと、黒田は曖昧な笑みを浮かべた。
「湧井も湧井らしいロッカーだ」
湧井は隣に並ぶ黒田の顔を見上げる。中学時代から体格のよかった黒田への視線はいつも
見上げていたような気がする。
 浅黒く焼けた肌は自分と同じくらいか。
3年間――いや、中学時代から6年間ずっと一緒だった。中学時代、先にレギュラーを
取ったのは湧井で、黒田は3年が引退した後、漸くセカンドのポジションをもぎ取る事に
なった。その頃から黒田は更に背が伸びたように思う。
 運動も出来て、頭もよくて、完璧じゃないか。
野球馬鹿で一筋の自分とは何もかもが対称的な人物。野球しか能の無い自分に、どうして
この男は付いて来てくれたのだろう。
 無名だった豊山南を進学高に選んだときも、黒田は何も言わなかった。ただ、
「お前も一緒にどう?」
なんて、半ば冗談で言った台詞に黒田が頷いたときは、チクリと胸が痛んだ。
 黒田のレベルで言えば豊山南よりももっと高いところを狙えたはずなのに、自分のエゴで
黒田の将来まで歪ませてしまったのだ。
「・・・・・・なあ、黒田」
「何?」
「・・・・・・いや、やっぱりいい」
「なんだそれは」
黒田が湧井を見下ろすと視線がぶつかった。黒田には不思議な力があると思う。湧井とは
別の意味で周りの人物を惹きつける。
 けして表立って纏めたり、リーダーシップを発揮するような人間では無いけれど、自然と
隣に立ちたくなるのだ。
「・・・・・・お前と一緒に野球できてよかった」
「急にどうした」
「べ、別に。片づけしながら感慨にふけってもいいだろ」
「ああ。・・・・・・湧井はプロ目指すのか」
「目指せるものなら。でも、今のままじゃ無理だ。甲子園にも出場できないようじゃ、
スカウトだってスルーだ。高校のドラフトは諦めてるけど、大学か社会人まで粘って、プロ
目指そうと思ってる。・・・・・・なれるかどうかは別だけどさ」
「湧井がそう言うならなれる」
「お前さ、また俺がいつもの大口叩いてるって思ってるだろ」
「思ってない。湧井は一度言ったら絶対やる」
こればっかりはな。湧井は軽く笑った。プロの道がどれだけ狭き門か分ってるつもりだし
自分の実力がそこまで追いついていないことも知っている。
 けれど夢くらい見たっていいじゃないか。
「・・・・・・黒田は進学しても野球は続ける?」
「分らない。俺はお前ほど才能があるわけじゃないし、大学も野球部で決めるわけじゃない」
「お前頭いいもんな・・・・・・。東京の六大学とか行けば話しは別だけどさ、野球も学力もいる
大学なんてそうそう無いよな。あ、でも野球部行ったら勉強どころじゃないか」
何となくは分っていた。黒田とはこれで終わり。自分達は別々の道を歩むことになると。
高校3年間を振り回したのだから、これ以上のわがままは許されないだろう。黒田がどこに
進学を希望しているのか知らないけれど、学力で言えば、湧井には絶対届かない大学に
決まっている。
 大学も一緒に野球しようなんて絶対に言えないし、言うつもりも無い。
それでいいと湧井は思った。
ずっと秘めていた思いはここで捨てていこう。高校野球の熱と一緒に黒田への思いも
消えていけばいい。
「ありがとな」
「湧井?」
「・・・・・・3年間、俺に付き合ってくれて。負けちゃったけど、俺お前と一緒に野球出来て
楽しかった・・・・・・」
照れくさそうに、そしてちょっとだけかっこつけて湧井は言った。これで終わりだ。そんな
自分なりのけじめ。黒田への思いが直ぐに消える事など無いけれど、これからはひたすら
忘れる事だけに専念する。もう黒田の背中は追いかけない。
 切なくなる胸を押さえつけて、搾り出して、湧井は無理に笑った。
その一言に黒田が反応する。切れ長の目を更に細くして黒田は言った。
「甲子園」
「ん?」
「甲子園、残念だった」
「・・・・・・うん」
「行きたかった」
「・・・・・・そうだな」
「悔しかったな」
「・・・・・・・」
ロッカーからゴミを引きずり出していた湧井の手が止まる。
 言葉にするとまだ胸が詰まる。行きたかったんだ、甲子園に。叫んでも喚いても手に入ら
なかった現実。
 湧井は俯きながら唇を噛み締めた。
急激に思いがこみ上げてきた。ずっとずっと燻り続けている胸の痛み。行きたかった甲子園。
決勝戦、最後に歩が投げた球が今でも頭の中に浮かび上がる。歩を責めるつもりは毛頭も
無いけれど、あの1球さえなければ勝っていたかもしれない。
 勝負事に仮定などあるわけがないのだけれど、あの球さえ打たれなかったら、今頃自分達
は甲子園に行っていたはずなのだ。
 ラジオから聞こえてくる西丘高校の中継が湧井の胸を締める。

『おーっと、西丘高校のピッチャーがついに打たれました!』

 実況の声が一瞬の沈黙を埋めた。
「湧井」
「・・・・・・」
「俺の前では無理しなくていい」
「くろ、だ・・・?」
黒田は荷物を鞄に詰めていた手を話すと、一歩湧井ににじり寄った。
 湧井は驚いてその差を保とうと後ろに下がる。ロッカーにぶつかってガツンと鈍い音がした。
「・・・・・・お前さ、あの日から泣いてないだろ」
黒田の眼光が湧井に刺さる。逃げられない、瞬間そう感じた湧井は黒田を見つめたまま視線を
そらすことも出来なくなった。
「何言って・・・」
「グランドでも、部室でも、1人ずっと泣くの我慢してた。お前プライド高いから、皆が
泣いてても絶対に泣かない。それで、夜ベッドの中でこっそり泣こうとしても、泣き方が
分らないんだろう」
「黒田・・・・・・何言ってるかわかんねえって」
「誰よりも、甲子園に行きたかったのはお前だろ」
「・・・・・・」
「そんなヤツが、無理に笑ってるほうがおかしい。悔しかったら泣け。皆の前でそう言う顔
見せたくないのは分る。でも、俺の前で強がるな」
黒田の優しいのか慰めているのか分らない言葉に湧井は胸が震えた。
 確かにやせ我慢みたいな時間を過ごした。ぼんやりと過ごしていけばこの胸の痛みはいつか
消えてくれる、そう思って目を逸らして、あの日の決勝を無理矢理脳内から消して。
 見上げると黒田は優しい顔をしていた。多分湧井にしか分らない表情。
なんで、コイツには自分のことが分ってしまうんだろう。我慢してるなんて、誰にも悟られて
無いはずだったのに。
 それでも湧井は下唇を噛み締めて、溢れ出るものを止めた。
かっこ悪くて泣けるかよ。
見つめているというより睨みつけていると言った方が近い。黒田との距離が縮まる。追い
込まれた湧井はこれ以上後ろに下がれない。来るな、そう目で訴えて湧井はバリアを張るが
その最後の堤防を黒田はあっさりと破っていった。
 黒田の大きな手が湧井の頭の上に乗る。短く刈り込んだ髪の毛を撫でられて、湧井は全身
が震えた。
「や、め・・・・・・」
途端、湧井の瞳からポタリと一粒の水滴が床に落ちた。
「悔しいときは泣けばいい。藤木先生も言っただろう。無理すると先に進めない」
「・・・・・・なん、で・・・・・・」
黒田の言葉がからからに乾いた心に水が染みこむ様に、湧井の中に入ってくる。大会が
終わって、置いてけぼりになっていた感情が、黒田に引き上げられる。
「うっ・・・」
 湧井の瞳からは次々と大粒の涙が溢れ出して、留まることを知らない大河のように、
あっという間に顔中が涙で洪水のようになってしまった。
「行きたかったな、甲子園」
「うっ・・・うん・・・・・・行きたかった・・・・・・」
「悔しい。湧井ともう少し、野球続けたかった」
「ううっ・・・・・・」
黒田の手が優しく湧井の頭を撫で続ける。声を上げて泣いてしまいそうになって、湧井
は黒田のTシャツに顔を埋めた。
 なんで自分は泣いてるんだ。
「・・・・・・クソッ・・・・・・おま、えの・・・所為だ・・・・・・」
頭を黒田の胸に押し付けて、しゃくりあげる息を整える。黒田のTシャツが涙まみれに
なってもかまうもんか。
「・・・・・・お前、俺なんか・・・泣かせて、悪趣味・・・・・・だ」
腹いせに黒田の堅い腹筋目掛けて軽くパンチをお見舞いしてやる。
 でも、直ぐにその手を取られて、黒田は恐ろしい事を言った。
「湧井が泣くの、見たかった」
驚いて涙まみれのまま顔を上げると、黒田は笑っている。
「最悪、だ・・・・・・」
睨みつけると、黒田は湧井の瞳から出ていた涙を指で掬い取った。


「そういう素直なの可愛いよ、お前」
「な?!」
「・・・・・・湧井、俺の事好きだろ」
「!?」
黒田の言葉に、湧井は目の前が白くなった。







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