三須 颯太(みす そうた)は18.44メートル先に立つ男に対して、言葉にならない苛立ち
を感じていた。
「もう一球!」
颯太はボールをマウンドに立つ男に大声をかけながら返球する。梅雨の晴れ間の僅かな時間
を惜しんで、野球部は練習にいそしんでいた。T高との練習試合は目の前――明日に迫って
いた。
ボールはマウンドのピッチャーのグローブに小気味良い音を立てて収まる。ピッチャーも
颯太に負けないほど大きな声で「ういっす」と返事をした。
一々気に食わない。颯太はそう思う。理由は勿論分っていたが、それをどうする事も出来
ないし、今すぐどうこうしたいわけでもない。
だけど、やっぱり気に入らないものは仕方ない。
そもそもこの男がこの学校に入学してきたところから、颯太の苛立ちは始まっていた。
マウンド上でピッチャーが振りかぶる。颯太はミットを構えて、彼の繰り出す速球を受ける
体勢をとった。腹に力を入れてないと吹き飛ばされそうなほどの剛速球を彼は投げる。
けれど、颯太はそんな球に負けるほど弱くはない。中学3年間と高校1年と3ヶ月、伊達に
キャッチャーをやってきたわけじゃない。
バシッとミットがボールに納まると、颯太は振り絞るような声を出した。
「お前になんて、歩が扱えるわけないだろっ」
マスクの中でくぐもって、声は自分の中で消える。
お前なんかに、歩を渡すわけにはいかないんだ。俺が何年我慢してると思ってるんだ。
颯太はミットの中のボールを握り返し、先ほどよりも更に強めに返球した。
「次!フォーク投げろ!」
マウンドの陽斗は涼しげな顔で、「ういっす」と返事をした。
颯太が歩と出会ったのは中学一年の春だった。
どういう経緯で歩が自分に声をかけてきたのか、颯太は覚えてない。たまたま加わって
いた会話の輪の中に歩がいたくらいの事だろうと颯太は思う。
歩は颯太を野球部に誘った。野球の経験など遊び程度でしかない颯太を何故歩は誘った
のかも、更に疑問なのだが、颯太は誘われるまま野球部に入部した。
それが運命だった、と今では颯太はくすぐったい気持ちで思っている。
「三須!お前は・・・・・・ちょっと太ってるからお前はキャッチャーやれ」
当時の監督の気まぐれともいえるそんな一言で颯太はキャッチャーになった。
ただ、颯太はキャッチャーというポジションがどのポジションよりも合っていると、後々
感じるようになるのだから、それもまた運命なのかもしれない。
キャッチャーが天職だと思うのは、自分の性格によるものだ。このどうしようもないほど
の粘着気質と、細かいところ―――いや、細かすぎるところまで他人を見てしまう観察力が、
キャッチャーとしての役割を十二分に発揮することになったからだ。
バッターの特徴を観察し、覚え、そして苦手を攻める。そうやって、素人だった颯太は
3年間で正捕手の座に登りつめた。
「颯太ってやっぱり野球センスあるね。野球部誘ってよかった」
ニコニコ笑う歩に、少しの後ろめたさを感じながら。
中学校生活最後の夏に、颯太は一つだけ誰にも言えない隠し事を作った。その事を思い出す
だけで、颯太は自分の心拍数がぐんと上がるし、そんなことを知らないで過ごしている
歩に申し訳ない気持ちと、僅かな高揚感で一杯になる。
誰にも、歩にも言えない隠し事―――それは歩への気持ちを確実にさせる出来事。
夏休みに入って、部活は佳境に入っていた。朝から暗くなるまで練習漬けの毎日。大会
は目の前まで迫っていて、監督も部員も練習に力が入っていた。
「颯太ぁ、今日、帰り家寄っていってもいい?」
歩は夏の日差しにヘコヘコになって、少々情けない声を出した。
「今日?別にいいけど。なんで」
練習後のストレッチをしながら颯太は答える。ジャージはすっかり汗ばんでいて、額から
汗が噴出し続けている。
颯太は歩と手を繋いでお互いのわき腹を伸ばした。
「うぐっ・・・痛てて」
「歩、どんだけ体硬いの。なんでそれでピッチャー出来んだ?!」
「普通だ、よお・・・・・・」
息の隙間から搾り出す声に颯太は笑った。
「・・・・・・で、なんの用なん?」
「あ、明日・・・・・・夏休み・・・の、登校日!」
「うん。だから?」
「しゅっ、宿題・・・・・・」
颯太は引っ張っていた歩の腕を放すと軽く脱力した。
「歩・・・・・・まさか宿題やってないとか言わないよな?」
「えっと、そのまさかなんだけど」
お願い写させて、と歩は悪びれた様子もなく頭を掻いた。
「・・・・・・別にいいけど、自分の為にならんぞ?」
「えへへ、うん」
甘いなあ俺も・・・・・・。
颯太は笑う歩の前に完敗した。
「歩さあ・・・・・・夏休みの間、一体何してたんだよ」
「え?部活とか?」
「終わってから!」
「ご飯食べて風呂入って寝る?」
はあっ、と溜息をついた颯太の目の前には、白紙のノートの山。
部活を終えて、颯太の家に来ると、とりあえずお互い泥だらけの体をシャワーで流した。
母が気を使って、歩の分までジャージを洗濯してくれたから、歩は今、颯太の大きすぎる
ジャージを着ている。
「数学も!英語も!国語も何にもやってないって、どういうことなの!」
「えへえ、だから手伝ってって・・・・・・」
「手伝えだ?!歩、さっき写させてって言ったんじゃなかったのか?」
「うん。同じ同じ」
「どこが!」
じゃれ合い半分で歩の首を絞めに掛かると、歩は呻き声を出した。
「ぐるじいっ・・・今度、何か、一つ、颯太の言う事、聞いてあげるからあっ」
「その約束忘れんなよ?」
コクコクと頷いて歩はやっと解放された。
「バレてもしらないからな」
「うん。颯太ってイイヤツだあ」
歩の笑顔に負けて、颯太は結局歩の真っ白なノートを自分の手元に引き寄せた。
時間だけが黙々と過ぎて、颯太はひたすら歩のノートに自分の答えを書いていく。昨日
やった英語の問題、1週間前にやった国語、苦労して解いた数学の答えを、こんなにも簡単
に教えてしまうのは、多分相手が歩だからだ。
他のヤツになんて金取ったって教えてやりたくない。ただ1人、歩だから・・・・・・。
その意味を考えると颯太は困惑してしまう。友達、親友、バッテリーの相棒。いつも
一緒にいるのが当たり前の存在。関係に名前をつけるのは簡単だけれど、この感情に意味を
もたせるのは、戸惑いが付きまとう。
ただ、歩のためなら自分は何でもできるんじゃないかと、颯太はぼんやりと恐ろしい事
を思っていた。
部屋の時計が10時を差した。
「やべえ、もう10時かよ」
随分と真剣に写していたせいで、肩が少しだるい。
夕食に母が差し入れしてくれたオニギリの皿は跡形もなく綺麗に片付いている。颯太は
伸びをして部屋を見渡した。
「・・・歩!?」
歩は颯太のベッドに寝転がっていた。しかもよく聞けば小さな寝息まで聞こえる。
自分がノートを写すのに必死になっていた所為で気が付かなかったらしい。一体いつから
歩は脱落していたのだろう。颯太は歩むのノートを覗き込んで、深い溜息を吐いた。
「半分も終わってない・・・・・・」
立ち上がって、ベッドに近寄る。
「歩!」
颯太が呼びかけても、ベッドのスプリングが揺れても歩は起きなかった。
それどころか、歩は颯太の呼びかけに、力の抜けたような顔で笑ったのだ。
「歩・・・・・・」
瞬間、きゅんと心臓が鳴った。
「なんだよ、これっ」
颯太はベッドに座って歩の顔を覗き込む。その距離30センチ。コーコーと言う寝息が颯太の
頬を掠める。
無防備な歩の寝顔。軽く頬に手を当てても歩は規則正しい寝息を立てている。他人のまつ毛
などこんなにもマジマジと見たことない。
歩の頬に当てた手が微かに震えだす。
気がついてはいけない、ずっとそう思っていた感情。名前など付けてしまったら後戻り
出来なくなる。そう分っていたのに、こんな反則技くらったら颯太はひとたまりもない。
「歩、起きろよ・・・・・・」
掠れた声で歩を呼ぶ。ギリギリの自制心は歩の寝言によってあっさりと崩壊した。
「んんっ・・・・・・颯太ぁ・・・ナイスバッティング・・・・・・」
「お、俺の夢とか、見るなって・・・!」
体が火照る。中心から湧き上がってくるものは、今まで散々封じ込めていた欲望。
これだけ起しても起きないなら、バレない。バレても歩になら冗談で済ませられる。
それに、一つだけなんでも言う事聞くっていったのは歩だ。
自分を正当化する言い訳を思い浮かべて、颯太はゴクリ、唾を飲んだ。
「歩・・・」
再び名前を呼んで、颯太は歩の顔に近づく。20センチ、10センチ。吹きかかる息を飲む。
そして、颯太の唇は歩の唇に触れた。
ぴりっと電気でも走るような感覚がして、一瞬唇を離す。歩は相変わらず起きる気配は
ない。颯太はぷるっと体を震わせると、もう一度慎重に唇を重ねた。
生暖かい感覚に、歩のうすい唇。
歩とキスしてる・・・・・・?
颯太は自分がしている行為を自覚し始めると、飛び跳ねるように歩から離れた。
「や、やべえ」
火照る顔に、脇からは冷や汗。心臓はドドドと最高の速さで波打っている。
「これって・・・俺って・・・・・・・・・・・・恋?」
唇を押さえると、にやけてきた。頭の中で反芻して、小さくガッツポーズを決める。
この少年も青春の暴走の果てに、恋に落ちてしまったのだ。
颯太の(多分歩にとっても)ファーストキスはこうやって成し遂げられたのだ。歩は
多分、この先も知りえることはないだろう。本当のファーストキスの相手を。
颯太も教えるつもりはない。自分だけの秘密として守り通すつもりだ。ほんの少しの
優越感と罪悪感を伴って。
それ以来、颯太は歩をずっと追いかけている。恋と自覚してからも変わらず接してきた
つもりだし、この思いは誰にも知られてはいないつもりだった。
颯太にはそれでよかった。ただ歩と一緒にいて、野球ができれば満足できたし、その為
に態々歩を追いかけて豊山南高校までやってきたのだ。
なのに。
なのに、だ。
豊山南に入学した1年後、こんなことが起きようとは、颯太は夢にも思っていなかった。
ライバル出現。しかも強力なライバル。
彗星のごとく現れて、最初から歩への猛チャージは見てる方が、ハラハラしてしまう程だ。
「陽斗っ!もう一球!ちゃんとコントロールしろ!」
「ういっす!」
颯太は睨みつけながらボールを返球した。こんな年下の男がライバルなんて、考えたくもない
そう思いながら。
陽斗はボールを受けると、額の汗を拭った。熱いだけではない。構えられるミットに正確
に決めることがこんなにも緊張する。気迫というか、圧力がキャッチャーから伝わってくる
のだ。
「颯太先輩、怖いよ・・・・・・」
それでも初めて任されるマウンドを勝利で収めたいと、その思いははっきりとある。明日
のT高との練習試合、絶対に負けたくない。
ふと顔を上げると、1塁ベース付近で歩がこちらを見ていた。
陽斗が歩に気づくと、歩も声をかけてくる。
「陽斗、ガンバレー!」
「ういっす!」
にやけた笑いを浮かべたまま、陽斗はモーションに入った。歩にいいところを見せたい、
小さな邪心は、球に影響する。
要求されたフォークは綺麗に真っ直ぐに飛んだ。
「うわ、やべっ。落ちろ!」
颯太のミットが動く。ぽすっと、間抜けな音を立てボールはミットに入った。
「陽斗ー!」
颯太の怒鳴り声が聞こえる。陽斗はグローブで顔を隠すと、颯太に向かって軽く頭を下げた。
「もう1球!お願いしまっす!」
陽斗が声を上げると、颯太は立ち上がって近づいてくる。鬼のような形相だ、と陽斗は思った。
マウンドまで駆け寄ってくると、颯太はボールを陽斗のグローブに押し込んだ。
「余所見してんじゃない!」
「すんません・・・・・・」
「・・・・・・俺は、本当は歩以外のボールなんて受けたくないんだからな。キャプテン命令だから
こうやってお前の球、受けてるけど、そうでなきゃ、お前のクソボール受けるなんて、冗談
じゃないんだからな!」
「・・・・・・」
敵意むき出しの颯太に、陽斗も負けじと言い返す。
「次の試合でいい球投げるって、先輩に分らせてあげますよ、絶対」
「歩の球に敵うはずがない」
「アユ先輩の球は確かにすごいですけど、それは認めますけど、俺も負けてませんよ?」
「でかい事言うな」
「・・・・・・じゃあ、次の試合で俺が投げきったら、どうします?」
「知るか!」
「・・・・・・認めてください。俺の球。俺のこと。先輩に宣戦布告します」
「は?」
「試合に勝ったら、アユ先輩に本気モードで告白します!」
「は、陽斗?!」
陽斗は不遜な表情を浮かべた。颯太はマスクの下で顔を歪める。この男には自分の気持ち
を悟られている。これだけ隠してきたはずなのに。
歩をとられたくない。けれど、自分には行動を起す勇気もない。
「かっ、勝手にしろ!俺には関係ない!」
「じゃあ勝手にします」
陽斗はグローブの中からボールを掴みあげると、それを握り締める。絶対勝つ、そう思いを
込めて。
1塁ベースでは、歩がそんな2人の熾烈な争い事など知る由もなく2人の事をニコニコと
見つめていた。
T高との試合まであと1日。
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