「ねえ、湧井先輩・・・・・・」
「ああん?」
「陽斗、変ですよね?」
ベンチの中から陽斗のバッティングを見守る歩が真剣な表情で言った。
「変って」
「試合始まった途端に顔色悪くなってるし、ピッチングが不安定すぎるし・・・・・・一番変なのは
打席に立ってるときだけど」
言われて湧井も陽斗を見た。
確かに構えが硬い。初めての試合に緊張しているのか、それとも別の要因があるのか、
理由は分らないが、ここから見ていても陽斗の状態は歪に見えた。
「・・・・・・相手のキャッチャーとしゃべってるな」
「そういえば、中学の先輩って言ってましたね」
「あいつら、何かあったのか?」
「知らないですよ、そんなこと」
「・・・・・・山下、あいつ身体固まってるぞ?」
湧井が険しい顔で陽斗を見つめる。
「怯えてるみたいだ」
湧井の隣で黒田がボソリと声を出した。黒田の表情はいつもと変わらないように見える。
けれど、湧井は真剣な険しい表情のまま、黒田を振り返った。
「あいつ、いけると思うか?」
「分らない。ただでさえ山下の実力が分らないのに、あの調子だと・・・・・・」
「バッティングには期待してないけど、ピッチングだな。球威が落ちずにコントロールが
定まらないと、アイツの球なら直ぐに長打にされちまうぜ?」
「バックがカバーするしかないだろう」
「内野ゴロなら止めてみせるぜ」
「ああ」
「とりあえず、点とってアイツの援護してやれば、多少は気が楽になるだろう」
「あのピッチャー打ち崩す?」
「難しいけど、やれなくはないだろ。球は見やすい」
「まあな」
2人の会話を聞いて、歩はもどかしくなった。
自分には試合の中で陽斗を助けてやる事ができない。最悪投手交代もありえるが、それでは
余計に陽斗を傷つけるだけだ。
湧井と黒田が羨ましかった。歩に出来ることはベンチにいて応援することぐらいしかない。
「いいなあ、俺も試合出たい」
「・・・・・・これから、予選が始まればいやっていうくらい投げられるぜ?勝ち続ければな!」
「そうっすね」
夏の予選まで1ヶ月近く。それが始まれば、こんなにのんびり構えてられない事くらい歩にも
分っている。
今は目の前の絶不調の陽斗を励ます事を考えるしかない。
歩はベンチから誰よりも大きな声援を送った。
先制したのは豊山南の方だった。5回裏の攻撃で1番の湧井、2番の颯太そして3番の黒田
がきっちりと仕事をし、1点をもぎ取った。
たった1点であるけれど、陽斗には大きな1点になるはずだった。打線の援護があるとない
ではピッチャーの心理は変わる。
それは、ベンチで拳を握り締めている歩自身が一番分っていた。
「陽斗、がんばれ・・・・・・」
陽斗の調子は回を追うごとに悪くなる。コントロールも球威も歩の知る陽斗の球ではない。
試合に緊張してるだけではない、と歩は思う。陽斗はそんなことで自分の球を見失う
ようなピッチャーではないと、歩は陽斗の性格を見て直感していたから、陽斗の崩れ方が
気になって仕方なかった。
いつ打ち込まれてもおかしくないだろう。颯太のリードが辛うじて相手バッターを翻弄
しているにすぎなくて、陽斗は傍から見ても使える状態ではなかった。
自分が行って代わりに投げたい、ピッチャーとしてのプライドが疼く。けれど、ここで
陽斗を引き摺り下ろすのは可愛そうだと、先輩としても思う。
ここを乗り切らないと、ダメだよ陽斗・・・・・・。
試合が動き出したのは6回だった。ギリギリ踏ん張っていた陽斗の球をT高ナインがついに
捕らえ始め、下位打線に繋がれて1点を取られた。
湧井達の援護はあっという間にチャラにされてしまった。
「クソっ」
自分でも調子が悪すぎる事くらい分っている。こんな事は初めてだ。汗で手が滑る。ロージン
バックを何度も握り返してみるけれど、噴出す汗に追いつかない。3塁走者が悠々とホーム
ベースを踏む姿に、陽斗は自分に対する苛立ちで気が狂いそうになっていた。
颯太がタイムをかけてマウンドに駆け寄ってくる。内野陣――湧井も黒田も海野も陽斗
の元に集まって来た。
「陽斗、大丈夫か?」
颯太は厳しい顔をしていたけれど、陽斗を責める事は言わなかった。
「・・・・・・すんません」
「落ち込むな、まだ試合中だ。コントロールが定まらないなら、打たせて取る。バックは
俺達が付いてるから、怖がって投げるな。甘い球が入ったときの方が怖いぞ」
「湧井先輩・・・・・・」
「俺達、信用しろ。必ず打線、援護してやるから」
黒田の言葉が陽斗の胸を動かす。試合をしてるのは自分1人じゃないのだ。
「はい」
「よし!ツーアウト!あと1人だ!」
湧井が背中を軽く叩いてマウンドに集まったメンバーは散っていった。
今は、自分の不甲斐なさを責めても仕方がない。この試合は自分だけのものじゃないし、
自分の過去のトラウマで皆の試合を潰すわけにはいかないのだ。陽斗は手の中のボールを
握り締める。
陽斗は次の打者をサードゴロに打ち取って、6回を1失点で切り抜けた。
最大のピンチは8回にやってきた。その前の回で打席に立っていた陽斗はまたも、相手
キャッチャーの金子にかき乱され、7回の復調の兆しをあっという間に台無しにされて
しまったのだ。
「T高のキャッチャーは、ひょっとして策士なのか?」
湧井が黒田の元に近寄って、眉をひそめながら言った。
「・・・・・・山下が怯えてるように見える」
「やっぱり・・・・・・なんかあったんだな、アイツの中学時代」
「イジメとか?」
「まあ、そんなところかなあ。っとに大丈夫かよ・・・・・・あの生意気ちゃんが、こんなに
なるとは思いもしなかったけどさ」
「これで打ち込まれたら、監督動くかな」
「練習試合だからなあ・・・試練だと思って続投させるかもな」
マウンドの陽斗は震える右腕をどうして止めていいのか分らなくなっていた。
前の打席で、金子の言った台詞がリフレインする。
『お前気づいてなかったかもしれないけど、陽斗の大好きだった’隼人先輩’な、お前と
俺の関係、知ってたぜ?』
『気持ち悪いって、最悪だって』
金子に何を言われようが、もう過去の話だ。中学時代隠し通した淡い気持ちも今はもうない。
自分が慕っている人間はただ1人、ベンチで今も真剣に自分を応援してくれている人だけ。
そう分ってるのに、金子の放った言葉が重い。
隼人先輩・・・・・・知って・・・・・・俺達の事・・・・・・気持ち悪い・・・・・・
どうやって、試合に集中していいのか。今までどうやって試合に集中してきたのか思い出せ
ない。20メートル先のミットに自分のボールが納まるのを、まるで他人事の様に、陽斗は
見てしまう。
額から零れ落ちる汗は苦くて、地面に落ちる度自分の生気が抜けていくようだ。
颯太が睨んでいる。はっと、顔を上げると、バッターボックスの打者がバットを放り投げて
1塁に進んでいくところだった。
「フォアボールだったのか・・・・・・」
カウントすら、頭の片隅から零れ落ちている。
・・・・・・ダメだ・・・・・・もう、代えてもらった方が・・・・・・
マウンドで一度も思ったことのない弱気が心を掠める。絶対誰にも譲りたくない、そう思って
投げてきた中学3年間。
迎える打者を見て、陽斗は吐き気を覚えた。
「金子先輩・・・・・・」
20メートル近く離れているのに、打席に入った金子はここからでも恐怖だった。完全に金子
の世界に喰われている。どう足掻いてもあの人の下からは抜け出せないのか?
颯太のミットはインコースに構えられている。陽斗はそこに恐る恐る投げ込んだ。
「ストライク!」
審判の声に、陽斗は大きな溜息を吐く。なんとか切り抜けなくては、早くここから逃げださ
なくては。
焦りから投球モーションが早くなった。自分の間も殆ど作れないまま2球目を投げ込む。
「あっ!」
声が出た瞬間、ボールは金子の左肘に直撃していた。
颯太が立ち上がる。陽斗は金子を呆然と見つめた。金子は一瞬だけ顔を歪ませたが、陽斗
に向かってニヤリと笑うと、そのまま1塁に走り出す。
陽斗の記憶はそこでぷつりと途切れた。
その後の試合がどんな展開だったのか、陽斗には覚えがない。ただ、9回表まで自分は
マウンドに立っていて、投げきったらしい事、9回に青木彰吾がホームランを打って1点返した
ということだけは、スコアボードから知った。
結局試合には3-2で負けたらしい。
「・・・・・・なんだよ、あのピッチング、全然大したことないじゃん」
「期待しすぎた」
「歩出せば絶対勝ってたぜ」
後ろを通り過ぎて行く上級生の野次も、甘んじて受け入れるしかない。自分はそれだけ
不甲斐ない試合をしてしまったのだから。
ベンチの中で動けないでいる陽斗に見かねた歩が声をかけた。
「お疲れ、陽斗」
「・・・・・・すんませんでした」
「気にするなって、調子が悪いときだってあるよ。またがんばればいい」
歩の励ましも、陽斗には虚しく響くだけだ。歩から優しい言葉を掛けられるほど、自分の存在が
汚らわしいもののように感じて、陽斗の胸は痛む。
「俺だって、めった打ちにあったことあるし、さ。誰も陽斗の所為になんてしないよ」
「でも」
「それになんか顔色悪かったし・・・体調悪かったの?」
「そういうわけじゃありません」
「あ、悩み事?なんかあった?俺でよければ、相談乗るよ?」
話せるわけがない。自分のおぞましい過去を。自分と金子のおかしな関係。好きでもない
人間との汚らわしい行為。思い出すだけで、悔しくて腹が立って、自分が嫌になる。
陽斗はつい、かっとなって叫んでいた。
「アユ先輩には、関係ありません!」
「陽斗・・・・・・」
言ってから、歩が困惑した表情で陽斗を見つめているのに気づく。
この人を傷つけたいわけじゃない。この問題にだけは関わって欲しくない、ただそれだけ
なのに。
気が付くと陽斗はその場から逃げ出していた。
グランドを抜けて、部室裏の辺りで陽斗はいきなり声をかけられた。
「陽斗」
「?!」
呼ばれて、振り返ると見知った顔がゆっくりと自分に近づいてくるところだった。
せっかく歩から逃げ出してきたというのに、最悪のタイミングで最悪の人物に捕まって
しまったらしい。
自分はどれだけ付いてないんだろう。
「・・・・・・金子先輩」
困惑した表情で金子を見つめると、対照的に金子はクツクツと笑いを噛み締めていた。
「さっきは、ありがたい一球、どうも」
「・・・・・・」
「あー、誰かに当てられたところ、すげえ痛いなあ」
「・・・・・・」
わざとらしく痛そうにして左腕を陽斗の前に出して、金子は言う。
「何?デッドボールして、侘びの一つもなしなの?」
「すっ、すみませんでした」
「あれ態とか?俺に対する恨みでも込めてた?」
「そんな、こと・・・ありません」
「そうかあ?執拗にインコースばっかり攻められてた気がするけど」
「当ててしまったのは、謝ります。・・・・・・でも態とではありません・・・・・・」
じりっと、金子が2人の間を詰めた。
今では、それほど身長さはない。体格も絶望的に違っていたあの頃とは違う。喧嘩しても
そう簡単には負けないはずなのに、陽斗にとって、金子の存在感は大きい。
にじり寄られると、それだけで動けなくなった。
「あー、すっげー、痛かったな、コレ」
アンダーシャツを捲ると、僅かだが、ボールの形に赤くはれ上がっている。当たれば当然
痛いに決まっているが、金子の腕の状態からは、それほどの痛みには見えなかった。
「すみませんでした」
陽斗は泣きたい気持ちで頭を下げる。すると、その上から金子のいやらしい声が降ってきて
更に陽斗を愕然とさせた。
「責任とってくれるんだろ?」
「え?」
「責任だよ、責任。この怪我の責任」
「責任って・・・・・・」
「そうだな傷ついた俺を慰めてもらうっていうのでいいぜ」
ニヤリと笑う金子に陽斗は凍りついた。
「簡単だろ?何度も何度もやってきた事じゃないか、お前の身体でさ。なあ陽斗」
じりり、金子がまた一歩近づいてくる。
「い、いやです・・・・・・」
「ふうん、そんな風にいえるようになっちゃったんだ、陽斗ちゃんは。偉くなったもんだな」
金子の腕が伸びて、陽斗の右腕を掴んだ。
3年前と何も変わっていない。この男の前では自分はいつまで経っても無力なままだ。
「やめて、ください・・・・・・」
諦めにも似た絶望感で、陽斗は目の前の男を見つめていた。
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