なかったことにしてください  memo  work  clap




 昼下がりの部室で、湧井は黒田とつかの間の休憩を取っていた。
テスト明けの部活は余らせていたエネルギーが爆発しそうなくらい疼く。さっきまで
湧井を唸らせていた数学のテストも英語のリスニングももうとっくに頭の中から消えていた。
早く身体を動かしたい。走りこんで、ボールを追って、思いっきりスイングしたい。
テストの所為で1週間近く部活は休みだった。それが、湧井にとってどれだけストレスに
なったことか。
「こんな大切なときに部活が出来ないなんて・・・・・・」
呟く湧井に黒田は困った顔をした。
「こんな大切なときに勉強しない方が困るだろ。ウチ進学校だし」
「そりゃそうだけど」
夏は天王山。担任が口をすっぱくして言っている台詞だ。あっという間の3年間。自分に
残された時間は少ない。その残り少ない時間を全て野球につぎ込みたいのも山々だが、現実
問題、そうとも言ってられない。
 野球が上手いからといって、プロになれるわけでもない。もちろん声が掛かれば嬉しいが
自分の実力がそこまで伴ってないことは分ってる。
 進学して、大学で更に腕を磨く。湧井がぼんやりと描いている自分の将来像。ここで勉強
から逃れるわけにもいかないのだ。
「悲しき受験生」
「まだまだ序の口、だろ」
「まあね・・・・・・。それにしても、静かだなあ・・・」
湧井は伸びをして、机の上にあった雑誌を手に取った。
あと数分もすれば他のメンバーもやってきて、直ぐに騒がしくなるだろう。誰もいない
部室は静かで落ち着付かないようだった。
 湧井は部室のパイプ椅子を二つ使って、そのうちの一つに足を掛けて野球雑誌を捲る。
記事の中に今年注目の高校生の名前を見つけて、それを斜め読みした。
「ちっ」
舌打ちが部屋に響く。
 黒田は着替えながら湧井の表情をぼんやりと眺めた。同じ県内の強豪と呼ばれる学校の
記事が黒田のところからも見える。
 3年前、湧井が素直に誘われた高校に進学していれば、今頃彼もその記事の中で笑って
いたかも知れないのに。溜息は心の中で留める。
 黒田は湧井がその誘いを蹴って、無名の豊山南高校に進学を決めたとき、心の底から
驚いた。しかも豊山南に進学すると決めた後で、湧井は自分もここに誘ったのだから、黒田
は湧井の思惑が全く分らなかった。
 それでも、黒田は何も言わず湧井に従ったのだ。もう3年間湧井と野球が出来る、その
気持ちが黒田を突き動かした。
 過去2年間は湧井の才能は埋もれたままだった。どんなに上手いショートが1人いたところで
チームが出来上がってなければ、勝てるわけがない。
 湧井は根気強くチームを作り上げた。そして今年、やっとその実がなろうとしている。
成長した2年生、新人の山下陽斗、素材が集まった。湧井は心底嬉しいはずだ。
 このメンバーでどこまで強豪に立ち向かっていけるか、湧井の頭の中はシュミレーション
でいっぱいになっている。
 自分もその中で湧井と一緒に暴れたい。湧井と歓喜の瞬間を一緒に味わっていたい。その
瞬間を想像するだけで、軽い興奮で包まれる。結局自分だって、湧井の夢に一緒になって
乗っかっているのだ。
 黒田はそんな気持ちを心の中で今日もまた噛み締めている。
そっと湧井を見下ろしていると、湧井はその視線に気づいたのか、突然しゃべり始めた。
「なあ、山下の様子どう?テスト前にちょっと会っただけなんだけど」
湧井は雑誌に目を落としたままで言った。
「昨日、廊下で会った。普通だったと思う」
「そっか・・・・・・アイツ、もう吹っ切ってるかな」
「多分大丈夫」
「そう見えた?」
「宝田が一緒にいるから、大丈夫だと思う」
「・・・・・・あの、ノー天気ちゃんもたまには、マウンド以外でも役に立つんだな」
「見えるヤツにはいつでもオーラ全開に見えるんだろ」
「山下は一直線だからなあ。タカラは全然気づいてないみたいだけど」
「気づかれても困るだろ」
「今はなあ・・・・・・」
大きな溜息が漏れる。歩みたいな人間が色恋沙汰に巻き込まれるところが、湧井には想像
できない。出来ないからこそ、そうなったときに、どんな風に調子を狂わせるのか、怖い
のだ。
 しかも、相手は男で、これもまた大切な2番手のピッチャーだというのだから、頭が痛い。
「下手したら、ピッチャー2人とも壊れるぜ」
「山下はああみえて、したたかなヤツだから大丈夫」
黒田の慰めに、湧井は薄く笑った。
 それから湧井は雑誌を机の上にぞんざいに投げると、立ち上がって自分も着替え始める。
制服を脱ぐと、こんがりと焼けた腕が見えた。
 着やせするタイプだが、脱げばきっちりと筋肉が付いている。毎日欠かさない筋トレの
おかげだ。瞬発力と判断力、そして怪我をしない身体。湧井が心がけている自分の身体作り
は3年間で、やっと形になり始めていた。



 湧井が着替えていると、ふと視線を感じて手を止めた。
「黒田?」
瞬間、黒田の腕が湧井の腕を取る。
 唐突に取られた腕に湧井は驚いて思わず身体が震えた。
「な・・・に?」
緊張が黒田にまで伝わる。湧井はマズイと心を中で舌打ちした。黒田はそんな湧井の表情
を読み取っているようには思えなかったが、とにかく掴まれた腕から、何もかもが伝わって
しまう気がして、湧井の心臓は飛び跳ねた。
 中学、高校と6年もの間、ひたすら隠し続けてきたある感情。時にはその感情を否定して、
目を背けたり、逃げた事もあったけれど、今は諦めて確信している、黒田への想い。
 一言も、そんな素振りも黒田には見せた事はないけれど、気持ちはいつも溢れる寸前まで
きていることも確かだ。
 けれど黒田に対する感情は、誰にも、黒田にも絶対知られてはいけない。
 それはずっと誓ってることだ。
自分達の崩壊はチームの崩壊であることを、湧井は誰よりも分っている。黒田とギクシャク
するわけにはいかないのだ。
 この感情を犠牲にしても湧井はチームを取るつもりだったし、今までもそうしてきた
はずだった。
「黒・・・田?」
 引っ込めようとする腕を更に強く握られて困惑する。黒田は表情を変えずに手に取った湧井
の腕を見た。
「どうした、ここ?」
「え・・・・・・?」
「赤くなってる」
腕を持ち上げられて、二の腕の裏側を指でさされる。見れば10センチほどのミミズ腫れが
出来上がっていた。
 湧井はやっと息を吐いた。
「ああ、トラだよ。トラ。うちの隣の家のネコ。昨日の夜に庭でバット振ってたら現れた
んだよ。そんでちょっと構ってやってたら、怒って引っかいて逃げていきやがった」
ヒリヒリと痺れたが、大して気にも留めなかった。
 なのに、黒田に指摘されて大量に熱を持ち始めると、急激にそこが疼きだしす。
黒田に身体を触れられるといつもこうだ。特に今みたいな不意打ちは、湧井の心を大きく
かき乱す。
 平常心を胸の奥から引っ張り出して、湧井は震えそうな声を絞り出した。
「えっと・・・・・・あの、離して・・・くれる?」
「・・・・・・すまん」
黒田は素直に湧井の腕を放した。緊張は一気に薄れる。けれど、掴まれた跡は熱くてビリビリ
と痺れた。
 こんな自分は嫌いだ。冷静でどんな事にも動じない自分を早く取り戻さなくては。
湧井は黒田から視線を外すと素早く着替えを続けた。心臓の音がまだ体中で響いている。
黒田にまで伝わってしまいそうで、湧井は着替え終わっても黒田を上手く振り返ることが
出来なかった。
 まずいな、俺も・・・・・・。
湧井の心の呟きは、心の奥底まで沈められた。





 2人っきりの部室に一番にやってきたのは黒田と同じクラスの海野瑞樹だった。
げっそりとした顔で2人をみると、机の上に鞄を放り出す。
「どうした、そんな疲れた顔で」
「今日のテスト、最悪の出来だった・・・」
「そんなの毎回の事だろ」
湧井が苦笑いしながら、机に突っ伏した海野を見下ろす。
「そうだけどさ。ヤバイのレベルが違うんだよ。昨日なんて勉強が手につかなくて、素振り
してたらそのまま疲れて寝ちゃったし・・・・・・赤点だったら、補習三昧で部活出られないよ」
「お前、それ勘弁しろよー」
「そういう湧井はどうなんだよ」
「赤点は免れるはずだ。ギリギリで合格ラインくらい」
「なんだよ、その自信」
「だって俺運いいもん。海野と違って」
「ひどい!」
ニタリと笑う湧井の表情は、もう既にいつものものに戻っていた。内心、ここに海野が現れた
ことに感謝してる事など、海野は気づいてないだろうが。
「だってホントのことだろ。この前の中間試験だって一点差で俺は合格、お前は追試だったし」
あまり自慢にもならないが、湧井は勝ち誇ったように言う。
「それは・・・」
「運も実力のうちって言葉知ってる?」
海野はしょぼくれた。
「ねえ黒田。俺ってそんなに運ないかな・・・」
「少しは」
「はあっ!・・・・・・黒田はいいよな、頭良いし」
「普通だと思う」
「クラスのトップがよく言うよ」
海野が愚痴ると、黒田は返答に困って黙ってしまった。
 そこに出来る数秒の沈黙。いつもと違う空気が流れてしまいそうで、湧井は慌てて話題を
探した。黒田がいつもと違う事をすると、調子が狂う。
 湧井は手持ち無沙汰になって、机に突っ伏したままの海野の頭を軽く叩いていた。





 沈黙は簡単に回避された。
「マネージャーの春田ですけど!入ってもいいですか!」
部室の前で一際大きな声がする。湧井は上ずった声をあげた。
「どーぞ!誰も着替えてないから入っておいで」
湧井の声の後に、直ぐドアが開いてピカピカの笑顔の春田が入ってきた。
「春田ちゃん、お疲れ」
「・・・・・・先輩達、なんかぐったりしてません?」
「ぐったりしてるのは、海野だけだよ。で、どうしたの?」
「地方予選の組み合わせ決まりましたよ!」
そう言って、春田は手にした紙を3人の前に出した。机の上に置かれたそれを、湧井と黒田が
食い入るように見る。
 海野も慌てて身体を起した。
「順当に勝ち上がれば決勝までに『四天王』のうちK高とT高に当たりますね」
「げえ、2校もかよ」
海野が潰れた声を上げる。湧井は当たり前のように受け流した。
「一つも当たらないで決勝行こうなんて、虫が良すぎるぜ。・・・・・・強豪同士で潰しあって
くれるのが一番ありがたいけどさ」
「3回戦でK高か。向こうも順当にあがってくるな、これは」
「負けないだろ流石に」
一瞬、湧井の空気が変わった。黒田も海野もそれを感じて湧井を見る。
 湧井にはK高に特別な思い入れがある。中学からのライバルがいるのだ。どうしても負け
たくない相手、その存在が湧井を熱くする。
「K高は絶対倒す」
「ああ」
いつもより熱い台詞に黒田が頷いた。海野も頷く。湧井がそこまでライバルにこだわる理由
は知らないけど、『四天王』を倒さなければ、先はないことに変わりない。
 勝ちたい。ラストイヤーの今年こそ、全国に行きたい。海野の心も静かに震える。
「絶対、勝ちましょうね、先輩!」
春田がそんな3人を見て更に力を込めた。



「あ、先輩達お疲れっす!」
「お疲れっす!さっきそこで、先生に組み合わせ決まったって聞いたんですけど!」
「お疲れさん」
春田に遅れる事数分、歩たちがやってきた。次第に他のメンバーも集まってきて、部室は
あっという間に部員で埋まった。
「うへー!K高にT高か!」
「前半の山はK高っすね」
「1回戦は余裕かな・・・」
彼らもトーナメント表を食い入るように見つめて、思い思いの事を口にしている。部室は
彼らの声で収拾がつかなくなった。
 パンパン、と湧井の手が鳴る。すると一斉に場が静まり、誰もが湧井へと視線をやった。
「いいか、お前ら。どこと当たろうが、1戦1戦、これが最後だと思って手を抜くなよ!」
「うっす!」
「全力で勝つ!」
「うっす!」
「・・・・・・甲子園、今年こそ行くからな!」
「ウッス!」
湧井の声に、部員のモチベーションが一気に上がる。彼の声は誰よりも統率力がある。自然と
全員が同じ方向を見ているのだ。
 歩も陽斗も湧井の声に拳を握り締めて戦いを、マウンド上で投げ込む自分の姿を想像していた。
「・・・・・・勝ちましょうね、アユ先輩!」
「うん」
歩は陽斗を見上げて笑った。


 いよいよ、球児たちの夏が始まる―――。





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