とにかく、もどかしかった。
娘からの電話を切った後、すぐさまタクシーを拾って家に向かった。娘の優衣からの
情報では、倒れている事だけは確かだが、容態がどうなっているのかさっぱり分らない。
裏手に住む彼女の両親に連絡を入れようかと思ったが、今の現状を説明する事を思うと
躊躇われた。それよりも、一秒でも早く家に帰って、自分で確かめたかった。
家の前でタクシーを降りると、久しぶりの我が家を見上げた。玄関にも明かりは灯ること
なくひっそりとしている。
玄関には鍵が掛かっていた。不安が大きくなる。妻はどうなっているのか、娘は泣いている
じゃないか、想像しただけで焦る。
武尊はポケットに手を突っ込むとキーホルダーを探った。湊の家の鍵と一緒に我が家の
鍵も繋がったままになっていた。
玄関を開けると、妻と娘の名前を交互に呼んだ。一つずつ部屋の明かりをつける。リビング
ダイニング、二階に駆け上がり、寝室と娘の部屋も覗いたが、武尊の予想を裏切って、
そこに人の気配は無かった。
「優衣?!佳織?!」
激しい足音で二階から降りる。
「どうしたんだ?!」
再びリビングに戻ってくると、ダイニングテーブルの上に書置きに気づいた。
『K総合病院にいます』
妻の字ではない。しかし直ぐに誰の書置きであるか武尊は分った。
「義母さんに連絡したのか・・・」
それを拾い上げて、携帯電話のメモリーから義母の携帯電話の番号を探した。
電話は直ぐに繋がったが、繋がったと同時に義母の怒りを隠し切れない声で、武尊は
怒鳴られた。
「武尊さん!一体、どこにいるの!」
温厚で娘を誰よりも愛している義母に怒られて、不安が膨らむ。それほどまでに妻の容態
は悪いのだろうか。
「・・・・・・すみません、今家に着いたとこで・・・・・・あの、佳織は・・・・・・」
「今は寝てます。・・・・・・大事には至ってないわ」
「そうなんですか?!」
「ええ」
その言葉に、膝の力が抜けて、武尊は椅子に座り込んでしまった。
「何かあったんですか。貧血?病気?」
「ちょっと・・・・・・体調が悪かっただけ」
尋ねた武尊の問いに義母の答えは歯切れが悪かった。小さな不安がまた湧き上がる。
なんだろう今の間は。
武尊はその不安を無理矢理向こうに押しのけた。
「・・・・・・あの、優衣は」
「優衣ちゃんも一緒」
「よかった・・・・・・」
安堵の溜め息を漏らすと、電話口から義母の厳しい声がまた降ってきた。
「よくあるもんですか!・・・・・・本当に、あなたときたら、娘は救急車で運ばれたっていう
のに!」
「救急車・・・」
「ちょっとした騒ぎになったんだからね」
「すみません、今からそちらに向かいます」
「・・・・・・別に無理してこなくても結構よ」
その台詞が嫌味のように響く。こんなところで引き下がるわけにもいかず、武尊は電話を
切るとその足で病院に向かった。
緊急外来の受付を通り過ぎて、暗い廊下を足早に歩いた。コツコツと革靴の音が廊下の
向こうまで響いて、不気味だった。
真夜中の院内を歩くのは気が滅入る。妻も娘も無事でいる事をこの目で見るまでは、安心
出来そうも無い。
電気の消された待合所の前を通っていると、そこに座る2人の影が見えた。小声で言い
争っているようで、近づくにつれてそれが義母と義父であることが分る。
「お義父さん、お義母さん・・・・・・」
小走りで近寄って、武尊は2人に頭を下げた。
「来たのね・・・・・・」
義母は相変わらず怒ったままの口調だった。
「武尊君か・・・・・・」
義父はばつの悪そうな顔で、一瞬武尊を見ただけで顔を逸らしてしまった。
義母がこれだけ怒っているのだから、義父はそれに輪を掛けて怒っているだろうと覚悟
していたのに、拍子抜けする態度が武尊を躊躇わせる。
小さな不安がポップコーンみたいにパチパチとはじけて武尊の内側にぶつかり始めた。
「佳織は・・・」
「・・・・・・東病棟の203号室よ」
武尊は軽く頭を下げると東病棟に駆け出していた。
病室の扉を開けると、真っ先に目に飛び込んできたのは、見知らぬ男の姿だった。
「あ・・・?」
病室を間違えたのかと思って周りを見渡せば、ベッドで眠る妻とそこにしがみつくように
眠っている娘の顔がある。
この男は誰だ。
何故、自分よりも先に、この病室にいるんだ?
がつんと後ろから頭を殴られたような衝撃が走った。
「・・・・・・武尊さんですね?」
男が探る目付きで武尊を見る。深夜で疲れきった顔をしているが、武尊よりも若く、がっしり
としたスポーツマンのような男だった。
どうやっても、分る。この男だ。妻が自分を捨てて、新しく人生を共に歩もうとしている
相手。あの日、娘を車から簡単に担いで下ろした男。
「なんで、ここにあんたがいるんだ」
震えそうになる声を絞り出した。
「佳織さんに呼ばれました・・・・・・。家に駆けつけたら、倒れていて、俺が救急車呼んだんです」
「・・・・・・そう」
救急車を呼んでくれた礼を言うべきか迷ったが、武尊は何も言わず妻を振り返った。
「今は安静にするようにと・・・」
「医者がそう言ったの?」
「・・・・・・はい。今は大事なときだから・・・・・・」
「大事なとき・・・・・・?」
目を見開いて、男を振り返る。大事なとき。その言葉の意味を、武尊は考えたくなかった。
「妊娠してるようです」
流石に、男の方も小声になる。
「!!」
覚えの無いことだ。同僚に「二人目、がんばってるんだろう」と茶化された台詞が頭を過ぎった。
「・・・・・・ふざけるなよ!」
「すみません」
「すみませんで済むかよ!」
武尊は思わず男に詰め寄って、胸ぐらを掴んでいた。
自分の中に生まれていた「不安」は一本の線でここに繋がっていたのだ。
男は殴られる覚悟をとっくに決めていたようで、襟元を締め上げても顔を逸らす事なく
武尊を見詰めている。
拳を上げて、殴りかかろうとしたとき、娘が小さく唸った。
武尊の手が止まる。
「パパ・・・」
娘が寝言で自分を呼ぶ。力が抜けた手はだらりと落ちた。
「・・・・・・殴らないんですか。佳織さんのおなかの子は間違いなく俺の子です」
こんな状況でも男は毅然としていた。妻を守っているのは今は武尊ではなくこの男なのだ。
「ぶん殴って、殺してやりたいくらいだ。・・・・・・でも、俺にそんな資格ないだろ・・・・・・」
武尊は男を放すと、娘の傍に寄った。
起さないようにそっと抱き上げる。
「娘は連れて帰るから、あんたは佳織の傍にいてくれ。・・・・・・明日また来る」
「・・・・・・はい」
武尊は振り返ることなく病室を出た。
エレベーターを降りて、待合所まで戻ってくると、老夫婦はまだ小声で言い争っていた。
武尊と娘を見つけると2人同時に立ち上がる。
「優衣ちゃんをどうするの!?」
「・・・・・・とりあえず、家につれて帰ります。明日また来ます。・・・・・・話し合うにしても、
今日はもう遅いですから」
「そう・・・ね」
ばつの悪そうな義父の表情の意味も分った。
ずり落ちてきそうな娘を担ぎなおして武尊は二人を後にした。
歩き出して、義父が武尊の背中に搾り出すような声で謝ってきた。
「武尊君・・・・・・すまん。こんなふしだらな娘で・・・・・・」
「あなた!」
義母が驚いて声を上がる。義母以上に佳織に甘く愛している義父が、自分に対してこんな風
に頭を下げた事は無い。
「・・・・・・佳織の俺への意志なんだと思います」
武尊は歩き出す。院内に響く靴音が頭の中を叩く鐘の音のようで、歩くたび頭痛に襲われた。
月曜日になるまでの時間が拷問のように長く苦しかった。
朝から機嫌の悪い娘を宥めながら幼稚園の支度をさせたが、結局幼稚園バスに乗り遅れた。
こういう時、男親ではどうしようもないと、自分の不甲斐なさを痛感する。武尊は嫌がる
娘を無理矢理車に乗せて、幼稚園に送り届けた。
幼稚園の教諭に一言挨拶をして、足早に車に戻る。出勤前にご苦労様です、と教諭に挨拶
されたが、曖昧な返事しか出来なかった。
武尊は車に乗り込むと、これ以上無い大きな溜め息をやっと吐いた。現実がスピードを
上げて武尊に迫り来る。早く決断しろと、迷っている自分に容赦なく切りかかってくる。
離婚届は鞄の中に入れっぱなしでしわくちゃのままだ。
武尊は顔を擦った。
「どうしろって言うんだ」
気を張ってないと、暗い穴に落ちていきそうだ。
これから出勤だというのに、仕事は手に付きそうも無い。それでも、自分を奮い立たせる
ように武尊はHDD式のカーナビのタッチパネルから音楽を探した。見つけたアーティストの
ところで手を止めると、音楽に合わせて車を出発させた。
けれど口ずさみながら、武尊は泣きそうな気分になる。11月の朝には、なんて似合わない
曲なんだ。そして、口ずさむのも止めた。
車の中で「CROSS ROAD」が小さく流れていた。
全てのピアノレッスンが終わって雑務をこなすと既に外は真っ暗になっていた。駅前の
イルミネーションはクリスマス仕様になっていて、そこを通り過ぎて行くカップルが甘い
笑みを振りまいていた。
湊は週末の武尊のことを思い出して、重い気持ちになりながら駅前を歩く。
優先順位は当然向こうの家族が上だ。当たり前でそこに疑う余地など無い。自分だって
分ってる。納得してるはずのことが苦しい。武尊を好きになるということはこう言う事なのだ
とちゃんと自分の中で割り切ったのに、実際に突きつけられると辛い。
しかも、夜中に幼い娘から電話が掛かって来たのだから、今起きていることは非常事態
に違いない。
だから、週が明けても連絡がないのは仕方ないのだ。自分に構っていられないほど有事
が起きてるんだ。落ち込む必要などない。自分に言い聞かせ、真っ暗な底に落ちていきそう
になるのを踏みとどまらせる。
11月の風は冷たく、湊のジャケットの隙間に入っては芯から凍らせていくみたいだ。湊は
ポケットに両手を突っ込んで足早に駅前を抜けた。
裏通りに出てもクリスマス風のイルミネーションが隙間を見つけては飾られていた。
憎たらしいほどに街が浮かれている。湊は天を仰いだ。真っ暗な夜の空は、気を抜いている
と心を吸い込まれてしまいそうだ。ブラックホールみたいに、いっそ何もかも飲み込んで、
武尊の存在を自分の中から消し去ってくれれば少しは楽になれるのだろうか。
こんな後ろ向きな恋愛は何時以来だろう。誰にも言えなかった学生時代と同じくらい
下手くそな恋だ。
湊は小さく鼻をすすった。
裏通りには小料理屋とコイン駐車場がぎゅうぎゅうと顔を寄せて並んでいる。湊を追い
越して店に入っていくサラリーマン、駐車場ではしゃぎながら乗り込んでいく家族連れ、
湊はそれを横目に見ながら歩いた。
何軒目かの駐車場で、湊は足を止めた。
「あれは・・・・・・」
駐車料金を清算して車に乗り込もうとしている男は、おそらく湊の知った人物だ。
男は黒のワンボックスに乗り込んだ。運転席のその顔を見て湊は思わず近づいていた。
「武尊さん!」
声をかけると、武尊は驚いた顔をしてパワーウインドウを半分ほど下げた。
「湊君・・・・・・」
「あの・・・・・・大丈夫?」
上目で顔を覗き込むと武尊はひどく疲れた顔をしていた。目の下の隈を見ても、あれは
緊急事態だったのだろうと想像に難くない。
「・・・・・・すみません、連絡もせずに」
「それはいいけど・・・・・・」
何があったのか、それを聞くのは躊躇われた。
一瞬の間を沈黙に変えなかったのは武尊がそこに触れられたくなかったからなのかも
しれない。
「湊君は仕事帰り?」
「・・・・・・うん。これから帰るとこだった」
「乗って行く?」
「いいの?」
「いいですよ」
「じゃあお言葉に甘えて」
湊も出来る限り明るい声で頷くと、助手席に回った。乗り込むときに後部座席のチャイル
ドシートが目に留まる。見ない振りして湊は助手席に座った。
「お邪魔します」
「どうぞ、あんまり綺麗じゃないけど」
他人の車に乗るのは、その人の心の中を垣間見るのと同じような気分にさせられる。狭い
空間に武尊の匂いが立ち込めていた。
車の中の物がどうしても目に入ってくる。カーナビに神社のお守り。ゲームセンターで
取った様な小さなぬいぐるみがミラーに引っ掛けてあった。
「武尊さんの車?」
「そうですよ。・・・・・・湊君は乗るの初めてでしたね」
「・・・・・・うん」
そして、窓ガラスに小さな手の跡―――。
「今朝車で娘を幼稚園に送っていったんですけど、会社には車で乗っていけないので、ここ
に置いていったんです」
湊は武尊の言葉がもう耳に届いていなかった。
小さな掌がいくつも窓ガラスについている。ベタベタと触ったのだろう。
武尊の家族は幻じゃない。言葉では理解していた武尊の家族に、実体が付いて来た
みたいだ。
今までだって、想像ぐらいできた。顔も姿も見たこと無いけど、家族旅行で無邪気に
はしゃぐ幼い子どもと、それを見て微笑む夫婦の姿や、夕食を囲んで家族3人のパーティー。
娘の誕生日には思い切り甘やかしていたに違いない。そういう武尊の姿を想像する事くらい
なら出来た。
けれど、それはどこか実感の無い別の世界のもので、湊と交わることなどないように
思えていた。
小さな指紋は、湊への警告のようだ。奪っていかないでと、名も知らない子どもの声がする。
これが彼の家族。守ろうとしているもの。湊は小さな指の跡の上に自分の手をそっと
重ねてみた。
悔しさがこみ上げてくる。自分は武尊が好きだ。その感情で目の前がくらくらした。
隣の武尊は疲れきった表情のまま、車を走らせる。いつもより距離が近い所為か、意識
すると、息使いも鼓動も聞こえてしまう気がした。
湊は武尊に見えないようにその指紋を強く押さえつける。自分の指紋で、小さな指は消えた。
この跡みたいに消してしまえればいいのに。そう願った自分が卑しくて、恥ずかしかった。
帰り道はどうして、こんなにこのアーティストが似合うんだろう。出発した車の中では
小さな音量で「Tomorrow never knows」が流れていた。
湊は泣き出しそうになりながら、そう思った。
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