捨ててきたはずの傘は玄関で雨水を滴らせながら静かに眠っている。
湊は男を浴室に押し込んだあと、自分はタオルで身体を包み、リビングを占拠している
グランドピアノの前に立った。
「なんで拾ってきちゃったんだろう」
思いがけない行動に自分でも、どうして言いのか分らない。
湊はグランドピアノの椅子に膝を抱えて座ると、ピアノの蓋を開けた。
右手の人差し指で、Bフラット(シ・フラット)を弾く。ポーンと響く音に、ピアノの溜め息
のようだと勝手に湊は思う。
それから、Bフラットのセブンスのコードをアルベジオで辿った。
セブンスの響きは自分の気持ちによく似ている音だと、湊は思う。マイナーなのかメジャー
なのか。ふわりとして不思議な、不安定なのに心地よい。いや、不安定だから心地よい音
だと思う。
それだけ弾くと、湊はピアノから指を離して抱えた膝に顔を埋めた。
浴室から微かにシャワーの音が聞こえる。まるで、今日も彼がそこにいて、風呂から出て
来ると「1曲弾いてよ」なんてリクエストでもしてきそうな錯覚に陥る。
彼が好きだったのはラフマニノフとシューベルトのソナタ。どっちも湊に似ているから
だというのが理由だった。
目を閉じて、じっと周りの音を聞く。シャワーの音が雨の音と混じって、耳の周りがざあざあ
と喚いているようだ。
彼はあれからどうしたんだろう。自分を送り返して、1人になった部屋で何を思っている?
ほっとしてる?それとも、少しは感傷に浸っていたりするんだろうか。
閉じた目から、涙が零れて、膝に当たる。
自分はこんなに弱い人間だったんだろうかと、湊は傷ついた心に自嘲した。
心地よい雑音が半分に減った。それから、暫く経って、足音がこちらに近づいてくる。
湊はそれを耳で追っていた。
リビングのドアが開いて、湯上りの湿気とぬくもりが湊のところにもやってくると、湊は
膝の中に顔を埋めたまま、その香りを吸い込んだ。
「シャワー、ありがとうございました」
聞きなれない声。想像していた声は幻しだ。彼はもう戻ってこない。そこにいるのは別の
男で、自分が求めている人ではない。
ああ、やっぱり違うんだ。湊は観念して顔を上げた。
「あ、の・・・・・・?」
涙で腫れぼったい顔で見上げると、申し訳なさそうな顔をして男はこちらを見下ろしていた。
シャワーでさっぱりした分、先ほどより遥かに若く見える。
「随分、男前になったね」
「・・・・・・」
「こっちが本当の姿なのかな・・・・・・」
「色々とありがとうございました。・・・・・・?」
湊はじっと男を見つめる。男はその視線に気づいて首をかしげた。
「何か?」
寂しい瞳だ。湊は直感でそう感じた。この人も自分と同じ。何かを失った瞳をしている。
大切なものを失った瞳は、濁っている。薄い膜を張って、目の前の痛みから逃げているみたいだ。
若しくは、オブラート代わりに現実を包み込んでいるか。
湊は男の問いに返事をする代わりに、目の前のピアノを一音鳴らした。Bフラット。落ち着く
音だ。
俯いてその音に耳を傾ける。調律したばかりの音は、自分好みで心地よかった。
「ピアノ弾かれるんですか?」
「…講師なの、一応。リクエストがあればなんか弾きますよ?」
湊は相変わらず腫れぼったい瞳で男を見上げた。
「曲を知らないので…教養がなくて申し訳ないです。あなたの得意なのを弾いてくれますか?」
そう言われて湊は一瞬悩んだ。彼の大好きだったラフマニノフの曲が幾つか頭に浮かぶ。
何度もリクエストされたからいつでも弾けるはずだ。
そう思って、両手を伸ばす。けれど鍵盤に指を置いた瞬間、湊は音を忘れてた。
「・・・・・・」
頭の中が真っ白になった。
弾けない。終わった恋と同じ様に、引きずり出してはいけないのか。
「名前、教えてよ」
湊は鍵盤に指を置いたまま言った。
「・・・・・・安西武尊(あんざい ほたか)です」
「ほたか?いい名前だね。穂高連峰の穂高?」
「いえ、そっちではなく、群馬にある小さな山の名前と一緒です。うちの裏山なんです」
「そうなんだ」
見たことも無い群馬の山を想像して、湊は目を閉じる。群馬の山にも今日みたいな雨が降って
いるんだろうか。
しとしとと冷たい雨粒が山肌を濡らして、大地に染み込んで行く。自分の涙もそうやって
吸収してくれたらいいのに。
湊は鍵盤に置いた指をきゅっと握ると、ゆっくりと開いてショパンの雨だれを弾き始めた。
中学2年の生徒が3ヶ月前からずっと練習している曲だ。最近になって、やっと情緒というもの
が分りだした子で、湊は思い切ってショパンを取り出したのだが、こちらが思うようなショパン
の演奏にはまだ程遠い。
(ここのフォルテは、強くじゃなくて、丁寧にだ)
湊は弾きながら、たっぷりと情感を込める。ショパンは得意じゃないけれど、雨だれは好きだ。
何故この曲を弾き始めたのか、自分でも分らないけれど、武尊の名前を聞いて湊は自然と
指が動いた。
曲調が変わる。柔らかな小雨から、真っ暗なじとじとと重い雨に変わる。10月の空と自分
たちの気持ちが被さって、今までで一番濃厚な雨だれとなった。
弾き終わると、武尊はゆっくりと拍手を送った。
「素敵な演奏でした」
「ありがとう」
「なんていう曲?」
「雨だれ。ショパンの前奏曲の一つ。今日はそんな気分だったから」
「そう。柔らかくて切ない曲ですね。君の方こそ、名前を聞いても?」
「高瀬、高瀬湊。駅前のL社のピアノ教室で講師してるんだ。貴方は?えっと武尊さんって呼べば
いいの?」
「ええ、それでいいですよ」
「じゃあ、武尊さんは何してる人?」
湊は片足を抱き寄せてそこに顔を預けた。
「俺は、しがないサラリーマンですよ」
「そんなサラリーマンがどうしてあんなトコに?」
その質問に、武尊は苦笑いした。
「・・・・・・色々とあって」
「そう言う話は、温かいコーヒー飲みながらの方がいいのかな?」
顔を膝に預けたまま、上目遣いで湊は武尊を見る。視線が合うと武尊は一瞬眉間に皺を寄せた。
語りたくないのか、他人ならばぶちまけてしまいたいのか、自分でも分らない迷い。湊は
泳ぎ始めた武尊の視線を離さなかった。
武尊を追って、その瞳を捕らえる。自分と同じ哀しい目をした人の心を湊は覗いてみたく
なったのだ。
見詰められる武尊は溜め息でそれを受けた。
湊はグランドピアノの蓋を閉じるとキッチンへと立った。
「武尊さんはコーヒーはブラック?」
「はい」
しゃべってしまえばいい。悲しい事は吐き出してしまった方が、開き直れる。その意見は
暗黙のうちに2人の中で共有していた。
6人掛けの大きなダイニングテーブルにコーヒーカップが2つ。立ち上る湯気と共に香ばしい
匂いが鼻をくすぐる。対面に座って武尊と湊は暫く無言でその時間をやり過ごした。
カチカチと壁に掛かった時計の秒針の音。時々、思い出したように唸り声を上げる冷蔵庫。
シンクに水滴が落ちて、ポタンと間抜けな音を鳴らす。
キッチンは何時だって騒がしい。静かに耳を傾けていると、教室のザワザワしたあの感覚
を思い出す。今にも会話でも始めそうなキッチンの物達。
湊はコーヒーに手を伸ばすと、カップを両手で包み込んで手を温めた。それから一口、
会話を始める為の合図のように、カップを口に運んだ。
「理由、聞いてもいい?」
武尊も同じようにコーヒーカップに口をつけた。
「大した理由ではないんですよ。・・・・・・他人にとっては」
「でも、武尊さんにとっては大した理由があった」
「・・・・・・俺はね、一生懸命仕事して、安い給料に少しでも足しになればと思って残業して
夜遅くまで頑張って、それなりに家族の為にやってきたつもりだった」
武尊の口調が変わった。湊へ説明するというよりも、自嘲に近い。
「養ってく家族がいるんだ?」
「妻と5歳の娘がね。・・・・・・可愛いよ、自分の娘は。・・・・・・手放したくないね、絶対」
「うん?」
湊が頷くと、武尊は情けない笑みを浮かべた。
「妻にね、別の男が出来たみたいで・・・・・・」
「それはまた」
ついさっきの自分の体験と重なる。湊の恋人も、また新しい人の影が後ろにちらついていた。
「問い詰めたら、逆切れされて離婚突きつけられた。・・・・・・全部俺の所為だって」
「なんで?」
「仕事ばっかりで家庭を顧みない。自分と娘の為に何にもしてくれない。自分がしんどい
思いして家庭を守ってることを分ってくれない。仕事なんてそんなに一生懸命しなくても
いい、早く家に帰って家族を大切にして欲しいのにって・・・・・・その点『あの人』は違う。
ちゃんと自分を大切にしてくれる。だから俺と別れて欲しいんだそう」
家族のズレは恋人のズレよりも、重い。湊は想像でしか分らないけれど、一方的に離婚を
突きつけられた武尊の気持ちが痛かった。
「奥さん、淋しかったんだね、きっと」
「そうなのかもしれません。・・・・・・ただ、俺は彼女と別れるつもりはないし、娘をどこか
の男の娘になんてする気もない。・・・・・・やり直したいんだ」
本気でやり直したいと思っているからこそ、目の前の現実に絶望しているらしい。妻の気持ち
はとっくに離れている。修復も不可能なほど。
「それで、なんであそこに?」
その質問に、武尊は恥ずかしそうに両手を握り締めた。
「追い出されたんですよ」
「家を?」
「はい。・・・・・・正確には、追い出されることになることを恐れて飛び出したというか」
「何それ」
「家をね、建ててもらったんですよ。彼女の両親に。土地も家も彼女の物。・・・・・・名義上
のことじゃないです。感覚の問題かな。すぐ後ろには彼女の両親の家があるんです」
離婚して彼女が実家に戻っても、すぐ後ろに住んでるんじゃ、お互い落ち着かないだろう。
「妻は一人っ子ですから、両親に大切に育てられたんですよ。甘やかされて、家まで買い
与えられて。・・・・・・悪い子じゃないんですけどね。まあ、でもどちらが出てくかってなれば
俺が出てくしかないでしょう?」
「だけど、行く場所がなかった?」
「ちょっとやけになって、あそこで不貞腐れてたんです」
武尊も捨てられたのだ。自分と同じように。悲しみがシンクロして、それで思わず武尊を
拾ってしまったのだろうか。
自分も、この悲しみを埋めてくれる人を求めてた?
「随分と豪快な不貞腐れ方だね」
「会社帰りにどうしようと迷って、行く当てがなかったんです。友人の家に世話になる
わけにもいかないし、ビジネスホテルに行く気力も残ってなかったので」
雨に濡れて、感傷に浸っていたかったのかもしれない。
自分も、帰り道、あの橋で武尊を見つけるまで、同じ気分だったから。雨に濡れて、全部
悪いものを洗い流したいと思った。
そうすれば、元に戻るような気がしたから。雨が穢れを浄化してくれる。そうして、また
元の生活が送れる、そんな甘い幻想を秋の雨はもたらしていく。
「これからどうするの?」
「出来れば、元通りにしたいです」
「ウチに帰りたいんだ?」
「・・・・・・完全に修復することは不可能かもしれないけど、話し合って、離婚だけは思い
留まらせたい。ただ・・・」
「ただ?」
「今、彼女は話を聞いてくれる状態じゃないので・・・・・・」
「興奮して話し合いにならない?」
「そうですね」
武尊の顔が曇っていく。こんなお人よしで優しそうな人間でも、家庭を壊すことがあるのか
と、湊は不思議に思った。
自分ならば、上手くやっていけるのに。
瞬間閃いた思いに湊ははっとする。
なんで、そんなことを思ってしまった?
顔を上げると、彼とは違う武尊の顔が見える。
埋めて欲しい。この空洞を。
彼を失った穴を求めるつもりなど、ない。ないはずだ。湊はそう否定しながらも、だったら
何故彼を拾ってしまったのだと自分に問い詰める。
慰めも、肌のぬくもりも求めるつもりはない。
ただ、そこに人がいてくれればいい。・・・・・・今は1人になりたくない。それが本心だ。
湊は冷めかかったコーヒーを再び口に運ぶと、出来るだけ自然に口を開いた。
「じゃあ、それまでウチにいればいいよ」
「はい?」
「ここにいたらいいよ」
「それは・・・・・・」
「困る人はここにはいないよ」
湊はそう言うと鞄の中から家の鍵を取り出して、テーブルの上に置く。そして、それを
人差し指で武尊の方に滑らせた。
「湊君・・・・・・」
躊躇う武尊に湊は忘れ物を届けるような口調で軽やかに呟いた。
「僕と、家族しようよ」
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