リビングから漏れる明かりを見つけて、湊はこみ上げる胸の熱さを隠し切れなかった。
月明かりを背中に受けながら、湊は家までの道のりを、流れに任せるまま取り留めの無い
思いを浮かべて歩いていた。
紺野への謝罪、武尊への告白。言葉にしたくても出来そうもない想いは家が近づくに連れて
益々苦しくなる。
2人とも夕食は済ませたのだろうか。無言の食卓を想像して首を振る。自分のことを好き
らしい紺野と、自分が好きな武尊。一方通行のトライアングルはどこで止まるのか。
息苦しさを抱えながらも、自分の帰る場所はあそこしかなくて、湊は足取りを緩める
ことなく家路を歩いた。
雨上がりの夜は更に寒く、息を吸う度肺に冷気が染み込んだ。
そうして、家の前まで帰ってきて湊は息を呑んでリビングの明かりを見詰めていた。
「こんなときに家に明かりがついてるのって結構ココにくるもんなんだ・・・・・・」
湊は胸をぎゅっと掴んだ。
待ってる人がいる。たったそれだけの事なのに、湊の心は振るえた。
家族と呼べる物の本質は、血の繋がりにあるわけじゃないのかもしれない。
武尊と紺野がやってきてから家の中の温度が上がった。生活していると実感する瞬間が
増えた。他人だけれど、嘗てここで一緒に暮らしていた本当の家族よりも濃密な時間が流れ
ていた。そしてこの家族にもきっと終焉が待っている。それが近いことを湊は予感した。
次の日、仕事から帰宅した湊を待っていたのは、彼らの均衡を破る出来事だった。
玄関先に見慣れない女性が立っていて、湊を見つけると彼女は軽く会釈をした。年の頃
なら40過ぎだろうか。少々やつれているようにも見える。
湊は顔を合わせると、その女性が誰であるか直感で分った。
「夜分遅くすみません。高瀬湊さん?」
「こちらこそ、こんばんは。・・・・・・紺野のお母さん、ですよね?」
「はい・・・・・・あの、息子がご迷惑お掛けしてるって・・・・・・」
しゃべりだしそうになる紺野の母親に湊は手で制して、門扉を開けた。
「こんなところではなんですから、中どうぞ。多分紺野もいますから」
「・・・・・・はい」
湊は紺野の母親を玄関に通す。彼女は何度も見回しながら中に入った。
「今、紺野呼んで来ますから」
紺野を呼びに行こうとする湊を紺野の母親は止める。
「待ってください。あの子と話す前に、あなたと話したくて・・・・・・」
「僕とですか?」
「ええ」
頷く彼女に湊は振り返った。母親の目が不安げに揺れるのを見て、湊は肩に入っていた力
を抜いた。
「・・・・・・お茶、淹れますね」
ダイニングテーブルにお茶を並べる。紺野の母親は何から切り出すべきか迷っている
ようだった。
「えっと・・・・・・連絡せずに紺野を預かってしまって済みませんでした」
沈黙を作る前に湊は頭を下げた。
「いえ、そんなことは・・・・・・こちらこそ、真がご迷惑をおかけしました。・・・・・・本当は
昨日、連絡を頂いたときに直ぐに迎えに来るべきだったんですけど・・・・・・」
そこまで言うと彼女は俯く。小さく鼻をすすって、手にしたハンカチで口を押さえた。
「・・・・・・お恥ずかしい話ですけど、主人が迎えに行く事を許してくれなくて」
「・・・・・・」
「勝手に出て行ったんだから、自分で戻って来いって。・・・・・・冷たい父親だと思います。
流石に私も耐えられなくて、昨日は言い合いになってしまって・・・・・・」
呼吸する度、鼻をすする。我慢しているのか、声は途切れ途切れになった。
「昨日も連絡させて頂いた通り、僕は彼の教育実習の時の教え子で、大した関わりはない
んです。・・・・・・ただ、こんな風に紺野が家出をしてきた理由が気になって、少しだけです
けど、家庭の事情、調べさせてもらいました」
「そう、ですか・・・・・・あの子はなんて?」
「紺野には直接聞いてません。ただ、家出してきた日、父親が悪いんだって呟いてました」
「・・・・・・もうあの2人の溝は埋まらないのかもしれません」
短い沈黙の後で、紺野の母親は悲しそうに呟いた。
湯のみから湯気が消える。きっともう冷めてしまっただろうお茶を紺野の母親は一口
啜った。
「高瀬さんは1人暮らしだとお聞きしたので、アパートかマンションに住んでるのだと
思ってました」
「元々は両親と姉の4人暮らしだったんですけど、姉は嫁いで、両親は父親の海外勤務で
家を空けてます」
湊は当たり障りの無い答えを出した。表面から見れば、どこにでもある家族だ。
「そうですか。りっぱな家に暮らしていらっしゃるので」
「はは、僕の財産ってわけじゃないですよ。僕はしがないピアノ講師です」
「・・・・・・それでも、ご両親はお幸せですね。娘さんは無事嫁がれて、高瀬さんはりっぱに
働いて・・・・・・」
紺野の母親は目を瞬かせて呟いた。
他人には見えないもんなんだよな。他人の家族ばかりが羨ましく見えるけど、本当はどの
家にだって、問題は転がってるってことを。
紺野も紺野の母親も、外ばかり見て、自分達の持っているものを見てないのかもしれない。
「僕はりっぱな人間じゃないですよ」
湊も冷めた湯のみに口を付けた。
時計を見上げると7時を少し過ぎていた。もう直ぐ武尊が帰って来る時間だ。そう思った
途端、玄関の開く音がした。
「ただいま」
リビングの扉が開いて、武尊が顔を見せる。思わぬ来客に一瞬の間が出来た。
「おかえりなさい。・・・・・・紺野のお母さんがいらっしゃってて」
湊がそう言うと、武尊は益々顔を硬直させた。
「こんばんは」
「・・・・・・夜分遅くに申し訳ありません・・・あの、こちらは?」
「湊君の友人の安西武尊です」
「高瀬さん1人暮らしだとおっしゃってたけど」
「ええ、実は出張でこっちに出てきたんですけど、湊君の家が仕事周るのに丁度よくて、
出張の間だけちょっとここに置いてもらってるんです」
武尊の嘘も、今回ばかりは滑らかに出た。それが余りにも普通で、本当のことのように
聞こえて湊は苦い思いがこみ上げた。
そんなドライな関係ならとっくに追い出してたかもしれない。
「そうだったんですか。真がご迷惑おかけして申し訳ありませんでした」
「いえ、俺は迷惑なんて掛かってないですから」
武尊が手を振って否定した。
紺野の母親は、ぽつりぽつりと紺野の複雑な家庭の話をした。その話は、湊が聞いた話
と大筋では違いはなかったけれど、本人から聞くとリアルさが増した。
「あの子と血の繋がりはありません。でも私は、私なりに真を可愛がってきたつもりです。
・・・・・・でも、真は、許せないんでしょうね。私は真の本当の母親とは面識もありませんし
主人からも多くは聞いてません。ただ、主人も真を置いて出て行った母親を酷く恨んでいる
ようでして、その矛先がいつの間にか真に向いてました。真は真で、勝手にやってきた私
が気に入らないみたいですし、我が家は皆が憎しみの方向を向いてしまっているんです・・・」
一つ狂った歯車が掛け違えたまま時間が経ち、紺野一家を乗せた列車は、気が付けば幸せ
とは正反対の方向に向かって走っていた。
彼女が次の言葉を発しようとしたとき、リビングの前で足音が聞こえて3人は一斉に振り
返った。
「真!」
「紺野・・・・・・」
そこにいたのは不機嫌そうに睨みつけている紺野の姿だった。
「何してんだよ!」
「何してるって・・・・・・あなたを迎えに来たに決まってるじゃないの!」
「勝手なこと言うな!誰があんな家、帰るか!」
あからさまにけんか腰でしゃべる紺野に、武尊と湊が宥める。
「紺野!お母さんにそういう口利かないの。せっかく迎えに来てくれたんだから」
「まあまあ、とりあえずそんなとこ突っ立ってないで、こっち来て座んな」
「うるせえっ」
踵を返して出て行こうとする紺野の腕を武尊が無理矢理掴んだ。
「何すんだっ」
「いいから。はい、座る」
力尽くでダイニングテーブルまで引っ張ってくると、武尊は紺野を母親の正面に座らせた。
紺野の両肩の上に手を置いて、がっちり逃げられないように座らせる武尊の姿は、やっぱり
「父親」なんだと、湊は思った。
「紺野もお茶淹れるから、待ってて。武尊さんの分も淹れるから」
「俺は・・・・・・」
「ね?」
湊は4人分のお茶を淹れなおして、席を外そうとした武尊も引き止めた。武尊にもこの場所
にいて欲しいと思ったのは、きっと自分よりも上手くやってくれる気がしたからだった。
武尊のもがいていた時間は無駄じゃない。紺野の為に使ってくれる。そんな気がしたのだ。
「真の言い分もあるだろうけど、勝手に出て行ったら心配するじゃない」
「嘘言ってんじゃねえ。誰も心配してないし、探しもしてなかったじゃねえか」
「それは・・・・・・」
「どうせ俺はあんたらにとって必要ない人間なんだろ」
「そんなことないわ」
「じゃあ、学校に連絡したのかよ?捜索願出したか?してないだろ!どうせ、あんたらは
俺がどこで死んだって構わないだろ」
「真!」
母親が涙を堪えて紺野の名を呼ぶ。
「そんな言い方よくないよ、紺野。こうやって迎えに来てくれたんだよ?死んでも構わない
なんて思ってるわけないじゃない」
思わず割って入ってしまった湊にまで紺野は睨みつけた。紺野は今、こじ開けられそうに
なっている心を必死で内側から守っているみたいだ。
もうこれ以上傷つきたくなくて、自分の心をさらけ出すのが怖くて、紺野は殻を壊され
ないように外側に棘を付けて、内側へ、内側へと逃げている。
「真の言い分もあるだろうけど、そんな喧嘩腰でしゃべったら私たち、いつまで経っても
話し合えないじゃない。・・・・・・お父さんだって、話せばきっと分ってくれる。真が心を開いて
くれれば、お父さんも分ってくれると思うの」
「勝手なこといってんじゃねえよ。あの馬鹿が話聞くわけないだろ。あいつは、俺なんて
いなければいいって本気で思ってるんだからな」
「お父さんのこと、そんな風に言わないで!・・・・・・色々嫌な思いもさせちゃったけど、
お父さんも辛いのよ」
その台詞に我慢していた感情が抑えきれなくなり、紺野は机を叩いた。カタリと湯のみが
揺れる。
「言い訳なんて聞きたくねえよ!さっさと帰れ!」
「真・・・・・・」
「あんたもうざいんだよ。勝手に母親面して、あんたに何がわかるってんだ!」
「・・・・・・ごめんなさいね、真も辛いのは分ってる。でも、もう一度ちゃんと向き合えば、
きっと分かり合えると思うの」
「あんたは俺の母親じゃねえよ。人の気持ちわかった振りすんな!」
湊が息の呑んだ瞬間に、母親の方が立ち上がって紺野の頬を殴っていた。ぱちんと不透明
な音がして紺野は打たれた頬を押さえた。母親に手を上げられた記憶はない。記憶の中の
母親は、いつも遠慮がちに、自分と父親の間を行ったり来たりしているだけだ。
「私だって・・・・・・私だって頑張ってきたのよ!真とお父さんの間に入って必死で取り持って
来たじゃない!本当の母親じゃないかもしれないけど、真の本当の母親よりも、私の方が
ずっと面倒みてきたわ!なのにあんたはいつだって、私のことを信用してくれないし、私
がいるから悪いって無言で非難してるみたいで・・・・・・私だって辛いわよ!」
「そんなこと知るか!俺が悪いのか!だったら、俺がいなくなって清々してるんだろ!」
「そんなこと言わないでよ・・・・・・私たち、家族でしょ?」
紺野は打たれた頬を押さえたまま、母親を睨み返す。
「家族って何だよ!」
叫んだ台詞は湊の心にも武尊の胸にも響いて、言葉が零れた。
「家族って、何だろうね・・・・・・」
「家族って、何なんでしょうね」
ここにいる3人はみんなその疑問にぶつかって、折れたりもがいたりしている。そうして
逃げ出してきた先で3人はまた寄り添った。
彼らは何かに縛られている。いや、縛られたくて、また集まってしまったのかもしれない。
繋がっていたいのは寂しいから?本当にそれだけなんだろうか。
「家族は他人の始まりで、家族は他人の集まりなんだと思います」
そう切り出したのは武尊だった。
「武尊さん?」
「家族ってそこに絶対的にあるものなんかじゃない。最初から形なんてなくて、他人だった
者同士ががゆっくりと作り上げるんだ。だけど、自分じゃその形は見えないから、そこが厄介
なんだよな。しかも幸せと同じで他人の物はよく見える」
自分の家族だけが不幸なわけじゃない。湊も武尊も、そして紺野もそれぞれに抱えた闇がある。
「紺野」
「何だよ」
「俺は家族を壊すきっかけを作った。実際壊したのは彼女だったけどさ。もう多分2人の仲
は修復できないと思う。けどな、どんなになっても、俺の娘はいつまで経っても俺の娘だし、
愛おしい気持ちには変わり無い。逆に、彼女が今愛している男は、俺の娘とこれっぽっちも
血は繋がってないけど、きっと俺と同じように愛してくれると思う」
本当の娘のように抱き上げたあの姿を見たときは、頭に血が上って殴ってやりたいと思った
けれど、武尊は漸く決心が付いた。
「血の繋がりが大切なわけじゃない。血の繋がりよりももっと大切なものがあるから一緒
にいられるんだと思う」
紺野は今にも振り上げそうになっていた拳を弱々しく腿に打ち付けた。
「血の繋がりより大切なものってなんだよ・・・・・・」
「それが、家族の形だって事。そんなのは人それぞれだよ、紺野」
紺野の母親は事情が飲み込めないようで、不思議そうな表情で武尊を見ていた。けれど、
その言葉の重みは伝わっているはずだと湊は思う。
「・・・・・・ごめんなさい、取り乱してしまって」
武尊は、紺野の母親の言い訳を思い出して、それに自分を重ねて、首を振った。
大人は勝手だ。勝手な都合で別れたりくっついたり。
けれど、窒息しそうになるまで一緒にいてもけして子どもは幸せにはならないと武尊は
思う。
だからせめて娘にだけは真っ直ぐでいようと思った。
離れても、一緒に暮らさなくても、これから新しい暮らしが始まっても、その人を「父」
と呼ぶことがあっても、自分は紛れも無く父親であり続けるのだから、別々の人生を歩ん
でも、それだけは忘れないでいようと。
「勝手なのは、大人の専売特許みたいなもんだから」
「何だよそれ」
「そろそろ、許してあげなよ。君ももう直ぐ20歳になるんだからさ。大人になれば分るって
いうのは都合のいい逃げ台詞だけど、君はもうちょっと大人になれるはずだ。そんなに
棘ばっかり纏ってたら、お父さんだって近づけない。言葉にしなきゃ伝わらないのは、家族
でも友人でも恋人でも他人でもみんな一緒だぞ?」
彼女は力が抜けたように椅子に座り込んだ。
「・・・・・・真が帰って来るの待ってるわ」
紺野を見る目は母親の目だ。
なんだ、ここにはまだちゃんと愛があるじゃないか。分かり合えるのに時間は掛かるだろう
けれど、乗り越えられないことはない。
言葉が足りないだけで、随分と苦労してるのはみんな同じなんだな。湊は目を細めた。
紺野の母親は結局1人で帰って行った。
去り際に、もう一度「ちゃんと待ってるから、必ず帰ってきなさいよ」と言葉を残して。
「紺野は、思っているよりずっといい家庭に育ってるじゃない」
そう茶化すと、紺野はバツが悪そうに無言でリビングを後にした。その背中はすこしだけ
硬さが取れていたような気がして、湊は小さく微笑んだ。
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