なかったことにしてください  memo  work  clap




 年の瀬が近づいていた。
武尊と紺野が出て行っても、湊の生活は変わることなく続く。この家で1人朝食を取って
仕事に向かう。明かりのない家に戻り、静かに眠る。それの繰り返しで、湊の心はゆっくりと
平穏を取り戻しつつあった。
 そこには勿論、諦めも含まれてる。武尊が出て行って直ぐは、武尊の連絡を待ちわびた。
それから「もう連絡してこないのかもしれない」という不安で胸を焦がされて、暫くすると
それも薄れた。
 待つのは辛いけど、不安でいる方がもっと辛い。考えれば期待してしまうから、湊は
意識的に待つことを止めた。
 幸い、年末には音楽教室のクリスマスコンサートを含めた発表会があって、その準備に
追われ余計な事を考える暇も無かった。
 湊の生徒も何人かは発表会に出演するし、発表会の最後には講師達による演奏会もある。
この発表会は、ピアノだけでなく、バイオリンやチェロ、フルート科も含めた年に一度の
大きな発表会で、先月のチェリストの伴奏の評判がよかった湊は、独奏だけでなく、伴奏
も務めることになった。
 それが思った以上に忙しく、家に帰っても練習で一日が終わっていった。



クリスマスイブに近くのホールを借り切って発表会は定刻通り行われた。
 朝から裏方で慌しく駆けずり回っていた湊も、自分の生徒の順番がやってくると、舞台袖
で生徒1人1人に声をかけ、緊張をほぐしたり労いの言葉を掛けたりした。
 あっという間に時間は過ぎて行き、気が付けば数人を残すのみとなっていた。次の生徒
の顔を見て湊はほろ苦い顔をする。彼女の弾く曲は湊の心をかき乱すからだ。
「せんせー、ちょー緊張するー」
「ホント?僕の方が緊張するよ」
「なんでよ〜」
「『雨だれ』が、大嵐になったらどうしようかって」
「ひどぉい」
「はい、行っておいで」
湊は背中を押す。思えば、この曲を彼女が弾いていたからだ。雨だれが特別になってしまった
のは。練習曲の一つに過ぎなかったのに、今では武尊との思い出が詰まった曲だ。
 彼女の緊張した体が鍵盤に乗ってしっとりと曲が始まる。
湊はそれを目を閉じて聞いた。



 遠い記憶の中から10月の雨が現れる。
湊はあの雨の中を1人、ずぶぬれの気分で歩いていた。恋人に振られて、空いてしまった
心を1人慰めるために、自棄酒しようとコンビニであり合わせのつまみを買って、惨めそう
に歩いていたのだ。
 武尊と出会ったのは偶然だったのか、神様のいたずらだったのか、その巡り合わせを
湊は不思議に思う。
 好きになったのも偶然だったのか、それとも初めから好きだったのか。明確にこの日から
誰かを好きになったなんて線引きできるものではない。出会った瞬間に電撃が走ったり
この人だと直感させるものも無かった。
 土の中へと染み込んで行く雨のように、武尊への気持ちは湊の心を浸食し、いつしか満
たされていた。
「湊君は分ってたんですか?」
「何を?」
「こうなる結末を」
「こうなるって、武尊さんが離婚するって事?」
「うん」
「分るわけ無いよ。でも、途中から・・・・・・期待してた」
「それは喜んでいいのか、怒っていいのか」
「多分怒っていいと思うけど」
「そう?」
「ごめんなさい。拾ったのが僕だったのがいけなかったんだ・・・・・・」
「ううん、湊君だったから、俺は離婚を決意できたんだと思います。ありがとう」
「お礼なんていわれる立場じゃないよ」
「でも・・・・・・湊君とこうして「家族」をやれたことで俺はたくさん救われたから」
忘れようと記憶の隅に追いやっていた武尊の存在。
 最後の夜に交わした会話は、その続きを待って湊の中で一時停止したままだった。



 目を開くと彼女がはにかみながらお辞儀をしていた。会場から拍手がなり響く。こちら
の思い通りに情感を作ってくれなかった「雨だれ」も、彼女なりに上手くまとまって、見事
に湊の心の中にも雨を降らせた。湊はこみ上げてくる涙を必死に留めた。





 静かな夜だった。
恋人と過ごした去年までのクリスマス。その前は誰と過ごしてたのかもう思い出せない。
聖なる夜もこうして1人ピアノの前に座っていればいつもと変わりは無かった。湊は発表会
で生徒が弾いていた曲を思い出しながら弾き流す。
 トリを務めたワルトシュタインも、最後の追い込みが効いたのか、ぐっと艶っぽい演奏
になったし、雨だれもいい出来だった。
 若いなりの解釈と演奏。苦悩や焦燥なんて今はいらない。若さだけで十分眩しい演奏
だったと湊は思う。教え子が上手く演奏できれば、湊も嬉しい。
 湊はその若さを思い出しながら雨だれを弾いた。今は、今だけは10月の雨を思い出さない
ように、幼い頃の雨を心に降らせた。



インターフォンの音で湊は手を止めた。時計は9時を少し回ったところで、外はもう真っ暗だ。
カーテンも引かず、湊はピアノの前に座っていたのだ。
 こんな時間に、いやどんな時間でも今の湊を来訪する人間などいない。けれど、もしいる
とするならばそれは―――。
 鼓動が早くなった。手が震えている。ピアノの前から立ち上がっても、次の一歩が出て
いかない。期待して違ったら落ち込むのは嫌だ。せっかく平穏になろうとしている心を
また揺さぶられるのは辛い。けれど、体中が期待している。このチャイムの相手が、自分
の一番逢いたい人であることを想像して震えているのだ。
 深呼吸をして、その一歩を踏み出すと、力の入らない足は前へ前へと進んだ。
湊は相手を確認することなく、いきなり玄関の扉に手を掛けていた。





「―――っ!」
 玄関先に立っていたのは、寒さで顔を紅潮させた武尊だった。武尊の手にはスーツケース
と小さな紙袋がいくつも握られている。
 湊は驚いてドアノブを掴んだまま固まってしまった。武尊のバックにはキラキラと瞬く
星々が降って来るみたいに輝いていて、それに武尊が映し出されているように見えた。
 クリスマスプレゼントに武尊の幻をみているんじゃないかと、そんなことまで思ってしまう。
「ただいま、でいいかな?」
「武尊、さん・・・・・・」
ただいま―――。
 その言葉の意味は深い。
「離婚届提出してきました。背負わなくてはいけないしがらみは未だたくさんあるけど、
法律上では何の縛りもない、ただの男になりました」
「あの・・・・・・」
「うん。慰めでも傷の舐め合いでもなく「家族をしよう」っていうあの言葉、まだ有効かな?」
「え?あの・・・・・・うん」
心臓が緊張で張り裂けそうになっている。武尊の次の言葉が出てくるのを湊は息を呑んで
待った。
「やっと彼女達と決着が付いたんだ。幸せになるためには犠牲も払った。娘の問題は一番
ナイーブな事だし、俺も彼女達も悩んだけど、決着は付いた。だから、漸く俺は、俺の
俺だけの人生のことを考えた―――湊君の答え、持ってきたんだけど」
そう言って武尊は両手いっぱいの荷物を指す。その答えは、湊の一番欲しかったものに
違いない。
 武尊がはにかむと、湊の涙腺は一気に崩れた。
「それって・・・・・・」
湊は武尊に手を伸ばす。武尊は荷物を手放すと、その手を手繰り寄せて湊を抱きしめた。

「一緒に暮らしたい。もう一度家族の続きをしたい。・・・・・・湊君が好きだ」

「嘘みたい・・・・・・」
好きの響きに湊は酔い気味になった。ずっと欲しかった言葉は半ば諦めかけていた。後は
自分の心の中で感情が死んでいくのを静かに待つだけなのかもと覚悟していた。
 武尊は湊の髪の毛に唇を落とす。
「本当は自分に向き合うのが怖かったんです」
「怖いって?」
「答えはずっと前からそこにあって、何度も目の前を素通りしてた。だけど俺は男だし
湊君も男だし、世間体とか自分の中の価値観とか、それを手放すのが怖かったんだ」
「うん・・・・・・それは僕も同じだよ。世間や・・・・・・ううん、親に対して後ろめたさは今でも
あるよ。開き直ってるけど、100%自信もって自分はゲイですなんて言えないもん」
「そうですよね。・・・・・・自分がこういう立場になって初めてこのジレンマに悩みました。
この気持ちを中途半端にもったまま離婚の話を続けるのが辛くて、とにかく片付けられる
ものからって。そうやって先延ばしにしてしまった。ごめん、湊君はずっと待っていて
くれたんだよね」
「待つ以外、諦めることしかできなかったから・・・・・・半分諦めてたけど」
ぐすっと鼻をすすって湊が顔を上げる。武尊は困った顔でその頬を撫でた。
「湊君が全部諦めてたら、俺はどうしたらよかったんだろう」
「その時は、武尊さんが僕を追いかけるんじゃない?」
鼻声で笑うと、武尊は湊の頬に付いた涙を指で拭い取った。
「それ、キツイなあ・・・ノンケがゲイに恋するって」
「あはは、されてみたいなあ。奇跡みたいだけど。でも、もう十分奇跡みたいなこと、
起きてるか」
「うん。起きてる」
「武尊さん好き」
「うん。俺も」
武尊も湊も魅かれるままに唇を寄せた。冷たい唇の向こう側に熱い感情が湧き上がって
深く繋がるほどに、体中が相手を欲した。
 玄関先であることも忘れて、2人はお互いの体を手繰り寄せる。湊は武尊のコートの隙間
に手を差し込んで腰に手を回した。
 冷たい風を受けて薄着の湊は体を震わせる。その身体を包み込むと武尊は再び湊の唇に
キスをした。
 熱情。武尊の中に眠るその熱さを呼び起こしたのは湊だ。こんな風に人を欲した事など
なかった。日を追うごとに湊を欲する心は膨れ上がった。そして、それは自分の価値観を
見事にぶち壊して、武尊は今ここにいる。後悔はない。次の新しい人生は彼と歩もうと武尊
は決めたのだ。

 湊の白い肌が夜の中で輝いている。冷たい風が吹いてスーツケースの上に置いた紙袋が
揺れた。
「・・・それ何?」
湊はゆっくりと唇を離すと、武尊の後ろで揺れている紙袋に目をやる。
「ああ、そうだ。クリスマスだから。ありきたりだけど」
そう言って見せた紙袋の中は、チキンとワイン。湊は頬を緩ませた。
「今日ね、うちの音楽教室のピアノの発表会があったんだ。そこで生徒さんの親にクリスマス
だからってケーキ貰っちゃったんだけど、無駄にならなくてよかった」
「パーティーでもする?」
「うん」
「湊君のご飯、久しぶりだ」
「僕も誰かとご飯食べるの久しぶり」
「・・・・・・そういえば、紺野は?」
「武尊さんが出て行ったすぐ後に、帰ったよ」
「あの子に悪い事したなあ」
「僕も・・・・・・」
2人は顔を見合わせて、苦笑いをかわす。お互い不器用な想いの狭間で紺野を傷つけた。
「紺野にぶん殴られても、文句言えないかも」
武尊は溜め息交じりに言った。
「僕も一緒に殴られるかなあ・・・・・・青あざ作られると仕事にならないんだけど」
湊は冗談っぽくそれを返す。
 一層強い風が吹いて、武尊のコートを巻き上げた。武尊に張り付いている湊も寒さで
体を震わせる。
「うわ、寒い」
「とりあえず中入っても?」
「うん、そうだね。ご飯の準備しなきゃ。武尊さんも手伝ってみる?」
「悲惨な事になってもいいなら」
武尊が苦笑いする。
「サラダくらいなら作れるよきっと」
湊は笑って、名残惜しそうに武尊から離れると玄関のドアを開けた。武尊に目配せして、
先を促す。
「ありがとう。―――ただいま」
「おかえり」
ゆっくりと玄関のドアが閉まる。降り注ぐ星の光を体中に浴びた2人は、家の中へと消えて
いった。

 湊の母が植えていった庭のハナミズキはすっかり裸になって風にその体を揺らしている。
寒そうに揺れるその木の向こう、リビングの窓には、湊と武尊のシルエットがぼんやりと
浮かんで、そして消えた。
 カーテンの隙間から漏れる明かりはどの家とも変わりなく、幸せな家族の風景は彼らの
家にも映し出されていた。










2009/4/16
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