なかったことにしてください  memo  work  clap




 紺野は湊の教育実習中、音楽準備室に態々やってきてまで湊に絡んでいた。
「湊ってさ、音大通ってんの?」
事務用のタイヤのついた椅子に背もたれに顎を乗せてまたがり、紺野は湊の隣によって来ては
何かと話を掛けた。
「そうだよ。・・・・・・っていうか、紺野。僕一応実習生だけど先生なの。呼び捨てはどうかと
思うんだけどね」
「いいじゃん、先生じゃないんだろ」
「まあね」
「なあ、音大生って、音楽家になるんじゃねえの。なんで先生なんか」
「先生なんかっていうのは、先生に失礼だよ。それに音大生の皆が皆、音楽家になれるわけ
じゃないんだから。音楽で食べていけるのなんてごく僅かの優秀な人だけだし。・・・・・・僕は
おちこぼれなんだ」
「おちこぼれ?」
「うん。高瀬家のおちこぼれ。家族の中でおちこぼれちゃったんだ」
「・・・・・・俺と同じじゃん」






 他愛の無い会話の中で、引っかかっていた一言が不意に蘇った。机の中にしまった忘れ物
みたいに、引き出しを開けて気づく。
 紺野はどんな顔をして、あの一言を言ったんだろう。
 あの当時、詳しい事情は聞かなかったけど、担任の教師からも紺野真は要注意な生徒だと
告げられていた。紺野は家庭に事情があるから、と。
 その家庭の事情が原因で紺野の容姿がこんなにも変わってしまったのか、そして自分の
ところに飛び出してきたのか、湊はそれを探ろうとじっくりと紺野を見据えた。
「・・・・・・なんだよ」
「紺野をここに住まわせるっていうなら、帰る場所が無いって話、もう少し聞かせてもらって
もいいよね?」
「・・・・・・」
「頭ごなしにダメとは言わないよ。だけど、事情も聞かないでいいよとは言えないでしょ。
紺野が僕を頼ってここまで来たってことは、それなりに辛い事情があるんだろうし。全部
洗いざらいしゃべってくれなくてもいいけど、僕が納得できるくらいは話してもらわないと」
「大人って面倒くせえな」
紺野は金髪の髪の毛を掻きあげた。ダイニングテーブルの上にぶら下がったオレンジ色の
ペンダントライトがその髪の毛をキラキラと輝かせている。湊はその姿に眉間に皺を寄せた。
「紺野」
語気を強めて名前を呼ぶと、紺野は顔を逸らした。言いたくない事情があるのなら、自分を
丸め込めるだけの嘘でも並べればいいのにと、湊は内心苦笑いする。きっと根っこの部分は
純情で、だからこそ傷つきやすくて、紺野は今ここにいるのかもしれない。
「親父が・・・・・・」
「お父さん?」
「あいつが悪いんだっ」
紺野の顔が翳っている。苦渋を噛み締めるような、思い出すだけでも辛い記憶が紺野の中に
蘇っているみたいだ。
「紺野のお家って、お父さんとお母さんと、弟さんがいるんだっけ?」
「・・・・・・そうだけど」
個人調査票で見た家族構成。それ以外は知らない。ごく普通のありふれた家の中にどんな
問題があるんだろう。
「お父さんと喧嘩でもした?」
「・・・・・・あいつとなんて、口も利きたくない」
「喧嘩かあ・・・。勉強の事?学校の事?」
「そんなんじゃねえよ」
紺野は拳を握った。紺野の為に淹れてあげたお茶はそろそろ生ぬるくなり始めている。その
お茶には一口も手を出さずに、紺野は俯いて、手持ち無沙汰な時間をやり過ごそうとした。
突っ込んで事情を聞こうとしていた湊だったが、紺野の顔を見ているとその一歩が踏み出せ
なくなってしまった。




 無言の中で、時計の秒針がカツカツと時の足音を鳴らす。キッチンの水道からポタンと
水滴がシンクに跳ねた。
 その音に反応して湊は時計を見上げた。11時を回って、紺野がここに来てもう1時間以上
経っていたことを知った。
 このままでは埒が明かない。
「・・・・・・わかったよ。紺野はお父さんと喧嘩した。仲直りするまでここにいる、そういう
ことでいいんだね?」
「いいのかよ、ホントに」
期待と不安の入り混じった顔で紺野が顔を上げた。
「いいって言わなきゃ、どうしようもないでしょ」
不戦敗みたいな気分で湊は言った。どんな生活になるんだろう、と既に3人での暮らしを
心に描き始めて、それも仕方が無いかと諦めかけていた。
 人に甘くなるのは自分が弱いからなんだろう。湊はそんなことは百も承知で紺野を受け
入れようとしている。
 わかったよ、そういい掛けた時、思わぬところから「待った」がかかった。
「俺は、反対だな」
「武尊さん・・・?」
武尊はソファから立ち上がって近づいてくると、紺野を一瞥した。
「何?」
紺野がその視線に負けないように睨み返す。武尊はあっさりとそれをかわして湊を振り
返った。
「・・・湊君、ごめんね。聞き耳立てたわけじゃないんだけど、聞こえちゃったから」
「ううん、別に聞かれて困る話じゃないから」
湊が首を振ると、紺野はイライラしながら武尊に噛み付いた。
「なんなの、あんた」
武尊はまだ紺野と視線を合わせない。
「俺がこんな事言えた義理じゃないけど、この子がここに住むのは俺は反対」
敵意があるわけでもなく、冷静に響く「反対」の声に湊の頭も瞬間で冷えた。
「うるせえな、何なんだこいつ」
「こいつなんて言わないの。ちゃんと聞きなさい。武尊さん、ごめん。続けて」
「うん。よく考えてみた方がいいと思うよ。彼は未成年で高校にも通ってる。そんな子が
家出なんてしたら、どれだけの人が心配するか」
「心配なんて誰もしない」
「じゃあ、どれだけの人に迷惑が掛かるか」
武尊は漸く紺野に視線を向けた。大人の目だ。大人が子どもを見る視線。湊には持ち合わせて
なかったものだ。
「迷惑って・・・」
「連絡も取れない、高校にも行かない、自分が勝手に出て行っただけだから、迷惑なんて
掛かってないとか思ったら大間違いだ。人がいなくなるってことが既に迷惑なんだから」
武尊は半ば自嘲気味に言った。彼も家族に捨てられて、そして家族を捨ててここにいる。
けれど、大人の武尊と子どもの紺野では立場が違う。
 武尊の視線は大人だ。湊は自分が紺野の立場ばかりを見ていたことにはっとした。
彼は未成年なのだ。自分達とは違うことに、どうして気づかないんだろう。武尊は、どう
して気づけたのだろう。
「・・・・・・確かにそうだね。紺野は未成年だし、家出してきたのを匿うわけにもいかない」
「なんでだよっ。さっきはいいって言ったじゃねえか。こいつの所為か!こいつが余計な
こと言うからっ」
「紺野」
「何だよっ」
「何度言ったら分るの。年上の人に向かってこいつとかおまえとか。失礼だよ。あのね、
僕達は社会人だし、社会に対して責任がある。だから、紺野が黙って家を出て、住まわせて
欲しいって言っても、そうそうOKは出せないんだよ」
途端、だんという激しい音を立てて紺野はダイニングテーブルを拳で叩いた。マグカップ
の中のお茶が揺れる。湊は倒れないようにカップを両手で包んだ。
「紺野のそういうところ、よくないな」
「どういうとこだよ」
「人の話を最後まで聞かないとこ」
「聞いたところで、何があるってんだよ」
「あるよ。だからね・・・・・・」
湊は紺野の顔を見据えた。大人も子どもも一緒に暮らすのって大変だ。けれど、変則的な
家族がまた膨らもうとしてる。
 彼も、彼なりの事情があって、自分と同じように傷を負って、癒す先を求めてた。だったら
少しでもここが、彼の「家族」の役割になればいい。
「・・・・・・」
「だから、紺野がちゃんとお家の人にここの居場所を伝えて、毎日学校にも通うって約束
してくれるなら、紺野の気持ちに決着が付くまでここにいればいいよ」
それでどう?と湊は武尊を見上げた。
「湊君がそれでいいなら。俺はいいですよ」
「うん。じゃあそれで。紺野もそれでいいね?」
有無を言わせないタイミングで湊は半ば強引に話を決めた。
「・・・・・・家出になってないじゃねえかよ」
呟いた紺野も、それ以上は文句を言わなかった。





紺野の部屋はとりあえず空いていた客間を与えた。
「すみません。俺、でしゃばった事言っちゃったみたいで」
紺野を風呂に押し込んで、湊は再びキッチンに戻ってくると、リビングで武尊が少しバツの
悪そうな顔をして湊を待っていた。
「ううん。武尊さんの言うとおりだもん」
「俺もただの居候なのに、偉そうな事言ってしまって」
「ただの居候じゃないよ。・・・・・・「家族」でしょ?」
湊の微妙なニュアンスに武尊は曖昧に笑う。
 2人の距離も難しい位置にあるのに、もう1人、子どもが加わって、この家族はどんな風
になってしまうんだろう。
 自分で気づかない振りをしている気持ちを、同じ屋根の下に住んでいる他人にはどう
映るんだろう。
「紺野は、子どもだけど、根は繊細で傷付きやすいんだと思うんだ。・・・・・・だからって訳
じゃないけど、どうも紺野の方に感情移入しちゃって、自分が大人で責任があるってこと
忘れちゃってた」
「子どもが出来ると、自分が子どもだった頃の思いが霞んで、親の視線になってしまうん
ですよね。子どもの頃、親の心配がウザかったことや、学校サボった事とか、全部忘れて
しまう」
「そういうもんなんだ」
武尊の顔を振り返らずに湊は返事を返す。それから、すっかり冷めたマグカップのお茶を
飲み干して、シンクに置いた。
 武尊には別の家族がある。奥さんがいて、娘もいる。チクリ、チクリとその事実が湊の胸
を焦がしていくみたいだ。
 湊の知らない別の顔。父親の顔をした武尊を垣間見たような気がして湊は苦しくなった。
いつか出て行ってしまう。ここはかりそめの宿。即席のもろい家族で、本当のそして武尊
が帰りたがっている家族は別にあるのだ。
 ぽたり、シンクに水が落ちる。湊はその音に自分の気持ちがどんどん武尊に惹かれている
ことに気づいて驚いてしまった。
 認めないわけにはいかない。そんなところまで来ているんだろうか。この人を好きになる
ということは、今まで以上に辛い道だ。
 既婚者で壊れかけた家族を必死に繕おうとしているノンケの男なんて、好きになるだけ
無駄だと、冷静に見詰めるもう1人の自分が警告しているのに、走り出した気持ちは膨らみ
続けるだけだ。どこが好きなのか、どこに惹かれているのか、湊にもはっきりと分らない。
 ただ一緒にいるだけで、ほっとしてしまう。自分のピアノを聴きながら転寝する武尊を
見て幸せだなと感じた。作った夕食をおいしそうに食べる姿に、ずっとこのままでいられたら
いいのにと願ってしまった。
「・・・・・・武尊さんは、大丈夫なの?」
「え?」
「お家、飛び出したままで・・・・・・」
「そうですね。いい加減決着つけないと、湊君にも迷惑かかりますしね」
「僕は別に迷惑なんて思って無いよ。武尊さんがいてくれると、僕も楽しいし・・・・・・」
言ってから、本当に実感する。武尊との生活は楽しい。失恋の傷を癒す為に他人と馴れ合った
だけのつもりだったのに、武尊といる生活は思いの他、湊にとって楽しくて変えがたいもの
になっていた。
「俺も、結構楽しいですよ。この生活」
武尊はダイニングテーブルに着いて、両手を組みながらそれを見詰めた。お互い視線を
合わせることは出来なかった。
 2人でいる事の意味合いが違ってきている。この空気を読み取って欲しいような、気づかれ
たくないような、もどかしい時間が2人の間を流れた。
「・・・・・・武尊さん、何時まで、ここにいてくれるのかな」
口にした途端後悔した。答えなんて聞きたくない。湊が欲しい答えなど、武尊の口から
聞けるはずはないのだから。
食器棚にカップをしまって、武尊に完全に背を向ける。表情一つでも見てしまうのが
怖かった。
 武尊はもごもごと唸った。
「・・・・・・湊君が今すぐ出て行ってほしいのなら、直ぐに出て行きますよ。でも、そうでない
のなら、もう少し厄介になろうと思ってますけど」
今聞ける最大のフォローだ。
 見えない武尊の家族がチラつく。親子3人で笑い合っている姿。休日のよき父親をしている
武尊。娘と遊んで、家族で夕食を囲んで、そんな普通の幸せな家族の妄想が湊の頭の中で
描かれた。
 この人には帰る所があるのだ。だから、この人を欲してはいけない。
でも、今だけは。
「うん。いるといいよ。傷が癒えるまで」
湊はにっこり笑って、武尊を振り返った。



 もうすぐ紺野がホカホカの湯気をまとって風呂から出てくるはずだ。歪な集まり出来た
家族だけど、幸せに過ごしたいと湊は思っていた。



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