なかったことにしてください  memo  work  clap



この春の人事で営業の吉沢さんが課長に昇進した。異例の昇進だ。勿論それは、有能
な吉沢さんの能力ゆえ、なのだけれど。
 俺は、といえば大学を卒業してこの貿易関係の会社に就職して3年経ち、4年目の春、
ようやく入ってきた15人の後輩をあまり良いとはいえない方法で面倒を見ている。
 もともと、俺は人を育てることが下手くそらしく、後輩指導といいつつも、面倒くさい
ことは全て自分で片付けてしまう。それでは後輩はいつになっても育たないとはわかって
いるのだけれど、余計なおせっかいをすぐに焼いてしまう。
 吉沢さんからも、それとなく注意を受けたりするのだけれど、なかなか後輩指導という
ものは難しい。その点、吉沢さんは後輩に対する指導がずば抜けて上手い。
 自分の能力を充分に発揮できるように部下を使う。そして、部下の能力が充分に発揮で
きる様に、部下に指示を出す。出来るまで根強く待つ。そして、プロジェクトが成功する
と、誰よりもがんばった部下を褒める。
 かく言う俺もそうやって吉沢さんに褒められた口だ。そうして、一度吉沢マジックを
味わってしまうと、後は抜け出せなくなる。もう一度、吉沢さんと仕事がしたい、吉沢さん
に褒められたい、そう思ってしまうのだ。
 入社一年目の夏に大きなプロジェクトでほんの少しだけしか役に立たなかった俺ですら
そう思うのだから、吉沢さんに憧れと尊敬の念を抱いている社員はかなり多いはずだ。
 だから、課長に昇進が決まった時も皆納得顔だった。我がプロジェクトチームから課長
が出た、ということで、プロジェクトチーム内では盛大に昇進祝いをしたものだった。
 (俺にも吉沢さんの能力のほんの少しですらあればいいのに・・・)
俺はデスクにのさばっているパソコンのキーボードを無意味にカチャカチャと叩きながら
研修内容を思案していた。ある程度の総合研修は配属前の4月中に済んでいる。
 俺がする研修は営業部に入ってきたヤツの研修だ。総合研修で会社についてのある程度
心構えを叩き込まれたとはいえ、実際に社会の荒波にもまれたことのないヤツらは、考え
が一々甘い。先の接客研修ですらなんども同じ注意をしたものだった。
 次の新人研修は実際に営業をさせることだ。ただ、大学あがりの甘ちゃん社会人にどん
な営業研修をさせていいのかいまいち判らない。俺が入社したときは、大きなプロジェクト
が動き出しており、研修なんて1週間程度、後は実践で学べと言われ、いきなり放り込まれて
しまった。勿論結果的にはものすごい勉強になったわけだが、これと同じことを、新人に
やらせることはできないだろう。一つ上の先輩にも聞いてみるのだが、適当な返事をされて
しまう。
 (あー、くそ、めんどくせーな・・・)
画面の研修指導案は未だフォーマットの画面のままだ。辛うじて研修担当者の名前に俺の
「深海慎一郎 営業1課」が書き込まれている。
 画面を凝視していると、フロアがざわついた。
「吉沢課長、おはようございます」
「ん、ああ、おはよう」
俺は顔を上げる。細身のダークグレーのスーツに身を宿した吉沢さんが皆に囲まれている。
さほど背の高くない吉沢さんは人の中に埋もれてしまっている。
吉沢さんは課長になって、直接プロジェクトチームから離れてしまったが、こうして必ず
毎日ここにやってきては進捗状況を確認していく。
 営業1課にはプロジェクトチームが5つあり、それぞれに5〜10人が所属する。
時には同時に一つの案件に対して別アプローチをかけることもあり、社内にいて、ライバル
的な立場になることもあるが、吉沢さんはその5つを満遍なく回り、的確に指示を出している。
 暫くは進捗具合と雑談を交わしていた吉沢さんがふと俺の方を見る。目が合うと軽く片手
を上げた。俺も頭を下げる。
 吉沢さんは人垣を避けて俺に近づいてきた。俺は慌てて立ち上がる。俺の方が身長があ
るため見下ろす形になってしまうのが少しだけ申し訳ない。
「おはよう、深海。元気なさそうだな」
「おはようございます。吉沢さん・・・じゃなくて、吉沢課長」
「はは、別に無理に課長なんて呼ばなくてもいいよ」
「い、いえ、けじめですから。すみません」
吉沢さんはテナーよりやや高めの声で笑った。有能な上司に向かって失礼だとは思って
いるのだけれど、吉沢さんの身体成長は中学卒業で止まってしまった様に思う。
 170に届くか届かないかくらいの身長に、着やせするタイプなのかは判らないが、明らかに
細い四肢。あんな細身のスーツを着こなせる人間なんて、モデルかホストか吉沢さんくらいだ。
 さらには、完全に下がり切らなかった声。しっかりと喉仏が動いているのだから、それ
でも、小さい頃よりは低くなったのだろうけれども。
それに、下手をすると22,3歳くらいにしか見えない童顔も拍車をかけている。本人はそれ
を結構気にしているようで、若いと言われることがあまり好きではないようだった。
あれ・・・?何に拍車をかけている・・・?
俺は自分の考えに一瞬戸惑った。
「なんだ、深海、まだ研修内容決まってないのか」
俺が1人で吉沢さんの身体的特徴についてグルグルと考えを巡らせている隙に、吉沢さん
は俺のパソコンの画面を覗いていたようだ。
「はい・・・次は営業研修なんですけど、どうしたらいいか・・・吉沢さんも研修されたことあ
るんですよね?」
「勿論あるよ。まあ一概にコレがいいとは言えないから、俺のときは新人のデータ見て考
えたかな」
「さすがだなあ」
思わず心の声が口から出てしまう。
「何がさすがだよ、深海もコレくらいやれるはずだよ」
「俺は・・・ダメですよ、全然機転も効かないし」
「悩んでるな、深海。あんまり深刻になるなよ、回りにはいっぱいいい手本がいるんだから」
「そうですね、吉沢課長という営業1課の英雄が」
「バカタレ」
吉沢さんはそう言って手にしていた書類で俺のデコをパスっと殴った。
「酷いデス、吉沢課長。せっかく褒めてるのに」
「お前に褒められると、ろくな事が起きない気がしてな」
俺と吉沢さんがしゃべっているとプロジェクトメンバーが2,3人集まってきて、俺をコケに輪に
入ってくる。
「課長、ガッツリ言ってやってくださいよ、この腑抜け深海に。課長が抜けてから、すっかり
やる気がなくなっちゃって」
「そ、そんなことないですよ、課長が抜けて淋しくなったって言ってたのは斉藤さんの方じゃ
ないですかー」
「アホ、俺は課長が抜けて淋しくなっても、お前みたいに腑抜けにはなってないよ」
「はは、斉藤君の方が上手だな」
「課長・・・、俺ここでみんなにいい様に遊ばれてるんですけど・・・」
「やる気を見せないお前が悪い」
回りにいたメンバーがそのやり取りをみて笑う。吉沢さんがここに来るときはいつも空気
が和む。ここ一番ってときは緊張感が走るけど、そうじゃないときは吉沢さんを中心に心地
よい空間が広がっているようだ。
 現にこうやって和気藹々と笑っている時間は一日の中でもこのときだけだ。
「じゃあ、やる気のないヤツをガツンと景気づけするために、飲みに行くか?深海?」
吉沢さんが俺の方を向いて誘った。社内のメンバーで飲みに行くのは珍しいことではない。
それどころか、週に1度くらいのペースで誰かしらと飲んでいる。吉沢さんがチームにいた
頃は、吉沢さんとも何度か飲みに行った。二人だけで、というわけではなかったが。
「あ、ずるーい、いいなー。課長、あたしも、やる気ないんでー、つれてって下さいよー」
前の席の派遣の立川さんがちゃっかりと話に加わってくる。
「じゃあ、俺もー」
斉藤さんも、片手を上げる。がやがやと吉沢さんの回りに集まりだして、吉沢さんは慌てて
訂正した。
「おいおい、みんな俺にタカル気?ダーメ、今日は深海を説教する日だから。お前達は
また今度な」
「えー、深海さんだけずるーい」
立川さんは諦めが付かなさそうに俺を睨んだ。立川さんは吉沢さんが好きなのだ。
「馬鹿な子ほど、かわいい、か」
斉藤さんがボソと呟く。吉沢さんがわずかに動揺したように思えたが、その前に俺が、
「誰が、バカなんですか」
と大声で捲くし立てたので、その動揺に気が付いたのは多分俺だけだろう。
「吉沢課長、ゴチでーす」
俺は何食わぬ顔で吉沢さんに頭を下げる。
「アホ、説教だよ。じゃあ、また後でな」
そう言って、小柄な営業1課の英雄はプロジェクトチームのブースを離れていった。
「お前、ホント役得だよな」
「課長は、自分の足を引っ張りそうなお前に早めに手を打ってるんだろ。気合入れて
説教されて来い」
俺はその日、散々なことを言われて一日を過ごす羽目になった。



「遅くなってすいません、今日に限って後から後から仕事が舞い込んできて」
俺は既に待ち合わせの店で席についていた吉沢さんに頭を下げた。職場から走ってきたの
で息が上がっている。テーブルの上には2人分の箸や小皿がセットしてあるが、料理や飲
み物が運び込まれた形跡がないことから吉沢さんは待っていてくれたのだろう。約束の時
間から30分も遅れたというのに。
 昼休み、ケータイにメールが入った。吉沢さんが、今日の飲みの場所と時間を知らせて
くれた。吉沢さんとのメールのやり取りは、出張に出て待ち合わせをした時に使ったくら
いで、こんな風にメールをもらうと、何故か照れてしまう。
「今日『プレジャー』に7時で」
たったこれだけの素っ気のないメール。出張の時の待ち合わせメールもこんな感じだった
けど、勿論友達に使うみたいに、「(笑)」とか変に顔文字を使う吉沢さんなんて想像で
きなくて、返って「らしく」て笑えてしまった。

「ああ、いいよ、いいよ。俺もまだ付いたところだから」
吉沢さんはスーツのジャケットを脱いでモスグリーンのシャツの袖を軽く折り曲げている。
俺も席に着くと、ジャケットを隣の椅子にかける。
「皆、俺が吉沢さんと飲みに行くのが気に入らないんです」
「何で?」
「・・・ただのヤキモチですよ」
「はは、なんだよ、それ」
「吉沢さんは皆の憧れなんですよ。だから俺1人が飲みに連れて行ってもらえるのが気に
くわないんですよ」
「ただ、俺を利用して上に上がりたいだけだろ」
わかってないなあ、と思う。後輩をあれだけ虜にしておきながら、自分の魅力にはとこと
ん無頓着なのだ。
「まあ、今日は俺の奢りだから、好きなの頼んでくれ」
「ありがとうございます」
この若い上司に俺は頭を下げ、メニューを広げた。適当なものを見繕って店員に頼む。
2人で来るのは初めてで、会話のつなげ方に困ってしまう。出張で2人で行動したことは
あるが、こうやって、2人で膝を突きつけて飲むことはなかった。
 俺、なんか緊張してるなあ。・・・吉沢さんはどうなのかな。ちらっと顔をうかがうと、
心なしか顔が赤い気がした。照れている?・・・んなわけあるかよ。
「吉沢さん、もしかして体調悪かったりしませんか?」
「え?何で?」
「すみません、心なしか顔が赤い様な気がして」
「・・・やっぱり、深海はちゃんと洞察力あるじゃない」
吉沢さんはニコっと笑う。
「え?え?やっぱり、体調わるいんですか?そんな無理しないでくださいよ」
「いや、大丈夫だよ。ちょっと熱っぽいだけだから」
「ホントに大丈夫ですか?これで倒れられたら、チームの人達絶対俺のせいにしますから」
「あはは、それは申し訳ないな。でも、大丈夫だよ、大したことない」
場が沈黙したところで、店員がビールを持ってきた。俺は店員に軽く礼を言って、グラスを
手にする。吉沢さんもグラスを手にして、乾杯のポーズを作る。
「これからの深海の活躍に期待して」
「えっと・・・吉沢さんが体を壊さないことを切望して」
カツンとグラスの当たる音がする。
 俺は手にしたビールを半分くらい一気に飲んだ。


 「たぶん、今の深海に必要なのは、『突き放す覚悟』だ」
「そうかもしれません。俺、新人達に良くしてやりたくて、この会社のことを嫌いになら
ないで欲しい、っていうか先輩としての俺を嫌いになられたくないっていうか」
「そういうのって、誰にでも経験あることだよ。俺だって同じようなことで悩んだことも
ある」
「よ、吉沢さんがですか?」
「人を化け物みたいな扱いするなよ。俺だって、新人の頃があったし、初めて先輩になって
どうしていいのか判らなかったときもある」
「新人研修なんて、新人を鍛えるんじゃなくて、新人を指導するヤツを鍛えるためにある
ような気がするんですよ。今後の対人関係を作る上で一番大切なときでしょう?」
「俺も同じこと思ったよ。新人より俺の方が神経磨り減ってるんじゃないかってね」
吉沢さんにもそんなときがあったのか、と思うと心なし気分が楽になる。
「後輩のために厳しい指導をしてくれた先輩を嫌いになるヤツなんかいないよ」
「そうでしょうか・・・」
「あたりまえだろ。深海は斉藤君にしごかれたと思うけれど、別に嫌いになんてならな
かっただろう?」
「勿論そうですけど、でも」
「でも、それは、斉藤君が深海の為に一生懸命やってくれたことがわかったから?だろう」
「はい・・・吉沢さんは読心術でも持ってらっしゃるんですか?」
「そんなもの持っていればこんなに苦労しないよ」
「え?何をですか?」
「・・・人生を、だよ。深海は変なところで突っ込みが厳しいよな」
「人の揚げ足をとってよく怒られます」
吉沢さんは呆れたように笑った。
「深海は分かってるんだから、あとはやる気だけだよ。深海なら、きっといい先輩になる」
「吉沢さん、褒めすぎです。俺、そんな自信ないですよ。でも、後輩に嫌われるかもしれない
って思って、ろくな指導できないでいるなんて正直自分でも情けないって思ってるんです。
甘やかすのと、面倒を見るのって全然違うっていうか」
「大丈夫だ、深海なら」
吉沢さんはさっきよりももっと赤い顔で呟いた。


  <<2へ続く>>






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