新人研修の俺の役目は新人が提出した研修日誌を確認して吉沢さんに渡すこと。
勿論全部目を通して、次の日の反省会の題材を確保することも役目。要するに、
新人研修においては全くの裏方な訳だ。
しかも、研修報告書は新入社員がその日のうちに人事に提出してそれが回ってくる
わけだから、当然残業仕事になる。
新入社員の報告が遅くなればなるほど、俺の帰りも遅くなるわけだ。
まあもっとも、吉沢さんなんてその後になるわけだけど。
せめて吉沢さんだけには迷惑かけないようにと日ごろから思っているのに、この図式
じゃ、吉沢さんに被害が直撃してしまう。
仕事なんだからしかたないんだけどさ。
吉沢さんに「そんな弱気でどうする」ってぼやかれそうだな・・・。
俺が落ち込みながら自分の席に戻ると、前の席の立川さんが顔を上げて言った。
「新人研修の担当なんて、つくづくついてないのね、深海さんって」
「つきの悪さだけは天下一品なもんで・・・」
「その悪運を吉沢課長にまで取り付かせないでよ」
「あはは、大丈夫ですよ、吉沢課長は疫病神の1人や2人、跳ね返すくらいのオーラ
吹き荒らしてるから」
「そんなこと言って、課長に張り付いておこぼれ貰おうなんて考えないでよー」
「立川さん・・・厳しいッス」
あれ(吉沢さんと2人で飲みに行って)以来、立川さんの風当たりがやたらと厳しい。
もちろん理由はわかりきったことなんだけど、吉沢さんの「今度のみに行きましょう」が
ただの社交辞令だってことが濃厚になってきて、立川さんは俺に「八つ当たり」という名の
いやみを顔を会わせるたび届けてくれる。
あからさまにため息を吐くのも気が引けて、俺は苦笑いを返す。
ただでさえ吉沢さんに対して、自分の気持ちに自信がないのに、これ以上
心を煩わすことをしないで欲しいのだけどね、立川さん・・・。
言えないことは充分承知なので、心の中でそっと呟いた。
研修が始まって一週間、いつもに増してハードワーカーな俺は、立川さんにさえ
心配されるくらいに疲れていた。
2日前、ついに部長から呼び出しを食らったのだ。本来プロジェクト単位で評価
される仕事なのに、何故俺に直撃してきたのかと言えば、単に俺は上にウケが悪いから
なのだ。ただそれだけ。いつもかばってくれる斉藤さんも吉沢さんも今回ばかりは
どうにもならなかったらしく、部長の営業指導という名のいやみを3時間も聞かされる
羽目になってしまった。
確かに俺個人の営業のまずさは目を瞑ることのできない感じではあるけど、俺に
プロジェクトの方向性を変えてまで営業するほどの権力はないし、そんなこと勝手に
したら迷惑かかるだろっと、部長のいやみを聞き流しながら俺は何度もそう思った。
自分のデスクでため息を吐いていると、吉沢さんが進捗を確認しにやってきた。
「みんな、おはよう」
「先輩方、おはようございます」
吉沢さんの声に続いて、別の声が響く。
ああ、出た、俺の二つ目の心労。
「おはようございます、吉沢課長。おはよう鷺沼君」
斉藤さんが席を立って、吉沢課長に向い頭を下げる。
「おはよう、斉藤君」
「おはようございます、斉藤さん」
「鷺沼君、どう?吉沢課長についてると勉強になるでしょう?」
「はい、それはもう。出来る先輩につけて幸せです」
彼は、鷺沼といって、吉沢課長付きの新入社員だ。これが、また、困ったやつで、
(別に何かとんでもないことをやらかすとかそういう意味ではなく)とにかく、
「吉沢さん命」みたいなところがあって、尊敬してますオーラが凄いのだ。
吉沢さんのやることなすこと全部崇拝して、忠実な部下というよりなにかシンパ
にでもなってしまったような感じもする。
さらに厄介なことに、鷺沼は新入社員といえど、大学院を卒業後、何のためかよく
分からない留学を経て今年就職した27歳なのだ。年齢で言えば俺よりも年上なのである。
この年で自分より年上の新入社員が入ってくるということを全く想定してなかった俺は
鷺沼に対してどう対応してよいのか、いささか困り果てている。
そこへ来て、鷺沼の俺に対する態度は劣悪なものだった。
自分の尊敬する「出来る吉沢課長」が俺のような「ダメ社員」に対して気を使っている
というのが気に食わないらしい。
確かに、吉沢さんは何かと俺を気にしてくれる。それは、ダメな社員をちゃんと育てよう
という吉沢さんの寛大な心遣いゆえのことなのだが、鷺沼にしてみれば、俺みたいなダメな
社員をかまっているより、そんな時間があるなら自分に目を向けて欲しいのだろう。
そういう訳で、鷺沼は俺を見る度、鋭い視線で俺を睨み付けてくるのだ。勿論あからさま
ではないけれど。そんな殺気だった視線なら、後ろから直撃したって、分かるっつーの。
手元の資料をまとめていると、吉沢さんが近づいてきた。俺は、すっと、立ち上がって、
目の前の自分より小さな(そして困ったことにかわいく見えてしまう)上司に頭を下げる。
「あ、おはようございます、課長」
「おはよ、深海。調子はどうだ?」
「はあ、もう、最悪ですよ。部長には怒られる、残業は長引く。週末が待ち遠しいです」
「部長の件は災難だったとでも思え。あんまり、思いつめるなよ」
「まあ、思いつめるほど神経質には出来てないので、大丈夫です」
そういって笑うと、吉沢さんの後ろから冷ややかな視線を感じた。・・・鷺沼、俺に一体何の
恨みがあるっていうんだ。
吉沢さんは、そんな視線に気づいていないのか、変わらぬ調子で俺に話し掛けてくる。
2,3分談笑していると、冷ややかな視線は明らかに悪意を帯びて鋭く俺を突き刺してきた。
そうして、鷺沼は話に入り込むことに悪びれた様子もなく、(俺から見れば)かなり
偉そうな態度で、吉沢さんに意見する。
「課長、そろそろ、山下主任のところに行かないと、打ち合わせの時間になりますよ」
お前は吉沢さんの秘書かよ?と言いたくなるのを心の中にとどめ、俺はなるべくやんわり
笑いながら、吉沢さんに謝る。
「吉沢課長、相変わらず忙しいですね。足止めさせてすみません」
「いや、部長に呼ばれて落ち込んでたって聞いて、お前が心配だったからな。案外けろっと
してて安心した。じゃあ、後で研修日報のまとめ出しに来いよ」
「はい」
吉沢さんはそういうと、颯爽とブースを後にする。その後ろをコバンザメのように鷺沼が続いた。
「鷺沼君って、課長の親衛隊長みたいね」
俺のとなりで奥野さんが笑っていう。
「ホント」
肯いたのは前の立川さんで、その返事には明らかに軽蔑の香りが含まれていた。さすがに、
鷺沼が吉沢さんの金魚のフンだとしても、俺は軽蔑するつもりにはなれないけど、あまりよい気分
になれないまま、二人が立ち去った方を眺めていた。
珍しく、帰りがけに吉沢さんに会った。俺が新人研修の報告書を吉沢さんに手渡してから、
30分後くらい他の残務整理をして退社したので、その間に吉沢さんはが修報告書を確認した
というのなら、かなりの早いスピードで仕事をこなしたということになる。
「お疲れさまです。もう報告書確認されたんですか?」
「ああ。さすがに15人分の報告書を眺めると目が疲れるよ」
「・・・吉沢さんは、仕事の鬼ですか」
「深海がちゃんとまとめておいてくれたから、早く終わったんだよ」
「そんな風に誉められると、俺付け上っちゃうんですけど」
「付け上がらせて、ついでに営業成績もあがるのを狙ってるんだ」
吉沢さんは嘘とも冗談とも取れる口調でそう言う。ホント、自分でも子どもじみてるとは
思うのだけれど、吉沢さんに一つ誉められる度、もっとがんばろうという気になってしまうのだ。
俺と吉沢さんが営業部の廊下を歩いていると、第一会議室から見知った顔が現れた。
「吉沢課長、お疲れさまです。今お帰りですか?」
そこに俺の名前がないのは、彼なりの嫌がらせなのだろう。
「ああ、お疲れさん。鷺沼、お前まだいたのか。今日は研修早く終わっただろう」
「ええ、ちょっと、研修レポートまとめたりしていたので・・・」
「そうか。でも、あんまり、遅くまでやるなよ、新人は遅くまで仕事しても、何の
評価も得ないどころか、仕事が遅いって思われるだけだからな」
「はい、分かってます」
「そう、ならいい。じゃあ、気を付けて帰れよ」
吉沢さんが再び歩き始めようとすると、鷺沼は決死の覚悟でもするかのような表情で言った。
「あの、吉沢課長、これからお帰りになるんですよね?」
「ん?ああ、そうだけど」
「・・・もしよろしければ、一緒に食事でもどうですか?」
俺はびっくりして思わず鷺沼の顔をまじまじと見詰めた。
普通、新入社員が課長を食事になんて誘うかよ?
さすがにこのお誘いには吉沢さんも驚いたようで、一瞬の間が出来る。その間はとても
心地が悪かった。それどころか、その間の瞬間に俺は悟ったのだ。
こいつは、本気で吉沢さんのことを狙っている、と。鷺沼は俺を睨んでいるときの
人を見下した不遜さはどこにも見られず、ただ吉沢さんに嫌われたくないという必死さと
苦しさで今にも泣きそうだった。
その感情は俺にも流れ込んでくるような気がした。細くもろい境界線という名の綱を
目隠ししながら渡り続けていた俺の横腹を意図も簡単にぽんとはじかれた瞬間だった。
吉沢さんを恋愛対象として見るヤツがいてもいいんだ。それを自分に置き換える勇気は
まだ持てないけれど、固定観念をぶち破るほどこいつは本気で吉沢さんが好きなのだろう。
俺は今までの仕打ちに妙に納得しながら、吉沢さんの出方を見守った。
「悪いな、これから深海と飯食いながら次のプロジェクトの打ち合わせする予定なんだ」
・・・吉沢さん、そう来ますか。
俺はその時の鷺沼の深く傷ついた瞳を暫く忘れられそうになかった。
吉沢さんは嘯きながら俺を見上げるので、そんな予定は全くなかったけれど、そう言われて
しまうとこちらとしても口裏をあわせないわけにはいかない。
「ごめんな、鷺沼。ちょっと詰めた話になるから、今日は遠慮してもらえる?」
「まあ、一段落ついたら、営業1課で新歓するから、それまでもう少し研修がんばれ」
「・・・はい」
鷺沼の心のため息がここまで伝わってくるようだった。俺は、鷺沼に勝ったという妙な高揚感と
自分の感情が辿る結末を鷺沼に見せ付けられた不安で心が痛んだ。鷺沼は俯いた顔を
キっとあげるといつものあの瞳で俺をたっぷり睨み、失礼しますと呟く。そして、踵をかえすと、
何事もなかったように歩き出した。
その後ろ姿を見送って、吉沢さんが呟く。
「職権乱用、か」
「え?職権乱用ですか?」
「すまんな、適当なこと言って」
「ああ、いえ、それくらいいいですよ。鷺沼、よほど吉沢さんのこと尊敬してる
んですね。俺が吉沢さんの部下であることすら気に入らないみたいで・・・」
「はは、そんなことあるかよ」
吉沢さん、気づいてないんだ・・・。まあどんなに営業の勘のいい吉沢さんだって、まさか
自分についた新人が自分のこと狙ってるだなんて思いもよらないだろう。
「そんなことあるんですよ。俺、鷺沼にえらい睨まれてるんですよ、特に吉沢さんと
一緒にいるときなんて。あいつから見たら俺なんて年下で大して仕事もできないような
人間に見えるのかもしれないけど。まあ、事実、無能さは隠しきれてないですけど・・・」
「俺はお前のこと、すごくいいと思うけどな」
そういうドキっとすることをこの人はなんでもないように言うから、きっと勘違いするんだ。
「そう言ってくれるのは吉沢課長だけです」
「また、深海のいじけ病が始まったか?」
「そんなんじゃないですよ・・・ホント。俺のこと買ってくれるの吉沢課長くらいなもんです」
「おだてても、何にもでてこないぞ」
「いや、別におだててるわけじゃないですよ」
「・・・ま、嘘から出た真っていうし、景気付けに一緒に飯でも行くか?」
「え?あ・・・」
「あ、なんか用事あった?」
「いえ、全然暇ですけど・・・」
俺は前に一緒に飲みに行った日のことを思い出していた。その間に吉沢さんも嫌な空気を
感じ取ったのか、引きつった笑いで
「無理にとはいわないよ」
という。
「全然、無理じゃないっす。行きましょう。俺、この前いい店見つけたんですよ」
俺は慌てて訂正する。こんな棚ぼた逃がしてなるもんか。って、あれ?俺、既に思考が
おかしくなってないか?
違う、違う。俺は、純粋に吉沢さんと酒が飲める機会が嬉しいだなんだ。
俺が思考の袋小路に行きかけていると、吉沢さんが俺の背中を押した。
「じゃ、行くか」
「はい」
嬉しさと焦りでどぎまぎしながら答えると、その横で吉沢さんが困った笑いを
浮かべている。
「はは、ホントに職権乱用しちゃったな」
「いえいえ、課長様がおごってくださるなら、いつでも乱用してください」
吉沢さんは2,3秒考えるように固まって、そういう意味じゃないんだけどな、と呟く。
「え?」
「なんでもない、全く、お前は調子いいなあ」
「はい。よく言われます」
俺は吉沢さんの横に並ぶように歩きながら、頭の中は春色になって、もう既に取り返しが
つかないところまで心が侵食されていることに気づいていなかった。
<<5へ続く>>
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