気まずい。
いや、そんなレベルじゃない。出来ることなら俺の記憶も吉沢さんの記憶も全て抹殺
してしまいたいだ。それが叶わないのなら、今の自分を保つ方法なんて、せいぜい出社拒否
くらいしか思いつかなかった。
　走り抜けた営業部の廊下で2,3人にぶつかって、6階から階段で駆け下りて社外に出た
所までは覚えている。
　そこからは意識が朦朧として、本当に1人でアパートに帰ってこられたのか自信がない。
なのに、吉沢さんの唇を奪った感触はやけにリアルで、いつまでも俺の唇の辺りで心地よい
弾力が残っていた。
　･･･明日、会社休みてーよ！！

　それでも、人間の惰性というものは恐ろしいもので、気が付いたら俺はいつも通り
に起床して、いつも通り、定時に出社していた。
「はぁ･･･。気が重い」
ため息を付いていると、後ろから斉藤さんが声をかけてくる。
「おはよう、深海。疲れてるな」
「いや、まあ、はい･･」
「まあ、昨日の今日だ、お前も色々大変だろうけど、落ち込むなよ？」
「え？」
そういわれて、俺は昨日の吉沢さんの一件を見られていたのかと思って、思わず立ち止まった。
　しかし、そんなわけはなく、斉藤さんが大変だといったのが、昨日の園田とのやり取りだと
いうことに気づいて、自分でも驚いた。
　吉沢さんの唇を奪ったことで、その事件が勃発する原因のことなんてすっかり吹っ飛んでいたのだ。
我ながら、なんて間抜けな。
　立ち止まった俺を斉藤さんが振り返る。
「どうした？」
「あ、ああ、いえ。昨日は俺もちょっと言いすぎたところあるし、園田ともう一度話し合って
みます。あいつだって、ホントに悪いやつじゃないだろうし」
「そうだな。お前のいいところだな、そういうの」
「え？」
歩き始めた俺の背中をぽんぽんと叩くと斉藤さんは先にブースに入っていった。

　実際のところ、出社拒否をしたのは俺ではなく、吉沢さんだった。
「吉沢課長、今日は体調不良でお休みなんだって」
立川さんががっかりしたような心配したような口調で言う。有休で休んでいた立川さんは
昨日のやり取りを知らない。俺が園田と揉めたことも、その原因が吉沢さんであることも。
　吉沢さんが会社を休む理由を立川さん以外はみんなこう思っているはずだ。
『ずる休み』
と。
　それでも、その理由はにわかには信じがたかった。あの吉沢さんが、あれくらいのことで
簡単に仕事を休むような真似はしない。少なくとも俺が知っている吉沢さんはそうじゃない。
勿論俺だけじゃなく、他の社員も思ってるはずだ。
　だから、本当に「体調不良」なのかもしれないし、昨日の揉め事が原因で「体調不良」に
なったのかもしれないと、斉藤さんをはじめプロジェクトのメンバーが思っているに違いなかった。
ただ1人、俺を除いては。
（･･･俺があんなことしたから、会社来たくなかったのかもしれない･･･）
　申し訳なくて惨めだった。そして、この状況をどうやって打破していいのか皆目検討も付かない
まま、俺は陰鬱なまま一日デスクワークをこなさなければならなかった。
　昼休み、俺は屋上に上がった。いつもの緑化した屋上ではなく、その上にある貯水タンクを
囲うために出来た部屋の小さな屋上だ。1人になって、今後の対策を考えたかったのだ。
タバコを咥え、空に向かって、ゆっくりと息を吐く。タバコの味なんて全くわからなかった。
ただ苦味だけが肺の中にたどり着いて、体が毒されていくようだった。
　屋上の手摺にもたれ掛かり、周りのビルを見下ろす。昼休みのオフィス街はわずかな休みを
有意義に過ごすサラリーマンやOLでごった返している。
　幸せそうな顔も切羽詰った顔もとりどりだ。人がいれば、仲良くなったり、尊敬したり、
ぶつかり合ったり、いろんな関係が築かれるのは当たり前のことだ。全ての人間が同じ方向を
向いて進んでいくことほど難しいことはない。
　俺は確かに吉沢さんを尊敬してるし、尊敬どころか、それ以上の感情が確実に押し寄せてきている
ことも、もう否めないだろう。
　素直に告白して玉砕した方がマシなのかな。
　そんなことを考えていると、コツコツと階段を登ってくる足音に気づく。昼休みにこちら側の
屋上に登ってくるヤツは殆どいない。
　照りつける日差しを避ける日陰もないようなこんなところには大抵のヤツは来ない。来るとすれば
俺のように、1人になりたい人間か、ここにいる人間を追っかけてきた人間だけだ。
　足音が止まったので、俺は振り返った。
そこにいたのは園田だった。
「･･･よう」
挨拶をしないのも変な気がして、俺はとりあえず片手を上げて軽い挨拶をした。
「･･･ああ」
園田も小さな声で呟く。そして、躊躇いがちにこちらに近づいてくると、ちょっといいか？と言った。
「俺も、お前と話さなきゃならないなって思ってたトコ」
　俺は、その場を半歩左にずれて、空間を作って園田を招いた。園田はよろよろと、俺の隣に並ぶ。
「何？用事って。まあ、聞かないでも検討つきそうだけど？」
こっちの屋上には備え付けの灰皿がないので、携帯の灰皿を出して、吸殻をしまいながら聞く。
「深海の方こそ」
「ああ、いいよ。お前から会いに来たんだ。先に聞く」
横目で見ると園田は少し俯いて考え込んでいるようだった。こうやって上から見下ろすと、ほんの少しだけ
吉沢さんに似ているような気がする。涼しげな目元とか、やわらかそうな髪とか･･･。
　あー、ダメだ。園田見て吉沢さん思い出してるなんて、俺、ホント末期だ･･･。
園田が俺の視線に気が付いて顔を上げる。瞬間視線を外すのが遅れて、俺は園田と見合ってしまった。
･･･身長も吉沢さんと同じくらいだな。
先に視線を外したのは園田だった。まっすぐオフィス街を見つめて
「昨日は、言い過ぎた。ちょっと自分でも大人気なかったと思う」
と言った。
　そう先制されると俺も返答に困る。
「･･･ああ、俺も、ちょっとカッとなり過ぎた」
園田と同じように俺も手摺に寄りかかり、オフィス街を見下ろす。
「深海はさ、入社したときからずっと吉沢課長の下で働いてるんだろ？」
「ああ、そうだけど」
「吉沢課長って、いつもああいう感じなのか？」
「ああいうって？」
「･･･全面的に自分の部下を信じてるけど、自分の意思は曲げない」
「まあ、そんな感じかな」
園田は俺をチラッと見て、話を続ける。
「なのに、本当に部下がついてきているのか、時々振り返ってみないと不安でたまらない」
「な･･･」
吉沢さんが不安がってる？そんなわけあるかよ。
　このプロジェクトが始まる前までは、いや、園田が突っかかってくる前までは、俺は何の
躊躇いもなく、園田の言葉を否定できただろう。
　確かにこのところ、吉沢さんはちょっと弱気だ。たかが園田に言われたくらいで。
「不安でたまらないわけじゃないと思う。自分について来れないヤツに救いの手を差し伸べて
くれてるとは思うけどな」
「お前も差し伸べられてると思ってる部類か？」
「その言い方、なんか棘があるな」
俺は園田の表情を見ようと横を向く。皮肉そうに笑っているのかと思ったら、そうではなかった。
　園田は真っ黒な髪をさらさらとなびかせていた。笑っているのでもなく、怒っているのでもなく。
あえて言うのなら、悲しんでいるように見えた。
「お前さ･･･」
「うん？」
「あ･･･うん･･･。いや、やっぱりいいわ。なんでもない」
「なんだよ、気色悪いヤツだな。言いたいことがあるなら、はっきり言え。ここでわだかまり残して
どーすんだよ。明日から、一緒に仕事しづらくなるだろうが」
俺はなるべく明るく笑ってやった。見ると、園田は左手で顔の半分くらいを隠している。
　なんだ？変なヤツだな。
「･･･深海、お前、吉沢課長のこと、どう思ってるんだ？」
？！
　びっくりして、俺は園田を凝視した。すると、それは、昨日の吉沢さんの顔とダブって、やがて
昨日の吉沢さんがフラッシュバックして蘇る。
『お前、園田のこと、どう思ってるんだ？』
間違いなく、それは吉沢さんの言葉だった。
　その意味を俺は出来る限り冷静に考えたつもりだったが、言ってみれば園田と吉沢さんの揉め事に
なんで、俺の意見が必要なのか理解に苦しむ。それも、お互いが俺にお互いのことどう思うかなんて
聞くこと事態が無意味に思える。
　俺を味方につけたいというなら、分からないでもないが、生憎、吉沢さんも園田もそういった性格
ではないし、園田に至っては、あれだけ俺にも反発してきているのだから、今更味方もないだろう。
「･･･お前、吉沢さんと同じこと言うんだな」
仕方なく、俺は思ったことをそのまま口にした。
　今度は園田が絶句する番だった。口の辺りを覆っていた手をずるりと下げ、わずかに顔を紅潮させている。
「そ、それで･･･？」
それで･･･。
　･･･そう、それで、吉沢さんが発言を撤回して、俺は何故か暴走して･･･。
うわ、やべ。顔が赤くなる。こんな時に顔赤らめてたら、園田に変に思われちまう。
俺はなるべく冷静を装って、さらりと言った。
「うん。言っておいて、撤回された。･･･なんでもない、気にするなとさ」
「･･･そう」
妙な沈黙が続いた。園田はそれで納得したのか、質問の答えをそれ以上求めては来なかった。ただ、
去り際に一言、消え入りそうな声で呟いていった。
「お前って、結構、残酷だな」
園田は振り返らずに、屋上を後にする。
「あ、おい、ちょっと待てよ。どういうことだよ」
俺は訳が分からず、園田の背中めがけて叫ぶ。なんでいきなり立ち去るんだよ。自分だけ分かった
風にしやがって。こっちは、全然解決してないんだぜ？
「おい、誰に残酷だっていうんだよ？」
園田は歩き始めていた足を止め、振り返ると、いつものインテリちっくな顔で俺を小馬鹿にした。
「それくらい、自分で考えな」
それっきり、園田は振り返りもせず、屋上から姿を消した。
　俺は1人取り残された。文字通り、何もかも取り残された気分だった。6月の照りつける太陽の
暑さに背中がじわじわと汗ばんでいく。
　一体、何がどうなってるのか、さっぱりつかめない園田の行動に、俺は困惑しきってしまう。
俺って、苦労性なのかな。
「あー、暑い」

　休みが終わり、俺は腑に落ちない思いでデスクに戻った。ため息なんて吐いたら立川さんに何を
言われるか分かったもんじゃないから、なるべく平静を装ったりしてるんだけど、依然、心はもやもや
したままだ。
　このままにしとくわけにはいかないよな。
　園田のことが、消化不良を起こしていたこともあって、吉沢さんの件は、なるべく早く決着を
つけてしまいたかった。
　まずは、昨日の非礼を詫びる。そして、チャンスがあったら、玉砕を覚悟しよう。きっとその方が
いいんだ。こんなもやもやな気分で仕事してても、迷惑がかかるだけだ。
　潔く玉砕してしまった方が、精神衛生上いいはずだ。その気になれば、彼女だって、すぐに
見つかる。体が淋しいなら、慰める方法なんていくらでもある。
　そう、俺の中で変なところに居座る吉沢さんを早く「尊敬する上司」の枠に納め直したいのだ。
仕事が終わったら会いに行こう。逃げてても仕方ない。そう思って、携帯電話をポケットから
取り出す。机の下で、こっそり吉沢さん宛てにメールを打つ。
　内容は至ってシンプルだった。『仕事が終わったら会いに行きます』
会ってくださいでも、伺ってもいいですかでもなく、会いに行きますと、俺は打った。そうでも
しなければ、俺の意思が揺らいでしまいそうだったからだ。
　打ってしまえば、しまったで、返事が気になるわけだけど、吉沢さんの返事は意外とすぐに返ってきた。
いつもの吉沢さんらしく、「わかった」と一言。
会ったら何を言うかとか、どう接するかとか、もう全て成り行きに任せよう。今悩んでも、どうせ
俺のことだ、何かあったら暴走するに決まってるし。
　我ながら自分がコントロールできないのは社会人としても情けないけど、吉沢さんみたいに、計画的な
人間には、逆立ちしたって無理なんだし、俺は俺のやり方で決着をつけよう。
　そう思えば、多少気も楽になった。

　仕事は定刻通りには終わらなかった。
あれから、何を吹っ切れたのか、園田がこれでもかっていうくらい、抱え込んでいたリサーチ資料を
俺に回してきたので、それを確認していたら、定時なんて言葉は吹っ飛んでしまったのだ。
　溜まった自分の仕事が片付かないまま時計を見ると、8時を優に過ぎていた。
「ちっ」
軽く舌打ちをして俺は手にした書類を机の上に放り投げる。終わらなくても切り上げるしかない。
「あー、今日はもうダメ」
声に出して呟くと疲れは倍増した。
「なんだ、諦めるのか。まあ、適当に手は抜けよ。なんか用事あるんだろ？ほら、さっさと帰った、帰った」
主任の席で斉藤さんが笑った。
「あれ、なんで･･･」
「お前、時計見て急にそわそわし始めたからな」
斉藤さんってやっぱりちゃんとみてるんだよな。いつもは吉沢さんの下で目立たないことが多いけど
でも、ホントはしっかり俺たちのこと見ててくれてる。
　吉沢さんといい斉藤さんといい、俺って上司に恵まれてる。これは本当に感謝するとこだ。どんなに
自分がやりたかった仕事でも上司が最悪で仕事を辞めた人間を俺は知っている。そんなのはざらにある。
　俺は幸せだ。だから取り戻すんだ。安寧な生活を。
「すんません、今日は、お先です」
俺は、残業で残っていた斉藤さんに頭を下げてそそくさと退社した。
　その足取りは軽くはなかったが、躊躇いはなかった。



<<7へ続く>>








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