吉沢さんが妊娠した。
いや、そのときはホントにそう思ってしまったわけで。
朝起きて、洗面所で吐きそうになっている吉沢さんの背中摩りながら、寝ぼけ頭で
「つわりですか?」
って聞いたら、みぞおちをグーで殴られた。
「っつ・・・痛って・・・」
「お前の頭ん中は一体どういう構造になってんだ?」
口をゆすいで、顔を上げると、吉沢さんは目に涙を浮かべていた。そんなにひどいこと言ったのかと
ちょっと反省してみたが、ただの吐き気による生理的な涙だったらしい。
「・・・最近、胃痛がひどいんだ」
「大丈夫ですか?」
「・・・大丈夫なもんか、部下に1人、もっすごく世話のかかるヤツがいるから、そいつのせいで
俺の神経、磨り減ってるんだから」
えーっと、それは、もしかして・・・。
俺は無言で自分の顔を指差してみる。吉沢さんはにっと笑って、わかってるじゃないか、と言った。
「ひどいです、俺、確かに迷惑掛けっぱなしですけど、神経減らすほど、ひどいことしてないですよ!
ただちょっと、行き過ぎた愛情を振りまいてるだけで!!」
「行き過ぎた愛情は、セクハラというらしいよ」
「吉沢課長〜・・・」
俺は情けない顔をしながら吉沢さんを背中から抱きしめた。ただでさえ狭い洗面所でいい年した男が
2人で絡まってるというのは、傍から見たらなんとも鬱陶しい構図なのだけれど。
「あー、はいはい。お前のアホと変態は治らないって分かってるから何もいわないよ。早く飯食って
仕事行くぞ。・・・っていうか、お前、一回家帰るんだろ?もたもたしてると仕事遅れるぞ?」
吉沢さんは絡みついた俺の手をパシッと叩いて解くと朝の身支度を始めてしまう。
俺ものんびりはできないので、顔を洗って慌てて用意を始めた。
週に3度以上は絶対泊り込んでいる吉沢さんのマンションだけど、未だに俺のものは唯一、歯ブラシ
しかない。
それ以外のものを置くことを吉沢さんが許してくれないのだ。
「だって、そしたら、お前、絶対、ここに住み着くだろ?」
まあ、ごもっともな言い分だけど、せっかく恋人と呼ぶ身分に成れたのだから、住み着いたって許して
くれればいいものを、吉沢さんときたら
「ぜーったい、ダメ。お前と同棲なんて、生きた心地しないから」
なんて、ひどいことをぐさぐさ言うんだ。そりゃ、一体どーいう意味なんですか。俺が泊まったり、
一緒に飯食ったりすることには何にも言わないくせに、一緒に住むのはダメって、どの辺りに境界線
があるっていうんだよ。
まあ、嫌がるのを無理矢理押しかけてってのも、嫌われたくないから、今のところ素直に自分の
アパートに帰ってはいるけど。
本当は一緒に住みたい。せめて、もう少し近くだったら楽なんだけどな・・・。朝、一時間近く早く
起きて、2駅も先の家に帰るって結構大変なんだよな。あー、いっそのことこのマンションに
引っ越したいぜ。俺はついつい、本音が零れた。
「俺、このマンションに引っ越したい・・・」
「なんだ?あそこ、不便なのか?市街地に近いし、飯屋も多いし、いいトコじゃないか」
「見てわかんないですか?吉沢さんの家からこんなにも離れてて、むちゃくちゃ不便ですよ」
「・・・そうか?ちょうどいい距離だと思うけど」
くそう、あんたは、朝帰りしたことないからそんな流暢なこと言ってられるんだ。俺がちょっと
不貞腐れていると、吉沢さんは駄々をこねる子どもをあやすみたいに、困った顔で笑った。
「あー、まあ、一部屋空いてたと思うし、お前がここの家賃払えるなら、引っ越してもいいけど」
なんだ、その含みのある言い方。ここの家賃、そんなに高いのか?
「えー・・・っと、ためしに、ここの家賃、お幾らか、聞いてもよろしいですか?」
「12万」
「高っ・・・」
無理だ・・・俺の薄給じゃ、12万なんて払ったら生活できやしねえ。あー、コレが一介の営業マンと管理職
の給料の違いか・・・。6万5千のワンルームアパートですら、結構痛い出費だというのに、12万なんて、
絶対無理じゃねーかよ。
俺はガクンと項垂れながら、引越し計画を諦めるしかなかった。
「ねえ、吉沢課長、最近、顔色悪いと思わない?」
真っ先に気づいたのは、やはり「吉沢課長大好き」の立川さんだった。派遣の奥野さんが、心配性ねー
といって笑っていたが、確かに吉沢さんの体調はあまりよくないらしい。
吉沢さんの胃痛がひどくなったのはいつからだっただろう。この前の人事異動の頃からちょくちょく
胃がもたれるとか、食欲がないなど言っていたようにも思うが、どれも、1、2日経てばけろっとしてたし
本人も深刻そうにしていなかったためか、俺もさして心配することもなくやり過ごしてきてしまった。
先日の朝の一件もあり、最近は少し気にはしているものの、吉沢さんは「大丈夫」の一点張りで、
俺が気を使うことを許してくれない。
ホント、気が強いっていうか、俺が頼りにならないだけなのかもしれないけど、一応「恋人」と
称される仲なのだから、ちょっとくらいは弱み見せてくれたっていいのに。
やっぱり、年下で薄給な俺なんてダメなのかな。年下も薄給もどう足掻いてもどうすることも
出来ないから仕方ないって諦めるしかないんだけど、時々、俺が吉沢さんより先に生まれて、俺の
方が先にこの会社入社してて、そんでもって、課長とか部長とか高給取りだったら、もっと頼って
くれたのかなとか思わなくもない。大体、俺には大人の余裕なんて言葉一番似合わない。もう27歳
にもなったというのに、この落ち着きのなさ、自分でもちょっと情けないぜ。
「深海さん、ホントに吉沢課長に迷惑かけてない?」
「お、俺ー?」
「だって、深海さん、いっつも吉沢さんに怒られてるし」
「いやあ、あれは、その・・・」
俺は頭を掻きながら、その先が続かない。見かねた奥野さんが助け舟を出してくれた。
「吉沢課長、きっと、深海さんでストレス発散してるのよね、深海さん?」
どーいう、フォローなんだ、奥野さん・・・。まあ、それでもいいんだけどね。
「とにかく、余計な仕事を増やさないように、気をつけてくださいよ」
「はい・・・」
俺の主任としてのちっぽけな威厳はもはや微塵もないらしい。
俺が女性陣に散々苛められているとチームリーダーに昇格した斉藤さんが近づいてきて、俺の肩をぽんと
叩いた。
「相変わらず、苛められてるな」
「あ、斉藤さん、おはようございます」
「おう、おはよう」
「どうしたんですか?」
「ああ、深海、お前、吉沢課長に何かしたか?」
「はあ?何ですかそれ」
「今朝の課長クラス会議でプレゼンするファイルをさ、吉沢課長、パソコンにUSBメモリからセットして
たんだけど、開いた途端、『吉沢課長に提出するファイルたち』だとか『吉沢課長からの決済済みファイル』
だとか、そんなフォルダがプロジェクタに映っちゃってさ。一瞬みんな、え?って顔して。見たら
吉沢課長、顔真っ赤にして、『済みません、部下のUSBメモリと間違えました』って。あとでこっそり
『あれ、深海のです?』って聞いたら、間違えて持ってきちゃったって言ってたけど、どこで、どう
間違えたらお前のと課長のUSBメモリが入れ替わったりするんだろうなぁ・・・って思ってさ」
斉藤さんに言われながら、俺は背中から冷たい汗が湧き上がっていた。
やばい、昨日吉沢さんのマンションに忘れていったんだ。会社支給品だからどれも同じものだし、
テーブルの上においてあれば吉沢さんだって自分のだと間違えてもおかしくない。
立川さんが凄い険しい顔をして俺を見ている。奥野さんもちゃっかり話をきいてたらしく、
「深海主任って吉沢課長と一緒に仕事したりするんですか〜?」
なんてのん気なことを聞いてくる。
そして何よりも、そんなことをこの場で聞いてくる斉藤さんはなにやらニヤニヤ笑いながら俺の方を
勝ち誇った目で見下ろしているのだ。
・・・えっと・・・、ばれてないですよね?斉藤さん?
「いやあ、その、課長に提出するファイルを、紙ベースで渡すよりもデータで欲しいって言われて、
お客の情報とかあったので、メールで飛ばすとまずいかなって思ってUSBメモリごと渡したんですよ・・・」
く、苦しい・・・。
「ふーん、そうなの」
「ええ、そうなんですよ」
「ホント、深海さん、吉沢課長の疫病神なんだから」
「あはは、立川さん、それじゃ深海があんまりだよ」
「あはは・・・面目ないです・・・」
俺は頭を掻きながら、引きつった笑顔で周りを見渡す。それほど興味なさそうな奥野さんはすっと仕事に
戻っていったが、立川さんは怒ってる感じがするし、斉藤さんは・・・。
あー、もう、どうなの、この言い訳。
誰一人として納得出来なさそうな理屈を並べて俺はその場を凌いだ。・・・つもりだった。
そういえば、俺は吉沢さんのマンションの鍵も貰っていない。
時々、極たまに、先に行ってろといわれて鍵を預かったりすることはあるが、あくまでも、それは
借りただけであって、俺のものじゃない。
別にそれに対して不満があるわけじゃないけど、こういうとき、鍵を持っていないというのはとても
情けない状態なわけで・・・。
「吉沢さーん、開けてくださいよぉ〜」
俺は吉沢さんのマンションのエントランスでインターフォン越しに吉沢さんを呼ぶ。昼過ぎにメールした
時から返事は来ないし、仕事終わって、電話しても出ないから、仕方なくマンションに立ち寄ったら
ちゃっかり電気がついてるから俺は吉沢さんをエントランスで呼び出したわけなんだけど、やっぱりと
いうか、案の定、吉沢さんの機嫌は最悪だった。
『・・・ダメ、お前今日から当分の間、出禁』
「で、出禁って・・・あの、やっぱり、USBメモリのこと、怒ってらっしゃる・・・?」
『当たり前だ』
「済みません、済みません、もう忘れてったりしないですから」
『そういう問題じゃないっ』
「どういう問題なんですか?」
『なんだ、あれは』
あ、中身、見たんだなぁ・・・。
「いや、あれにはいろいろと深い訳があって・・・あのとにかく、入れてくれませんか?」
『いやだね』
俺が吉沢さんと押し問答している間にマンションの住人が帰ってきてしまった。会社帰りの
サラリーマンは邪魔そうな顔をして
「ちょっと、入りたいんだけど」
と、俺を冷ややかな目で見ると、持っていたキーでさっさと中に入っていってしまった。
そのやり取りが聞こえたのか、インターフォンの置くでは深いため息が聞こえる。
「あ、あの・・・」
『あー、そこでうろつかれると迷惑だから、あがってこい』
俺は部屋にたどり着くまでの僅かな時間で、どうやって言い訳を取り繕うか、そんなことに
頭をフル回転させて、危うく別の部屋のチャイムを鳴らしてしまうところだった。
玄関を開けると、吉沢さんは冷ややかに怒っていた。吉沢さんが感情任せに怒るところを
俺は見たことがない。部下を叱り飛ばすというのは、ある意味義務みたいなところがあって、
ポイント、ポイントで檄を飛ばすこすことはあっても、気に入らないことに対してねちねち
怒ったり、罵ったりすることはない。
だから、どんな怒り方をするのか、俺は想像していなかったのだが、どうやら吉沢さんの
怒りは、無言の圧力というやつらしい。
ああ、これなら、感情任せに怒鳴り散らしてくれた方がマシだ・・・。
「あのう、吉沢課長・・・」
「俺、仕事まだ残ってるから」
そういうと、リビングのローテーブルにパソコンを広げて、さっさと自分の世界を作ってしまう。
取り付く島がないとは、こういうことだ。
大体、悪いのは俺だ。そんなのは百も承知。USBを忘れていったこと、最悪ロックかけておけば
パスワードで自分のものじゃないって分かっていたはずだし、何より、あのUSBメモリに、あんな
もの入れてたのは、怒られても仕方ないわけで・・・。
でも、斉藤さんの話によれば、フォルダしか見えてなかったらしいし、あの中身がプロジェクタに
映し出されたわけでもないのだから、ちょっとは大目に見て欲しかったりするのだけど。
俺も、ダイニング用のテーブルに着くと会社から持って来たパソコンを起動する。うちの会社も
例に漏れず、個人保護法のあおりを受けて、パソコンの扱いはかなり厳しくなった。データは
USBに書き出すか、会社のサーバーにしか置いてはいけないし、会社のパソコンは外部に持ち出したら
会社のサーバーに認証させないと、使えないのだ。データの暗号、パスワードでの保持、そこまで
徹底した訳は、クライアントへのイメージ戦略の他に、「これで家でも仕事ができるだろ?」という
上部の「残業数減らし」への暗黙の圧力なのだ。
要するに、家で仕事しろと。サービス残業よりもたちが悪い。
パソコンが起動する間も起動してからも、吉沢さんは一言も口を聞かなかった。キーを叩く音がカチカチ
とするだけで、俺は、空気には本当に重さがあるのだと肩や頭やらにまとわり付く湿った空気を一身に
受けながらそう思っていた。
こんな状況で仕事が進むはずはない。俺は顧客に提出する資料を開いていたが、無駄に文字を書き入れる
だけで、書いては消し、消しては書き、そんなことを繰り返していた。
俺は思わずため息が漏れる。しんとした空気の中で俺のため息が部屋全体に響いた。当然それは
吉沢さんの元にも届いているはずで、漏れた音の大きさにびびりながら、吉沢さんの背中を見ると
吉沢さんはキーを弾く手を止めていた。後姿からでも、なにやら考えている様子が伺える。
その姿が何を物語っているのか、俺には想像もつかないでいた。こんな些細な出来事が、ここまで
吉沢さんを怒らせてしまった。自分の反省と、この関係の修復に俺は眩暈を感じずにはいられなかった。
<<3へ続く>>
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