吉沢さんがサナトリウムの薄幸少女になった。
いや、そのときはホントにそう思ってしまったわけで。
・・・っていうか、そんなことを悠長に思っている場合ではない。朝起きて、顔を洗いに洗面所に
向かったら、吉沢さんが壁にもたれるように崩れ落ち、吐血していたのだ。
「よ、吉沢さんっ、大丈夫ですか!!」
「うぐぅ・・・」
口元を押さえて、咳き込む吉沢さんを前に俺はただおろおろするばかりで。押さえられた手や
胸元は真っ赤に染まって、まるで映画のワンシーンでも見ているようだった。
「と、とにかく救急車を」
「ま、待て・・・深海、救急車は・・・いい、から・・・」
「な、何いってんですか!!」
吉沢さんは苦しそうな顔を向けながら俺を制した。
「病院っ、病院は!!」
「ああ・・・そこの、市立病院に掛かってるんだ・・・」
そういうと、吉沢さんは立ち上がろうとするので、俺は慌てて吉沢さんを怒鳴りつけた。
「あんた、まさか歩いていこうなんてしてないですよね!!救急車が嫌なら、タクシー呼びます
から、お願いだから無茶苦茶せんといてください!!」
「それくらい、行けるから・・・」
だあ、もう。どこまで意地っ張りなんだ、この人はっ。
「バカですか、あんたは!!」
「深海・・・」
涙ぐんだ顔が俺を見る。うわ、上司に向かって思わずバカとか言っちまった。もしかして傷
付けちまったか?
こんな時だからなのか、吉沢さんは俯いて俺から目を逸らすと、しゅんとなって、俺は、
いたいけな仔犬をしかった気分になった。
「す、済みません・・・」
「・・・大声だすな、胃に響く・・・」
あ・・・そう。別に、しゅんとなってたわけではなかったらしい。
がっくり項垂れてる暇はない。俺は仕事で何時も使っているタクシー会社の電話番号をケータイから
呼び出して一台吉沢さんのマンションに回してくれるように手配した。
吉沢さんの病名は「急性胃炎」だった。
納得というか、ここんとこの忙しさを思ったら胃炎になってもおかしくないというか、胃炎で
済んだと言ったほうがいいのかもしれない。とにかく吉沢さんは働きすぎなんだ。
病室のベッドで眠る吉沢さんを前に居心地の悪さを感じながら、担当医から聞いた話を思い
出していた。
病院で診察を受け、そのまま即入院。吐血はしたものの、それほど病状はひどくないらしく、
2,3日の入院で、回復は見込めるらしい。
点滴を打たれ、静かに眠りに落ちた吉沢さんに付き添って俺は病室で吉沢さんが目を覚ますのを
待っていた。
俺も吉沢さんが何度か病院に行っていたのは知っているし、最近胃が痛いと呟いていたのも
認識してたのに、どうしてもっと吉沢さんの身体を気遣ってやれなかったのか、自分の不甲斐なさ
にため息が漏れる。
かと言って俺が変わりにやれる仕事があるわけでもないし、(それどころか足引っ張りまくりだし)
2人きりになれば、あーんなことや、こーんなことまで・・・って今はそれは置いといて。ああ、でも
ある意味無理させてたのかなあ。ストレス発散にでもなればと思っていたんだけど。
部下も恋人も失格な気がして俺は悔しくて堪らなくなる。年下ってやっぱり分が悪いよなあ。
そんなことを思っていたら、吉沢さんの目が開いて、ゆっくりと俺の方を振り返った。
「うぅ・・・」
「あ、吉沢さん、気がつきました?」
「深海・・・?」
「病院ですよ、ここ」
「・・・ああ、そうか」
吉沢さんも深いため息をついて天井を見上げた。
「胃炎か・・・」
「仕事のしすぎじゃないんですか?」
「・・・やっぱりお前もそう思うのか」
「お前もって・・・」
「部長に、働きすぎはいかんぞって言われたんだ。別に無理して働いてるわけでもないし、そう
思われるのは本望じゃない。自分の中で普通に処理してきたことなのに、働きすぎって思われるのは
どうもな・・・」
そりゃなんですか、仕事のできる人の悩みですか・・・。確かに吉沢さんは人よりバイタリティに
溢れてるし、俺なんかより遥かにタフに出来てるから、長時間働いてもけろっとしてることが
多かったけど、やっぱりこうやって胃炎起こすんだから、それなりに身体にガタが来てるって
こともちゃんとわかって欲しいんだけどな。最近になって気づくようになったんだけど、吉沢さんって
自分の限界が分からずに突っ走る中学生みたいなところがある。1人でなんでも片付けようと
してたり、部下の後始末を全部背負ったり。こんな風に付き合う前は、何でもそつなくこなす人
だと思っていたけど、実際はかなり無茶な生活してる。ただ本人に自覚がないだけで。
その自覚がないっていうのが恐ろしいところなんだけど。今回みたいに胃炎で吐血したっていうのは
結構いい警告になったんじゃないかって思う。ちょっとは人が心配してることも考慮して欲しい。
ふと時計を見ると10時を少し過ぎたところだった。朝の会議はとっくに終わっているはずだ。
俺は思い出したように朝のことを吉沢さんに告げた。
「とりあえず、会社には連絡しておきましたから」
吉沢さんは驚いて俺を見る。
「・・・なんて?」
「入院しましたって」
「誰に?」
「えっと・・・とりあえず斉藤さんに。誰に連絡すれば言いかって聞いたら斉藤さんが全部連絡
回してくれるそうなので、病院名は伝えておきましたけど、何か不都合ありました?」
「不都合っていうか、不自然っていうか・・・」
吉沢さんはため息を付いて目を閉じた。
まあそうなんだけど。朝から上司が倒れているのに気づいて病院に付き添う部下。変と
言えば変だよな。
「緊急時にそんなこと言ってる場合じゃないでしょう。・・・まあなんとか適当に理由つけて
凌ぎますから、大丈夫ですよ」
「お前の大丈夫ほど当てにならない言葉はない」
「そんな、きっぱり言い切らなくても・・・」
ただ、実際俺の大丈夫は大丈夫ではなかった。
昼前になると、吉沢さんから追い出されるように病院を後にし、会社に着いてからは斉藤さんに
呼び出され事の経緯を根掘り葉掘り聞き出される羽目になった。
「その・・・たまたま朝、吉沢課長に電話してたら、話してる最中に吉沢課長の様子がおかしく
なって・・・」
相変わらず苦しい言い訳だ。立川さん辺りが聞いたら「朝から吉沢課長に迷惑掛けっぱなしで、
倒れたのも深海さんのせいじゃないの?」とか言われそうだ。
いや、本当に席に着いた俺に向かって立川さんは
「深海主任のせいで吉沢課長が病気になったんだわ」
ときっぱりはっきりと言われたんだけど。
俺は目の前でなにやら考え込む斉藤さんを前に吉沢さんからの伝言を伝える。
「2,3日安静にしていれば退院できるそうですし、課長も大事にしたくないので、他の社員には
風邪で自宅療養にしてほしいとのことです」
「ふーん?」
「あの、斉藤さん?」
「まあ、別に深くつっこんだりはしないけどな」
「はい?」
「さすがに俺が見舞いに行くくらいは許されるんだよな?」
「それは勿論大丈夫だと思います。・・・立川さんに見舞いに来られたくないんだと思いますよ」
それには斉藤さんも苦笑いして、
「吉沢課長は押しかけ女房は嫌いか」
と言った。
「嫌いというか立川さんの押しが苦手なんだと思います」
「じゃあ、課長に迫るときは紳士的に行かないとダメなんだなぁ」
斉藤さん、その意味深な発言はいったい何なんでしょうか・・・。
「あのう?」
「がんばれ、ナイト君」
斉藤さんはにやっと笑って俺の肩をポンと叩くと自分の持ち場に戻って行った。
えーっと、えーっと・・・。
これって、まさか、ばれたりしてないですよねえ、斉藤さん!?
吉沢さんの病状は回復に向かっていたはずなのに、退院がどんどんと先送りになった。
回復しかけた身体にむち打って仕事したのがまずかったらしいのだが、4日目の朝にまた吐血した
吉沢さんに医師が
「本気で退院する気、あるんですか?」
と呆れてドクターストップを掛けたことから、吉沢さんは暫くベッドの上で呆けるしか出来なく
なってしまった。
本や雑誌を読んだりして時間を潰しているらしいのだが、仕事人間の吉沢さんにとって、
仕事が出来ないというのは、それはそれで苦痛らしかった。
入院は2週間とされ、絶対安静まで言いつかった。さすがに、2週間の入院となると、会社に
隠すわけにもいかず、連絡を入れたところ、次々に見舞いと冷やかしがやってきた。
俺は仕事が終わると病院に寄って吉沢さんの着替えやら、連絡事項やらを伝えて帰るという
日々を送っていた。その日も仕事を7時で切り上げ、コンビニで桃ゼリーを2つ買うと病院に直行した。
(余談だけど、吉沢さんは桃ゼリーが好きらしい。入院したときにいろんな果物のゼリーを買って
冷蔵庫に入れておいたのに、無くなっていたのは桃だけだったのだ。それ以来俺はお土産は
桃のゼリーと決めているのだ)
吉沢さんの病室の前に来ると、病室の戸が少しだけ開いていた。俺は部屋をノックしようとして
中から声が聞こえてくるのが聞こえて慌てて手を引っ込めた。
「調子はどうだ?」
「おかげさまで、随分よくなりました。次長にはご迷惑掛けて申し訳ありません。山崎課長も
わざわざお越しいただいて、申し訳ありませんでした」
「いいよ、いいよ。気にするな。池谷次長と飲みに行くついでだったし」
「はは、そうだったんですか」
口調から、営業部の次長がいるらしいことがわかった。それにもう1人は山崎課長・・・?誰だそれ。
って、人事部の課長か。なんで人事部課長が、何で来るんだろうな。
「まあ、人間身体が資本だからな」
「はい、本当に申し訳ありません。部下にも迷惑掛けてしまっているようですし」
「身体の管理が出来ないようじゃダメだぞ。それだけで管理職としての質が疑われるぞ」
「そうそう。多少の仕事のミスはカバー出来ても、自分の身体はダメになったらそれまで
だからな。代わりがいないってことは、絶対にコケたらいけない部分だってことだ」
「お前は今の部長にも評判がいい。仕事もきっちりこなす。だけどな、こうやって身体を壊す
っていうのは、仕事が出来ても致命的なんだよ。いざ頼ってみたら身体壊して出来ませんでした
なんてもっとも恥ずべき事だ」
ドアの隙間から漏れてくる次長の言葉に俺は腹が立って仕方なかった。確かに身体壊すのは
会社に迷惑かける部分もあるけど、何もそこまで言うことないだろう。
次長はただのやっかみだ。前営業部長の使い込み騒動で、次は自分が部長になると思っていた
はずが、これまた大抜擢で3課の黒田課長が部長になってしまったせいで池谷次長はいまだに
次長職のままなのだ。下克上の激しい会社だから、次は吉沢さんが上にのし上がってくるんじゃ
ないかって内心冷や冷やしてるに決まってる。45過ぎの親父のくせに心が小さいんだよ、次長は。
「本当に、池谷部長には迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。もう2、3日で退院ですので、
退院したらきっちり働かせて頂きます」
吉沢さんは深々と頭を下げていた。あんなひがみ上司に頭なんて下げる必要ないのに。俺は
自分が怒られているくらい腹が立ってきた。
そして、病室のドアをノックすると素知らぬ顔で入っていく。
「失礼しまー・・・あ、次長、いらしてたんですか。お疲れさまです」
「おお、深海か」
俺はたった今来たばかりを装って次長と吉沢さんの顔を見た。
「あ、お話し中・・・でしたか?俺、出直してきた方がよさそうですね」
「ああ、いやいいんだ。仕事帰りに見舞いに寄っただけだから。じゃあな吉沢君。しっかり
身体治すんだぞ」
「はい。ありがとうございます」
次長と山崎課長は早々に出て行ってしまった。本当に嫌味を言うだけに来たようなもんだった。
俺はそれでも平常心を保っているような吉沢さんが少しだけ恨めしくなる。辛いとき辛いと
言えない性格なんだろうな。
「着替えとかもって帰るものあったらだしてくださいね」
「ああ」
「吉沢さん?」
もう一度声を掛けると、吉沢さんはようやく俺に焦点を当てて笑いかけてきた。・・・ああ、もう
ホントにこの人は。
「ああ、すまない、何でもない」
「何でもないじゃないですよ。無理しないでください」
「無理なんてしてないよ」
「・・・そうやって、笑ってること自体が無理してる証拠じゃないですか!」
「深海?」
「・・・すんません。俺、そこでさっき次長と話してるの聞いちゃって・・・」
吉沢さんはバツの悪そうな顔をしてため息をついた。
「聞いてたのか」
「病室来たら、声が聞こえて・・・すみません」
「いや、まあいいよ、別に。聞かれて困ることじゃないからな」
「でもっ・・・」
「いいんだ。次長にああ言われたら、それが今の俺の全てなんだよ。結局評価なんて自分が
決めるものじゃない。上司がいいと思った人間が評価されるんだから」
「でも、吉沢さんは今までだって、今だってこんなに会社に貢献してるじゃないですか」
「貢献してれば評価されるとは限らないんだよ。それこそ、お前が一番分かってること
じゃないのか?」
「それはっ・・・」
確かに、前部長の評価基準は自分が気に入っているかどうかが最重要だったし、その所為で
俺は苦渋を飲まされた事もなんどもあるし、上司の評価が貢献だけで決まらないことは重々
承知していることだけど、それにしたって、次長のはただのひがみじゃないか。
「病気で倒れるってことは、自己管理能力を疑われても仕方ない。しかも2週間も入院してるようじゃ、
評価が下がったって文句は言えない」
「次長は、吉沢さんの能力を疑ってる訳じゃないと思います。あれはただのやっかみだ」
吉沢さんは苦笑いしながら首を振った。
「やっかみでもなんでも、あれが上司だし、俺たちは上司に評価されるんだよ」
「でもっ!!」
「別に、給料が下がるわけでも、ボーナスが減給になるわけでもないんだから。人間の感性の
問題だろう?上部に印象が悪くなった、ただそれだけのことだ。だから深海が気にすることでも、
憤ることでもないんだ」
そう言い切る吉沢さんだって、傷ついた目をしてるじゃないか。本当は誰よりも悔しいに決まってるのに。
強がることすら隠そうとする吉沢さんを俺は思わず抱きしめた。
「そんなこと言わんといてくださいよ。・・・俺、年下だし頼りにならない事も多いけど、ちゃんと
吉沢さんのこと見てるんだから。他人にするように、そんな壁作らないで。傷ついたなら、ちゃんと
悔しいって苦しいって言ってよ。抱き留めるくらいしかできないけど、俺がいることも分かって下さいよ」
「深海・・・」
躊躇しながら俺の背に吉沢さんの手が回って、やがてそれはしっかりと抱きしめ返された。
掠れた声で吉沢さんがありがとうと言う。珍しく自分としては決まった瞬間だった。吉沢さんの
体温を感じながら、俺には心を開こうとしてくれているのだと分かる。
俺は大いに照れて、吉沢さんの天骨にキスの雨を降らした。
「馬鹿、やめろって」
笑い声を忍ばせながら、くすぐったそうに吉沢さんが身体をよじる。それでも俺はたゆむことなく、
おでこや耳元や、うなじやらにキスを落とすと、吉沢さんもだんだんとうっとりとして目を閉じた。
頬に手を当てて、吉沢さんの薄い唇に自分のそれを重ねると、俺の背に回していた吉沢さんの腕に力が
入る。唇をこじ開けて舌を絡ませると、桃ゼリーの味がした。
「久しぶりで、興奮しませんか?」
息の隙間で吉沢さんにささやくと、桃の香りの吉沢さんが、「馬鹿、病院だぞここ」と一言呟く。
それでも、身体は熱を帯びて、あの甘い感覚を思い出しているようだった。
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