なかったことにしてください  memo  work  clap




 あれから後のことは、よく覚えていない。
 呆然とする俺を前に前園さんは「ぼやぼやしてると、本気で奪いに行くよ」なんて言って
いたけれど、それに俺はなんて答えたのか記憶が定かじゃない。
 ただ、考えたくないのに、吉沢さんが前園さんに抱かれてる姿を想像しちゃって、夜、
寝る前に頭抱えてベッドの中でもがいて、3日が過ぎた。
 その間に吉沢さんからは、「今日はどうする?」とか「うち来る?」とか何度かメールを
貰ったのに、「同期と飲みに行く」「今日は仕事が疲れすぎていけません」「新井と飲みに
行きます」とそれも全部断ってしまった。
 こういうとき同じ職場っていうのは辛い。仕事が忙しいっていう言い訳はすぐ嘘だって
ばれるから。忙しくないわけじゃないけど、今までと大して変わらないし、これくらいの
忙しさだったら、吉沢さんのマンションに行って愚痴でもこぼしてる。
 流石に4日目(吉沢さんと二人きりで会ってないのはもう10日近く経ってる)になると、
吉沢さんのメールも少し文面が怪しくなってきて、俺は観念して「仕事終わったらおじゃま
します」と送り返した。



 吉沢さんと会うのに、こんなに足取りが重くなるなんて。こんな日が来るなんて、俺は
微塵も思ってなかった。
 知らなかったことを知っただけ。過去の話だ。そう割り切りながらも、現在進行形で忍び
寄ってくる不安。
 付き合ってなかったけど、2人はそういう関係だった?前園さんが言っていた「付き合って
はなかったけど、遊びで抱いたことはない」っていう台詞が、一層不安にさせる。
 付き合ってて別れたって言う方がずっとか分かりやすくていい。
吉沢さんの気持ちが見えない今、俺は無駄に不安を膨らませてばかりだ。
もしかしたら、2人は理由があって付き合えなくて、理由があって会えなくなって、そして
再会してまた気持ちが再燃して・・・・・・前園さんがそうなのだから、吉沢さんだって、その
気持ちがないわけじゃないかもしれない。
 吉沢さんが手に入るなら結婚止めてもいいって言った前園さん。もし吉沢さんも同じ気持ち
があるなら、俺は捨てられる?
「もーやだ」
悩むのは苦手だ。嫌なことばかり思い描いてしまう。
 吉沢さんは浮気なんてしないし、俺を裏切ったりしない。信じて、当たり前だったはず
のことが、急にぐらつき始めて、俺が今まで信じてきたのは、根拠のない自信だったんだと
思い知った。





 玄関で出迎えてくれた吉沢さんの顔は、やや疲れているようにも見えた。
「お疲れさんです」
「お疲れ。・・・なんだか久しぶりだな」
「そうですねえ。最近細々した用事があって、なかなかゆっくりできなくて・・・・・・」
苦笑いすると、吉沢さんも頷いた。
「新井とか?・・・あいつ大丈夫?」
「・・・・・・重症です、あれは。会社潰しかねない勢いでやばいですよ」
新井の見積り失敗事件は1課でも大問題になって、新井は俺の後に吉沢さんにも、それから
部長にまでも怒られた。
「ちゃんとフォローしてやれよ」
「・・・あれだけ馬鹿だとフォローする気も失せます」
新井に関わりたくない本当の理由はそうじゃないんだけど。
 新井の兄貴が前園さんだったってこと。その前園さんは昔、吉沢さんを遊びじゃなく
抱いたってこと。そして今また吉沢さんを狙ってるってこと。
 新井からリンクしてそこまでたどり着けば、俺はまた落ち込んでしまう。新井の顔を思い
出すのも嫌だ。
「元気だせよ」
吉沢さんにそう声を掛けられて、俺は返答が出来なくなってしまった。



 定位置になってるソファに埋もれて、とりあえずビールで乾杯。居心地よかった吉沢さん
の隣が、今日はなんだかそわそわしてた。
 肩が当たって、吉沢さんはいつもよりスキンシップが多い。そりゃあ10日も2人っきり
になれなかったんだから、普通の心境なら俺なんて飛びついてると思う。
 珍しく吉沢さんが積極的なのに流されて、俺は一旦思考を止めて、目の前の吉沢さんの
唇を受けた。
「はむっ」
つるっとした唇を割って、舌を絡めあうと、吉沢さんから小さくため息が漏れた。
ぞくり、背中がぞわぞわする感覚。吉沢さんと深いキスをするたび味合わせてくれる快感
が今日もやってくる。
変わらないじゃん。
そう。何にも変わってない。吉沢さんは何にも変わってない。きっと大丈夫。俺の取り越し
苦労だ。
ちゅっちゅと音を立てて吸い付いて、お互いの香りを確かめ合う。
アクアマリンの香水の残り香も、それに混じる吉沢さんの汗のにおいも、全部いつもと同じ
で、俺はやっと胸をなでおろした。
 髪の毛を手でくしゃくしゃ撫で回して、耳たぶをかぷり。
「あー、吉沢さん補給」
「くすぐったいって」
いつもの会話。
それで、やっぱり吉沢さんのことが好きなんだって実感する。誰にも渡したくない。
 新井の「吉沢課長が恋してる騒動」の時は、びっくりしたけど正直危機感なんてなかった。
吉沢さんが本気で新井の元に行くなんてありえないってどこかで高をくくってた。だけど
前園さん相手じゃ、そんな余裕もない。
「吉沢さん・・・・・・」
「うん?」
「ずっと、この関係のままでありますように」
「なんだよ。他力本願的だな」
「だって・・・吉沢さん、モテるから」
「馬鹿。関係ないだろ、そんなの」
「でも・・・」
「俺は、深海がいいんだって、何回聞きたい?」
10日のおあずけは、結構いいご褒美を持ってきてくれた。甘ったるい声の吉沢さんなんて
普段なら、どんだけお願いしたって見せてくれない。
もういいや、前園さんなんて、どうだって。
 俺単純だな。
 そう思って、吉沢さんを抱き寄せながら頭のてっぺんにちゅうっと口付け。甘いムード
に流れ込みそうになったとき、俺の視線がまた余計なものを捉えてしまった。
 雑誌の上に無造作に置かれたマンションの資料。この前のとはまた別の・・・・・・。
我慢出来ずに口からぽろり。肩に回した腕に力が入って小さく震えた。
「会ったんですか」
「誰に?」
「前園さんに」
新しく増えたマンションの資料に目配せすると、吉沢さんは俺の腕の中で慎重そうに頷いた。
「ああ・・・。この前、来たときの話、聞いてたかもしれないけど、マンションの部屋、一つ
キャンセルが出たって。それでその見積り持ってきたんだ」
「来たんですか!」
「え?ああ。そうだけど」
何でもなさそうに答える吉沢さんが、今は恨めしい。こんな風に今までも俺は、吉沢さん
の隠してきたことに気づきもせず、吉沢さんのポーカーフェイスに騙されてきたのかとか
そんなことまで邪推して、余計にへこんだ。
 前園さんは俺がうじうじしていた間にも、既に俺達の隙間を狙ってる。
どこまでも、俺の邪魔をしてくるつもりなんだな、あの人はっ。
せっかくの甘い雰囲気をぶち壊されて、俺がまたネガの小道に嵌ろうとしていると、吉沢
さんが無理矢理そっちの世界に引きずり戻した。
「・・・・・・なあ」
「はい」
「そんなこと、どうでもいいから、ベッド行こ?」
こんなのって反則だ。俺のネガティブ思考は再び停止。
 吉沢さんのめったにしてくれない潤んだ瞳に俺は負けた。





 シーツは太陽のいい香りがした。
 清潔な寝室。シーツも枕カバーもも潔癖な吉沢さんらしく綺麗に皺が伸びてさらさらと
肌触りもいい。
 そこに二人で寝転がって、吉沢さんが俺の唇をちゅくちゅくと吸い付くと、俺も吉沢さん
の腰を引き寄せた。
 ズボン越しでもその熱さは伝わってきて、吉沢さんが早く早くと急かすように俺のシャツ
に手を掛けた。
 吉沢さんのベルトをはずしてジッパーを下ろすと、下着にくっきりとわかるような形で
膨らんで俺が触るのを待ってるようだった。
「んんっ・・・深海」
漏れる吉沢さんの甘ったるい声に俺も反応して、股間に手を伸ばせば吉沢さんのペニスは
一層デカクなった。
 こんなに素直に反応する身体。しなやかでエロい。
吉沢さんの身体がくねって、俺を物欲しそうに見上げている。
あの時、どうして、俺をあんなにもすんなり受け入れられたんだろう。やっぱり、俺の
前にも何人かと・・・・・・。
 一番考えちゃいけないことだと分かってるのに、思考がそこへ向かって、最後には前園
さんのあの鬱陶しい笑顔まで浮かんだ。
『遊びでは一度も抱いたことない』
うわあ・・・ヤメロ、消えろ!!
やばい。
う、あ。
「あ・・・」
しゅん・・・・・・。
 気持ちがぷちんと切れた瞬間、俺の股間の緊張も一気に切れてしまった。
「深海?」
完全に萎えたみたいだ。
「すみません・・・・・・今日は、無理」
Yシャツに伸びる吉沢さんの手を止めた。
「深海?!」
乱れた吉沢さんの髪の毛を静かに直すと、吉沢さんの上から僅かに体重をずらした。
 前園さんはどうやって吉沢さんを抱いてたんだろうなんて、下世話なこと想像して、萎えた
なんて言えない。
「どうした?!」
吉沢さんは俺の変化に驚いて、閉じかけていた目も見開いていた。
「ちょっと・・・ダメになっちゃって・・・」
「なんかあった?」
「・・・・・・えっと」
このまま悶々としてるのも辛くて、俺は前園さんの事を口にしてしまった。
「会ったんです・・・・・・」
「誰に?」
「前園さんに」
「なんで?!」
「いろいろあって・・・・・・」
何故だか新井の兄貴であることを、俺は話せなかった。血は繋がってなくても、兄弟で吉沢
さんの取り合いとか・・・ホント迷惑な兄弟だ。
 吉沢さんを見下ろすと、ベッドの上で怪訝な顔のまま固まっていた。
 俺が前園さんに会うことを恐れていたみたいな表情が、余計にこの二人の関係を怪しく
させる。そんなに俺と前園さんが会うの嫌だった?そんなに昔のこと知られるの嫌だった?
 そんなに・・・前園さんが好きなのか?
「前園さんが呼び出したのか?」
「はい」
「・・・・・・何、言われた?」
強張った顔が小さく震えているようにも見える。
「俺・・・・・・多分、聞いちゃいけないこと、聞いちゃったんで」
「何それ」
「お二人の昔のこと・・・・・・」
「昔って!?」
そう言って吉沢さんは言葉を失った。
 地雷だったんだな、やっぱり。そりゃあ、吉沢さんくらいモテる人なら、過去くらいある
だろうけど。そんなことは分かってるからいいだ。
 だけど、その過去だったはずの人がまた現れて、しかも狙ってるなんて。
吉沢さんはどう思ってるんだろう。付き合ってなかったけど、抱かれた人。
こうやってマンションのパンフレット持ってきて、その度会ってるんだから、顔も合わせ
たくない人じゃないはずで、それどころか、吉沢さんだってまんざらじゃないかもしれない。
 何とも思ってない人なら、あんなに動揺しないはずだ。
 吉沢さんにも未練があって、前園さんに唆されたらコロっと落ちちゃうんじゃないか。
黙る吉沢さんを見てるとどうしてもそう思わずにはいられなかった。
「初めて、マンションのパンフレット見つけたときに、吉沢さんの態度ちょっとおかし
かった。なんか隠してるのかなって思ったんです」
「それは・・・・・・」
吉沢さんの顔が曇る。図星ってことか。
「吉沢さんが隠してたことって、これだったんですね」
「え?!深海、違っ・・・」
「いいんです。別に・・・・・・」
首を振って、俺は吉沢さんから離れた。
「そうじゃなくて・・・あれは・・・・・・」
あれは、何?
 顔を合わせると、言いづらそうにしている吉沢さんの瞳が泳いだ。
言い訳を探しているのか。俺に気を使っているのか。どっちにしても、この事実を否定
してくれるわけじゃなさそうだ。
「帰ります。頭冷やしたいんで」
「ちょ、ちょっと!?深海?!どうして!?」
吉沢さんの上から降りると、俺はシャツのボタンをはめた。
 その様子を呆然と吉沢さんは見ていたけど、俺が帰り支度を始めると、焦った声で俺を
呼び止めた。
「深海!どうしたんだ、いきなり!分けわかんない!」
「吉沢さんはずるいです・・・・・・。俺だって、傷つくときもありますよ」
「待って!」
吉沢さんの声を振り切って俺はマンションを出た。
 7月の生ぬるい風が頬を掠めて、それが気持ち悪くて顔を何度も擦りながら、俺は誰も
待っていない自分のアパートへと足早に帰っていった。



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