なかったことにしてください  memo  work  clap






「出張清算、今日までにしておかないと、経理締められちゃうから早くしてくださいね!」
「あー、あと2週間で仕事納めなんて・・・・・・」
「終われるんかよ、これ」
営業1課の中は年末の慌しさでごった返していた。年末の挨拶に年始の挨拶準備。仕事締め
まで時間が無くて、誰もかれも正月休みの楽しい話題なんて出す余裕なんてなかった。
 俺も、溜まった出張清算と報告書に追われ、パソコンの前に張り付いている。
そんな1課の空気を吹き飛ばすほどの、とびきり鬱陶しい声がパーティションの向こう
側から響いてきた。
「先輩!ふ・か・み・せ・ん・ぱ〜い」
どたどたと近づいてくる足音と、このアホさ満点の声の主は顔を上げなくても誰だかわかる。
 スキップでもしそうな勢いで俺の隣までやってきて、声の主はもう一度俺の名を呼んだ。
「先輩ってば!」
「な・ん・だ・あ・ほ・あ・ら〜い」
俺はキーボードを打つ手もとめず、声だけで返事をした。
 どうせこんな口調で近づいてくるときは、ろくなことがない。
「ちょっと、先輩ちゃんと聞いてくださいよ」
「お前に貸す耳は、これくらいで十分だっ」
「ひどい」
そう言って、声の主、アホの新井――入社二年目の俺の後輩、しかも相当使えない――は
キャスター付の椅子を引っ張ってきて俺の隣に座った。
 椅子を反対に座って、椅子の背に顎を乗せて俺に近づいてくる様は、とてもいっぱしの
社会人には見えないのだが、これでも2年も社会人を務めているのだから、世の中不思議だ。
 新井以外の人間からすれば、俺に言われたくないとは思うけど、本当に新井のアホは
いつまで経っても使えないのだ。
「で、何」
「先輩、知ってました〜!?」
新井がキラキラした目で俺の横顔を見てくる。鬱陶しいので、適当に相槌を打った。
「何が」
「箱根っすよ、箱根!」
「箱根?」
「そうっす!箱根、温泉、浴衣、酔っ払って、乱れちゃうウフフなひと時っす!」
「はあ?!」
やってきていきなり何を話し出すのかと思って、思いっきり眉をしかめても、新井は全然
気にすることなく、自分の妄想を垂れ流した。
「うへへ、酔っ払った課長を介抱して、恋が芽生えたらどうしよう。先輩どうしたらいい
と思います?紳士的に、『部屋の外まで送ったら帰ります』って言うべきです?それとも
やっぱりここぞとばかりに、行っちゃうべきっすかね?」
「お前の言ってることの意味がわからん」
「温泉宿っすよ!酔った勢いで、何があるかわかんないじゃないっすか!」
「お前、頭大丈夫か?」
「大丈夫っすよ!これからのシナリオを考えてただけっす」
「シナリオってお前と課長がなんで温泉宿なんだよ。夢見てるのも大概にしろよ」
「先輩こそ、何言ってんですか〜!箱根の忘年会っす!」
張り切って言った新井に、俺は溜息を吐いて軽くあしらった。
「ああ、それか。それがなんだってんだ、今頃」
仕事締めの後で、今年は営業全課で箱根の保養所に、忘年会という名目で泊まりに行くこと
になっているのだ。
 近頃の不景気で9月に行っていた社員旅行が取りやめになり、その代わりということらしい。
 忘年会なら、別にわざわざ箱根くんだりまで行かなくても近くの宴会場でいいのに。
「・・・・・・先輩、知ってたんですか!?」
俺の態度に新井が目を丸くして言った。
「はあ?」
「忘年会、箱根でやるって何で知ってるんですか?!」
「・・・・・・なんでお前は知らないんだ」
頭が痛い。1ヶ月以上も前にメールが来てただろうが。この様子だと、新井は今さっき知った
ばかりなんだろう。リークでも嗅ぎつけてきたつもりなんだろうか。だとしたら、新井は
相当の馬鹿だ。・・・・・・いや、分かってるけど。
「何で教えてくれないんすか〜」
新井はがっかりした表情で椅子の背に顎を乗せていじけている。
「お前なあ・・・・・・。お前以外多分全員知ってるぞ。大体毎朝メールチェックしてたら、
分かることだろ」
「え〜俺のところ来てないっす」
「メーリングリストで送信されてるのに、来ないわけがないだろ。知らないんならお前が
消したんだ、アホ」
「俺、毎朝迷惑メールがどっさりやってきて、それに混ざって消しちゃったのかも・・・・・・」
「新井!会社のメアドで何したんだ?!」
「べ、別に、エロサイトとか覗いてないっす!」
「迷惑メールフィルタの機能くらい使えっつーの。使い方だって情報部の方からメールが
来てただろう」
「・・・・・・そのメールも見てないっす」
ダメだ。こいつ、ホントに大丈夫か。
「お前、大事なメールも消してんじゃないのか!?」
目が泳いでいる新井の頭をべしべし叩きながら、俺は新井を追い返した。
「あー、もう!とにかく鬱陶しいんだお前は。俺は忙しいの!箱根の忘年会で浮かれてる
ようなヤツと手取り合って遊んでるような暇ないんだ。お前、先週の出張清算出したのか?」
「あー、それは、明日やろうと思って」
暢気に呟く新井に、説教する気力もない。
「・・・・・・お前の出張清算、二度と返って来ないな」
「な、なんでっすか」
「明日出しても突っ返されるだけだ。今日で締めるんだっつーの」
「ええっ・・・俺、まだ出してないヤツ4つもあるんっすけど」
新井は急に立ち上がって、椅子の向きを変えると慌てて自分のデスクに向かっていった。
 領収書を探しているのか、両脇に詰まれた山盛りの資料が雪崩を起こし、床にばさっと
落ちていく。溜息を吐きたくなる状況だけど、俺も人に構ってる場合じゃなかった。
 俺だって、出張清算3つも抱えてるんだから・・・・・・。
「くそっ、新井の所為で、何書こうとしてたか忘れちまったじゃねえか」
俺は八つ当たりにも近い愚痴を飛ばしながら、大慌てで仕事に戻った。





 新井には、ああ言ったものの正直なところ、箱根の忘年会はちょっとだけ楽しみになって
いた。初めは仕事が終わった足でわざわざあんなところに行かなくてもいいのにって思った
のだけど、吉沢さんの可愛い態度に俺はノックアウトされてしまったのだ。
「面倒くさいけど温泉はいいな」
「そういえば、あそこの保養所、露天風呂ついてましたよね」
「この前、お前と一緒に行った熱海のあの宿のよりも小さいけどな」
先月、週末を利用して1泊の温泉旅行に行ったことを思い出して、俺はうふふと笑みが垂れ
流れた。温泉宿でしっぽり。あれは、かなり嵌った。嵌ったって、俺のブツが吉沢さんの
中にって意味じゃなくて、(いや、それもあるけど)温泉旅行が癖になりそうだってことだ。
「何」
「吉沢さんと風呂でしたこと思い出したら、俺も楽しくなってきました」
「お、お前と一緒に風呂は入らないからな!!」
頬を赤くしてぷいっと顔を逸らす吉沢さんに、俺は絶対一緒に入ってやろうとひっそりと
拳を握り締めていた。



「ええ、宴もたけなわではありますが・・・・・・」
宴会の音頭を取っていた2課の主任が、再び前に出てくる頃には、大半がすっかり出来上がって
いて、俺の隣でも新井が、見たくも無い脛を浴衣の隙間からはみ出させて、寝転がって
いた。
 来年もがんばりましょうだの、営業成績を上げますだの、一辺倒な台詞を何度も口にして
酒を注ぎ、注がれ、俺もフラフラになって宴会場を後にすると、自分の部屋に帰って、ベッド
に倒れこんだ。
 同室の新井はきっとまだ宴会場でくたばっているだろうが、アイツを運んでくる余裕は
なかった。ベッドの上で目を閉じているとふわふわと浮いた感覚で頭がぐらつく。水でも
飲みたかったけれど、身体を起こす力も残ってなかった。
 俺はそのまま眠りへと落ちた。



 次に気がついたのは、握っていた携帯が手の中で震えたときだった。重い頭を上げて携帯
を確認すると、吉沢さんからのメールだった。
『何してる』『寝てました』『新井は?』『爆睡してます』『そうか』『吉沢さんは?』
『一人で飲んでる』『一人で?』『そうだけど』『一人なんて淋しいじゃないですか』
『そうでもないけど』『飲んでるなら誘ってくださいよ』『じゃあ来る?』『はい』
そんなメールのやり取りをして、思わず笑ってしまった。その拍子に隣で新井がふうんと
変な声を上げて寝返りを打ったので、俺は慌てて息を潜めた。
 吉沢さんは妙なところでまどろっこしいと俺は思う。一人で飲んでて、俺を誘いたいの
なら初めからそういえばいいのに、言えないのだ。
 上司のプライド?年上の意地?まあ何でもいいんだけど。甘えたいときに素直に甘えられ
ないのなら、こっちが甘やかせてあげるだけだ。俺がそんなこと考えてるなんて知られたら
また怒り出しそうだけど、そういう吉沢さんも可愛くて、大好きだ。
 俺は起き上がると、はだけた浴衣を着直した。隣を見ると、いつ戻ってきたのか分からない
新井がクーピーという間抜けな寝息を立ててベッドに転がっている。当分起きないだろうと
俺は静かに部屋を出た。
 課長クラス以上は一人部屋だが、俺達平社員はツインの部屋か和室に突っ込まれていた
ので、ここで、吉沢さんの部屋に抜け出せるのはありがたかった。





吉沢さんの部屋は俺達のツインと同じくらいの広さの和室だった。一組の布団が敷かれ、
テーブルにはビールの缶が2つ置いてあった。どちらも飲み干したらしく、3つ目の缶が吉沢
さんの手に握られていて、吉沢さんもそこそこに酔っ払っているようだった。
「お邪魔します」
「早かったなぁ」
ろれつが少々回っていないようだけど、宴会であれだけ飲んでれば、きっと顔に出てる以上
に酔いは回ってると思う。
「だって、誰かに見つかると何だかやばい気がして、見つからないように素早く来ました」
「何だそれは〜。部屋で飲みなおす、上司と部下のどこがやばいんだよ・・・・・・」
そういう吉沢さんだって自嘲気味に笑ってる。それだけの関係じゃないから、やばい気に
なるって言うのに。
 テーブルに並んで座ると、伏せてあったコップをひっくり返して、吉沢さんの手から
飲みかけのビールを注いでもらった。ただの上司と部下ならやらない飲み方だ。日常生活が
染み出てる。注ぎ終わったコップと缶を合わせて、カチャンと乾杯。吉沢さんと肩を寄せ
合う。頬は赤く、見ればうなじも真っ赤になっていた。やっぱり相当酔ってるな。
「ここに入ってくるまで、えらいドキドキしちゃいましたよ」
「深海はー、やましい気持ちで来るからだろう〜」
「あはは、でも修学旅行の気分、久しぶりに思い出しました」
「夜中に女子の部屋に行ったクチかぁ」
「・・・・・・元気な高校生男子でしたから」
「いたなあ、そういうヤツー。先生に見つかって日付超えるくらいまで説教なんだよなぁ」
「うちの担任は男だったんで、女子の部屋に入って来ようとした担任に、女子が『着替え中』
『入ってくるとセクハラ』とか言ってくれて、その間、男子はこっそり布団の中に匿って
もらってましたよ。で、担任がいなくなった隙にソッコーで部屋に戻ったり」
「修学旅行なんてどこも一緒かぁ。なんで夜になると会いに行きたくなるんだか」
緩んだ浴衣の隙間から吉沢さんの鎖骨と胸がちらっと見える。胸元まで赤くなってる姿を
見るのは久しぶりで、いつもの吉沢さんの酔いとは違うことが窺える。
 吉沢さんは畳に片手を付いて身体を仰け反らせながらビールを煽った。その飲みっぷりが、
誘ってるのかと言いたくなるほどエロく見えた。
「そりゃあ、決まってますよ。夜は人をエロくする」
俺は吉沢さんの手からビールの缶を引っこ抜くと、ちょっと強引に後ろの布団に引き摺り
込んだ。
「ちょ、ちょっと深海ぃ」
「こういうことする為に呼んでくれたんじゃないんですか?」
「違っ・・・一緒に飲むっていうから・・・・・・」
「じゃあ、俺はこういうことする為に来たんです」
抵抗する吉沢さんの身体を押さえつけて、アルコールで赤くなったうなじに、ちゅっと音
を立てて吸い付く。それから首筋、耳たぶ、そして唇に短めのキス。吉沢さんを見下ろす
と、酔っ払いの顔で、
「わざわざこんなところでしなくてもいいだろ」
と不貞腐れていた。
「こんなところだから、したいんじゃないですか」
確かに、吉沢さんと一緒に住むようになって、好きなときに好きなだけセックスもしてる。
わざわざこんなところに来てまでっていう思いもしなくもないけど、こんな吉沢さん見て
据え膳食わぬは何とやらだ。
「・・・・・・俺、持ってないけど」
吉沢さんはぽんやりした表情で俺を見上げた。布団に押し倒されて更に酔いが回り始めた
んだろう。
「大丈夫、俺持ってますから!」
ニシシと笑ってVサイン。どこに?の顔の吉沢さんの髪の毛をくしゃりと撫でて、一度吉沢
さんから離れると、部屋を見渡して、吉沢さんの鞄を探した。
「吉沢さん、鞄どこですか?」
「クローゼットの中・・・・・・」
クローゼットを開けて、吉沢さんの鞄を確認。手前のポケット部分を開けると、「お泊り
小道具セット」を取り出した。
「こんなことになってもいいように、今朝、吉沢さんの鞄の中に忍ばせておきました」
「計画犯」
「だって、それくらいしか楽しみないじゃないですか」
吉沢さんの元に戻ると、寝転がったままの吉沢さんのはだけた胸元を指でさらりと撫でた。
「んん・・・・・・」
「浴衣がエロく見えるのって、女の特権じゃなかったんだなあ」
「な、に」
「だって、吉沢さん、旅館の浴衣なのにエロいですよ」
「そんなこと、あるかっ・・・あっ」
俺の指が乳首を弾くと、吉沢さんが小さく跳ねた。
「あんまり声出しちゃダメですよ」
耳元まで唇を近づけて、撫でるような声で息を吹きかけると、吉沢さんの酔いの回った身体
が、また、ぴくんと揺れた。



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