なかったことにしてください  memo  work  clap






「俺と橘高がやり合うつもりないって、何?」
「!?」
「吉沢さん!!」
振り返ると、鉄壁の営業スマイルで微笑んでいる吉沢課長が二人を見下ろしていた。
急激に顔色が悪くなっていく深海を気の毒に思いながら、自分も結構な危ない発言をして
しまったことに青ざめた。
一体どこから聞かれていたのだろう。ストライクゾーン発言を聞かれていたなら別の意味
でアウトだ。
まずは相手の出方を見てから手を考えようと、橘高は当たり障りのない会話を挟んで、
動向をうかがった。
「お疲れ様です。今日は残業だと……」
「うん。意外に早く終わってね。一人で帰ろうかと思ったら、店の前でお前達の姿見かけ
たから」
普段の吉沢課長の行動にしてはありえないことだ。深海が驚いて言った。
「それで、わざわざ…?」
「用事がないとお前を追いかけちゃだめなのか?」
聞きようによっては甘い発言を、吉沢課長はビジネスモード全開で言った。
「いえ、そんなことは……」
「そう」
橘高は喉の奥を鳴らして、唾を飲み込んだ。
「吉沢課長も一杯どうですか?」
吉沢課長は深海の隣に座ると、にっこり笑った。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
完全に尻尾を踏ん付けられた深海はただただこの後の展開に怯えるだけで、この場のピンチ
を凌ぐ戦闘力にはなりそうもない。
とにかく、自分が得た情報はトップシークレットだ。吉沢課長と深海が付き合っている事
を知らないことにして、納得のいく逃げ道はないものだろうか。
そもそも吉沢課長は自分たちの話をどこから聞いていたのか。
橘高は高速で頭を回転させた。深海と吉沢課長が付き合っているのならば、自分が新井を
狙っているという話は、隠していてもそのうち伝わるだろう。勘のいい吉沢課長と隙だらけの
深海のことだ、たとえ深海にしゃべる意思がなかったとしても、自分がしたように、吉沢
課長にもうっかり口を滑らせるに決まっている。バレるのは時間の問題だ。
だったら自分から公言してしまっても同じだ。
橘高は「自分と吉沢課長がやり合うつもりがない」発言の正当化を試みた。
新井が吉沢課長から恋されていると思い込んでいること。自分が新井を狙っていること。
白々しくなりつつも一から順に説明していく。
その間、深海はただ頷いているだけだった。
初めから二人の会話を聞かれていたのなら、自分はピエロだ。けれど今はその少ない可能性
に縋るしかない。
辻褄を合わせながらしゃべり終えると、吉沢課長がビールを一口煽りながら言った。
「ふうん?それで?」
吉沢課長の視線が沁みる。
「だから…吉沢課長が本気で新井さんを狙っていたら、ライバルになるなあって…だけど
流石に課長とやり合って取りに行くつもりはないって、そういうことです」
「でも、新井の発言はあの馬鹿タレの妄想だって、分かったんだろ?」
吉沢課長は敢えて橘高を見て言った。
その顔を見て橘高は悟った。吉沢課長はもっと前から二人の会話を聞いていて、秘密が
既にばれていることを知っているのだと。
意地悪だと、橘高は初めて吉沢課長の腹黒さを味わった。裏も表もない優しくて実直な
人間が、この若さで課長にまでスピード出世するはずがないというのが橘高の持論で、
きっと吉沢課長も勝負事にはシビアな一面や、好敵手には思わず吹っかけてしまうような
顔を持っているはずだと思っていた。
今の吉沢課長はそんな顔をしている。深海に詰め寄れば、それほど苦労せずに口を割る
だろう。けれど、あえて自分に勝負を振ってくるところを見ると、吉沢課長の中では結論
は見えていて、この場の駆け引きを楽しんでるのではないだろうか。
橘高は自分に吹っかけられた勝負をどうやって逃げ切ろうか悩んだ。
橘高が次の言葉を捜していると、ふっと空気が軽くなった。
「ごめんごめん。秀才と謳われてる橘高いじめてみたかっただけ」
「ええ?」
「お前のストライクゾーンがどんなもんかみてみたかっただけだよ」
「!!」
「よ、吉沢さん!」
真っ青な顔をして深海が小さく叫んだ。
「……すみません」
深海に対して深い思い入れはないし、色目を使って近づいたこともない。
ただ自分のストライクゾーンに引っかかっていただけの話で、それを茶化して言ったまで
のことだ。多分吉沢課長もそれを分かっている。
「で?どうやって聞き出したの、こんな超ゴシップネタを」
「……」
橘高がちらりと深海を見ると、深海は半泣き状態で既に頭を下げにかかっていた。
「すんません。吉沢さん、ホントすんませんっ」
深海は武士みたいに膝に手を付くと頭を下げた。
「俺がうっかりしゃべっちゃいました。……吉沢さんと俺の事」
「うん。まあ、そんなことだろうとは思ってたけど」
吉沢課長はにっこり笑って手を出した。
「吉沢さんっ…許してくれるんですか!」
深海がその手に縋ろうとすると、吉沢課長はその手をぺしっと叩いた。
「馬鹿タレ。お前の手なんていらないの。鍵出せ、鍵。お前しばらくの間、出禁だ」
「!!」
「早く」
「うそ〜んっ」
「俺はそういう冗談言わない」
なんだ一緒に住むほどの仲なのかと、それすらさらけ出す吉沢課長の開き直りっぷりに
橘高は驚いた。
「お、俺、ちょっとトイレ……」
深海は立ち上がり、その場から逃げた。新井の100メートルダッジュに匹敵するほどの
逃げっぷりだ。



深海がいなくなると、緩くなった空気がまた張り詰めた。
吉沢課長は手にしてたグラスを再び口に運んだ。
「何?」
「……いえ」
橘高は視線を外し、戻ってこない深海の椅子を眺める。
「橘高の考えてること、当ててみようか」
「えっ?」
「『吉沢課長ってこんな性格だった?』とか」
意地悪そうに吉沢課長が覗き込む。橘高は肩をすくめた。
「……吉沢課長ってこんな顔するんだ、です」
「あの馬鹿はこういう駆け引きに弱いからな。あっさりボロ出したんだろう」
「……」
「今までばれなかったのが奇跡だと思ってるよ」
「すみません。絶対口外しませんから」
「うん。頼むよ。自分の趣味の悪さを露呈したくないからね」
吉沢課長が自虐的に笑った。
「そういう意味でなら俺も同じです」
「……お前のはさらに上をいくか」
「まだ、落ちるかどうか分からないですけど」
「お前ならやれるだろ」
「……相手は、スーパーコンピューターだって次の一手を読めない手強い相手ですよ」
「それでも落とす気、満々なんだろ」
「……はい。吉沢課長とやりあわなくてもいいことがわかったんで」
「ははは。まあ、万が一、橘高とやり合うことになったとしても負けないけどな」
にやりと意味ありげに吉沢課長が顔を上げた。
「べた惚れなんですね」
「ふっ」
笑いの中にわずかに見え隠れする牽制のような視線が、橘高を益々驚かせた。
「あっ…」
「何?」
「もしかして、俺のストライクゾーン発言に嫉妬してたんですか」
吉沢課長は再び笑いながら、小さく拳を握った。
「俺が選んだからな」
驚きながらも、こんな風に愛されている深海を橘高は心の底から羨ましく思った。
「今のは深海にも言うなよ。それなりに口止め料払ってやるから」
「……はい」





吉沢課長の口止め料は相当なものだった。
「8時に駅北の『J』っていう店に新井と一緒に来い。新井に俺の名前は出すなよ」
吉沢課長にそう言われて、状況も飲み込めないまま新井を誘って橘高は店に向かった。
「ねえねえ、今日は本当にキッタカッターの奢りなの?」
「勿論ですよ」
「わーい。俺ね、ここのビーフシチュー一回でいいから食べてみたかったんだよねー」
「……このお店知ってるんですか?」
「うん。兄ちゃんの知り合いがやってるんだって。兄ちゃんから勧められたことあるんだ
けど、なんかさ、一人じゃ入りにくい感じで」
「新井さんでも躊躇う店とかあるんですか」
思わず失礼な本音が零れても、新井は笑い飛ばした。
「あるよー。お洒落臭いとこは苦手だもん」
「確かに、ここの店構えはお洒落っぽくは見えますけど」
新井が一人で入るには敷居が高いらしい店に、橘高はさり気なく新井をエスコートして
入っていった。
「!」
シックな照明の中を橘高が見渡していると、橘高は知った顔を見つけて固まった。
「うん?キッタカッターどうしたの?」
「いや、えっと……」
「なあに?」
新井は橘高の視線を追った。
「あ!」
そして、新井もその顔を見て驚いた。
「……奇遇だあ。なんでここで吉沢課長に会うかなあ」
見る見るうちに顔が緩んでいく新井に、橘高は複雑な気持ちになる。新井は吉沢課長の
事を本気で好いてるのではないのだろうか。
恋をされて困っていると言っているのは建前で、本音は自分も恋をしてるから困っている
のではないのだろうか。
チクリと刺さった棘がぐりぐりとその傷をえぐっていく。吉沢課長には自信たっぷりに
言ってみせたけれど、新井を振り向かせることなど出来やしないのではないかと、橘高は
一気に自信を失くした。
橘高が入り口でしょげ返っていると、新井は磁石がくっ付くかのように吉沢課長の方へ
歩き出していた。
「あ、待ってくださいよ……」
吉沢課長は店の一番奥のテーブルに座っていた。入り口からは気づかなかったけれど、
近づいていくと、パーティションで置いてある観葉植物の陰に一人の女性が座っていたのだ。
「あっ…」
新井もそれに気づいて足を止めた。けれど、隠れるには遅くて吉沢課長に自分たちの存在
を気づかれてしまっていた。
「あ……」
吉沢課長は新井を見つけると、バツの悪そうな顔をした。「嫌なところで会うな…」と
ひとりごちて、吉沢課長は首をすくめた。勿論それは全て演技であることを橘高は分かって
いて、吉沢課長の真意もすぐに分かった。これは吉沢課長の「口止め料」だ。
「二人ともお疲れ」
「吉沢課長、お疲れ様です」
「お疲れ様っス」
「っとに、嫌なタイミングで現れるな、新井は」
「嫌なタイミングってなんですか」
「重要な話してるって事だよ。……ごめんね、大切な話してたのに、うるさいのが混ざり
込んできて」
「ううん、大丈夫。こちらの方達は吉沢君の会社の方?」
同席の女性は吉沢課長と親しい間柄のようで、橘高達にも優しく微笑んできた。
「橘高です。吉沢課長には本当にお世話になりっぱなしで…」
「ああ、噂の橘高さん!」
「噂、ですか?」
「優秀な部下が出来たって吉沢君に聞いてるわよ」
「いえ、とんでもないです……」
新井は吉沢課長と一緒に座っている女性を交互に見ながら興奮気味に言った。
「あっ、あの!この方は……!」
吉沢課長は渋い顔を作った。それから観念したように相手の女性を紹介した。
「こちらは今村さん。……ホントに新井は重要な話の腰を折りやがって」
「重要な話って……」
橘高の言葉に、吉沢課長はぼそりと呟いた。
「結婚の話」
「ええっ!!!結婚するんですか?!」
店中に響き渡りそうなくらいの声を出して新井は驚いた。
「うるさいぞ」
吉沢課長が睨みつけると、新井は一回り萎んでいった。分かり易すぎる反応に吉沢課長で
すら苦笑いを浮かべてしまった。
「……結婚されるんですか……」
新井は泣きそうな声で呟いている。橘高は今村の方に向かって頭を下げた。
「おめでとうございます」
「ありがとう」
「でも、重要な話の最中に割り込んでしまって済みませんでした」
じゃあ俺たちは失礼します、そう言って新井の背中を押した。新井はしょげ返ったまま、
歩き出すと、そのままふらふらと店の外まで出ていってしまった。慌てて追いかけようと
する橘高を吉沢課長が呼び止めた。
「今村さんの結婚式にはご祝儀出してもらわないといけないな」
ニヤリと吉沢課長が笑う。橘高は吉沢課長に頭を下げた。
「ありがとうございます」
今村という女性をどこでどうやって調達してきたか、橘高には想像もつかないけれど、吉沢
課長が払ってくれた口止め料――彼女との現場に引き合わせる――は新井の暴走した妄想を
一瞬で目覚めされてくれたに違いない。
橘高は二人に向かって一礼すると、今度こそ新井を追いかけていった。





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