なかったことにしてください  memo  work  clap



 すがすがしい朝。今日から年度初め。期待と不安が入り混じったような新入社員を尻目に
俺は今日も相変わらずの出勤。
 年度が替わったからと言って、昨日までの年度締めの仕事がひと段落着いたくらいで、
今日からまた新しい仕事が舞い込んでくるだけだ。
 目新しさもなにもない。
桜は満開で、社内の桜の木をケータイをカメラに写真を撮っている社員もいたが、俺には
全く興味のないことだ。
 せいぜい週末のお花見が雨じゃないといいくらいにしか思えない。
今朝も、吉沢さんのマンションから朝帰りで支度して出てきたのだ。疲れが僅かに顔にも
出ている気がした。



 それなのに。
この疲れを助長するヤツがいるんだ、うちの課には。
「もう、先輩聞いてくださいよぉ」
朝礼に遅刻してきた新井が、始業の前の僅かな時間に俺のところにやってきた。
「お前の言い訳なんて聞きたくないな。どうせ4月いっぴから寝坊でもしたんだろ」
「違いますよ!俺、今年から後輩出来るし、気持ち入れ替えて張り切って出社してきた
んすから」
「んで、その張り切って出社してきた新井君がなんで遅刻なんてしてるんだ?」
椅子にふんぞり返って新井を見上げると、新井は頭を掻きながら困ったように笑った。
「いやあ、それがですね、俺今朝から張り切って新しいスーツ着て会社来たんですよ。
そしたら、新入社員と間違えられちゃって・・・・・・」
新井が言うには、新入社員と間違えられた新井は、新入社員の波に流されて入社式の会場
まで行ってしまったというのだ。
 そこで社員だってことを説明してやっと抜け出した頃には、とっくに朝礼が始まっていて
新井は4月早々遅刻してしまったらしいのだ。
「・・・・・・」
あんぐり俺の口は開いたまま。
「っとに、大変だったんすよ〜」
新井は全然大変そうじゃない口調で言った。
「・・・・・・お前、バカじゃねえの!」
「バカってひどいじゃないっすか」
「バカにバカって言って何が悪い。大体4月になったからって今日から新しいスーツ着てくる
お前が悪い。ただでさえ頭の悪そうな顔してるんだから、新人に間違えられたって、間違えた
誘導員さんの方が可愛そうだ」
「深海先輩、ひどいっすよ。せっかく兄ちゃんがスーツ買ってくれたのに」
「お前なあ、この年になって兄からスーツなんて買ってもらうなよ」
「だって、兄ちゃん俺より数倍金持ちなんっす」
新井はいじけた様な口調になって俺を見下ろす。図体はデカイが脳みそは恐ろしいほど
子どもらしい。ちゃんと社会人として成長してくれるのか心配だ。
 まあ後輩が出来れば人は変わるって言うし、俺も新人の頃は人のこと言えた義理じゃ
なかったわけだから。
「お前の兄貴が金持ちなのはどうでもいいの!とにかくお前はそのアホ面直して、さっさ
と仕事せい!」
俺がかっこよく先輩ぶって説教たれてると、俺達の後ろから聞きなれた声がした。
「おーい、そこのバカ2人」
振り返れば営業スマイルにぴくぴくと眉間を揺らしている吉沢さんの姿。
「あ、課長。おはようございます・・・・・・」
俺は椅子から立ち上がって軽く頭を下げる。隣の新井はふやけたままの顔でぼけっと吉沢
さんを見ていた。
「・・・・・・ってバカ2人ってどういうことですか。バカは新井だけにしてくださいよ〜」
「確かに新井は本当にしょうがないヤツだな。4月の頭から遅刻するな」
「すんません」
「こいつ、新入社員に間違えられて、入社式の会場まで連れてかれたらしいですよ」
俺の告げ口に吉沢さんも呆れた様子になった。
 新井はえへへと何故だか得意げになって笑っている。吉沢さんの前でへらへらするな!
「・・・・・・しょうがないな、新井は。それから深海!」
「はい?」
「お前も!」
そう言って吉沢さんは手にしていた資料で俺をパスっと殴る。
「痛いですよ」
「よく見ろ!間違えだらけじゃないか」
殴った資料を目の前に突き出されて、それを見ると数字が何個も赤字で訂正されていた。
「4月から年度が替わるから直しておけよって何度も言っただろうが」
「あ・・・」
「あ、じゃない。あ、じゃ。お前も新井に説教たれるのいいけど、自分のこともしっかり
しろよ」
「はい・・・・・・」
俺の面目丸つぶれ。意地悪だなあ。心当たりはありありなんだけど。
ベッドの中で散々苛めた次の日は必ずこうやってお返ししてくるんだ。課長としての威厳
を保とうとしてるのかもしれないけど、そういうことされると俺としては余計にベッドの
中で苛めてやりたくなる。わかってる?吉沢さん。
 吉沢さんを上目使いで見れば、吉沢さんも昨日のことを思い出したのか、ほんのり顔が
緩む。絶対にプライベートは外に出さない人だから、多分他の人にはわからないだろうけど
心の中では、俺への小言でいっぱいなはず。
 可愛いなあ、なんて思っちゃうのは俺の脳みそ腐ってる証拠だ。
ふと視線をやると、新井が俺と吉沢さんのやり取りを相変わらずバカ面で眺めていた。
 冗談、お前の視界に吉沢さんは映さん!
「ああ、もう!ほら、さっさと仕事しろ!」
席に追い返えそうとケツを叩いて新井を追いやった。
「痛いっすよ〜」
新井が入ってきて以来、あまりにも馴れ親しんだ光景。そのやり取りを、吉沢さんも回り
の社員も苦笑いしながら見ていた。





 新人社員の最初の仕事といえば、花見の場所取りだ。
配属先も決まらず、研修もまだ始まったばかりの新人にとってこの仕事ははっきり言って
苦痛以外の何者でもない。俺もその苦渋をたっぷりと味わったからよく分る。
 ・・・・・・よく分るわけだけど、わざわざそれを肩代わりしてやろうなんて気分には絶対に
ならないし、去年は大変だったんだから、今年は楽させてもらいたいと、そんな気持ちが代々
引き継がれて、結局何年経っても新人が場所取りするという変な伝統が出来上がってしまって
いた。
「花見なんて上司の為にあるもんだからな・・・・・・」
吉沢さんもあまり乗り気ではなく、雨が降ればいいのにと珍しく消極的な発言をした。


 週末は天気もよくて、期待に反して絶好の花見日和となった。
「せっかくの経費!食いますよ!飲みますよ!」
朝から浮かない顔の吉沢さんとは対照に俺は元気だった。
「飲みすぎるなよ」
「詰め込めれるだけ詰め込みます!」

 花見会場はやはりごった返していた。人ごみを掻き分けて辿り着いたときには、ほぼ
メンバーは揃っていて、俺は有無を言わさず部長の隣に座らされてしまった。
 女の人や若い社員に囲まれている吉沢さんとはものすごい距離だ・・・・・・。うわあっ!
なんで吉沢さんの隣にちゃっかり新井までいるんだ!
 一抹の不安を抱えたまま、宴会はスタートした。


「深海、ちゃんと仕事しとるか〜!」
「は、はい。そりゃもう、吉沢課長に必死で付いて行ってますから」
「お前もなあ〜、やれば出来るヤツなのになあ〜」
「今年はがんばります!」
「ん〜深海の今年の売り上げ目標はは何億だったかな?」
「部長・・・」
ほろ酔い加減の部長の相手をしつつ、吉沢さんアンテナは張りっぱなしで、俺は気が気
じゃない。ビールの味も旨いのか苦いのか分らないほどだった。
 吉沢さんの方を見れば、女性社員の黄色い声に囲まれて、吉沢さんが少々引きつった
笑いを浮かべている。
 新井の馬鹿デカイ声がこちらまで聞こえてくる。
「吉沢課長は、彼女いらっしゃるんでしょうか!」
酔いに任せて新井はとんでもない事を言い出している。この話題は一応課内ではタブー
らしいのだ。
 勿論俺達のことを知っていて触れないわけじゃない。女子社員の総意っていうヤツらしい。
知りたいのに知りたくないって、女ってわからん生き物だよな。まあ、熾烈な課長争奪戦
は繰り広げられているらしいのだけれど。
―――そんな、君達が大好きな吉沢課長は「俺のモン」なんだけどさ!
言ったら半殺しどころか、殺されるから、スーパートップシークレットだ。
 女の子達が一斉にピリピリしたムードになった。
「ん?」
新井は襲いかかるんじゃないかってくらいの勢いで吉沢さんに近寄っていく。吉沢さんは
そんな新井の腕を押し返して、ごまかした。
「さあなあ」
「じゃ、じゃ、じゃあ」
「落ち着け新井・・・・・・」
「き、き、き、気になる人とかいるんすか?」
「新井に教える義務はないなー」
「そんなあ・・・俺、そんな事言われたら夜も眠れないっすよ」
この酔っ払いが!
 なれなれしく吉沢さんに擦り寄るな。見るな、触るな、近寄るな!俺のなんだぞ!!
部長の相手さえなければ、今すぐにでも飛んでいって引き離してやるのに。ああ、もう
こうなったら部長もべろべろに酔わせてここから抜け出すしかない。
「ささ、部長もっとぐいっと言ってください」
「俺はもういい、お前飲め」
「・・・・・・」
ビールを注ごうとビンを差し出すと、部長は俺からビンを奪い取って逆に俺のコップにビール
を注いできた。
 飲まないわけにはいかない。注がれたコップを見つめて、一気に飲み干す。
「うぇっぷ」
「いい飲みっぷりだな。よしもう一杯行け」
「ええっ!?」
せっかく空にしたコップに黄金色の液体がなみなみと注がれていく。やめてくれ、目が回る。
 新井の馬鹿笑いも吉沢さんの声も、女子社員の黄色い悲鳴も段々と遠くなって聞こえなく
なっていく。なんか、新井が吉沢さんに抱きついてるように見えるんだけど、これ幻覚・・・・・・?
「んん?!あらいぃ?!」
立ち上がろうとしたところを、部長に引き戻された。
「飲めよ、深海」
部長が俺の肩を叩く。まずい、飲んだら倒れるって。
 俺は下戸じゃないけどザルでもない。顔には出にくいけど、飲めば飲んだだけ酔うし、
こんな状況じゃ悪酔いしかできない。ともかく一刻も早く吉沢さんにまとわり着いてるあの
馬鹿を引き離さなくてはっ・・・
「お、俺・・・かなり酔ってるんすけど」
「そうか?全然飲んでないじゃないか。まあ、飲め。今日はじっくり話しでも聞いてやるから」
そう言うと、部長はビール瓶を再び差し向けてきて、にっこりと笑う。
 部長のありがたい説教は、最後まで俺を解放してくれなかった。




「俺、教えてもらえるんなら、なんでもしまっす!」
吉沢さんを前に新井が絡みまくっている。
「そう言うのは、仕事が出来てから言え・・・」
うんざりしながら呟く吉沢さんの隣で、斉藤さんが乗り出した。
「何でもするんだな?よっし、新井、脱げ!」
「ちょ、ちょっと、斉藤君」
「きゃあぁっ、新井君のなんて見たくなーい!」
「斉藤さんいやあん、課長ぉ何とかしてくださいよ」
斉藤さんもいい感じで酔っているらしい。ここが大衆の見ている場所で、しかも回りに
社名まではっきりバレてることすら忘れてる様子。嫌がりながらも女の子も半分は面白
がっている。
「はいっ!上司の言う事は絶対っす!」
新井の恐ろしいところは、こういうことを真面目に受け取るという事だ。
「うっす!脱ぎます!」
なんて言ったかと思うと、上半身から脱ぎだして無駄に綺麗な裸体をみなの前にさらけ出す。
「お前、いい腹筋してんなあ」
「うっす、大学で鍛えまくってきましたから!吉沢課長になら、触られてもいいっす!」
「は?」
「俺の身体、好きにしてください!」
身体をくねらせて、セクシーポーズみたいな格好をとると、腹筋が浮き上がった。それを
吉沢さんに近づけて、さあどうぞと言っているようだった。
「・・・・・・」
「だから、教えてください、吉沢課長の秘密!」
裸の男が吉沢さんに襲いかかろうとしている・・・・・・様にしか見えない。周りの女が一層
声を高くして叫んだ。
「い、いらん!そんなもんさっさと仕舞え、馬鹿」
「あ、全部脱いだほうがいいっすか」
新井はベルトに手をかけて今にもズボンまで脱ぎだしそうになっている。
「新井!いい加減にして・・・・・・」
吉沢さんが珍しく動揺していた。遠くの席にいた俺に視線を伸ばして、俺が部長から逃れ
られないことを見ると、恨みがましい顔で俺を睨んだ。
・・・・・・そんなこと言われても、俺だって真っ先に駆けつけて助けたいですよ!
 ズボンを脱ごうと新井が立ち上がろうとした瞬間、隣の斉藤さんが新井の腕を引っ張った。
バランスを崩して新井はその場に仰向けに倒れる。
「はにゃあっ」
それを見て、斉藤さんは上からにっこりと微笑んだ。
「吉沢課長に彼女はいないよ。ね、吉沢課長?」
「ほ、本当っすか!?」
2人から・・・・・・いや、その場にいた女子社員も含め大量の視線を浴びて吉沢さんは沈黙する
しかない。
「・・・・・・」
斉藤さんにはバレてるんだ、俺達の関係。まあ、口止め料に高級肉を食わせたんだから、
こんなところで暴露されたら困る。(口止め料を出したのは吉沢さんだけど)
「どうなんすか?!」
「課長、本当にいらっしゃらないんですぅ〜?」
「えー、やだー、ホント?」
何か言わなければ、収拾がつかない。吉沢さんが口を開こうとする。
「えっ・・・あ・・・」


軽い緊迫状態になっていたところで、幹事が思いっきり手を叩いた。
「えー、宴もたけなわとなっておりますが、そろそろ時間ですので・・・・・・」
助かった、と思ったのは俺と吉沢課長。思いっきり舌打ちしている女子社員。斉藤さんは
ただ笑っていた。




 そのまま片付けに入って、吉沢さんの恋人話はうやむやなまま流れた。
部長から漸く解放された俺は、片付けが終わった吉沢さんの元へと駆けつける。回りの
社員はもう既に帰り始めていた。
「・・・・・・部長に捕まって、散々でしたよ」
「散々なのはこっちの方だ」
ブルーシートも片付けられて、社員が吉沢さんに挨拶しながら俺達の隣を通りすぎていく。
「すんません」
「深海が謝る必要はないよ、だけど・・・」
そう言って視線を下に落とすと、そこには上半身裸のまま豪快なイビキで寝転がっている
新井の姿。あそこでひっくり返ってそのまま酔いつぶれてしまったらしい。
「この馬鹿はどうするんだ」
「放っておけばそのうち起きますよ」
「風邪引くぞ」
「大丈夫ですよ、馬鹿は風邪引かないから。俺達もさっさと帰りましょう」
それでも、責任感の強い吉沢さんは、新井の服を身体にかけてやって何度か声を掛けた。
「新井、起きろ。もうみんな帰ったぞ」
「放っておきましょうって、こんな馬鹿」
俺が足で新井の腰を軽く蹴ると、新井は唸った。


「うーん、吉沢・・・課長・・・俺のこと・・・・・・困るっす・・・」
幸せそうな新井の面を見て、俺と吉沢さんはこの上なく深い溜息を吐いたのだった。



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