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Re:不在届け預かってます


 Re:至急




 7月に入った。午前8時前だと言うのに、雲の隙間から差す日差しは強く、肌にジリジリ
と熱く痺れた。
 智優はハンカチで汗を拭きながら、足早に会社へと向かう。通勤途中は何よりも神経を
張り巡らさなければならない時間だった。
 蛍琉の元に駆け込んだ夜以来、狭山は現れていない。智優は運びたくもない足を何度か
警察の元に運び、ストーカーへの対策や今後の措置など、分かりにくい説明をイライラしな
がら受けたのだ。その甲斐あってか、狭山のストーカー行為はパタリと止んだ。
 けれど、それは嵐の前の静けさに似た恐怖が残っていて、いつ再開するかと思うと、
手放しに喜べなかった。
 自分の時が止まっているような感覚だった。季節は確実に過ぎていくのに、狭山の事も
蛍琉の事も何も解決していない。
 蛍琉が出て行ってから、何も考えられなくなってしまった。自分のしたことが正しかった
のかすら分からない。ただ、マンションに帰って来て、蛍琉の残骸を見るたび、心がピシピシ
と悲鳴を上げた。
 蛍琉の使っていた部屋は一度も開けていない。掃除をする気もなれなかった。蛍琉よりも
遥かに綺麗好きな智優だが、蛍琉が生活してた以上に部屋が荒れている。荒んだ心と比例
して部屋も汚れていくのかと、智優は自嘲気味にそれを見過ごした。





 蛍琉の残していったパスタの買い置きが無くなった。智優は滅多に料理はしないし、して
もせいぜい微妙な茹で加減のパスタに市販のソースを掛けるくらいしかない。
 それを見越していたとは思えないけれど、戻ったときには大量のパスタがストックされて
いた。普段から食料のストックなど殆ど目を配らせていなかったので、蛍琉がどれくらい
買い置きしていたのか知らない。隣の棚の洗剤のストックならいつも智優がチェックして
いるのだが、料理のことになると、蛍琉に助言一つ出来ない。せいぜい料理した後の鍋の
洗い方が雑だと洗い直すことくらいだ。
 才能が無いのだと智優は思った。掃除をする才能ならあるのに。慣れだと蛍琉は言って
いたけれど、こんな苦痛な作業に慣れるくらいなら、コンビニの飯の方がマシだと智優は
本気で思っていた。
 仕方なく、智優はストックの中からカップラーメンを取り出して、ポットでお湯を沸かし
始めた。真夏にこんな熱いものを食べる気にはならなかったけれど、買い物一つ出るのも
気が滅入って、結局選択肢はこれしかなかったのだ。
 電気ポットの温度を見詰めながら、智優は奈央に言われた事を思い出していた。この
マンションに戻る事になって、奈央の家に荷物を取りに行ったときの事だ。
「んで、智優は蛍琉のことどうするつもりなの」
ずばっと切り込まれた奈央の台詞がリフレインしている。
「ウザイのは嫌」
「格好つけんなって」
「俺までストーカーになったらどうすんの」
「それは洒落にならないね」
「でも、取り戻したいって思うと、そういう行動に走りそうになる・・・・・・怖いよ」
狭山と自分は紙一重のようなもんかもしれない。
 蛍琉が自分から戻ってくることは無いだろう。たとえ、気が変わって智優の元に戻りたい
と思っても、智優を捨てた蛍琉が、そういう無責任なことはしない。
 取り返したいと思うのなら、智優が動くしかないのだ。
お湯が沸いて、電気ポットが軽快なメロディ音を鳴らした。智優は溜息を吐きながら
カップラーメンにお湯を注いだ。



 休みの午後はやることがなかった。相変わらず掃除もする気が起きないし、本もDVDも
見る気にはなれなかった。エアコンの効いたリビングでソファに寝そべりながら、ぼうっと
天井を見上げていた。
 このまま餓死したら、誰が発見してくれるんだろうとそんな馬鹿な妄想を広げていると
インタフォーンが客を告げた。
「!!」
狭山かと思って智優はインターフォンに映るエントランスの映像を恐る恐る覗いた。
 そこに映っていたのは予想外の人間だった。
「・・・・・・池山世那?!」
見間違いかと思って智優は映像を見直す。インターフォンからは世那の声ではっきりと自分
の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「こんにちは、池山です。朝倉さんいらっしゃいますか」
「・・・・・・はい。・・・・・・いるよ」
智優は迷いながらエントランスのドアを解除する。世那は頭を下げて入ってきた。
 智優は部屋を見渡して、人の入れる状態でないことに慌てた。片付けられるものは急いで
ベッドルームに突っ込んで、フロアモップで適当に埃を集めた。
 世那が玄関に来る僅かな間に出来た掃除なんて高が知れているが、やらないより少しは
マシなくらいは片付いて、智優は疲れた顔で世那を迎え入れた。
「突然すみません」
「別にいいけど・・・・・・バイトじゃないの」
智優の休日は蛍琉の出勤日だ。何も無ければ店は今日も営業しているはずだ。
「俺、毎日働いてるわけじゃないんで」
「そう」
智優は世那をリビングに通して、ペットボトルの麦茶を注いで出した。
「どうも」
「・・・・・・いきなり、何?」
「いえ、ちょっと忘れ物取りに来ただけです」
「忘れ物?」
「服、この前慌てて出てきたんで・・・・・・」
「そう。何処にあるの」
「多分あの部屋」
世那が指差したのは蛍琉の部屋だ。智優は眉を顰めた後、世那に言った。
「取ってきていいよ」
「・・・はい」
世那は素直にそれに従った。
 蛍琉の部屋に入っていく世那の後姿を智優は胸が潰れるような気持ちで見ていた。あの
部屋が愛の巣だったのか・・・・・・。吐き気すら覚えそうだ。
 世那は直ぐに戻ってきて、紙袋を抱えていた。
「突然来て、済みませんでした」
「・・・・・・お茶くらい飲んでいったら?外暑いでしょ」
今すぐ出てけなんて口が裂けても言わないのは、智優の見栄と、世那の後ろに見え隠れ
している蛍琉の残像の所為だった。
「・・・・・・はい」
世那はセブンチェアに座ると汗をかき始めている麦茶を一気に喉に流しいれた。
 こうやって見れば、世那は綺麗な顔をしている。溢れるばかりの若さと、綺麗な顔立ち
で、こんなのが毎日隣にいれば、蛍琉もほだされてしまうのだろうと、智優は諦めモード
で眺めるしかなかった。
「・・・・・・あの」
空のコップをテーブルに戻しながら世那は呟いた。
「何」
「・・・・・・蛍琉さんは・・・・・・」
「うん?」
世那は自分の口にしたことを早くも後悔している顔つきになった。智優は正面でそれを
見詰めると有無を言わさず先を促す。こういう営業駆け引きは得意だ。
 逃げられないと諦めたのか、世那は渋々口を開いた。
「・・・・・・蛍琉さんはいつも、ああなんですか」
「ああって?」
蛍琉の何を見て「ああ」だと言ってるんだろう。狭山から逃げて駆け込んだ日の夜の蛍琉
の事を言うのなら、いつもの蛍琉ではない。
「・・・・・・俺、蛍琉さんに3回振られてるんです」
「は?」
「3回告白して、3回とも振られた・・・・・・当然っすよね。朝倉さんがいたんだから・・・・・・」
「・・・・・・」
「駄目なモンは駄目なんだろうなって諦めかけてたとき、いきなり別れたって聞かされて」
「・・・・・・そう」
それで付き合うようになったのだと、世那は言いにくそうに語った。
 蛍琉は好きな人が出来たからと言っていた。何かが引っかかる。3度も告白されてそれに
流されたのだろうか。蛍琉の性格からはとても考えられないことだ。
「蛍琉さんがあんなふうに怒鳴ってるのも、怒ってるのも、殴られて文句も言わずに黙って
るのも・・・・・・俺、見た事無い・・・・・・それどころか、俺・・・・・・」
世那は何を思い出したのか、眉間に皺を寄せると、悲しそうな顔をした。
「蛍琉は、自由なヤツだけど、案外人見知りするから・・・・・・」
慣れれば世那にもそういう顔を見せるかもしれない。それとも、だからあんな顔を見せる
のは長年一緒だった自分だけだと、どちらにも続く台詞で智優は止めた。
「・・・・・・俺、10年早く生まれたかったですよ」
世那は暗い顔をして立ち上がった。
 上手く行っていないのか、と喉元まで出掛かってそれは飲み込んだ。聞きたいことだが
そんなことを聞いても世那が答えるはずもない。
「・・・・・・お邪魔しました」
「ああ、うん」
智優は以前より丸くなった背中を玄関で見送った。胸に沸いたのは淡い期待だったが、
口の中に広がったのは吐き出したくなる苦味だった。





 夕方になっても気温は中々下がらない。これから夏本番に向けて益々暑さが厳しくなる
のだろう。北陸に住んでいても夏が暑いことには変わりない。もっとも他の地方の出身の
人間にしてみれば、夏の感じ方はまた別なのだろうが、生まれてこの方ずっとここに住み
続けている智優にしてみれば、このねちっこい湿度にまみれた夏の暑さが全てなのだ。
 智優は一つ伸びをして、デスクを立ち上がると、仕事を続けている社員たちに手を上げた。
「お先です」
「お疲れ様です〜」
「早いですね、今日は」
「流石に今日は疲れたから帰るよ」
連日の残業で、疲れがピークに達していた。帰って泥のように眠りたい、そう思って今日は
早めに切り上げたのだ。
 事務所を一歩出ると、ねっとりした空気が智優の肌にまとわりついてきて、一気に汗が
噴出してきた。
「暑い」
首筋や額の汗をハンカチで押さえて、駅前の大通りまで急いだ。相変わらず行き帰りの時間
は気が抜けない。
 大通りで人ごみにまみれてしまえば少しは気が楽になる。そう思って帰宅中のサラリーマン
やOLの間に埋もれて、智優はほっと息を吐いた。
 後は、マンションまで一気に帰るだけだ、そう思った瞬間だった。
 人の波がそこだけ避けていく。何があるのだろうとその方向を見て、智優は固まった。
黒い塊が人の流れを邪魔して立っている。それがふらっとこちらを見詰めてきたのだ。
「さ、やま・・・・・・?」
一瞬、目の前の男が、本当に狭山なのか疑ってしまう程だった。
 智優が知っている狭山とは随分と風貌が変わった。温和そうに笑う顔も、体育会系で自信
に満ち溢れた身体も、血色の良い肌もそこにはない。
 デカイ図体を丸め、陰湿そうに近づいてくる狭山に智優は動きを奪われた。
「・・・・・・色々と警告、ありがとう」
声まで病的だ。
 仕事帰りのサラリーマンやOLが何人か振り返っていくが、立ち止まって智優に助けを差し
伸べてくれるようなことはない。
「あ、あんたが、悪いんだろっ」
「・・・・・・智優君が俺のところに戻ってさえくれば、こんな目に遭わなかったのに。俺はね
智優君の送りつけてきたあの紙切れのおかげで、酷い目に遭ったんだよ」
「酷い目?知るかっ!」
紙切れとは、ストーカーを止めないと告訴する旨を伝えた内容証明のことだろう。智優が
警察で教えられたのを元に送りつけたものだ。
「君の所為で、俺は一族に赤っ恥を掻かされたんだよ?」
一族?何のことだ。狭山の家系になど興味などない。彼が例え華族の末裔でも、財閥の息子
でも、智優を苦しめたストーカーに変わりはないのだ。
「あんたが、他人に何言われたか知らないけど、俺の方こそ、あんたの所為で、酷い目に
遭ったんだからな!!それに、あんたが何しようと、俺はあんたに着いてくことはない」
怒りを込めた瞳で強く言うと、狭山は鬱々とした瞳を揺らしてゆっくりと近づいた。
「智優君・・・・・・」
「何だ、よ」
「俺は、もう終わりだ。君の所為だ・・・・・・」
そう言うと、狭山はポケットに忍ばせていたナイフを、いきなり智優に突きつけたのだ。
「!!」
「君さえいなければ・・・・・・」
一体狭山の思考回路はどうなっているんだ。智優の常識を遥かに超えた感情の揺れに、智優
は眩暈がした。
「俺の事刺す気かよ!」
「一緒に死んでみる?」
「冗談!!」
狭山のナイフの先が震えた。流石に本気ではないだろうと、身の危険を感じながらも智優
は思った。狭山がやってきたストーカーの域を超えている。
 すっかり夏の気候だというのに、背中に寒気を感じた。額から落ちてくる汗は暑さの所為
だけじゃないだろう。
 視線だけはナイフから外さないようにして、一歩一歩小さく後ずさりした。
「じゃあ、智優君からいってもらうしかないよ」
ナイフをちらつかせた狭山に1人2人と通行人が気づき始め、OLが小さく悲鳴を上げた。
 その叫び声を合図みたいに、全てが動き出す。智優はなりふり構わず大声で叫んでいた。
「人殺し!!」
物騒な叫び声に歩いていたサラリーマン達が一斉に足を止め、あっという間に智優たちの
周りに2人を囲む大きな円が出来る。
 狭山が舌打ちをして、こっちに突進してきた。ナイフの先端がこちらを向いている。
正面を刺されるのは御免だと、身体を逸らしたが、狭山の動きも速かった。
「うわっ、馬鹿!!やめろ――!!」
智優の声がかき消されるほど、ギャラリーのどよめきがあがる。見てるのなら助けろ、と
智優は心の中で叫ぶ。
「あああああぁっ!!」
狭山が自分の左側をすり抜けていくと、一瞬にして激しい痛みが沸き起こった。
「うぐぅ・・・・・・」
左腕が焼けるように熱い。燃えているのかと思ったが、その赤は火ではなく自分の血だと
気づいた。
 右手で止血しようと押さえつけるが、左手の先まで血が滴り、地面にボタボタと落ちて
行く。エクスプローラーUが血まみれになって、文字盤が消えた。
 智優は膝を落とし、スローモーションのように崩れた。痛みで目の前が霞む。見上げた
先には焦点の合わない顔で狭山がガクガクを震えていた。
「クソっ・・・・・・クソっ・・・誰か、そいつを・・・・・・」
捕まえてくれ・・・・・・智優の叫びは最後まで言葉にはならなかった。
 智優はその場に蹲ったまま、動けなくなった。





from:奈央
sub:至急
  智優が刺された
至急連絡くれ










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