Re:不在届け預かってます
3日間、蛍琉からの連絡は無かった。智優はテーブルの上に置かれたカレンダーに目を
遣った。まだ大丈夫だ。
蛍琉から連絡が来なくても、智優は部屋の掃除をして、元の生活を目指した。溜っていた
洗濯物も全部洗って、シーツまで干した。
相変わらず天気は曇り空だけれど、気分は高揚していた。
蛍琉が何処を向いているのか確信はない。大きな賭けであることは間違いないけれど、
信じて待つしかないのなら、前向きに待とう。智優の本来の性分がやっと顔を出して、智優
はおもむろに元気を取り戻していった。
七月が終わりに向かって暑さを加速させていく。智優は休日の午前中を掃除や洗濯や
雑事に使い、冷たいシャワーで身体を流し、まったりとした午後を過ごしていた。
エアコンは快適で、テーブルの上に置いてあるグラスは汗をかいている。
智優は濡れたグラスを手に取ってその中に入っているお茶を半分ほど飲んだ。
蛍琉の事を考えると、迷路のような道を突っ走っている感覚になる。この道はゴールに
辿り着くのか分からないし、そもそも目指しているゴールはなんなのか、智優自身、分からなく
なってしまう。戻ってきて欲しい気持ちの中に蛍琉への不信感がはっきりと残っている。
会いたい、取り戻したいと逸っても、同じくらいの力で負の方向にも智優は引っ張られた。
世那への気持ちがなくなったとしても、蛍琉の取った行動は事実だし、その行動の意味
が分からなければ、例え智優の元に戻ってきたとしても蛍琉を心から許せるとは思えないのだ。
蛍琉には沢山傷つけられた。あの夜、世那がここにいた真相は分かったけれど、だから
と言って傷が癒えた訳ではない。
それを飛び越えて、蛍琉を取り戻せることが出来たなら・・・・・・そんなことが出来るのか
考えても答えは出る気がしなかった。
デザイナーズのソファに身体を埋めて、ビジネス雑誌を開きながら、まどろんでいると
来客を告げるチャイムが鳴り響いた。
智優は必要以上に驚いて慌てて起き上がると、インターフォンに映る人物に目を遣った。
「・・・・・・!!」
心臓がぎゅうっと締め上げられる気がした。
期待していたし、来ると信じていたけれど、実際目の前に現れると、身体の底から震え
が走った。
「・・・・・・智優いる?」
ついに、蛍琉が呼びかけに乗ったのだ。蛍琉は智優が部屋にいることを確信して来たに
違いない。その証拠に、蛍琉は自分の鍵でキーロックを解除する様子もなく、ただ智優の
返事を待っていた。
「うん・・・・・・」
エントランスで呼びかける蛍琉に、智優が返事をしてキーを解除すると、蛍琉は小さく肩
で呼吸をして中に入ってきた。
蛍琉がやって来る。その現実は夢のようで、自分の中でまだ処理しきれていなかった。
智優は暫く呆然として映像の消えたインターフォンの画面を見詰めていたが、目の端に、
飛び込んできた「不在届け」で我に返った。
「・・・!」
智優は慌てて玄関に不在届けを持って行き、無造作に玄関ボードの上に置いた。それから
再びリビングに戻ってきて、蛍琉が玄関に現れるのをソファに座って待った。
じっとしていると、自分が震えているのがよく分かる。智優は顔を擦って、自分の緊張を
解そうとした。
二度目のチャイムは、玄関からで、智優はインターフォンまで出来るだけゆっくり歩いて
行くと、再び映し出される蛍琉の姿に顔を強張らせた。
「智優・・・」
「今開ける」
智優は緊張も期待も悟られないように玄関のドアを開けた。
蛍琉は生暖かい夏の空気をまとって智優の前に現れた。2人ともいつも以上に顔が固い。
一瞬の間の後に、先に智優が切り出した。
「・・・・・・うっす」
「うん・・・・・・不在届け、取りに来た」
「そこ、置いてあるから」
「うん。・・・・・・ありがと」
蛍琉は玄関ボードの不在届けを手に取ると、不可解そうに智優を見下ろした。
「・・・・・・なんで、配達日が昨日になってんの?」
智優が蛍琉にメールしたのは3日以上も前の事だ。
「さあ?配達員が間違えたんじゃないの?」
蛍琉は首をかしげながら、更に不在届けに目を落とすと、今度は驚いて智優と不在届けを
見比べた。
「これ・・・?!」
「蛍琉宛だろ」
「・・・・・・そうだけど・・・・・・」
明らかに不可解な顔をしているのは、宛名ではなく、送り主の方だ。けれど、智優はそれを
あえて無視して続けた。
「ちゃんと不在届けは渡したからな」
「・・・・・・うん・・・・・・」
蛍琉は一人モヤモヤとした頭を抱えて、不在届けを財布の中に仕舞った。
用事が済んでしまうと、他に会話がなくなる。手持ち無沙汰のまま突っ立っているわけ
にも行かず、蛍琉は顔に手をやって、そわそわしていた。
帰る気があるのなら、今この瞬間に帰ったはずだ。智優は一つずつクリアしている事を
自分の中で確認しながら、蛍琉を見上げた。
「傷」
「これ?」
「うん。顔のヤツ。マシになったじゃん」
「智優は?」
「時々痒い」
智優は縫い目がまだはっきりと分かる傷を手で摩った。
「蛍琉、時間あるの?」
「・・・・・・うん、まあ」
見上げた蛍琉と視線がぶつかる。こんな正面から蛍琉を見詰めたのはいつ以来だろう。今
まで、じっくり考えたことも無かったけれど、この10年で蛍琉も自分も随分年を取ったと
思った。
十代の頃の顔つきと何処がどう変わったと言われても、明確には答えられないけれど
二十代の色気とか男気が蛍琉から滲み出ている気がする。
自由で、かっこいい男だと思ったことはあったけれど、ドキドキするほど胸を焦がされる
この気持ちはなんだろう。頭に血が上っていく。
智優は熱目になりながらも、蛍琉から視線を逸らさなかった。押し負けては駄目だ。
この空気の主導権を握らなければ、その一心で智優は話を続けた。
「上がってけば?」
「え?」
「時間、あるんでしょ?お茶くらい出すけど」
「・・・いいの?」
蛍琉が目を見開いた。蛍琉の動揺が伝わってくる。期待してなかったのだろうか。それとも
智優から誘われると思ってなかったのだろうか。
その動揺に、智優は苦笑いした。
「・・・いいよ別に」
「でも・・・」
蛍琉が困った顔で智優を見下ろす。上がる気が全く無ければ、智優がいる時間を狙って来る
はずは無い。躊躇う蛍琉に、意気地なしと智優は心の中で小言を言って、わざとらしく鼻息
を強めた。
「お前の家だろ、ここ」
蛍琉の頬がぴくりと震えた。耳が赤くなっている。何度も目を瞬かせて、蛍琉は何かを我慢
しているようだった。
「・・・・・蛍琉?」
「智優、駄目だ・・・・・・」
「何が!!」
「・・・・・・だって、そんなこといわれたら、俺、勘違いする」
「!?」
蛍琉は我慢できなくなったように、智優の腕を引っ張ると頭から思いっきり抱きしめていた。
蛍琉の肩が鼻に当たる。知っている懐かしい匂い。蛍琉の鼓動。息遣い。全てが流れ込んで
智優の身体を包み込んだ。
「・・・・・・智優、俺の事試してるの?」
蛍琉が掠れた声を出した。
「お前の・・・蛍琉の・・・・・・背中、押してる・・・・・・」
智優は震える手で蛍琉の背中を撫でた。
途端、更に強い力で智優は抱きしめられ、その強さに智優は咽た。
「智優っ・・・・・・」
蛍琉が何度も頭を撫でる。絞り出てくる声に、智優の胸の中で張り詰めていた糸が一緒に
震えた。共鳴しているのだと智優も蛍琉も今度こそ確信した。
「・・・・・・蛍琉」
恋愛がこんなに苦しいなんて思ったこと無かった。蛍琉との暮らしは喧嘩三昧で嫌な思い
も辛い思いも一杯してきたけれど、蛍琉を想って胸がこんなに苦しくなったことはない。
惰性ばかりだとは思いたくないけれど、付き合っていく中でおざなりになっていた部分
も否定できない。喧嘩も別れも避けようと必死にもがいた結果じゃない。真剣に向き合わ
なかった自分と蛍琉の当然の報いだったのだろう。
ずっと当たり前のようにあったものの大切さを智優は忘れていた気がする。蛍琉の心が
離れて漸くそれが分かった。
やっと、欲しかったものが戻ってきた。
蛍琉が智優の身体を支え、左手が智優の頬を優しく包んだ。
「!!」
キスされる、そう思っただけで、智優はボタリと大粒の涙を床に落としてしまった。
「智優・・・・・・?」
蛍琉の前で泣いたことなど記憶の中では一度も無い。喧嘩して喚き散らしても、泣いた事
など無かったはずだ。
蛍琉も智優の涙に驚いて、親指で雫の跡を遠慮がちに擦った。その仕草に次から次へと
涙が溢れ出し、決壊してしまった涙腺は何処までも智優の涙を押し出した。
「やだっ・・・止めろよ・・・・・・蛍琉の、馬鹿・・・・・・」
「うん・・・馬鹿だ、俺・・・・・・」
迷いながら近づいてくる蛍琉の顔に、智優は蛍琉のシャツを掴んで首を振った。
「蛍琉、待って・・・・・・俺はっ!!」
「智優・・・・・・」
床に音を立てて落ちていく涙の粒を、蛍琉は動揺しながら見下ろす。それからもう一度
智優の顔へと手を伸ばしたところで、智優は後ろに身体を引いた。
「俺はっ・・・・・・」
自分がこの空気を支配していたはずなのに、蛍琉の行動で何もかも吹っ飛んでしまった。
蛍琉がどんな行動に出るかまで考えていなかった。話し合って、蛍琉の行動を詰問する
つもりだったんだろうか。自分の計画は土台だけ作られて満足されたようなもんだ。
蛍琉を欲する感情で流されたくは無い。蛍琉と向き合って、蛍琉の気持ちを確かめて、
蛍琉の行動を許せると納得した上で蛍琉の胸に飛び込むつもりだった。
これじゃあ今までの喧嘩と同じだ。肝心な心は氷のように固まったまま、ぐだぐだ流されて、
丸く収まったように見えるだけだ。
智優は真っ赤な目で、自分の水滴を見ると、そのまま何も言わずにリビングへと続く廊下を
駆け出していた。
「智優?!」
玄関で蛍琉の声が響いた。智優は手で顔を拭って、鼻を啜った。
「蛍琉っ・・・・・・」
「智優?・・・・・・智優?!」
リビングの方から蛍琉の声がする。智優を探して、蛍琉はついにマンションに再び足を踏み
入れてしまったのだ。
智優はベッドルームのドアに張り付いて、蹲って泣いていた。
「智優、どこいるの?」
リビング、蛍琉の部屋、智優の部屋全て見回って、蛍琉はベッドルームの前まで辿り付いた。
コンコンとドアを軽くノックすると返事代わりに智優の鼻を啜る音が返ってきた。
「智優」
「・・・・・・」
「智優、開けて?」
開けて蛍琉の胸に飛び込みたい甘い気持ちと、蛍琉の心を確かめたい思いが交錯した。
智優は蹲ったまま拳を握り締めた。
「・・・・・・なあ」
「うん」
「どうして蛍琉は戻ってきたんだよ」
「・・・・・・やっぱり、戻ってきたら駄目だった・・・?」
「そうじゃなくて!!・・・・・・俺、お前の気持ち、全然見えない・・・・・・」
ドアの向こう側で溜息が聞こえた。
「・・・・・・勝手なことしてたとは思ってる」
その一言で片付くほど、智優の受けた傷は軽いものではない。いつもの蛍琉の顔で謝られたら
智優はまた蛍琉をぶん殴っていただろう。
続く蛍琉の言葉に、智優は息を呑んだ。
「俺、智優に謝らなくちゃいけない」
「・・・・・・」
「ごめん。嘘ついてた」
「嘘・・・・・・?」
嘘を吐くのが嫌いな蛍琉が嘘を?智優は顔を上げた。蛍琉の言葉に身体が強張る。呼吸を
するのも忘れそうなほど緊張して、蛍琉の言葉を待った。
「好きな人が出来たって・・・嘘」
「嘘!?」
「うん」
「う、嘘ってなんだよ!!嘘吐いて俺と別れたってことかよ!!」
智優は思わずベッドルームのドアを開けて、蛍琉に食いかかってしまった。
「嘘まで吐いて、俺と別れたかったのか!?」
「そのときは、そうだった・・・・・・」
扉の向こうでは、蛍琉が悲しそうな顔で智優を見下ろしていた。
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