Re:不在届け預かってます
その次の日、昼間に蛍琉がいない所を狙ってマンションに戻ると、服やら荷物を持ち出して
再び高藤のアパートに転がり込んだ。
それから3週間。高藤に甘えるだけ甘えて、智優は何不自由なく過ごした。見返りに身体
を差し出しているわけではないけれど、3週間もそんな生活をしていると、流石に智優も
居辛くなった。対等のセフレ関係が微妙に崩れだす。高藤の感情に流されて、このまま高藤
を選んでもいいかもしれないと頭を過ぎったりもした。
それが余計に智優の気持ちを焦らせて、最終手段の実家に帰ろうと思い始めた頃、一通
のメールが届いた。
from:蛍琉
sub:不在届け預かってます
リビングボードの上
本文が件名よりも短いメールを見て、智優はやっと来たメールに唇をかみ締めた。
蛍琉のメールには謝罪の言葉も、それ以外の感情も何もない。ただ用件だけが、ぽつん
と乗っかっただけのメール。智優は忘れかけそうになっていた怒りがまた蘇ってくるよう
だった。これが蛍琉なのだ。
「・・・・・・蛍琉の馬鹿」
智優は液晶のディスプレイをじっと見つめた後、返信ボタンを押した。空白の本文の前で
蛍琉に返す言葉に迷う。「分かった」とか「了解」なんて言葉なら、書かないほうがマシ
な気がしたし、それ以外の言葉――例えば、どうしてるとか、元気?なんてものは、送った
瞬間から後悔するに決まっていて、結局そのメールには返信もせずにパチンと画面を閉じた。
「どうしました?」
「いや、別に」
その態度に高藤が訝しげな表情を見せた。高藤の視線を智優は笑顔で無視した。高藤に
蛍琉からのメールを知られるのは本意ではなかった。
話題を摩り替えるように、出勤前の狭い高藤の部屋で智優は身支度を整えながら、さらり
と出て行くことを高藤に伝えた。
「あ、俺そろそろここ出るわ。これから先ずっと世話になるわけにも行かないし」
突然の告白に高藤はネクタイを締める手を止めた。シルクのブランド物のネクタイが手に
絡んだまま、首元に作ったネクタイの山は崩れた。
思いも寄らなかったかのように、高藤の瞳は大きく見開かれ、智優を見て揺れた。
「別にいつまででもいてくれていいのに」
拗ね気味に呟く高藤に智優は苦笑いする。可愛い後輩だから、これ以上傷つけたくは無い。
智優は出来るだけ優しい言葉を探して言った。
「でも、お前だって狭い部屋で2人は窮屈だろ?」
「朝倉さんとなら窮屈でもいいですけど」
「そのうち嫌になるって。嫌われる前に出てくよ。ありがとな」
智優はグレーのストライプのネクタイを締め終え、スーツのジャケットを着ると、手際
よく身支度を済ませた。
その姿を見て高藤の顔が更に曇る。智優はまるで野良猫みたいだと、高藤は思った。
「・・・・・・あのマンションに戻るんですか?」
「馬鹿、戻らないよ。とりあえず、実家に居候でもさせてもらうつもり」
「そうですか。でも、いいんですよ?いつまででも・・・・・・」
その言葉に、智優は首を振った。
「ありがとな。その言葉だけは、ありがたくもらっとく」
高藤の優しさに智優は揺れながらも、恋人でもない高藤と一緒にいることが辛くなって
智優は半ば逃げ出したかったのだ。
逃げてばかりだ。自分の本当の気持ちを誰にも言えないからこんな目に遭うのだ。
分かってるのに、かっこいい振りばかりしてしまう。強がりは新しい嘘と、虚しい現実
を作り出すばっかりなのに、このループから一向に抜け出せない。
「早く支度しろよ、遅れるぞ」
智優はにっこり笑って見せると、一足先に部屋を後にしていた。
蛍琉にされた仕打ちを忘れたわけではないし、あの時の怒りはしっかりとまだ心にある。
蛍琉が誠意を込めて謝りでもしない限り許すつもりはなかった。
けれど、この時間にマンションに戻ったのは、自分の中に蛍琉への未練があるからだと、
智優は本当は分かっていた。
仕事だからこの時間にしかこれなかったって言うのは言い訳で、マンションの前で、部屋
に明かりがついていることを見ると、胸がズキズキと騒ぎ出した。
会いたいと会いたくない。どちらも自分の気持ちだ。・・・・・・いや、真実はきっとこう。
『会いたいと会ってはいけない』
智優は呼吸を何度も繰り返して、マンションのエントランスを潜って行った。
蛍琉はソファに寝そべってくつろいでいた。ローテーブルにはビールの缶が幾つも並び
灰皿からはタバコの吸殻があふれ出しそうになっていた。
蛍琉は掃除が出来ない。出したら全部出しっぱなしだし、たまに片付ければ見当違いな
ところに仕舞われて、それを一々智優が直すはめになるのだ。
逆に智優は料理が苦手で、パスタを茹でるだけなのに失敗するほどだった。お互い補完
しながら2人の暮らしは上手く出来上がってたのに、片方がいなくなるだけで、生活はあっ
という間に荒れる。智優は雑然とした部屋を見て見ない振りをした。
自分にはもう関係が無い。きっと誰か別の人間が片付けるはめになるのだ。蛍琉の新しい
恋人が、文句を言いながら部屋を片付ける姿を想像しそうになって、慌てて思考を止めた。
そんなことを考えても自分が悲劇の主役になるだけだ。
智優は、リビングボードを目指して、床に落ちた雑誌を飛び越える。蛍琉の前を素通り
すると、流石に蛍琉もソファから身体を起こした。
「・・・・・・智優」
「いたんだ」
わざとらしい返事に、蛍琉の声がくぐもる。
「いるよ」
「不在届け取り来た」
「うん。そこにおいてある」
「わかった。持ってく」
ギクシャクとした会話を早々にきりあげ、智優はリビングボードの上に無造作に置いて
あった不在届けを拾い上げた。
送り主は喧嘩する数日前にネットで頼んでいた通販会社だった。頼んだのは本だ。
智優は送り主くらい誰であるか確認すればよかったと舌打ちをした。本くらいなら、最悪
返却されてもよかった。わざわざ蛍琉の顔を見ないで済むなら、新しくまた注文した方が
マシだ。
だけど、どうせどうでもいいものだろうと思いながらも、ここに足を運んだのは紛れも
無く自分だ。
送り主を確認したところで結果は同じだっただろう。別の理由をつけて自分はここに
向かって来たはずだ。
自分の感情の振幅に自分で振り回されている。
会いたいと会いたくない。別れたいとよりを戻したい。好きと嫌い。
オシロスコープの描く波形みたいに上下の波をくりかえして、永遠に反復していく自分
の感情。蛍琉の事になるとどうしてグズグズになってしまうんだろう。
智優は手にした不在届けをぐしゃっと潰した。
振り返えると、蛍琉はソファに座りながら、テレビのリモコンを無駄に触っていた。
見れば忙しなくチャンネルが替わり、蛍琉はイライラしているようにも思えた。
智優の挙動を見ていないようで全身で意識しているのが分かる。
これは小さな戦いだ。折れたら負けだ。お互いギリギリのところで、相手の出方を待って
いる。仕掛けるのが得か、受けるのが有利か。緊張した空気が2人の空間を満たした。
不意に蘇る、懐かしさと既視感。
デジャヴ、いや、それよりももっとはっきりとしている記憶だ。
ああそうだ。前にもこんな事があった。喧嘩をして飛び出した自分を、蛍琉はこうやって
誘き寄せたんだ。あの後どうやって連れ戻されたのだろう。まるで、餌につれられて、自分
は捉まえられた昆虫みたいだ。。
虫並みの学習能力しかないのかと、智優は自分を皮肉った。
だったら・・・・・・捉まえられるなら、やってみろよ。
心の中で呟く。無言で立ち去ろうとして、智優は蛍琉に声を掛けた。
「じゃあ、俺行くわ」
挑発しながらも、捉まえて欲しいという気持ちがそこにあるから、無意識に隙を作るのだ。
背中を向けて一歩、歩き出したところで蛍琉が動いた。
「どこ行くの?」
「・・・・・・どこだっていいだろ、お前に関係ない」
「関係なくなんてないでしょ」
別れておいて、まだそんなこと言うか。智優は蛍琉の顔を見ないように、リビングをすり抜け
玄関まで逃げた。
白色のタイルで統一された玄関ホール。正面には姿見鏡が埋め込まれていて、窓のない空間
が暗くならないように考慮された設計が気に入っている。
このマンションも自分が逃げたらどうなるんだろうと、一瞬頭を過ぎったけれど、今は
余計なことを考えている余裕は無かった。
一刻も早く、蛍琉から離れないと・・・・・・。蛍琉にまた捉まってしまう。
「ねえ、どこにいるかくらい教えてくれてもいいでしょ」
「別れたんだから関係ないだろ!なんでそんなこと聞くんだよ」
イライラしながら靴を履き、いつでも出て行ける準備をして言葉を吐き捨てる。このまま
玄関を出ようとした瞬間、後ろから肩を掴まれ、そのまま抱きしめられた。
「やめっ・・・・・・」
頭の上から蛍琉の声が降ってきた。
「だって、智優のこと心配」
「!!」
蛍琉は狡い。自分のしたこと謝らないくせに、こうやって自分を捉えて離さないのだ。
智優は悔しくて、怒っていたことを必死で思い出した。けれど、この手のぬくもりの前
には、そんなものは無力だ。
「離せよ」
「やだよ、だって智優出てっちゃうでしょ」
「出てくよ」
「出てくの止めるなら離してあげる」
「・・・・・・っ」
狡い。狡い。狡い。こんなことで、許してもらえると思ってる蛍琉は狡い。
それが、本当だということも、きっと知っている。蛍琉は自分のコントロールを知ってる
んだ。どうすれば、一番効果的に元に戻せるか。その手に引っかかるもんかと、智優は
腕の中でもがいてみたけれど、本気が出ない。押し寄せてくる甘い香りに脳が麻痺し始めて
智優は蛍琉の手の中に落ちた。
好きだから、優しい言葉を貰えば揺れてしまう。抱きしめられれば、結局許してしまう。
出て行くときは、本気だったのに。本気で別れるつもりで、今度こそ本気で吹っ切って
蛍琉から離れるつもりだったのに、結局また元通りだ。
「ねえ、戻っておいでよ」
「・・・・・・やだ」
「まだ怒ってるの?」
「怒ってるよ」
「ホントに?」
「もうめっちゃめちゃ怒ってる!」
背中に当たる蛍琉の熱がジンジンと痺れる。力ずくでこの手を解けば、きっと今なら抜け
出せると分かってるのに、智優はこんな緩い檻からも逃げ出すことが出来なかった。
「ねえ、智優」
「なんだよ、離せって」
「ホントに出てくの?」
「出てくよ。だって、別れたんだし」
「荷物どうするの。まだまだあるよ?」
「あとで取りに来る」
「マンションのローンどうするの、ローン名義は智優だよ?」
「・・・・・・あとで考える」
口では出て行く気満々なのに、身体はぴくりとも動かない。玄関で不在届けを握り締めた
まま、智優は既に戦意を失っていた。
結局いつもこうなのだ。好きだから。その一言は諸刃の剣だ。ダメなことまで許して、
蛍琉を拒否できなくなる。
もう蛍琉の腕に身体を預け始めている自分に、智優は唇をかみ締めた。
「戻っておいで。一緒にご飯食べよ?」
「・・・・・・ヤダ」
「智優」
「離せっ・・・・・・」
往生際の悪い智優に、こんな時、蛍琉はものすごく根気強い。腕を解いて、智優を正面
向かせると、優しい顔で見下ろす。
「いいから、戻って来いよ」
それから、がぶり、智優の唇に噛み付くようなキスをして後頭部を大きな手でなで上げた。
「〜〜〜〜〜っ」
よろよろと力が抜けて、智優は玄関の壁に背中をぶつけた。
どん。壁が振動する。蛍琉が無理矢理押さえ込んで、智優はもがいた。掴まれた腕が壁
に押さえつけられて身動きが取れない。その間に蛍琉の唇が開きだし、ちろりと赤い舌が
智優の唇をなどった。
とろとろに脳みそごと蕩けだしそうになる。掴まれた腕は熱いだけで、もう離して欲しい
なんて思えなくなった。
2人はキスを止めることもしないで、蛍琉は智優の唇を何度も啄ばんだ。
懐かしい蛍琉の唇。知ってるけど、もう手に入らないと思っていた感覚。蛍琉とするキス
は、気持ちがよくて、何もかもどうでもよくなってしまった。
「智優、戻っておいで」
直接智優の唇に伝えるみたいに囁く。息遣いまで飲み込んでしまいそうな距離と、見詰め
られる蛍琉の視線に智優の思考はガクンと傾いた。
もう駄目だ。
智優は蛍琉の腕にしがみ付いていた手を、蛍琉の腰に回してしまった。
「蛍琉の馬鹿野郎」
「うん」
蛍琉は玄関の鍵を閉め、智優は靴を脱いだ。
何度目か分からないこのシチュエーションに目を閉じて、智優は蛍琉とともにリビング
へとなだれ込んで行った。
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