フォルトゥナのうしろ髪
それから数日も経たない内に、鉄二は駅前のシックなダイニングバーで、居心地の悪い
思いをしながら、小宮山と夕食を共にしていた。
「どうですか。お口に合いませんか?」
「いや・・・・・・こういうところには来た事が無いから」
鉄二は滅多に外食をしない。昼も妻の作った弁当を食べるし、仕事が終われば、寄り道など
殆どせず家に帰る。
自分の給料に余裕が無いこともそうだが、何よりも家族の元へ早く帰りたいという思い
があるからだった。
荒れ果てていた10代とは随分と変わった。過ちは消すことはできないし、振り返れば
自分のしたことは後悔ばかりだけれど、その上に成り立っている今をとにかく大切にしな
ければという思いが鉄二を全うな人間として、歩ませている。
けれど、この目の前にいる小宮山という男はは自分のすさんだ時代を知っているらしい。
それだけで鉄二の中の幸せがぐらぐらと揺れるような気がした。こんなとき、自分の立って
いる今の幸せがどんなに不安定なものなのか、思い知らされるようで、鉄二は一刻も早く
話を取りまとめて、ここから帰りたかった。
「どうです?この辺りでは一番評判のいい店を選んだつもりなんですけど」
「は、い。おいしい・・・です」
鉄二は目の前にいる相手にどんな口を利いていいのか、迷いながらしゃべった。後輩で
ありながら取引先の社長の息子なのだ。
それを察知すると、小宮山は営業マンの手本のような笑顔で手を振った。
「楽にしてくださいよ。大友さんは、私の先輩なんですから」
だから困るのだ。
鉄二は未だに小宮山と自分の関係を思い出せないでいた。
小宮山には昔の面影など一つもない。もともと、中学時代、鉄二は小宮山の名前など
正確に知りもしなかったのだ。
小宮山が自分の過去にどれだけ深く関わっているのか、それを見極めることが出来れば、
鉄二とて出方を決められるのだが、小宮山は自分が中学の後輩であること以外、口を割ろうと
しないし、自分でその口を割れるような気がしなかった。
自分と小宮山の関係は工場の存続に関わることだ。こんなところで、弱みを握られては
ならない。円滑に話を進めて、こちら側の希望をなんとしても呑んでもらわなくては。
鉄二は肩の筋肉ががちがちになるほど緊張していた。
「あの・・・それで・・・この前の話なんですけど」
「まあまあ。その話は、もう少し後にしませんか?私、旨い食事で大友さんと昔話に華でも
咲かせたいなんて思ってるんですけど」
小宮山のこの一言は決定的だった。鉄二が思い出せないでいる過去を小宮山は覚えている。
何がしたい?報復?それとも・・・・・・?
身体がびりびりと痺れる。けれど鉄二はどこかで開き直ってもいた。
小宮山が中学時代の話を切り札にしてくるのなら、こちらも考えがある。それで会社が
潰れることになろうもんなら、自分が退社するまでだ。
涼しい顔でグラスワインを煽っている小宮山を見て、鉄二も負けじと自分もグラスに手を
伸ばしていた。
どれくらい飲んだのか、覚えていない。もともとそれほど強いわけではないから、自分を
見失うような飲み方はしていないつもりだった。けれど、何杯目からか、意識があやふやに
なっていき、鉄二はその場に突っ伏してしまった。
『そんな・・・・・・大丈夫なの』
妻の声が聞こえた気がした。今朝、出かけに事情を話すと、彼女はひどく心配をしていた。
彼女は鉄二の過去も知っているし、知っていて一緒にいてくれるかけがえの無い人だ。
彼女を無駄に心配させたくないと、努めて明るく頷いて、たとえ遅くなっても心配するな
と言い残して、今朝は家を出たのだ。
彼女は何を心配していたんだろう。彼女の勘を頼らなかった自分が恨めしい気がした。
重い瞼を持ち上げると、見慣れない天井に、シーリングファンが緩やかに回っていた。
「・・・?」
自分が記憶を失っていたことすら、鉄二は理解できていなかった。
身体が思うように動かない。酔いの所為だろうかと思って寝返りをうとうとしたとき、
自分の両方の親指が身体の上で縛られていることに鉄二は気づいた。
「な?!」
掠れた声が部屋の壁に染み込んでいく。足元の方で人が動く気配を感じた。鉄二が重い頭
を力いっぱい持ち上げると、涼しい顔でパソコンに向かっている小宮山と目が合った。
「ああ、気づきましたか」
「?!」
何故ここに小宮山がいるのだろう。そもそもここはどこで、自分はなんで縛られているのか。
疑問が次々と浮かび上がるけれど、朦朧とした意識の所為で、それらの疑問が言葉として
外に発せ無い。鉄二はイライラしながら小宮山の動きを目で追った。
「そんなに睨まないでくださいよ」
柔らかい口調は変わらないのに、小宮山から出ているオーラが鉄二の皮膚をぴりぴりと刺激
して、鉄二は底知れぬ恐怖が目の前に横たわっているような気がした。
小宮山はデスクから鉄二の隣にやってくると、優雅な動作で一人がけのソファに身体を
埋めた。
「・・・・・・ここどこ」
「俺のマンションですよ」
ねっとりとへばりつくような口調で小宮山が言うと、鉄二の本能が当たっていたことを悟った。
今、自分の身は危険に晒されている。
殺されるのかもしれない。理由は分からないけれど見当は付く。どうせ自分が昔やった
事への報復だ。
ここにいてはいけない。今すぐ逃げ出さなければ。そう思って足掻くほど、テグスが
指に食い込んで、痛みが走った。
「暴れると傷つきますよ。・・・やだなあ、わざわざ、酔っ払ってどうしようもなくなったあなた
を担いでここまで連れてきてあげたっていうのに。介抱してあげただけですよ?」
鉄二はベッドサイドのソファに座ってこちらを楽しそうに眺めている小宮山を見つけると
やられたと、小さく舌打ちした。
油断していた。この男は自分の過去を知る人間で、自分に恨みか何かを持っているのだ。
酔ったっていうのも、何か薬を仕込まれたのかもしれない。そうでなければ、意識を
失うはずが無い。自分の考えを肯定するかのように小宮山は笑った。
その、冷ややかに笑っている瞳が鉄二を捉えている。鉄二は親指に食い込んでいるテグス
を思い切り自分の方へ引っ張って歯で噛み切ろうともがいた。
「・・・・・・無駄ですよ。それ、歯で切れるような脆いテグスじゃないですから」
一瞬、昔の自分が、今の殻を突き破って大暴れした錯覚を起こした。
自分の中に眠っている、凶暴で最悪の自分の影。怒りが鍵になって、目覚めそうになる
ところに、小宮山はいきなり鉄二の唇を奪いながら、鉄二に覆いかぶさってきた。
「暴れちゃダメですよ。傷ついちゃうでしょう?」
「?!」
ぞくぅっと背筋から走った悪寒で体中が震えだす。
「意外と抵抗しないんですね。それとも、妻子持ちと窺いましたが、そういう趣味もある
んですか?」
頭に上った血は自分の社会的立場なんてものはあっさり押し流した。
考える前に、鉄二は足を蹴り上げて、小宮山のみぞおちを狙っていた。
するり、間一髪で小宮山が鉄二の上から逃げる。自分の反射神経が鈍ったのか、小宮山
がそれを上回ったのか。宙を描いた鉄二の足はバランスを失って、再びベッドの上に沈んだ。
「お前!一体何のつもりだ!」
「『鉄二先輩』のケリを避けられるなんて鍛えてよかった」
カっとなって叫んだ鉄二に小宮山が嬉しそうに自分のかすりもしなかったみぞおちを撫でた。
その姿が更に鉄二の怒りを生む。鉄二は身体をねじって、足を高く上げると、もう一度
小宮山目掛けて、足蹴りを喰らわせた。
「やっと本性見せましたね」
小宮山はその足蹴りをわざと腹筋を使って受けた。それから上がった鉄二の脚を楽しそうに
撫で上げた。
「止め・・・・・・お前、一体、誰なんだよ・・・・・・」
小宮山は、不安に揺れる鉄二の顔を覗き込んだ。
「誰って、小宮山遥平ですよ。ひどいな忘れちゃったんですか、鉄二先輩」
鉄二は自分の知る限りの後輩の顔を思い浮かべて、片っ端から否定する。そもそも忘れてる
人間を思い出そうとする方が難しいのだ。
「俺の名前を聞いても、反応しなかったってことは、本当に忘れちゃったって事なんですか?」
「お、お前、誰なんだよ」
「だから、何度も行ってるじゃないですか。小宮山ですよ。・・・・・・もっとも、あなたは、
コミィって呼んでくれてましたけど」
「コミィ」
口の中でその名前を復唱する。何かの呪文のように、コミィと呟き続けると、心がそわそわ
し始めた。忘れていた記憶にたどり着く。
「あ・・・・・・ああ・・・?!」
すると、あれだけ見えていなかった過去が突然開けたように幾つも蘇ってきたのだ。
「コミィって・・・・・・お前、あのコミィ・・・・・・?!」
愕然とした表情で小宮山を見上げると、小宮山は満足げな顔をして頷いた。
「ああよかった。やっぱり覚えててくれたんだ」
やせ細って眼鏡をかけたさえない中学生が浮かんで、それを目の前の男とダブらせてみる。
ぴったり重なる面影は眼鏡くらいだ。体つきも顔も、それよりも、オーラが違う。
「驚きましたか?」
「本当に、コミィ・・・?」
「嘘ついてどうするんですか。正真正銘、小宮山遥平。あなたからカツアゲされていた
コミィですよ」
ドンと後頭部を殴られた痛みが走った。それは錯覚だったけれど、現実のように痛みを感じた。
嘗て自分がカツアゲした男に縛られている。
報復だの復讐だの言われて、足や手の骨を折られたことはあったけれど、こんな風に
酔わされて部屋に連れ込まれた挙句、縛られたことは無かった。
そこまで自分に恨みがあったのか。
けれど、中学1年に、毎週のように金をせびっていた自分を思えば、十分それくらいの
恨みは持ち続けているかもしれない。
「・・・・・・すまん」
「え?」
搾り出した声に、小宮山は聞こえない振りをした。
「・・・・・・済みませんでした」
「聞こえないなあ」
「くっ」
ベッドサイドに座って鉄二との距離は僅か数十センチのところにいる小宮山に、この声が
聞こえないはずが無い。
小宮山は自分を試しているのだろう。
鉄二は腹を決めた。自分のプライド一つで会社が救えるのなら、こんなもの捨ててやる。
「申し訳ございませんでした」
縛られた指に力が入って、悔しさは手の中で握りつぶした。
「へえ」
小宮山の頬がぴくっと震えた。
「かわったね、鉄二さん」
小宮山の手が伸びて、鉄二の短く刈り込んだ髪の毛をゆっくりと撫でていく。
小宮山が覚えている鉄二の姿はブリーチで痛んだ毛先が肩の辺りでピョコピョコ揺れて
いたはずだ。鉄二も随分と容姿が変わった。常に獲物を狙っているようなギラギラとした
獰猛さはすっかり抜けて、社会人として普通に暮らしているのだろうと一目で分かる。
真面目に更生したのだろうと小宮山は思った。
「でも、誰にも屈しない、あの頃の鉄二さん好きだったんですけどね」
そう言うと、小宮山は鉄二の感触を楽しんでいた髪の毛から手を滑らせて、頬を優しく
包んだ。
喧嘩三昧だったころの名残が顔にもいくつか付いていて、小さな傷を指で辿りながら
小宮山はもう一度鉄二の唇に自分のを重ねた。
「なに、すんだ・・・!」
「何すると思います?」
謝って済む相手ではないことは確かだし、興奮して殴りかかってくる相手でもない。こんな
相手は初めてだ。
鉄二は、言いようのない不安の中を必死にもがいた。
「金か!カツアゲしたときの金、返せばいいのか」
「鉄二さん、あなた俺から借りていったお金、幾らか覚えてるんですか?」
「・・・・・・」
答えられない鉄二に小宮山は鼻で笑って見せた。
「43万8千円」
そんなに、と言う思いとそれくらいなら、と言う思いが交錯した。けれど、小宮山はそんな
鉄二の表情を嘲笑うかのように続けて言った。
「勿論、俺が鉄二さんに『貸した』んですから、返してもらうなら、利子もきっちり頂き
ますよ」
「利子・・・・・・」
それが一体幾らになるのか検討も付かないが、昔の友人の中に、マチキンで金を借りて
苦しんでいる奴らが何人かいた。彼らは揃って「たった10万しか借りてないのに」と言って
絶望的に膨らんだ借金に溜息をついていた。
100万、200万・・・・・・どこまで払えるだろう。そう考えていると小宮山は鉄二の思考を遮って
話を始めた。
「もういいですよ。返してもらうつもりはありませんから」
「え?」
「返してもらうなら、といったでしょう?あのお金はあなたへの投資だったと思ってます
ので」
「投資・・・・・・?」
「そう。俺好みへなるためのね」
ぞわっと全身が粟立った。小宮山は何をしようとしているんだろう。自分が狙われている
のは何だ?金か?命か?
戸惑う鉄二を横に小宮山は鉄二のシャツのボタンを器用に一つずつ開けていった。
「何、すんだ!?」
「何するって?見ればわかるでしょう。これからあなたとセックスするんですよ」
「!?」
「金は返してもらわなくてもいい。その代わり、あなたの身体で払ってもらいます」
シャツの中から小麦色に焼けた肌が顕わになった。小宮山の手が鉄二の首筋から胸に向かって
ねちっこく絡まってくる。
「なっ・・・・・・!?止めろっ」
胸の突起を指の腹で捏ねられて、鉄二は反射的に身体を捩った。
耳元で小宮山が囁く。わざとらしく小宮山の舌が鉄二の耳たぶを掠った。
「勿論一方的にあなたを抱いたりしたら、強姦と変わりなくなっちゃいますからね、ちゃんと
見返りは差し上げますよ」
「見返り!?・・・・・・いらない、離せ!」
「いい話だと思うんですけどね。俺はあなたの身体をもらう。変わりに、例の話は、5%
ではなく3%にしてあげますよ」
「!?」
そういうことだったのか。
小宮山は自分を見つけた瞬間、とっさに思いついたんだろう。
何故・・・・・・。
これが小宮山なりの復讐なのか?金の代わりに何故自分を抱こうとするのか、見えない
恐怖が鉄二の中で蠢き始めている。
小宮山を止めることはできないのか。
「鉄二さんだってわかってるんでしょう?俺の要求を呑まなければ、あなたの会社がどう
なってしまうかくらい」
「うっ・・・・・・」
逃げられない。逃げるわけには行かない。追い詰められた鉄二は小さく呻いて、小宮山の
愛撫を目を硬く閉じて受ていた。
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