なかったことにしてください  memo  work  clap

フォルトゥナのうしろ髪




 深夜に家に帰れば、妻はキッチンのテーブルに伏せたまま眠りこけていた。鉄二の帰りを
心配して待っていたのだろう。、自分がしてきたことが恐ろしくて、声を掛ける前に、真っ先
に風呂に駆け込んで熱いシャワーを身体が痛くなるほど浴びた。小宮山を受け入れたソコは
ぴりぴりと痛み、悔しくて壁を殴ろうと腕を振り上げたところで止めた。
 小宮山の言葉が鉄二の耳を掠った。
『あなたを愛してるから』
本気であんなことを言ったのだろうか・・・。小宮山のやりたい事が鉄二には理解できない。
 でも、あの気持ちに嘘がないとしたら・・・・・・。
そこまで考えて、鉄二は頭を思いっきり横に振った。
小宮山のことをこれ以上考えたくない。この出来事を自分の中から排除することだけを
考えよう。そして、今後もできる限り小宮山と関わりの無い人生を。妻と子どもと幸せに
暮らすことだけを考えよう。
 鉄二はシャワーと共に、小宮山の想いも全て水に流した。



 所長に事情を話せないまま数日が経っていた。話は付いた、そう言えばいいだけなの
だろうが、その一言を口に出すのが重く、迷っているうちに日にちばかり過ぎ去っていたのだ。
 そうこうしている間に、鉄二はこの話の決着を所長自ら伝えられる羽目になった。
「ありがとう。小宮山さんと話つけてくれたんだね。本当にありがとう」
「え、あの」
「さっき小宮山さんから連絡があってね。大友君とご飯食べて、昔話に花を咲かせたって
楽しそうに言ってたよ。自分にとっても大切な先輩だったことがわかったから、がんばって
みますって。いやあ、本当に助かったよ。うちもこれで終わりかと腹くくってたんだけど」
そういって頭を下げた所長に、どんな顔をしてその礼を受け取ればいいのか分からなかった。
「小宮山・・・さんは、他に何にも・・・?」
「え?ああ、昔の君を垣間見れて嬉しかったとか言ってたなあ。大友君の中学時代って、
意外といいヤツだったのかね」
ニコニコ笑う所長に、返す言葉が何も無い。曖昧な表情で頷くと、所長は言い忘れたように
重大なことを付け加えていった。
「あ、そうそう。それで、この書類を小宮山さんに届けて欲しいんだけど、大友君お願い
してもいいかい」
「え?」
「小宮山さんと気が合うみたいだね。また食事でもなんて言ってくれたよ。本当にありがとう。
君がいてくれて助かった」
自分は今どんな顔をしてるのだろうか。
 会社は救われたけれど、犠牲にしたものは大きい。目を瞑ろうと決めたのに、時が経つ
ほど、胸の中にくすぶり続ける。けれど、このまま何もかも小宮山の思い通りになるのだけは
我慢ならなかった。
「・・・・・・わかりました」
鉄二は所長から書類を受け取ると、早々に所長の前から立ち去った。
 目を閉じて深呼吸を繰り返す。次の小宮山の手がどんなものであれ、こうなったら、戦う
しかない。
 決め手は無いが、とりあえず一歩踏み出すしかないのだ。鉄二は覚悟を決めた。





 着慣れないスーツを引っ張り出して、ネクタイの締め方を3度も間違えて、不恰好ながら
漸く着替え終わると、鉄二は新品同様の黒の革靴に足を突っ込んだ。
「パパかっこいいね」
「見直した?」
「うん」
出かけに妻と子どもが眩しそうに鉄二の姿を眺めて、背中を押してくれた。
 会社を潰されることは絶対回避しなければならないことだけれど、小宮山にあんなふうに
抱かれるのはやっぱり嫌だ。
 小宮山に勝つためには、どうしたらいいのだろう。



「どうしました?」
「!?」
応接室で一人今朝の出来事を思い出していると、突然声を掛けられて、鉄二は驚いて顔を
上げた。この声は紛れもなく小宮山の声だ。
「お世話になってます。わざわざお越しくださってありがとうございます、大友さん」
にっこり笑う小宮山の顔は、あの夜見せた欠片もなく、完璧な営業マンだった。
「しょ、書類、持って来ました」
「どうもありがとうございます」
鉄二が書類を手渡そうとしたところで、小宮山が一歩近づいて鉄二の姿を舐めるように
眺めてきた。
「今日はスーツなんですね」
「おかしいですか。・・・・・・普段、着慣れないので」
「いえ。なかなか、似合ってますよ、そのスーツ。スーツ姿のあなたも、そそります」
「!?」
小宮山に差し出していた手が止まった。書類の入った封筒を机に落としても、鉄二は固まった
まま、小宮山から視線を外せなくなっていた。
「あ、でも、ネクタイが少し曲がってます」
小宮山は鉄二のネクタイに手を掛けると、形を整えていく。張り付いた表情のまま、鉄二
はその様子をただ見ていた。
「そんなに驚くこと無いじゃないですか」
「・・・・・・からかうの、やめてもらえませんか」
「からかう?俺がいつ、あなたのことからかったんですか?」
「全部・・・」
あの夜、お前の手の上で踊らされて、からかわれていたんじゃないか!
思わず叫びそうになったところで、応接室のドアが申し訳なさそうにノックされた。
「・・・・・・」
「・・・・・・ちょっと待っててください」
小宮山は立ち上がって、ドアを開けると、扉の向こうで困った顔をして立っている事務
の女性と小声で話し始めた。
 何の話をしているのか、鉄二には聞き取れないが、小宮山が二、三度こちらを振り向いた
所為で、何事かと身体を硬直させてしまった。
 事務の女性が頭を下げて小走りに廊下を走っていくと、小宮山は不機嫌そうな顔をして
鉄二の前に座った。
「申し訳ありません。来客が重なってしまいまして」
「・・・・・・そうですか。確かに書類はお渡ししたので、これで失礼します」
「いえ、ちょっと待っていただけませんか」
「・・・・・・」
「あなたにも会っていただきたいんです」
「え?」
突然の展開に鉄二は戸惑った。小宮山の客がどうして自分なんかに用事があるのだ。
 小宮山は手元の資料をすばやく処理すると、席を立って今度は鉄二の隣のソファに腰を
降ろした。
「あの・・・」
「すみません、立場的にこういう状態になりますので」
「誰がいらっしゃるんですか」
小宮山が答える前に、再び応接室のドアが開いて、先ほどの事務の女性と、その後ろに
スーツ姿の恰幅のいい中年の男が立っていた。
 小宮山がすっと立った。鉄二もつられて立ち上がる。
「鈴木さん、いつも、お世話になっております。わざわざお越しいただいてありがとうござい
ます」
「お久しぶりだね、小宮山君。急に無理を言ってすまないね、外に『Hセイミツ』の社用車
があるのを見つけたら、いても立ってもいられなくて」
『Hセイミツ』は鉄二の工場の名前だ。確かに今日は工場の車でここまで来た。この人が
うちの会社に何の関係が・・・・・・?
 不審な顔をしていたのだろう。小宮山が直ぐにフォローに回った。
「鈴木さん、こちらHセイミツの大友さんです。大友さん、こちらは・・・」
言いかけて、鈴木は内ポケットから名刺入れを出すと、太い指で鉄二に名刺を一枚差し出して
きた。
「S自動車の鈴木です」
「!!」
S自動車といえば、小宮山の会社の更に上にいる大元の自動車会社だ。
 上の上。大ボスみたいな存在に、鉄二も慌てて名刺を出して頭を下げた。
「大友と申します」
「うんうん。Hセイミツさんね。君のとこの製品、あれ本当にいいよ」
「あ、ありがとうございます」
鈴木は頷きながら、勝手にソファに腰を下ろした。
「今日はどうされましたか」
小宮山の声は心なし硬かった。
「うん。前にもらったこの資料ね。うちとしてはちょっと譲れないところが沢山あるから
それのお願い」
「・・・・・・とおっしゃいますと?」
「とりあえず、ここね」
鈴木はビジネスバッグから資料を取り出すと、赤でラインが引いてる部分を指さした。
「ここの単価を下げて欲しいとは言ったけど、これ。『単価が下げれなかった場合は、別
の部品に差し替え』これね、困るんだよね」
「いえ、同等のものを・・・・・・」
「君は知らないかもしれないけど、昔、一度別のトコのも使ってみたんだよ。だけど、ダメ
なんだよ。ここはこの部品じゃないと、精密さが違う。だからね、大友君」
「はい?」
いきなり鉄二に話を振られて、鉄二は何事かと驚いた。遠慮がちに鈴木の指す部分を覗くと
そこにはHセイミツの文字が見えた。
「このご時勢だからね、うちとしてもKOMIモーターに単価安くしろって叩きまくってる
んだけど、単価が安くできるならどの部品使っても構わないってことにはならないって
ことを言いたいんだよ。Hセイミツの部品は本当にすばらしい。例えHセイミツから仕入れた
製品の単価が安くならなくても、ここだけは切らないで欲しいってお願いをしにきたんだ」
小宮山の顔が曇った。
 鉄二は突然の吉報に頬が熱くなるのが自分でも分かった。
握った拳が熱く痛い。
「あ、ありがとうございます。是非これからもよろしくお願いします」
鉄二は深々と頭を下げていた。





 S自動車の鈴木が帰っていくと、応接室は再び2人きりの空間になった。
コチコチと壁に掛かる時計が無駄に2人の間の音を埋めた。
「これで、立場逆転だな」
無言のままの小宮山に鉄二は思わず小さく喉を鳴らして呟いた。
「参りました。このタイミングで、上からあんなことを言われるとは・・・・・・」
小宮山は万一の保険で、Hセイミツとの商談がこじれた場合、Hセイミツを切って、別の工場
しかも、同等のものを安く作れるところを探していたのだ。
 その提案を、鈴木はあっさりと却下した。
Hセイミツを外すことは許さないと。
「本当に嫌になる。俺の計画、丸つぶれですよ」
「お前の計画なんて知るか」
フランクな口調でつっかかると、小宮山もビジネスモードの堅苦しさを解放した。
「鉄二さんには幸運の女神がついてるんでしょうね」
「女神?」
「昔からそうだ。ぎりぎりのところで、救われてる。幸運の女神には前髪しかないって
言いますけど、あなたは幸運の女神の見えない後ろ髪にでも引っかかってるんですよ、
きっと」
小宮山は目を細めて、鉄二の短く刈り込んだ髪の毛に手をやった。
「でもね、俺だったら女神の後ろ髪なんかじゃ安心できないですから、前からがっちり
構えて、前髪、鷲掴みにしますよ」
鉄二の頭髪を握り締めて、小宮山は真剣な眼差しを鉄二に送った。鉄二を覗き込む顔は
ビジネスでも遊びの顔でもない。
「俺、本気であなたを取りに行きますよ」
「何のことだ」
「だから、愛してますって言ったでしょう?」
「・・・・・・!?」
「まだ、信じてなかったんですか?」
「あ、当たり前だ!!」
「残念です。あれだけ身体で示したのに、分かってもらえないなんて」
わかるもんかと、文句を言おうと小宮山を睨みつけると、小宮山は悲しそうな顔をして
鉄二を引き寄せた。
 耳に唇を寄せて、低く呟く。
「・・・・・・本当に、愛してるんです」
切ない声に、鉄二の思考が止まった。小宮山の気持ちを本気で受け止めそうになる。自分
には理解できないけれど、本当に自分の事を好きだったとしたら、どうしたらいいのだろう。
 自分には妻子があるし、彼らを裏切ることは絶対したくないけれど。
もし、自分が結婚する前に小宮山に再会していたら、そして今みたいに愛してるなんて
囁かれたら、気持ちはぐらついたかもしれない。
 現に、今だって、妙に心地よい気持ちで小宮山に身体を預けているのだ。「今」じゃ
なければ、小宮山の愛情も素直に受け入れたかもしれないと、そこまで思って、鉄二は
首を振った。それから小宮山が遊びはじめている耳たぶを手で払うと、小宮山から離れた。
「俺は、お前の気持ちは受け入れられないし、あの日の事を許す気も無いからな」
睨みつけていうと、小宮山の表情がピクリと震えた。それから、切なそうな顔を歪ませて
胸ポケットから小さなチップを取り出した。
「これ、何か分かります?」
「メモリカード・・・」
「そう。あの日の様子がたっぷりと映ってます」
「!?」
小宮山が思いっきりニタリと笑った。
 さっきまでの甘い顔が嘘のように、あの日の夜のような顔になる。鉄二は背筋がすうっと
冷たくなった。
 こいつの本性はやっぱり・・・・・・!
「こっちにも保険掛けておいてよかった。これであなたはまだこっちのものですね」
「お前、強請る気か」
「中学時代、散々やってきたことじゃないですか」
鼻で笑われて、一瞬でも小宮山の気持ちに踊らされた自分に腹が立った。
「・・・・・・コミィのくせに、言ってくれんじゃねえか」
パチンと自分の中で何かがはじけた。
 小宮山の要求には屈しない。自分の身は自分で守る。小宮山の気持ちがどこにあろうと
鉄二は知ったことではないと心の中で一蹴した。
「お前は、うちの製品を絶対に外せない。俺とお前がどうなろうと、会社には関係ない。
俺とお前だけの問題だ」
「そうですね」
「俺はどんなことがあろうと、二度とお前の要求は呑まない。お前の言いなりにもならない。
そのメモリカードで俺を強請るつもりだろうけど、やれるモンならやってみな。俺だって、
昔の友人を全部切ったわけじゃないんだからな」
こっちにも後ろから回す手ならあるのだと、小宮山に言うと、小宮山も不遜な顔で腕を組む。
「そう来なくちゃ」
2人のサラリーマンが自分の内に秘めた想いに蓋をして立ち尽くした。
 本当は一言だって妻や子どもにこんな姿知られたくないし、昔の知人を引っ張りだして
脅すような真似はしたくなかった。
 築き上げた生活を守るために、今自分ができる最良の策を鉄二は必死に考えた。



 見詰め合うと、濃度の濃い時間が小宮山と鉄二の間に垂れ下がってくる。まとわり付く
ような空気に、鉄二の呼吸が早くなった。
 無言が続いていくと、鉄二の中に一つの考えが浮かび上がってきた。
そして、それを言うのは今しかないと、鉄二は小宮山の目を捉えてはっきりといった。
「これはビジネスだ」
言い切った鉄二の表情に、小宮山は小さく驚いた。
 見たことも無い笑いを鉄二がしている。凶悪なあの頃の顔でもなく、屈辱を受け入れた
あの日の顔でもない。
「・・・・・・鉄二さん?」
「取引しろ。そのメモリカードを俺の身体で買ってやる」
「?!」
「お前に抱かれてやる。これは、お前の要求を呑んだわけじゃなくて、俺の意思だからな」
「鉄二さん?!」
「それでお前とは終わりだ。・・・・・・まあ、もしお前が本気で俺を手に入れたいなら、次の
手を考えておくんだな」
最後に鉄二も小宮山みたいな不遜な笑いをして、ソファから立ち上がった。
「・・・・・・わかりました。ビジネスですからね」
小宮山も納得したように頷いた。鉄二はそれを横目で確認すると、軽く手を挙げて、応接室
を後にした。
 先の見えない道を歩き始めてしまった。鉄二は高揚した気分を掌で潰して、ゆっくりと、
廊下を歩き出す。築き上げた生活を守るためといいながらも、自分の中で生まれた新しい
この自分も悪くないと、鉄二はククっと喉を鳴らした。



 後ろ髪に引っかかった鉄二と、前髪を鷲づかみにすると宣言した小宮山。
 果たして、女神の髪の毛を捕まえるのはどっちだ?




フォルトゥナ――ローマ神話の幸運の女神
Take the Fortune by the forelock――幸運の女神には前髪しかない





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