物欲の天使さま
「ねえ、壱琉(いちる)?」
「何?」
名前を呼ばれて、壱琉は裸のままシーツの上を転がった。事後の甘さとだるさが身体を纏う。
男の肩に鼻を擦り付けて犬のように匂いを嗅いでいる壱琉を、男はふふっと笑って髪を掬った。
「俺さ、来週誕生日なんだよね」
「え?マジで?!……なんだよ、言ってよ」
「いやあ……なんか今更って感じで照れくさくてさ」
「今更っていうなよ。俺たち付き合ってんだろ?何欲しい?プレゼント!」
壱琉が顔を起こして、男の顔を覗き込むと、男はやんわりとそれを断った。その代わり、
壱琉の頬に手を当ててすべすべの肌を撫でた。
「あ、いや……プレゼントとかはどうでもいいから、その日は壱琉と一緒にいたいなって
思ってさ」
甘い声に、壱琉はむきになって反論する。
「いや、絶対なんか欲しいもんあるはず!」
「無いよ、壱琉がいればいいんだって」
「いーや、絶対俺が欲しいもん見つけてやる」
豪語する壱琉に、男はにやっと笑って、壱琉の白い身体を抱き寄せた。
「いつ見ても、これが年商5億のベンチャー企業の社長が住んでる部屋には見えんな」
殺風景な2LDKの賃貸マンションを見渡して梶は呆れた。
「失礼な。立派な部屋だろう。家賃だって12万も払ってる。お隣さんだって一家4人暮らし
だぞ。それを1人で使ってるなんて、贅沢だろう?」
「一般人ならな!……お前、社長だろう」
「サラリーマン時代の金銭感覚を忘れないためだよ。それに、無駄に広い部屋なんて必要
無いでしょ。寝室と仕事の出来るデスクがあれば十分」
そう言って巽樹(たつき)はソファにふんぞり返ると、タバコをふかした。
「コンパ行けば「お持ち帰りされたい男NO.1」が指定席のヤツの家が、こんなフツーの
マンションだって知ったら、彼女たちもドン引きするだろうな」
ファミリー層の多い賃貸マンションの9階に引越した時、周りの友人はそろって爆笑した。
部屋探しをすると言う巽樹に面白半分について行った梶は、そのあまりにも適当ぶりに
開いた口がふさがらなかった。
1件目の不動産屋で出された3物件の間取りを見ると、現地にも赴かず、巽樹はあっさりと
決めてしまったのだ。築12年、古過ぎず、かといって新築でもなく、これと言った特徴も
無いごく普通のマンションを巽樹は出会って3分で決めた。
梶はリビングの窓から遠くに映える六本木ヒルズや辺りのビル群を目を細めて見た。あの
中には、巽樹と同じくベンチャー企業の社長をやっている友人や、自分の部屋もある。
起業すると言った巽樹を手伝って、梶は一流企業を辞めた。辞める決意をしたのはそれなり
の勝算があったからだったし、現に自分は勝ち組だ。肩書きは副社長だけど、巽樹には
お前の方が社長っぽいとまで言われるほど、この世界に自分は馴染んでいる。
そして、社内では自分と同じくらいあの建物の中に馴染んでいる巽樹が、なんでこんな
ところに住んでいるのか誰もが不思議に思っていた。
「どう考えてもあっち側の人間だろ」
梶があごでリビングの窓の先を指すと、巽樹はふうっと大きく息を吐いた。タバコの煙が
ふらふらと漂う。
「お前がこんな安マンションに住んでるのは、恋人に貢いで、金欠に陥ってる所為だって
一部では言われてるんだぞ?」
梶は一人掛けソファに戻ると、意味ありげに巽樹を覗き込んだ。
「あはは、ないない。無駄遣いは大敵だからね。浮き沈みの激しいこの業界、老後の資金は
必須だよ。ガッツり貯めてるぜ?見る?俺の預金通帳」
ニヤニヤと笑って巽樹がタバコを潰す。梶は首を振った。
「お前の貯金に興味ない」
上手くはぐらかされたと梶は思ったが、それ以上突っ込む気にもなれなかった。
中学時代の友人がどうしてこんな物件を選んだのか、想像しなくても分かっていたのだ。
「なんか言いたげだなあ。まあ、何が言いたいか分かるけど……」
自虐的な笑みを僅かに湛え、巽樹が梶の腹の内を暴こうとした瞬間、玄関のチャイムが
けたたましく鳴った。
「噂をすればなんとやら?」
梶が茶化すと、巽樹は眼鏡をくいっと持ち上げた。
「大変だ!開けろ、巽樹!一大事だ!」
玄関に向かうと、外から聞こえてくる声に巽樹はため息を吐いた。
「いるんだろ!緊急事態なんだって!」
「……開けるから、静かにしろ」
巽樹がドアを開けると、そこに現れたのは、思わず目を細めたくなるほど眩しい天使……
いや堕天使だった。
自分と同じ年齢には到底思えない童顔で、綺麗な顔立ち。白い肌や、くりっとした目、
さらさらの髪はいつ見ても巽樹の心臓をぎゅぎゅっと鷲づかみにして離さない。
幼いころから淡い恋心を持ち続けている相手、壱琉はそんな巽樹の気持ちなど微塵も気づく
ことなく、血相を変えていた。
「壱琉、もっと静かにチャイムを鳴らせないの?そんな訪ね方したらお隣さんが驚くよ」
「だって!一大事なんだもん」
「何が」
毎度のことで分かってはいるが、巽樹は念のため聞いた。
そこで壱琉は「てへへ」とわざとらしい表情を浮かべて手を差し出した。
「お金貸して?」
「……またか」
「頼む!どうしても今日の4時までに必要なんだ!」
巽樹はリビングに引き返しながら言った。
「いくらだ」
「えっと…50…いや30でいいんだ」
「どっちだよ」
「できれば40万でお願いします」
「お前なあ……」
呆れながら巽樹はリビングのドアを開けた。中にいた梶がヒラヒラと手を振っている。
「壱琉、久しぶり」
「あれ?梶、来てたの」
「うん。ちょっと仕事の打ち合わせ」
「休日っていうのに、大変だね」
「イエイエ、仕事大好き人間ですから」
梶がおどけて見せると、壱琉も頷いた。
「分かるなあ。巽樹って仕事が無くなったら生きていけない部類の人間だよね」
偉そうに言う壱琉の頭を巽樹は札束でペシンと殴った。
「そういうお前は、遊ぶ金が無くなったら生きていけない人間の代表だろう」
「痛てっ!何すん……あ、毎度毎度、お世話になります」
慇懃無礼気味に壱琉は札束に頭を下げた。巽樹は溜息交じりに壱琉を見下ろす。
「……借りるのはいいけど、お前、本気で返す気ある?」
「あ、あるとも!それに前、返しただろ」
「返して貰ったのは初めの1回きり。後は永遠と借り続けておりますが?」
「え?あ、そうだっけ」
「この40万と合わせて、合計430万。いい加減、無利子とかやめるよ?」
「分かった、分かった!今度絶対返すから!」
壱琉は手を出して、札束を催促する。巽樹は再び溜め息を吐きながら、壱琉の借金用に
作った帳簿も一緒に渡した。
「帳簿にサインしてけよ」
「はぁい」
初めの1度しか返済された記録がないそれに、今日も壱琉は嬉々として自分のサインを書き
込むと、札束をかばんにねじ込んだ。
そのやり取りをにやついた顔で眺めていた梶が、壱琉に言った。
「ところで、そんな大金どこにつぎ込むの?」
「限定の腕時計があるんだ」
「へえ。どこの?」
梶が突っ込むと、壱琉は一瞬たじろいで、声のトーンを落として、とあるブランド名を
言った。
そのブランドが壱琉の趣味でないことを知っている巽樹の眉がぴくりと動く。
「……男か」
思わず口に出た言葉に壱琉の顔が歪んだ。
「別に借りた金を何に使おうと関係ないだろ」
「壱琉、まだあの男に貢いでるのか」
「うるさい!巽樹には関係ないだろ」
「関係ないけど、幼馴染のよしみで忠告してるんだ。お前、あの男に絶対騙されてるぞ」
「何で俺が騙されなきゃいけないんだよ!」
「金づるって言葉知ってるか?」
「…!」
「まあ、金さえちゃんと返してくれるなら、俺は何にも言わないけど」
巽樹は何度か見た事のある『壱琉の恋人』を思い出して辟易した。顔はいいが、いけ好か
ないオーラが漂っていて、どうしてこんな男がいいのか巽樹には全く理解できない男だった。
巽樹が知る限り、壱琉は高校時代から恋の相手は男だ。
お前だけは特別だから、特別に心を許した幼馴染だから、たった一人の親友だから、そう
言ってカミングアウトされた日の衝撃を巽樹は今でも忘れられない。
だったら俺でもいいだろという言葉はあの日から、喉元に刺さった魚の骨みたいにちくちくと
鋭い痛みを発し続け、抜けないまま巽樹を苦しめている。
自分を親友だと思っているゲイの幼馴染に恋をしているノンケの自分。淡い恋心を隠すために
沢山の彼女を作ってみたけれど、そんなのでは満たされるはずがなかった。
欲しいのはたった一つ。その願いは永遠に叶わない。この関係を崩すより、満たされないで
苦しんでいるほうが幸せだと思うのは、自分が臆病だからなのだろうか。
自分の金で「あんな男」に貢いでると思うとはらわたが煮えくり返りそうになるが、この
想いを隠すために、全てにおいて平静を装う必要があった。
不穏な空気が流れ始めそうになったところで、梶が二人の間に割って入った。
「へえ。壱琉って貢ぐタイプなんだ」
「……別に貢いでるわけじゃないって。プレゼントはちゃんと交換してるしさ。今回は
誕生日だから、ちょっと奮発してるけど」
「ふうん。幸せそうだね」
「もっちろーん。あ、俺、もう行かなきゃ。……じゃ、巽樹またな。梶も仕事頑張れよ」
「お前も、だろ」
梶に手を振ると、壱琉は軽やかに出て行った。
残された巽樹は、機嫌をすっかり損ねたままテーブルのタバコに手を伸ばす。梶はそんな
様子を見ながら、わざとらしく言った。
「ホントのトコはあれだろ、巽樹がわざわざこの安マンションに住んで、貯金溜めてる理由」
「何が」
巽樹がタバコを吐きながら梶を睨んだ。
「壱琉のため」
梶は余裕で答えると、巽樹もそれ以上は喧嘩をする気になれず、小さく零した。
「あいつの病気は金がいくらあっても治らん」
「何だっけ?買い物依存症?」
「……治せって言っても、一人じゃ治せるもんじゃない。本当は金を渡したらいけないん
だそうだけど、かといって俺が金貸さずにいたら、絶対あいつは、街金行くだろうし……」
本人が本気で困らなければ治らないだろうと想像はするものの、街金の借金で苦しむ壱琉
を見るのはもっと嫌だった。
「今なら、その預金通帳ちらつかせれば、コロっと落ちるんじゃないの?」
「金で落としても嬉しくないし、第一、アイツは俺の事幼馴染としか思ってないよ。
……ったく、一番ばれたくなかったのに、何でばれたんだろうなあ」
灰皿に灰を落として、頭をくしゃくしゃとかき回す巽樹に梶は嬉しそうに顔を歪ませた。
「そりゃあ、壱琉がゲイで俺もゲイだからだろ。ゲイの勘を嘗めちゃあかんぜ」
今の3人の関係が出来上がったのは、中学時代からではない。巽樹と壱琉は幼い頃から知った
仲だが、梶は中学時代になって知り合った。けれど、中学を卒業すると同時に疎遠になって
大学卒業するまで全くのつながりはなかった。
巽樹が梶と一緒に起業しようと思い立ったのは久しぶりの同窓会で意気投合したからだ。
そして、別のところで梶は壱琉とも再会していた。それがゲイの集まるバーだった。
梶が巽樹にカミングアウトしてしまうと、巽樹は壱琉についても隙を見せるようになって
自然と梶にもばれてしまった。
「ゲイの勘って……壱琉は全く気づいてないよ」
「あいつは先入観がありすぎるからなあ。巽樹は唯一無二の友人っていう確固たる地位を
築いてる。お前にしてみたら嬉しいんだか、迷惑なんだかわからんけど」
「いいんだよ、別に。無理してこの関係を崩したいわけじゃないし」
「おや。野心家の巽樹にしては珍しくネガティブな発言」
「野心家だけど最低限の保身は必要だろう」
「ハイリスクハイリターンを掲げるお前が、よく言うな」
「仕事は失敗しても次がある。あいつは失敗したら……もうないだろ」
「そういうもんかねえ」
巽樹は梶の言葉には答えずに、無言でタバコを潰した。
「すいません!あと、これとこれも見せてください!!」
「はい、かしこまりました。お客様、こちらはどうなさいますか?」
「ああ、それももらうよ!!」
ブランドショップの中から見えた光景に、巽樹は足を止めていた。
壱琉の前には幾つものバックやアクセサリーが並んでいる。
「あいつ…何やってんだ……」
店員と何度かやり取りをして壱琉が頷いた。そして、財布の中からクレジットカードを取り
出すのを見て、巽樹は思わず駆け出していた。
「壱琉……あの馬鹿っ」
壱琉の病気がまた顔を出したのだ。
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