NIKEにadidas、puma・・・あれはオニツカタイガーか。
行きかう人の足ばかり見ながら、古川太陽(ふるかわ たいよう)は溜息を吐く。
実際には、足ではなく足を覆う物、すなわち靴を見て、だ。
(いいなー、俺も新しいスニーカー欲しい!)
足元を見下ろせば、程よく履きこなしたadidasのカントリーが映る。これを買うのにだって
随分苦労した。親の反対を押し切り、高校三年の夏という受験勉強真っ盛りのこの時期に、
こっそりバイトして、やっと手に入れたのだ。
定価一万近くのスニーカーだとて、高校生にとっては大きな出費だ。
けれど、物欲とは止まらないもので、手に入れた次の日には、また新しいスニーカーが
欲しくなる。
太陽は駅前のベンチに前のめりになりながら座って、ただひたすら人の靴を見ていた。
うだる熱さの中で、ベンチに座る人は太陽以外にいない。太陽だって、こんなところに
いつまでも座っていたくはないのだが、身体が家に帰ることを拒否している。
家まではこの駅から出る新快速に乗って1時間。乗り換えたローカル線で20分。そこから、
自転車で更に30分も走らなければならない。
夏休み最後の一週間を、「ラストスパート夏期講習」に放り込まれて、やっと解放された
のだ。この1週間は、駅の近くにある従兄弟の家に泊めてもらい、塾に通っていたのだが、
それも今日で終わりだと思うと、開放感と家までの距離で、何時までもここにいたいと思って
しまう。
太陽が何度目かの溜息を吐いたとき、目の前を通り過ぎる一つのスニーカーが目に入った。
(!!)
太陽は咄嗟に立ち上がって、思わずその靴を追った。
(あれ、ビナデルマー!)
太陽が心の中で叫んだビナデルマーは、adidasのスニーカーでチリワールドカップモデルを
ベースに復刻されたものだ。
限定モデルだったのか、太陽の住む街が田舎すぎたのか、太陽は現物を一度も見ること
なく、ネットオークションで画像を眺めては溜息を吐くばかりの一品だった。
それが目の前を歩いている。太陽は、その足だけに釘付けとなって、スニーカーを追う。
白地に、ブラックのライン。どんな理由で付いているのかわからないけれど、靴の両サイド
には、小さな「耳」がついていて、それが犬の耳の様で、太陽は密かにこれを「ワンコ靴」
と呼んでいる。
発売されてから、もう5年以上は経っているはずで、生産が終わってしまったのか、最近
では大きなショップでも見かけない。
太陽は胸を躍らせた。
「・・・・・・」
太陽が追ったスニーカーが突然止まった。そして、靴の向きを変える。
(お、正面が見える。・・・やっぱりかっこいいなあ・・・)
「ねえ、君!」
頭上から降りてきた声は、怒りを含んでいるように聞こえた。
「へえっ!?」
いきなり声をかけられて太陽は驚く。そして、漸く顔を上げると、そこには、やはり膨れ
顔の男が太陽に向かって声を掛けていた。
(やべえ、追っかけてたの、ばれた・・・?!)
「あ、あの・・・」
太陽が言い訳を紡ぎだそうと、必死で考えていると、声は更に大きくなった。
「君がストーカー?」
「違う、スニーカー!!」
「は?」
「・・・それ!スニーカー!ビナデルマー!お、俺、現物見るの初めてで!」
太陽は顔を真っ赤にしながら、男の足元を指す。
男はきょとんとした顔で太陽を見ると、暫くして口を押さえて笑い出した。
「あ、あの、すみません・・・」
オーバーなアクションで謝ると、男は手を振って制した。
「ああ、いいって、いいって。なるほどね、僕のストーカーじゃなかったわけだ」
「はい?」
「・・・・・・君、スニーカー好きなの?」
「え、あ、はい」
「そう。じゃあ、着いておいで」
「え?」
「早く」
「は、はい」
太陽はわけも分からず、ビナデルマーの男の後を追った。先ほどまで足元しか見ていなかった
ので、男の印象が殆どなかったのだが、改めて見ると、彼は自分よりも随分と細身だった。
自分よりも年上であることも明らかだし、大学生より更に年はいっているように見えた。
ブラックデニムとスカイブルーのTシャツ。デニムにビナデルマーがマッチして、かっこ
いいと、太陽はその姿にやっと見惚れた。
男が連れてきたのは、大通りから1本入ったところにあるシューズショップだった。
店を入った瞬間に、店員が「いらっしゃいませ」ではなく「おかえりなさい」と声を掛けた。
「ただいまー」
「店長、またほっつき歩いてたんですか?」
「ほっつき歩いてたって、違うよ。リサーチ」
「そんなことしてるから、ストーカーに遭うんですよ?」
店員は小言を言いながら、店長に店のエプロンを渡す。
「在庫チェック、今日は店長の番ですよ」
「はいはい」
店長にエプロンを渡したときに、店員は漸く太陽に気づいた。
「あ、お客さん?」
「はあ、はい」
太陽も曖昧な返事をする。
「ごめんなさい、いらっしゃいませ」
店員は急に余所行きの声を作って、太陽に頭を下げた。
「いいの、いいの。僕のお客だから。こっちおいで」
「あ、はい・・・」
店長は太陽を呼び寄せると、店の奥へと連れて行こうとする。
「ちょ、ちょっと、店長?!」
「あ、並木君、ビナデルマーの在庫ってあと1個、どっかにあったよね?」
「・・・・・・店長が売りたくないって、どっかに隠したんでしょ?オレ知りませんよ」
並木と呼ばれた店員が呆れた口調で店長に向かって言った。
「そうだったかな?まあいいや。君、探すの手伝って」
「は、はい」
太陽は事態が掴めないまま、店長に連れられて店の奥へと入っていった。
薄暗い倉庫に、詰まれた靴箱。色々なメーカーが目に飛び込んでくる。
「すげえ・・・」
「何?」
「店の裏側って、こんななってるんだ・・・」
太陽は靴箱の山に呆けた。蓋を開けて、足を通してみたい。そんな妄想に駆られる。
「ねえ、君、高校生?名前は?」
「あ、古川太陽です。高3です」
「この近くの子?」
「いえ、実家は半島の先っぽの方で・・・俺、凄い田舎に住んでるから、こんなに沢山の靴が
ある店とか見たことなくて・・・」
「感動した?」
「はい。ムチャクチャ」
そういうと、男は機嫌よく笑った。
ふわりと笑う顔に、太陽は驚く。男のくせにそんな風に笑うなんて。太陽はひっくり返り
そうな心臓を思わず押さえた。
「僕もさ、高校の頃からスニーカーが大好きで、スニーカー馬鹿すぎて、店開いちゃった
んだ。そうやって、スニーカーの前で目をキラッキラさせてる子みると、オジサンうれしい」
「お、オジサン?」
「君達からみれば、28なんてオジサンだろ?」
「い、いや、店長さん、そんなオジサンって感じじゃないですよ!」
「太陽君は若いのに、お世辞上手いんだね。あ、あった、あった!これこれ」
店長は靴箱の山を掻き分けて、奥の方からadidasの靴箱を引っ張り出した。
それを開けて確認すると、太陽に手渡す。
「それ、最後の一足。入荷しないから、売るの勿体無くて隠してたんだ。履いてみてもいいよ」
「え?・・・・・・そんなの、いいんですか?」
「いいよ。そう言うスニーカーっていうのは、本当に欲しい子の為に眠ってたんだから。
はい、そこ座って?」
「あ、ありがとうございます」
運命の出会い、なんて大袈裟なことを思いながら、太陽は真新しい靴に足を通す。白地に
グリーンのライン。店長とは色違いだった。
「太陽君が履いてるカントリーは復刻版だね。うん、僕もカントリーは復刻版の方が形が
いいって思う」
店長は太陽がビナデルマーに履き替えている間に、太陽が履いていたスニーカーを手にとって
眺めていた。
「あ、ありがとうございます。俺、高校生だし、あんまり金もなくて、2ヶ月に1足とか
買えたらいい方なんですけど、カントリー73はソッコウで買いました」
靴屋の店長に自分のチョイスを褒められて、太陽はむず痒いような、嬉しいような、そんな
気持ちで妙にモジモジしてしまう。
スニーカーに足を入れると、ひざまづいて店長が靴紐を通してくれた。
「あ、俺、自分で出来ますからっ・・・」
「いいの、いいの。僕は靴屋なんだから」
太陽が足を引こうとすると、店長は足を引っ張って止めた。店長の細くて長い指が、するする
とスニーカーに紐を通していく。
自分が偉い人にでもなったような気分だ。
「どう履き心地は?」
「ぴったり、だと思う」
もう片方の足も、同じように紐を通してもらい、太陽はその場で飛んだり、歩いたりした。
「うん、いいね。ビナデルマーはどんな服装にも合わせやすいから、僕は重宝してるよ」
店長は太陽の足元にしゃがみ込むと、靴の上からフィット感を確認していた。
(人の足、触るの好きな人だなあ・・・・・・)
太陽は、のん気なことを思った。
「ありがとうございました!初めてホンモノ見れたので、あとはオークションで落とします!
やっぱり、ホンモノ見てからじゃないと、買えなくて・・・」
太陽が座ってスニーカーを脱ぎ始めると、店長が太陽の前に立った。
「ここで、買って行ってくれないんだ?」
「・・・・・・ホントは今すぐにでも買いたいんですけど、俺、お金、持ってないから・・・」
太陽は自分のスニーカーに履き替えると、ビナデルマーを靴箱に戻した。
丁寧に蓋をして店長に差し出すと、店長は暫くその手を見つめていた。
「じゃあ、お金がないなら、身体で払ってもらってもいいよ」
店長はにっこり笑って、太陽の顎に手を掛ける。
「はい?」
あまりに驚いて、声がひっくり返った。店長は太陽の顎のラインをその細いしなやかな指
で何度も辿る。
「太陽君の唇と物々交換って、どう?」
「どうって!?」
どうもなにも、意味が分からない!そう思って口をパクパクさせていると、店長の指が太陽
の頬を固定した。
「太陽君みたいに、元気で若い子、好きなんだよね、僕」
「え、ええ?」
座ったままの姿勢で、顔だけ上に向けられて、太陽はその唇を奪われた。
ちゅうっと吸引される音がしたかと思うと、口を割られて、舌まで絡め取られる。
「ンン・・・」
(お、俺のファーストキスがあ・・・・・・!!なんでこんなことになってるんだ・・・!
あれ・・・でも、なんか・・・気持ちいい・・・)
店長に散々舌を吸われて、身体がぽわぽわしてきた頃、漸くその唇が離れた。
離れていくときに、店長の舌の先から、銀色の糸が垂れて、それが色っぽく映った。
「ごちそうさま」
「あ・・・・・・」
瞬間、顔中が熱くなる。店長からみても、太陽の頬は赤くなっているだろう。
キスしてた!この店長と!
なんだか分からない展開に、太陽はその場で固まってしまった。
「お買い上げ、ありがとう」
自分は一体何を買い上げたと言うんだ。手に持ったままのビナデルマーの靴箱。唇に残る
のは、濃厚なキスの余韻。
のろのろと立ち上がると、店長が太陽の視線を追って、顔を上げた。
「太陽君、大きいね」
店長の手が伸びて、太陽の胸板に触れる。太陽ははじけたように、後ろに下った。
「ひゃ、185です!あの、これ!」
「うん。だから、今のキスで売ってあげたんだって。いらない?」
「いります!」
「じゃあ、どうぞ」
店長は近くにあったビニール袋に、太陽の手にした靴箱を入れてやった。
「あり、あ、ありがとう、ございます!」
さっき以上にひっくり返った声で、太陽は礼を言うと、そのまま倉庫を飛び出して行った。
「可愛いなあ、太陽君・・・・・・また来ないかな」
倉庫に残った店長は、1人その余韻を思い出して笑った。
太陽がこの店の常連になるのは、このあと、過酷な大学受験を切り抜けて、晴れて大学
に合格する半年以上も、先の話――。
了
2007/09/11
よろしければ、ご感想お聞かせ下さい
nakattakotonishitekudasai ©2006-2010 kaoruko since2006/09/13