「はい、いいですかー。黒板注目ー」
伊藤潤也(いとう じゅんや)が黒板をチョークでコンコンと叩くと、数人の生徒が顔を
上げた。3-1の教室では、先週あった化学の中間テストの赤点の補習授業が行われている。
俺は、ノートに黒板の化学式を写すと、クルっとペンを回した。化学なんてさっぱり分らねえ。
俺の人生において、最も役に立たないと思われる時間だけど、すっぽかして逃げるわけにも
いかないというか、逃げられるわけも無いので、俺は大人しくこの時間が早く終わる事だけを
思いながら、潤也の話を聞き流した。
「このように、塩素と酸性を混ぜると、塩素ガスが発生します。このガスは有毒のガスで
間違って吸い込むと死にます。・・・・・・ほら、よくカビ取り剤なんかに書いてあるでしょう
『まぜるな危険』って。あれは、当にこの塩素ガスのことです。みなさんも気をつけて」
潤也のメガネがキラっと光った。
サラサラとした黒髪に、白衣がやたらと似合う24歳。女子からは影で「潤也かわいい」と
言われているが、24の男捕まえて形容する言葉じゃないと俺は思う。
せめてカッコイイとかにしてやれよ。まあ、カッコイイとは思わないけど。だって、柔らか
そうな物腰も、優しそうな笑顔も全部嘘くさい。
実際俺の知ってる潤也はこんなヤツじゃないんだし。そんなことを思うと潤也の顔を眺める
のも恥ずかしくて、窓の外に目を逸らす。
「・・・・・・阿久津君。・・・・・・阿久津海斗(あくつ かいと)君、聞いてますか」
ぼけっと外を眺めていたら、いきなり名指しされた。
「・・・・・・はいはい、聞いてるよ。混ぜるな危険でしょ。混ぜちゃダメなんでしょ」
投げやりに答えると、潤也に溜め息を吐かれた。
「何が発生するか分ってる?」
「あー、そりゃ、えっと、あれだろ。すっげー危ないブツ」
「阿久津君、君は補習の補習が必要みたいだね」
「げっ」
潤也の瞳の奥で光った色に、俺は薄ら寒さを感じていた。
「おーい、海斗、今帰り?なんだよ、すっごい疲れた顔して」
「うー。疲れた」
散々化学式を頭に詰め込まれて解放された帰り道、とぼとぼと歩いていると、家のすぐ近くで
幼馴染の俊也(としや)に声を掛けられた。
「部活?」
「いや、補習。どっかの化学バカの兄貴にコッテリとね」
「うわ、潤也か」
「最悪だっつーの」
そう。潤也は俊也の6歳年上の兄貴だ。家がお隣同士で、俊也とは同級生。そんな幼馴染の
兄貴が潤也だ。昔からよーく知ってるヤツが先生なんて、ホントやりづらい。
「あの潤也が高校で先生なんて、ホント信じられねえよな」
「でも、普通に先生やってるぜ」
俊也とは高校が違うから、俊也は潤也の教師姿を見たことは無い。けれど、信じられない
って思うのは俺だって一緒だ。だって、俺達、小学校1年になるまで、潤也のこと泣かせて
遊んでたんだからな。
俺と俊也の最凶コンビが最強だったのか、潤也が泣き虫だったのか、とにかく小さい頃、
俺達は、よく潤也を泣かせてた。昔から目が悪かった潤也のメガネは何度も壊されたし(
勿論俺達によってだけど)顔面にボールぶつけて顔を腫らせたり、擦り傷きり傷を負わせる
ことなんてなんて日常茶飯事だった。
でも、潤也が中学入って全然会わなくなると、俺はすっかり潤也の存在なんて忘れてたし
俊也とも、潤也の話をすることはあんまりなくなった。
それが、去年、いきなり俺の高校に新任教師として潤也がやってきたんだから、ビックリ
っていうか、ぽっかり開いた口がふさがらなくなってしまったというか。
久しぶりに見た潤也は、あの頃の面影なんて全くなくなって、当たり前なんだけど、
りっぱに大人になっていた。
しかも、今の立場は先生と生徒。小さい頃から潤也、潤也って呼び捨てにしてきたヤツに
今更先生なんて呼ぶのもこっぱずかしくて、学校でも潤也って呼び捨てにしてたら、いつの
間にか俺の周りでもそれが定着してしまった。
「潤也、絶対に小さい頃の恨みを、今晴らしてるんだぜ。俺達に泣かされた事、覚えてて
補習だのなんだのってネチネチ俺の事苛めるんだ」
「ご愁傷様ー。あー、よかった。一緒の高校なんて行かなくて」
「大体、なんで化学の教師なんかなったんだよ。よりによって一番苦手なのに。この先、
卒業するまで俺はずっと補習の嵐だぜ」
「勉強すればいいじゃん。なんなら、すごい最適な家庭教師貸すよ」
「潤也か!いらねえよ!」
俊也はウキキと笑って、手を振る。
「あー、腹減った。じゃあな」
「うーっす。潤也にもう少しテスト簡単にしろって言っといて」
「自分で言えってーの」
門の前で、俊也と大声で交わしながら俺達はそれぞれの家に帰った。
日曜日の朝、軽く10時を過ぎて起きた。眠たい目を擦りながらキッチンに下りていくと
リビングの方から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「ホントにねー、潤ちゃん立派になって。・・・・・・って今は海斗の先生だったわね。本当に
お世話になっちゃって。あの子バカだから潤ちゃんに迷惑掛けてるでしょう?」
コレは母親の声。
「いえいえ。それに先生っていっても、まだまだですし」
そして、これは・・・・・・
俺はリビングの扉を開くと、開口一番
「なんで潤也がうちにいるんだよ」
と不機嫌そうに言ってやった。
「海斗、おはよ」
そんな俺とは対照的に、日曜日の朝のすがすがしさと同じくらいさわやか顔で潤也が振り
向いた。
「っとに、遅いわよ。何時だと思ってんのあんたは。さっさと朝ごはん食べちゃいなさい」
見れば母さんが潤也にコーヒーを出していて、潤也は自分の家のようにくつろいでいる。
「何しにきたんだよ」
「海斗、なんて失礼なこと言うの。さっき、家の前で会ったから、母さんがお茶に誘った
のよ。ホントに、潤ちゃんはこんなに立派な先生になったって言うのに、あんたと来たら・・・・・・」
「あー、はいはい。どうせ、俺は落ちこぼれのダメ人間ですよ」
トースターにパンを突っ込んで、冷蔵庫から牛乳を取り出す。すっかり冷めたスクランブル
エッグを立ちながら食べてたら、また母さんに怒られた。
「あんたは、もう!行儀が悪い!落ち着いて食べなさい!」
「あー、もー、うっさいよ」
「そんなんだから、どうせテストの点も赤点ばっかりなんでしょ。丁度いいから潤ちゃん
に勉強見て貰いなさい」
「僕は構わないよ。海斗、この前のテストもあんまり褒められた点数じゃなかったし」
「潤也余計な事言うなよ」
「まあ、やっぱり赤点だったのね!」
母さんに睨まれて、俺は鬱陶しそうに焼きたての食パンをかじった。
こんなことなら、もう少し寝てればよかった。
「潤也もさー、律儀に母さんの要望に答えなくたっていいんだぜー」
「別に海斗のお母さんに言われたからじゃないよ。海斗には本当に補習が必要だからね」
にっこり笑って潤也は俺の部屋に入ってきた。
遅い朝食を食べ終わると、母さんに受験生なんだから勉強しろとケツを叩かれて部屋に
追い返された。オマケに
「じゃあ、ちょっとだけ勉強みてあげるよ」
なんて言って潤也まで付いて来てしまったんだ。
潤也と2人きりになるのは、はっきり言って好きじゃない。
昔の事を思い返すとバツが悪いっていうのと・・・・・・あとは、コイツのたちの悪い冗談って
言うか、昔の恨みを晴らされてるっていうか、とにかくそわそわして落ち着かなくなるんだ。
「さて、明後日の追試の勉強でもしようか」
「いいよ、1人で出来るし。潤也だってそんな暇あるんなら、デートの一つでもして来いよ」
「残念だけど、僕には彼女はいないよ」
「マジで?そんな化学ばっかやってるからモテないんだろ」
「そうかもね」
潤也は帰るつもりはさらさら無いらしく、ローテーブルに座ると勝手に俺の教科書を開き
始めてしまった。
仕方ないから、俺もとりあえず座って、ノートを開く。勉強なんてする気は全く起きない
けど、こんな状態でベッドに寝そべって漫画読むわけにもいかない。
「不満そうな顔だね」
「そりゃあ、日曜日の昼間から勉強漬けにされるなんて、たまんねえよ」
受験生にあるまじき台詞だけどな。
「勉強より、彼女と遊びたい時期だよね」
嫌味みたいに潤也が言う。
「彼女なんて、いねえよ」
「そう?」
「そう、じゃねえよ。潤也が一番よく知ってんだろ?!部活と補習で、彼女とか作ってる
暇がどこにあるってーの。どっかの誰かがもう少し補習少なくしてくれたら、話は別だけど」
そう訴えると、潤也はしれっと言い放った。
「そりゃ、悪い虫が付かないか心配だからね」
「潤也は俺の保護者か!」
「保護者よりも、もっと心配なんだ」
「な、なんだよ、それは!!」
出た。潤也の性質の悪い冗談。
「前から言ってるだろ?」
潤也が俺の髪の毛を撫でる。ゾゾっと寒気がして、俺は一歩後ろに下がった。
「僕はね、海斗が好きだから、色々心配なんだよ」
「好きとか、気持ち悪いっつーの!冗談も休み休み言えよな」
「冗談じゃないのに」
「じゃあ、苛めか。俺への長年の恨みを晴らしてるんだろ」
「何それ」
「小さい頃、俺と俊也が潤也のこと泣かしてたから・・・・・・」
「うふふ、そうかもね」
潤也はメガネを摺り上げると、不自然なほど綺麗に笑った。
結局、補習の魔の手から逃げることは出来ずに、俺は大人しく「特別補習」を受けていた。
「え?酢とかもなんか!?」
「うん。だからさ、塩素系と酸系の異なる2つの物質を混ぜると有毒なガスが発生するんだって」
この前の補習のおさらいだ。
化学式の横に、潤也が綺麗な字で「例えば」と書き込んでいる。
「酢だって、酢酸――CH3COOH。ほら、立派な酸でしょ」
「ふうん。酢だから大丈夫とか、安心できないってことか」
「そう。一見すると、無害そうに見えるものでもね、混ぜてみるととんでもない事が起きる」
「そうか。他には?」
俺の何の気なしの質問に、潤也がうーんと唸った。
それから、暫く口元に手を置いて考えると、ニヤニヤと笑い出して言った。
「うーん、例えば、僕と海斗とかね」
「は?」
今思えば、その段階でおかしかったってことに、なんで気づかなかったんだって話。
「僕の液体と海斗の液体を混ぜるとどうなるか」
「混ぜる!?」
「うん」
「混ぜるって、混ざるわけ無いだろう!」
突然化学の話から吹っ飛んで、俺は思考が付いていけない。翻弄されている間に、潤也は
1人で話を進めてしまうから、俺の脳みそは益々混乱した。
「うん。だからさ、僕の液体と海斗の液体を混ぜると、大量の恋が発生すると思うよ」
こ、恋?!
「なるわけ無いだろ!!」
「そうかなあ。案外なるかもしれないよ」
この、性質の悪い冗談、いい加減何とかしてくれよ!ニヤニヤ笑った潤也の顔が俺を見詰める。
俺の事からかってばっかりだ。
「大体液体ってなんだよ。輸血でもするんか」
「もっと簡単に混ぜられるよ」
「どーやるんだよ」
「試してみる?」
「みないよ」
「あ、怖いんだ」
「怖くねえよ!」
「怖くないなら、試してみればいいじゃん」
自信たっぷりに吹っかけられて、つい売り言葉に買い言葉。
「・・・・・・や、やれるもんなら、やってみろ」
そこで、やらないって言い通さなかった俺の負けだった。
「んっ!?」
顔が近づいてくると思ったら、俺の唇が塞がれていた。潤也の唇の感触が俺の脳をびりびり
刺激した。
一瞬で離れたのに、何時までも感触が残る。嫌悪感よりも、ただ驚いた。それで、大して
嫌じゃないって思って、更にそれにビックリする。
その反応はおかしいでしょうが。水素と酸素混ぜて水じゃなくて油が出来ちゃうくらい
おかしい反応だぜ?化学式、間違ってんじゃないの。
「なんで!?き、キスとかすんだよ!!」
「液体を混ぜるんでしょ?」
「混ざるかよ、こんなんで!」
「そうだねえ、まだこれじゃ、混ざらないか」
そう言うと、潤也は俺の顎に手を掛けて再び俺の唇を塞ぎに掛かった。
「んっ・・・んん!!」
それから、俺の唇を舌でこじ開けると、ぬるっとした感触と共に口の中一杯に潤也の味が
染みこんで来る。
た、確かに、液体は混じってる・・・・・・けど!
「んん」
潤也の舌が俺の舌に絡まって、俺は一気に力が抜けた。抜けたというか、とろんってなって
なんだか、気持ちよくなってしまった。
潤也の右手が俺の髪の毛を撫でる。
「ふっ・・・・・・んんっ」
舌の上や横や裏側を舐められたり、吸われたりしてるうちに、俺はどんどん変な気分になって
きてしまった。
ドキドキ、キュンキュン。心臓の鳴り方がおかしい。
オイオイ、俺!潤也とキスして、何で抵抗もしないで、ドキドキしてるんだよ!
まぜるな危険。
そうか、これか。すっげー危ないブツが発生するっていうヤツは。
頭の中の図式は「塩素系+酸性=有毒ガス」から「俺+潤也=恋」にすり替わっている。
え?マジで?恋?発生しちゃったの?!
俺、潤也に恋しちゃうんか?!
ドキドキして、身体がモゾモゾ落ち着かなくなる。発生した恋にも、脳みそに有害なガス
が出てて、俺はきっとそれに麻痺しちゃったんだ。
潤也の身体を突き飛ばそうともがいたら、それより強い力で抱きしめられた。
「ね、どう?」
「ど、ど、どうもこうもっ・・・・・・」
「発生しちゃったでしょ、恋」
恋だかなんだか分らないものが沸いてるのは確かだ。頭の中、沸騰しそうなくらい。
「じゅ、潤也は俺の事、す、好きなのか?」
「前から何度も言ってるでしょ。信じてなかったの」
「本気だったのか!?あれ」
「海斗に泣かされてる頃から、ずっとね」
「お前、変態だな」
「一途だって言ってほしいね。まあ、恋は化学式よりも複雑で難しいけど、僕と海斗の
答えは結構簡単に出たんじゃない?」
「・・・・・・お、俺は」
耳元で囁やかれて、体温が上がる。顔なんて鏡見なくても真っ赤だ、絶対。
発生した有毒ガスは吸い込むと死んじゃうらしいけど、発生した恋はどうなるんだ?!
不安げに潤也を見ると、俺の気持ちを察したのか潤也は先生みたいな顔をして答えた。
「発生した恋には、落ちてしまえばいいんだよ」
「落ちても、死なないよな」
「ちゃんと受け止めてあげるから大丈夫」
そんな言葉にも、どこか酔いしれてしまった俺は、やっぱり有毒ガスに脳みそやられちゃったんだ。
まぜるな危険。お隣に住んでいる教師と混ぜると、恋が発生しますので、取り扱い方法
には十分ご注意ください。
きっと、ラベルの注意書きにはこうやって書いてあるに違いない。
了
2009/1/30
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