天 球 座 標 系
――うっ・・・くっ・・・赤平先輩、もう、やめてください!
――何言ってんだよ。どうせ、こんなことだって何時もやってたんだろ?
――してませんっ、そんなこと一度だって・・・
――はっ、マジで言ってんの、それ?今流行のプラトニック?ばっかじゃねえの?
船田の中に嫌悪が蘇る。いつだって赤平は強引で、自分の話など何一つまともに取り合ってはくれな
かった。そして、自分を蔑むだけ蔑んで、涼しい顔をして去っていくのだ。
自分の満足の為。自分が自分であると、自分が誰かに認められるため、存在を確認させるためだけに
船田は赤平に何度も抱かれたのだ。
SOSはいつまでも届かないまま。
先に状況を把握したのは船田だった。幼い子どもよりも僅かに経験の差が勝ったのか、それとも船田の
方が順応力に長けているのか、船田は唖然としている粕谷よりも、早く動いた。
粕谷は肩で息をして、だらりと腕を下げて、状況の掴めないまま宇宙の方を見ていた。二つの敏感な空気
が交じり合って、粕谷の方は完全にショートしてしまったようだった。
そして、それはあまりにも瞬間の出来事で、誰も――本人でさえも逆らうことが出来なかった。
船田に背を向けていた粕谷はその動きを見ていなかった。船田は粕谷に近づくと、右腕を掴んだ。粕谷が
驚いてその手を離すと、船田は粕谷が手にしていたナイフをあっさりと奪ってしまったのだ。
「え?」
「動かないで。刺さるよ」
振り返る粕谷を抱き込むように、船田は奪ったナイフを粕谷の首に押し当てて、後ろに下がっていく。
僅かに船田の方が背が高いが、粕谷がもがけば、力の差で勝てそうにも見えた。だが、首にしっかりと添え
られたナイフに粕谷は従わざるを得なかった。
皮肉なことに先程まで自分が人を脅すために向けていた凶器が、今は自分に向かっている。少しでも首を
動かせば、張りのある首筋から血が噴出しそうだ。
「ふ、船田先輩?!」
やっとの事で事態を把握し始めた春樹が船田の取った行動を止めに入る。
「来ないで!・・・近づいたら、この子も一緒に道連れにするよ?」
船田は一歩ずつゆっくりと、後ろに下がっていく。春樹達の止める隙を与えずに、船田は今度こそ飛び
降りるつもりだ。
船田は犯人ではない。要のついた疑問点。隠せない動揺に、春樹は今やそう確信している。赤平が犯した
船田への事実は本当かもしれないが、殺人犯ではない。船田はきっと犯人の罪を被ろうとしている。そうして
その罪を背負ったまま、船田は死のうとしているのだ。
そんなことがあっていいはずがないと、春樹は奥歯が痛くなるほど強く噛み締める。
「何、すんだよ・・・離せ・・・」
粕谷が首筋のナイフを気にしながらもがいた。
「あの子達さえ動かなければ大丈夫だから・・・もう少しだけ我慢して」
「何が大丈夫・・・なんだよ・・・」
粕谷が浅い息で答える。両腕は船田に抱きこまれて動かそうとすれば、首筋に当たったナイフが気になる。
そうして船田の思うがままに粕谷は一歩ずつ後ろに下がらされた。
フェンスが近い。粕谷を解放しない限り春樹達は近づいてこない。春樹達とたっぷり距離を取れば、止めに
入る前に船田はフェンスを越えて飛び降りることができるだろう。ゆっくりと、確実に春樹達の距離は開いて
いく。
人質を取られたようなものだ。せっかく要の揺さぶりで船田の意思が揺らぎ始めたというのに、これでは
逆戻りだった。
「船田先輩、犯人でもないのに、罪を被って・・・誰かを庇って死ぬなんて・・・馬鹿げてます」
「違う、僕だ。僕が殺したんだ。何度も言ってるじゃないか!」
ヒステリック気味に叫ぶ船田に首筋にナイフを当てられた粕谷が身震いした。今自分にナイフを突きつけ
ている男は嘗て人を殺したことのある人間と聞かされただけで、緊張も恐怖も一気に高まる。
「は、離せよ・・・」
粕谷の声が掠れた。船田は首に回した腕の力だけ強めて、それに答えることはなかった。
春樹は船田の暴走をどう止めていいのか判らない。要のように揺さぶることにも頭が回らなかった。
「船田先輩、お願いです・・・せめてその子は離して下さい」
必死の願いは、船田の気持ちを一層ささくれさせた。
「・・・進藤君はホントに優しい子なんだね・・・強姦魔を庇ったり、ナイフを持って追いかける少年を救おう
としたり」
船田の心の棘が春樹に向く。船田は蔑むような笑いを浮かべた。
「そういうわけじゃ・・・」
春樹の純粋な思いは、こういうときには真っ先に踏みにじられてしまう。結局それ以上は何も言えなくなる
のだ。春樹の握った拳が冷たい風に吹かれてキリキリと痛んだ。
その一方で要は宇宙を自分の後ろに隠しながら、その様子を冷静に見ていた。今の自分ならば止められる
そう踏んでいるのかもしれない。
大きく呼吸をとると、要はよく通る声で船田に話しかける。
「船田先輩。さっきの続きですけど、あの三角関数は、天球座標系の変換公式の一部ですよね?」
「・・・もう、その話はどうでもいいだろ?」
「あの公式はどんな意味が込められてるんですか?」
「かく乱だって言っただろ!」
要はそれに首を振る。
「僕達に秘密もばれて、今や死ぬつもりの人なら、それくらい本当の事言ったらどうです?」
「・・・」
船田はじっと要を睨みつけたまま、固まった。
その姿に要は追い討ちをかける。感情に訴えかけない口調は、興奮している人間にはひどく冷たく感じる
ものだ。船田の身体が強張る。
「自分で書いておいて答えられないのは、捜査をかく乱する目的でデタラメを書いたわけではなく、意味が
あるからですよね?」
要の瞳ははっきりと船田を捉えて離さない。船田は目を逸らすことができなくなる。ぶるぶると首を振って
否定するのが精一杯だ。
「・・・意味なんて・・・意味なんてない」
うわ言のように繰り返すが、要はそれを認めることはなかった。
「そうですか?何かあるようにしか思えないんだけど。例えばあの公式を使うと、何かが見えてくるとか?
でも、公式に当てはめる数値なんて、あのメッセージの中にあったかな」
「・・・」
「それとも『変換』に意味があるのかなあ」
「どういう意味・・・」
「座標を変換するってことは見方を変えるってことなんだけど、そうすると、全く違う数値が出てくるのを、
船田先輩も当然知ってますよね」
「それが・・・なんだって言うんだ」
「例えば、同じ人間でも別の見方を変えると、全く別の性質が見えてくるとか?」
要の問いかけに船田は明らかに動揺した。発する言葉が見当たらないのか、口をぱくぱくと動かすだけで
内容がついてこない。
「あ、図星?意外と正論的なメッセージだったんですね」
要はにっこり笑って納得を装う。
「違っ!違う!!あんなのに、メッセージなんてない!適当に書いただけだ!」
「適当・・・ねえ。適当にしては随分なところから持ってきたと思いますけど?」
「し、進藤君が・・・進藤君が天体に興味あるって、前に天文サークルに入ってたって聞いてたから、意味の
ありそうなことを並べただけなんだ!!」
自分の名前が出て春樹は思わず前に出た。
「船田先輩!そろそろ本当の事言ってください。本当は俺たちに何か言いたかったんでしょう?」
春樹がゆるゆると近づくと、船田は語気を強めた。
「近寄らないで!僕は本気だ。僕は死ぬんだ。近寄ったら、この子も道連れにするからね!」
「何を馬鹿なことを」
船田の瞳から幾筋も涙が零れ落ちる。日が落ちる直前の、真っ赤に燃えた夕焼け中で船田の涙は赤く光った。
「もういいんだ!僕さえ、口を閉じれば・・・それで終わるんだ・・・」
船田は何かを心の奥底に隠したまま、全てを諦めてしまうつもりだ。
もはや力ずくで止めるしかない。春樹はもう一歩前に出る。
「来るな!」
船田のナイフが光る。
「先輩、待ってください!」
我慢できずに、春樹はその間隔を詰めた。
「来るなって言ってるだろ!!」
船田は思わずそのナイフを振り上げた。
しゅっと掠る音と共に、粕谷の首筋から細く赤い線が噴出す。そしてそれがだらりと形を崩して、滲み
始めると、粕谷の悲鳴が聞こえた。
「うぎゃあっ」
「船田先輩!!」
春樹の目が見開く。歩み寄った足がまた止まった。
「あ、ああっ・・・僕は・・・うわああっ・・・」
船田は粕谷の血を見て錯乱した。振りかざしたナイフを此方に向けたまま、ガクガクと震えている。
その腕の中では粕谷が何とかもがいて出した片腕を切り口に当てて顔をゆがめていた。
誰もがその空気の中で張り付いて動けなくなった、そう思った瞬間、春樹の隣を風が切った。
「やめろっ!!兄ちゃんに触るな!!」
宇宙が勢いよく飛び出したのだ。
要を押しのけ、俊足の宇宙はあっという間に船田に近づき、ナイフを持った腕を掴むとその手を思いっ
きり噛み付く。
「痛っ!」
船田は驚きと痛みで握り締めていたナイフをその場に落とした。夕闇の屋上にカリンと金属の落ちる音がする。
宇宙が船田を突き飛ばした。そうしてもう一度、涙の溜まった瞳で船田を睨むと
「兄ちゃんに怪我させる人間は絶対許さないから!」
そう、はっきりと言ったのだった。
宇宙に突き飛ばされてよろめいた要は春樹が抱きとめた。要は春樹の肩に掴まり、体勢を整える。そうして
船田の方を見たときには、船田は既に粕谷を解放して、突き飛ばされた勢いで後ろのフェンスに蹲っていた。
その行動には粕谷さえも息を呑んだ。
脅されてわざわざ長野まで逃げてきた宇宙が、その脅していた本人を助けたのだ。しかも、宇宙ははっきりと
その存在を「兄」だと言った。
要の中でざわざわと血が駆け巡る。どういうことなのだ。宇宙は粕谷に脅させて、怯えていたのでは
ないのか。
ひょっとして自分達は宇宙の恐怖を勘違いしていたのだろうか。何に怯えて、何を求めていたのだ?
「船田先輩?!」
隣で春樹が船田に向かって駆け出す。要は迷わず宇宙の元に駆け寄った。
「宇宙・・・」
宇宙が不安げに要を見上げた。要は足元で怪しく光るナイフを拾い上げる。ナイフはバタフライ式で、要は
その凶器を宇宙から見えないようにしまった。
要の母はこの凶器で人を殺めてしまった。一瞬の間が人を簡単に犯罪者に変えてしまう。たとえその思いが
本気でなくとも、簡単に越えてしまう瞬間がやってくるのだ。誰も悪くないと、春樹は「間が悪い」とそれを
慰めてくれたが、要にもその「間」という恐怖が改めて分かった気がする。
春樹を見ると、船田の方に近寄り、身体を抱き起こしている。突き飛ばされた拍子にフェンスの柱に頭を
打ち付けたのか、船田は気を失っているようだった。
要は宇宙の肩を抱きしめた。
「兄ちゃん・・・僕・・・あの人・・・」
「大丈夫。気を失ってるだけだから。・・・宇宙、よく動けたね」
「・・・自分でもよく分からない・・・」
粕谷を見れば、粕谷も蹲って切られた首を押さえていた。要は宇宙から離れると、粕谷の腕を取って、傷口
を確認する。
「って、何すんだよ」
「いいから、黙って。・・・うん。ただの切り傷みたいだね。元々殺傷能力のあるナイフじゃないし、切り口も
深くない。押さえておけば直ぐに止まるよ」
要はポケットからハンカチを取り出すとその首に当てて、粕谷の手を乗せた。
「余計なことすんなっ・・・」
粕谷が不貞腐れながら言う。
「粕谷君、凶器って言うのはね、人を簡単に変えてしまう魔物だよ」
要はしまったナイフを粕谷の手に乗せる。小さなバタフライナイフは粕谷の手の中でどっしりと重く圧し
掛かった。
粕谷は手の中のナイフを握り締める。自分の中の暴れだす感情がナイフに宿ってしまう恐怖を粕谷は
身をもって感じたのだろう。
「ずっと・・・自分には何かが欠けている気がしていた」
振り返ると、宇宙が流した涙もそのままに、小さな身体を震わせていた。
「宇宙・・・?」
「半身がないような気分だった」
半身と言われて思い出すのは唯一つしかない。失われた命の存在。要の顔が蔭る。
「記憶の中で薄ぼんやりと覚えてるのは、僕と兄ちゃんと母さんと・・・もう1人の僕」
「・・・」
「兄ちゃん、僕には双子の兄がいたんでしょ?」
要は唇を噛み締めたまま無言で頷いた。火事で助けられなかった命はいつまでも要の心を振り動かす。
「ずっと何かが足りない、そう思ってた。そして、火事で双子の兄ちゃんが死んだことを知って、僕は
納得した。あったはずの何か。僕の半身。そう、僕は本当に半身を亡くしたんだ。そう理解した。だけど、
納得してもずっと埋める事は出来なかった・・・」
「宇宙」
「でも、そんな時出会ってしまったんだ、僕は。淋しさを埋めてくれる人、この喪失感を埋めてくれる
人に。それが、徹先輩だった」
本当の弟のように構ってくれ、そして粕谷の境遇を知った。親近感を覚えると同時に宇宙は欠けていた
何かまでも手に入れた。
「嬉しかったんだ。自分と同じように、家族を亡くし、淋しさを分かってくれる人がいることが」
粕谷の顔が歪む。出会った当初、宇宙の事を家族のように感じたのは粕谷とて同じだったのだ。
「だけど、僕は本当の生い立ちを知ってしまった。・・・徹先輩に罵られて、脅されて、逃げて・・・だけど!」
宇宙は粕谷を真っ直ぐに見る。
「僕は、まだ徹先輩に惹かれていた」
「楠木・・・」
「どんなに、ひどいことを言われても、僕は徹先輩の傍にいたいと、僕の喪失感を埋めてくれるのは
徹先輩しかいないって、そればっかり思ってた!」
宇宙の告白に粕谷は驚く。粕谷は宇宙の気持ちを果たしてどこまで考えていただろう。自分の中の長年
降り積もった恨みを晴らすだけで精一杯だったのではないだろうか。
幼い自分の気持ちが、こんなにも1人の人間を傷つけ、苦しめていたことを粕谷も漸く知ることになる。
「僕が、本当に怖かったのは、徹先輩なんかじゃない」
「宇宙?」
「僕自身だった・・・」
宇宙が本当に怖くて逃げ出したのは、そこまでしても粕谷に惹かれてしまう、自分自身だったのだ。
「なんで、そこまでして徹先輩に惹かれるのか、僕は自分がわからなかった」
そこで、宇宙は一つの答えを思いついた。自分が粕谷に惹かれてしまうのは、自分の半身をも埋めてくれる
存在だから。
「それは血が繋がった人間だったから・・・」
自分の失った兄の代わりは、「兄」しかいない。宇宙のたどり着いた答えはそこだった。けれども、その
答えにも疑問が残る。本当に粕谷が「兄」だからこんなにも自分が切なくなるのだろうか、と。
「だから、血の繋がった人間の傍にいたら・・・兄ちゃんの傍にいたら、兄ちゃんも徹先輩と同じように、
僕の欠けている部分を埋めてくれるのか・・・確かめたかったんだ」
「確かめに来たんだ」宇宙が初めて要の前に現れた日、宇宙はそう言ってはいなかっただろうか。その
言葉の意味を要は理解する。
宇宙の告白を、要はただ目を閉じて聞くしかなかった。
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