天 球 座 標 系
赤平昴(あかひら すばる)という人物について春樹が知る情報はあまり多くない。
同じ研究室のマスター1年であること。自分を直接指導してくれる院生であること。優秀なプログラムを
設計できること。同じ研究室の朝霧純子(あさぎり じゅんこ)と付き合っているということ。大きな身体に
整った顔立ち。豪快さと狡猾さを兼ね備えているというのは春樹の主観だ。
3年の後期に研究室の配属が決まり、まだ3ヶ月も経っていない。直接話す機会が他の研究室のメンバー
よりも多いだけで、彼のパーソナルなデータを多く持っているわけではなかった。
それでも、小林助教授に告げられた言葉の意味を自分の中で消化するには、消化不良しすぎる内容だ。
「・・・な、なんかの冗談とかじゃ、ないんですよね・・・」
派手に椅子を倒しながら立ち上がった後、春樹は途方に暮れた気持ちで小林を見る。こんな大掛かりな
「ドッキリ」はありえないだろうが春樹は小林が告げた言葉も事実には聞こえなかった。いや、信じたくない
と言ったほうが正しいのかもしれない。
昨日まで、そう確かに昨日の午後までは赤平と春樹は接触していた。赤平の得意とするC++言語に関する
英語の論文を赤平に教えてもらいながら、何とか2ページ訳していたのだ。
その人間が死んだというのだ。春樹よりも15センチ以上大きな身体をした男が一体どこで、どうやって
死んだと言うのだろう。
春樹は椅子を戻しながら、小林に力なく聞いた。
「赤平先輩は、どこで・・・」
小林助教授は春樹の一つ椅子を空けて座るスーツ姿の男の顔を見た。そしてその男が頷くのを確認すると
ことの詳細を教えてくれたのだった。
「赤平君は、ウチの研究室の中で死んでいたんだ・・・」
話によれば、S大に出勤してきた小林助教授がいつものように研究室の鍵を開けて中に入ったら、そこに
赤平昴が倒れていたというのだ。それもひどい状態で。
「ひどいって・・・?」
「辺りは赤平君の吐しゃ物と排泄物で散乱してたんだ・・・」
春樹はそれを聞いて思わず口を押さえた。先ほど船田が真っ青な顔をしてトイレに駆け込んでいったが
船田もこの話を聞いたせいだろうか。確かに研究室の前を通ったとき、異臭がしていた。それがその臭い
だというのだろう。
「それって、どういうことなんですか・・・?その、自殺とか・・・」
その質問には春樹の隣に座るスーツの男が答えた。
「多分、薬物中毒だ。今調べてる段階だから何もいえないが、殆ど飲み干したコーヒーが机の上に置いて
あった。その中から薬物が出てくるんじゃないかと考えている。鑑識の結果はまだこちらにはとどいていない。
それが自殺なのか他殺なのかも今のところ分からない。ただ、自殺は考えにくいだろう」
机には彼のノートパソコンが一台、プログラムが書きかけのままで止まっていたらしいのだ。当然他殺の
線も考えて警察は動いているはずだ。いや、多分警察は限りなく他殺に近い線で考えているだろう。
そこで春樹はふと疑問が浮かんだ。
「先生、さっき鍵開けて入ったって言いませんでしたか?」
小林助教授の顔が歪む。ゆっくりと頷くと、言葉にするのを憚かられるようにぼそぼそと呟いた。
「もし・・・赤平君が殺されたなら・・・研究室のドアに鍵を掛けられる人間が犯人ってことになるね・・・」
「それって!」
春樹は思わす叫んだ。研究室の鍵は研究室に所属する学生及び教授しか持っていない。学務には当然
マスターキーやスペアキーがあるだろうが、持ち出された形跡はないとのことだった。
ただ、春樹達3年生はまだ鍵を貸与されておらず、真っ先に疑われる路線からは一歩後退したことに
はなった。
それでも、自分が疑われていないことより、同じ研究室に犯人がいるかもしれないという方が春樹には
衝撃的だった。もし警察の人間が言うように薬物で人を殺したというのなら、その人間は明かに赤平を
憎んでいて殺そうとしたのだろう。それが同じ研究室にいる人間だというのだ。春樹はメンバーを思い
浮かべてみるが、どれもそんなことをしそうな人間には思えなかった。
「なんで、鍵なんて掛けたんだろう」
それこそ不思議だ。内側からは摘みを捻って掛けるタイプになっており、閉じ込めるために外から鍵を
掛けたというのなら、それは全く意味を成さない。それに、と春樹はもう一つの疑問を隣の男にぶつけた。
「・・・赤平先輩は自分の鍵、持っていなかったんですか?」
もし、赤平の持っていた鍵がなくなっていれば部外者とて犯人になりうるのだ。男は困った顔をして腕を
組み、右手で顎を摩った。
「彼は鍵を持っていなかった・・・」
「じゃあ・・・」
春樹がその発言に被せて言う前に、男は手でそれを制した。
「持っていなかったけど、彼の鍵を持っているという人物ははっきりしている」
「じゃあ、その人が犯人なんじゃないですか!?」
その問いに、今度は小林が答えた。
「それがなあ・・・そうでもないんだ。持ってたのは暁裕輝(あかつき ゆうき)君でね、進藤君も知ってる
だろ?ほら、隣の石川研の子。よくうちの研究室にも出入りして、赤平君とも仲良かった子だよ」
春樹はその名前を聞いてぼんやりと顔を思い出してみる。陽気で少し軽そうなタイプの人間が、よく
出入りしていた気もする。確か赤平が、『ゆうき』と呼んでいたのが多分暁のことなのだろう。
小林の話はこう続いた。
赤平は研究室に来る前に暁の自宅に寄ったらしく、そのときに研究室の鍵を忘れていった。昼間は
研究室には小林がいるので、鍵がなくとも部屋に入ることが出来るので、そのまま入ってきたが、
鍵のないことに気づき、暁にメールしたのだという。『お前の家に研究室の鍵、忘れた。後で持って
来て』と5時ごろにメールしていたらしい。しかし当の本人、暁はそのメールを貰ったときバイト中で
バイトが終わった午後11時ごろに電話を返したらしいのだが、電話が通じなかったので、そのままに
してしまったのだという。
「電話が通じない・・・?」
「携帯電話は、赤平君の手の中で真っ二つに折られていたんだ」
また一つ、不可解な問題が増えてしまった。薬物、密室、携帯電話の破損・・・。何をどう繋げていいのか
春樹も、そして今ここに座っている人間も全く見えてきてはいない。
ただ、そうして逡巡していくと、やはり「もし他殺だと仮定するならば」犯人は小林研の人間という
ところに戻ってきてしまうのだ。
小林が何度目かのため息を吐いた。院生室はそこで沈黙になった。そもそも、まだ赤平は「殺された」
と確定したわけでもない。「いつ」「誰が」「誰に」「どうした」という日本語の文章の中に、唯一当て
はめられるのは「赤平が」であり、「どうした」でさえ、「死んだ」という漠然とした事象しか言えない
のだ。春樹は軽い眩暈を覚えた。
今この部屋の中で語られていることは、本当に全て事実なのだろうか、現場を見たわけでもないのに
信じられるわけもないのだ。
沈黙を破ったのは警察の男だった。
「それで・・・進藤君だったね?少し話を聞かせて欲しいんだが」
春樹が顔を上げると、男は非情の顔でファイルしてある用紙を開いていた。所詮仕事の一つだ、とその顔
は語っている。記入事項の欄になにやら書き込んで、男は席を立つと小林に席を譲らせて春樹の真正面
に座った。
春樹は、それが俗に言う「事情聴取」なのだろうと思った。
赤平が死んだことにどこまで関係あるのか、春樹には分からないほど男にいろんなことを聞かれた。
調査の協力者なのだから、言いたくないことは言わなくていいといわれたが、言いたくないことと、
言わなければならないことの境界線を引くことが出来ず、結局春樹は質問に大方答えてしまった。
そして、赤平の死は謎のまま、現実として受け入れることも出来ないまま、春樹は部屋を出されて
しまった。研究室は暫くの間使えない。ゼミも落ち着くまでは休講となった。
春樹が部屋から出てきた頃には回りのゴタゴタした様子も朝ほどひどくはなかった。ただ、顔見知り
程度の人間にあれこれ聞かれるのが煩わしくて、春樹は足早に情報科棟を後にした。時計を見れば1時を
既に越えていて、要と学食で会う約束には間に合いそうもなかった。携帯電話の着信を確認すると、要
からメールが1通届いていた。
『今日5コマ目あるから、時間あるなら一緒に帰ろう。そのときにでも話、聞かせて』
春樹はそのメールに図書館で待っている旨を返信した。
付属の大学図書館に入ると、春樹は一番奥の人の目に付かない席を選らんで座った。訳しかけの英語の
論文を開いてそれに目を落とすが、何一つ頭に入ってくることはなかった。
(赤平先輩が死んだって?・・・冗談だろ・・・)
信じられない気持ちが先行して、正常な思考が出来なくなる。否定ばかりでは現状を理解できない。そう
思いながらも、春樹は心拍数の上がる胸を沈めることは出来なかった。
時間ばかりが過ぎ、春樹はあっという間に日が暮れる冬の空をただ見詰めるばかりだった。
「・・・進藤?」
声を掛けられて自分が漠然と空を眺めていたことに春樹は気づく。振り返れば要が苦笑いしながら立って
いた。空はすっかり夜の景色になっていて、5コマ目が終わっていたことを察する。春樹も曖昧な笑みで
返した。
「論文の訳、1ページも進まなかった」
「・・・。帰ろう?」
「ああ」
春樹は立ち上がり、鞄の中に論文を詰め込む。結局今日持ってきたノートや教科書、論文は全て持って
来ただけで、何一つ役に立つことはなかった。重いものを無駄に運んだだけだった。
春樹は自嘲しながら図書館を後にした。
外に出ると、冬の寒さが身体の隅々にまで行き渡っていくようだった。既に暗くなった空にはいくつか
星が輝いており、ちらちらと頭上でその存在を主張してた。
春樹は今朝の出来事を出来るだけ詳細に要に語ったつもりだったが、自分でも要領を得ていないのか
何度も同じことを繰り返しながら、事実と自分の思いを告げた。
「ウチの学科でも、話題になってた。そこまで詳しくは誰も知らないみたいだけど、小林研で人が死んだ
って所までは正確に伝わってるみたいだね。後は自殺説やら殺人犯が大学にいるとか、痴情の縺れで
刺されて殺されたとか、適当な噂ばかり」
薬物に関してはまだ伏せられているのだろう。噂とはいい加減なものだ。明日にはもっとありえないデマ
が広がっているかもしれない。
「俺は、赤平先輩が本当に死んでるのかそれすら信じられない。でもアレだけ大事になってて嘘ってことも
ないだろ?だから、信じるしかないんだろうけど・・・」
声に疲れた色が滲み出る。今朝からずっとそれに囚われ続けたのだ。昨日まで会話していた人と、もう
二度と話す事が出来なくなる。一方通行の道の果てがどん詰まりだった気分だ。それ以上はもうない。
ふと、要が声色を変えて春樹の肩を自分の肩でコツいた。
「何か、ちょっと焼けるな」
「なんだよ、それ」
春樹は視線だけを上げて要を見る。
「進藤、僕が死んでも、そうやって頭の中グルグルになるのかなあって」
「はあ?・・・馬鹿。縁起でもないこと言うな」
春樹はぷいっと横を向いて要を視界から外す。ごめんごめん、と要の笑い声がして、春樹はぼそっと
呟く。
「・・・お前が俺の前から消えることなんて、一生考えたくない」
「進藤・・・」
要はその発言に驚いて、思わず春樹のこめかみにキスを落とした。
「なんだよ、馬鹿」
春樹は自分の言った意味を考えて、急激に恥ずかしくなった。そういう意味じゃないといいかけて、
自分でもどういう意味なのか迷ってしまう。
ただ、春樹は要の隣にいたいと思う、それだけだった。吸った息は頭の中をキーンと冷やした。
白い息を吐き出しながら、春樹は頭上を見上げる。釣られて要も見上げる。
「豪快で傲慢で、頭がよくてかっこいい。ちょっと圧倒されたけど、俺の今まで会ったことないタイプの
人間だったから、俺は面白くて好きな先輩だったんだ。あのプログラムには圧倒される。・・・死んだって
言うのなら、やっぱりショックだ」
「赤平先輩っていうのは・・・あの星みたいだね」
要が指を差す方角には長方形をかたどった4つの星に中心に三ツ星が並ぶ星座だった。
「オリオン座?」
「うん。オリオン」
「神話?」
「そう。・・・進藤、知ってる?オリオンの最期」
春樹は首を横に振った。春樹は要に釣られて星を見るようになったが、その星座がどんな神話を持っている
かまでは殆ど知識として持ち合わせていない。小さな頃から星に関する本を何冊も読んでいる要とは、そう
いう知識量は漠然とした差がある。
「オリオンはね、海の王ポセイドンの息子で、背が高くて凛々しくて逞しい美男子の狩人だったんだって。
だけど、ちょっと傲慢だった。事ある毎に『自分に敵う動物はいない』って豪語してたらさ、女神の怒りを
買って、最後にはさそりの毒に殺されちゃうんだ。女神は褒美にさそりを星座に上げて、哀れに思った別の神が
オリオンも空に上げたんだけど、オリオンはさそりを怖がってしまうんだ。だから、東の空にさそり座が
出てくるころにはオリオン座は逃げるように西の空に消えていくんだって。まあ、どっちが先に出来たのか
分からない神話だね」
要の話に春樹はうーんとうなった。
「オリオンねえ・・・確かに赤平先輩の性格に似てるかもしれないな」
そこには納得できる。春樹が引っかかったのはさそりの話だった。オリオンはさそりの毒で殺されたのだ。
「要は、赤平先輩は誰かに殺されたんだと思う?」
「・・・どうかな。警察が断定してないのなら僕には分からないよ。でも自殺する人間がプログラムを書きかけた
ままで死ぬっておかしいよね。・・・進藤、気になる?」
要は少し憂い目で春樹を見下ろした。
「気になるっていうか。・・・うん、まあ、気になる。自分の知った人がどうしてこうなったかくらいちゃんと
知りたいって思うけど」
春樹の視線に要はため息を吐いた。
「あんまり、深追いしちゃだめだよ」
「何だよそれ」
「うん、まあ、なんとなくね」
そこで、春樹は2年近く前に起きたあの出来事を思い出す。松本にいた頃に所属していた天体観測の
サークル内で起きたちょっとした事件だ。春樹のもやもやしたやりきれない気持ちを要が半ば強引に解決
してくれたあの出来事で皆それぞれに傷ついたり、傷つけあったりした。結果そのことで、春樹は要と向き
合う覚悟が出来たのだが、今思い出しても、あの傷は苦く切ないものだ。
あの先輩達は大学を卒業し今はどこにいるのか、春樹は連絡すら取っていない。
「殺されたって言うのなら、そこにはそれだけ分の誰かの想いが篭ってるんだろうね・・・恨みやねたみ、
憎しみやそれら全てを包括したような、何か・・・」
要の言葉には重みがあった。目の前で人が殺される経験をした人間の苦悩が溢れ出ているようだと春樹は感じた。
歩きながら、春樹は要の歩んできた人生を想う。彼なりに前を向こうと必死にもがいてきた8年を春樹は知らない。
ただ、今の要から垣間見れるその努力は春樹を切なくさせた。
十字路の手前で春樹が思い立ったように言った。この道を右折すれば春樹のアパートは目の前だ。
「たまには要の家に行きたい」
「どうしたの急に」
「なんとなくだよ。お前の部屋、あんまり行ったことないからさ」
「うん、いいけど」
春樹は十字路を右折することなく要と共に直進した。要との家の距離は5分程しかない。春樹は要が「春樹の
部屋に来たいから」春樹の部屋にいるのだとずっと思っていたが、本当は「自分の家にいたくない」から
春樹の部屋を訪れているのではないかと、思ったのだ。
1人になる不安を春樹は要ほどは分からない。
「進藤が来るなら、お茶でも買っておけばよかったかな」
「何、お前のところも、オーダー「水、白湯」なのかよ?」
「あはは、インスタントコーヒーくらいはあるよ」
要が少し浮き足立って歩いた。春樹もその後ろを歩く。要のアパートも春樹の部屋の外観と殆ど変わりない。
その昔、長野でオリンピックが開催されたときに選手村として大量に建てられたアパートらしい。春樹は当時
のことをテレビで見た記憶があるだけだった。
2人が要のアパートの正面まで歩いてくると、そのアパートの前で所在なさげに立っている1人の少年の姿
があった。小学校高学年か、もう少し上に見える。暗闇の中で、白いダッフルのコートがぼうっと浮かんでいた。
春樹は首をかしげた。大学生専用のアパートには縁のなさそうな人物だが、彼は誰かをここで待っている
ようにも見える。
ざくっと春樹と要の雪を踏む音を聞いて、彼は顔を上げた。そうして、アパートの街灯で照らされる場所
まで移動してくると、今度は要の足が止まった。
「?」
「・・・」
「何、知り合い?」
家庭教師の子どもかと思い春樹は要を見る。要は頬を硬直させて、表情をなくしていた。少年は明らかに
此方のことを認識して近づいてきている。そして、要の前で立ち止まった。よく見ればこの少年も表情が
硬くなっていた。
(あれ・・・なんか・・・)
春樹はその2人を見比べながら違和感を感じる。人の顔って固まると同じ顔になるんだろうかと、そんな
ことを思ったとき、春樹はそれが自分の勘違いだと気づいた。
「あの・・・」
発した声は、上ずっていた。まだ変声期を迎える前の幼い声だ。
(固まると同じ顔になるんじゃない、この2人は初めから顔が似てるんだ・・・)
「そら・・・?」
要の声も震えていた。
呼ばれた少年はこくりと頷く。
(ああ、じゃあ、この子は・・・)
少年の名は、宇宙。
10年前の火事で生き別れになった、要の父親違いの弟だった。
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