天 球 座 標 系
一夜明けて、学内はマスコミや野次馬でごった返していた。
毒殺事件の犯人が同じ研究室の恋人だったというセンセーショナルな発表にマスコミはこぞって
飛びついてきた。
テレビ、新聞社からゴシップ雑誌の記者まで何十台のカメラが大学の前をうろついている。
春樹はそれらを遠く、社会工学科棟の4階の空き部屋から眺めていた。
今朝は早くから研究室に呼び出しがあった。小林助教授の顔はここ数日のうちで一番冴えない顔を
していた。
頭を抱えながら、小林助教授はマスコミからのインタビューなどは無視するようにと注意する。
勿論、春樹はそんな忠告を受けずともマスコミや他の学生に語るつもりは毛頭もなかった。
人に語れるほど、自分の中で気持ちの整理が着いていない。怒りも悲しみも、やるせなさも、どこに
向けていいのか分からないのだ。
そんな中で、講義に顔を出せば、さして仲もよくない同学科の知人から下世話な視線を送られる
ばかりか、赤平と純子の関係をあからさまに聞いてくる者も出て、春樹はそんな連中に心底はうんざりした。
報道では動機まで明らかにされていなかったのだ。
それが事件の背後にあるもの、すなわち船田のレイプを憚ってのことなのかは分からないが、動機が
謎のままの事件では、当然人の興味はそこに行く。
何故、どうして、何があったのか。事件の背景に迫ろうとする人間が春樹の周りを取り囲む。春樹は
それらを生返事でかわしていたが、耐えられなくなって遂に逃げ出した。
春樹は要を頼って、社会工学科の空き部屋の一室に入った。学科が違えば春樹の顔を見ても、事件と
結びつける学生は少ない。春樹はやっと大きなため息を吐いた。
「新聞記事、読んだ?」
要に声を掛けられて、春樹は首を振った。周りから入ってくる情報に今は耳を傾ける気にはなれない。
「動機が発表されてないんだから、当然、進藤なんかは皆から格好の情報源にされちゃうよね」
「勘弁してほしいぜ。朝から追いかけられっぱなし」
「2,3日は続くかもね」
「こんな嫌な事件早く忘れて・・・世間ではもうすぐクリスマスなんだから、みんなとっとと、浮かれて
そっちに向いてくれればいいのに」
うんざりしながら呟く春樹に要が苦笑いした。窓の外は曇天の中、カメラマンやリポーターが必死に
学生を捕まえて話を聞こうとしている。
ちらちらと雪が舞った。
「船田先輩は・・・」
「ん?」
「船田先輩は、どんな罪になるんだろう・・・」
「そうだね・・・。窃盗は免れないだろうけど」
殺人教唆、春樹はその言葉が頭に浮かぶ。教唆犯の罪がどれほど重いのか春樹は知らない。ただ、
ごめんなさいで済むようなものではないことは確かだ。
「殺せって言ったわけじゃないしね。寧ろ脅迫の方かもしれない」
「・・・」
春樹は押し黙った。どちらにしろ、もうあの研究室で純子の姿も船田の姿もみることはないだろう。
言いようのない切なさが心を切り刻んでいく。
純子の聡明な姿が思い出される。研究室に配属されてすぐのオリエンテーションで自分の研究を
楽しそうに語っていた姿。新歓コンパでほろ酔いになりながら、「進藤君はきっといい卒業研究が
できるわ」と背中を押してくれた。赤平に悪態をつかれながらも、プログラミング基礎を教わって
いたときには、その後ろで姉のようにフォローしてくれたのも純子だった。
目頭が熱くなって、春樹は顔を手で覆うと、固く目を閉じた。
「偶然、だったんだよな」
船田がヒ素を盗んだのも、それを純子に送りつけたのも、純子が毎夜、研究室に通っていたことも
そして、純子が船田と赤平の関係をみてしまったことも。
しかし、それが偶然だというのなら、何て過酷な偶然なのだろう。
春樹の脳裏には船田の涙を堪えて自分をさらけ出したあの顔が浮かぶ。
「・・・運命の女神様は随分冷たいね」
要は春樹の隣に座って、同じく外を見た。ふわふわと降る雪に視界が段々と遮られていく。
その白さで、心の中全てを漂白されてしまいたい。春樹はそんなことを思った。
「ねえ、進藤」
「ん・・・」
「昨日、あれからずっと考えてたんだけど」
「あ?」
春樹が顔を上げると、要は少し困った顔をして言った。
「船田先輩は、どうして自首する気になったんだろうね・・・」
「え・・・そりゃ、もう秘密がばれて、隠す必要がなくなったからじゃないのか?」
「だったら、それこそ、逃亡なり自殺なりすると思う。・・・だけど、船田先輩は朝霧さんが捕まる前に
自首したんだよ。・・・それってどういうことだと思う?」
「それは・・・」
そう言われて春樹は言葉が詰まる。昨日、夕闇の中で船田は「誰かを庇っている」口調で自分の言い分
を通した。結局、理論は破綻して、宇宙たちの所為で船田の話はあやふやになってしまったのだが。
「暁先輩が、船田先輩の事諭したとか?」
「うん。それもあるかもね」
暁には大筋は話してしまった。船田が赤平にどれほどの恨みを持っているのか、思い余ってヒ素を
手に入れてしまったことも。その時は犯人が純子だとは思いもよらなかったが、犯人を庇っていると
言うことも暁には話した。
それを受けて暁が船田を説得したのかもしれない。
しかし、要は納得のいかない表情を浮かべて、外をじっと見つめている。
「・・・船田先輩は、本当に朝霧さんを庇っていたのかな」
「どういう意味だよそれ」
「何かが変なんだよ。どうも、船田先輩の行動に、一貫性がないっていうか・・・。庇ってるくせに、
一方で進藤にあんなメッセージを送りつけてるし」
確かにそうだと春樹も納得する。メッセージを送りつけて犯人を示唆しながらも犯人を庇う。この
矛盾は一体なんだ。
「まだ何か隠してるって?」
「うん、そうだね。何かある気がするんだ」
「何か・・・」
要は窓の外から視線を戻すと、春樹を見つめた。
「進藤、何か思い当たることない?僕が知らない、船田先輩に関わることで、何か違和感を感じたこと。
どんな些細なことでもいいんだけど」
「そんなこと言われてもなあ・・・」
春樹は事件当日からできるだけ船田の事を思い出そうとして、目を閉じた。
そして、そういえば事件が起きた朝、一番に出会ったのは真っ青な顔をした船田だったことを思い出す。
「あの日、船田先輩に会ったな・・・」
「あの日?」
「ああ、前にも要には話したと思うけど。8時過ぎだかに船田先輩が情報棟で目撃されてるっていう噂
が飛び交ってて、俺、焦って船田先輩追っかけたの」
「うん」
「あの時、天球のこととか、ああ、赤平先輩と日高先輩は似てるとかそんなこと話したんだよな」
「他には?」
春樹は要に促されてそれ以後のことも思い出そうとする。しかし、ここ数日の濃密な時間が船田との
記憶を薄くしていく。
濃密な時間。人生においてたった1点でしかない通過点が、こんなにも濃くて、苦しい。春樹はこの
一週間の出来事が自分の体験してきたどの時間よりも重いと感じた。
平凡な日常に宇宙と粕谷が乱入してきたこともまた、時間に濃度を与える。その所為で要の心はひどく
揺れてた。お互いがひどく不安定になり、そして、改めて要と向き合うことになって、要に囁かれた言葉。
急激にその場面が蘇って、春樹は顔がかあっと赤くなった。
(な、なんだよ・・・こんなときに、クソ)
春樹はぷるぷると頭を振って、ありえない角度で見上げた要の顔を脳裏から追い出した。要に吸われた
痕は、未だに薄っすらと残っている。
「進藤?」
訝しげに要が春樹を覗き込んだ。
「ああ、いや、なんでもない。・・・そういえば、粕谷が来た次の日、俺午前中に研究室行ったんだ」
「日曜日?僕が進藤の部屋に行く前?」
「そう。その時はまだ、あのプログラムが何なのか分からなくて、ちょっとでも手がかりがつかめたら
いいと思ってさ」
「うん?」
「そこで、船田先輩に会った。プログラム見せたらしらばっくれられたんだけど。・・・そういえばあの
時、日高先輩も一緒だったなあ。滅多に見ない組み合わせなんだけど。あのプログラム日高先輩だって
見れば多少は食いつきそうだったのに・・・。少なくとも、ソースファイルがあることくらい教えてくれ
ればよかったのにさ」
「日高先輩は、そのプログラム見て何にも言わなかったの?」
「プログラムが起動しなかったから、分からないって一蹴された」
春樹がそう言うと、いきなり要が声のトーンを変えた。
「他には?・・・その時、日高先輩、何か言ってなかった?」
「え?」
春樹は考える。確かに他愛のない話を他にもしたはずだが、その中に何か重要なヒントがあっただろ
うか。しかも、どんな話をしたか自体、あまり覚えていない。
春樹は逡巡して、そしてポンとはじき出されたようにあの時の違和感を思い出した。
「・・・あ」
「何か思い出した?」
「そういえば、あの時、やけに饒舌だったな、日高先輩。・・・饒舌っていうか、何時もならそういう
余計なことは言わないんだけど」
「うん?」
春樹はそれを聞いて、何故そんなことをここで言うのだろうと、不思議に思ったのだ。
「工学部でヒ素が検出されなかったって噂をいち早く教えてくれたのは日高先輩だったんだ」
今更ながら、その時の船田の反応はどうだっただろうか。思い出そうとしても、春樹には思い出せな
かった。
要は一気に険しい目付きになった。そして、真っ白な景色をぐっと睨んでいたかと思うと、いきなり
立ち上がって春樹の腕を引いた。
「そうか・・・そういうことなのか・・・」
「え?何が?」
要に引きつられて、春樹も立ち上がる。要は一層険しい顔になって、春樹の腕を掴んだ。
「要・・・痛い・・・」
掴まれた腕の力に思わず声が漏れる。それに気が付いて要は手の力を緩めたが、顔は強張ったままだった。
「ごめん・・・思わず」
「一体なんだよ」
要は窓と春樹の座っていた椅子のあたりをぐるぐる歩き回る。躊躇っているのか考えがまとまらないのか
その行動を春樹はじっと見つめた。
「おい、要!」
「・・・」
「また要の暴走が始まったのかよ」
春樹がため息交じりに呟くと、要は苦笑いを返した。
「・・・ゴメン。凄く恐ろしいところにたどり着いちゃったから・・・でも、多分それは間違ってないと思う」
「?」
「行こう、進藤」
「どこに?」
そういうと、要は教室の入り口まで1人で歩いていってしまう。春樹は慌ててその後ろを追いかける。
「おい、待てよ。要!どこ行くんだよ」
要は振り返って、手を差し伸べた。
「・・・日高先輩っていうのは、今日も研究室にいるの?」
春樹は差し出された手にすがることも出来ず、その場に立ち尽くしてしまった。
顔の表情がなくなっていく春樹に、要は眉間に皺を寄せたまま説明する。
「前に、暁先輩が言っていたこと、進藤は覚えてる?」
「なんのこと・・・」
「恋人寝取られたっていう噂があったこと」
春樹の頬がぴくりと引き攣った。
「それってもしかして・・・」
「うん。多分、日高先輩の恋人は、船田先輩なんじゃないかな」
要の言葉に頭を鈍器で殴られたような、ぐらぐらと目の前が回るような感覚に陥る。
暁のセックスフレンド発言や船田の赤平から受けたレイプの話で十分、同性間の感情でも
起こりうることを知ったはずなのに、その衝撃はやはり逃げ出したくなるものだ。
自分が要という恋人を有しているというのに。
「真逆・・・」
自然と震える声になる。数式の解答だけ与えられた答えに困惑してしまう。どうしてそうなるのだ。
結論を急ごうとすれば、ぱくぱくと口だけが虚しく動く。
要はそれに首を振って治めた。
「確かめるまでは、はっきり言えないけど。赤平先輩と日高先輩の根底にある恨みとか、赤平先輩の
船田先輩への仕打ちとか・・・そんなことを考えると、いやでもそこにたどり着いてしまうんだ」
要も苦痛の面持ちになる。
春樹は俯いた。どうして真実っていうモノはいつも受け入れ難いのだろう。それでも、自分の目で
全てを確かめると決めたのは自分だ。
最後まで見届ける、その一心で春樹は顔を上げた。拳を握り締める。
「日高先輩、研究室にいると思う・・・」
春樹の痛いほどに握り締めた拳の上から要の手がやんわりと包み込む。春樹にはそれだけの事で、
どきまぎしてしまう。
要はその手を引いたので、春樹の顔は要の肩に埋まった。柔らかく背中を摩られて、身体がひどく
強張っていたことを知る。
要の心臓の鼓動が春樹にも伝わる。お互い、どちらが打っているのか分からないほど、心音は乱れ
ていた。
肩の上で深呼吸を繰り返す。止まりかけていた思考がやっと流れ出す。
春樹は顔を上げると、間近で要の顔を見る。
「なあ、船田先輩が庇ってるって・・・」
要は伏し目がちに言った。
「・・・多分、船田先輩が庇ってるのは、日高先輩だよ」
要の腕から離れると、春樹は思わず走り出していた。
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