なかったことにしてください  memo  work  clap
天 球 座 標 系



 日曜日は宵のうちから晴れていて、余計に寒さが増した。春樹は昨夜遅くに、要の部屋を後に
してから、殆ど眠れずにいた。
 炬燵の上には開かれたノートパソコンがスクリーンセイバーが掛かったまま、起動しっぱなし
になっている。
 日増しに考えることが増えていく二つの出来事を、上手く切り離せないまま、春樹の頭は混乱
していた。
 赤平の事件は未だ犯人も特定されず、調査の状況も、こちらには聞こえてこない。夜のニュース番組
でも続報を伝えていたが、赤平の人となりや、生い立ちばかりを紹介しているだけで、具体的な調査状況
を報道しているとことはなかった。
 それだけでも頭を抱えたい事件なのに、要には要で、厄介な事件が降り注いでいる。黙り続けていた
宇宙の家出の理由。それは、宇宙だけでなく要にすら心の傷をえぐることになった。
『人殺しの息子』
粕谷はただ、父親が火事に巻き困れて死んだことに対してそう言ったに違いないが、要には、別の
意味で「人殺し」が映ったはずだ。
 腹部に向かって刺さった凶器。そこから溢れ出す血液。そして母の狂気。
いつまでたってもその恐怖からは逃れられないのだろう。要が落ち込んでいるのは手に取るように
わかった。
 春樹は炬燵机から顔をもたげると、ノートパソコンのスクリーンセイバーを解いた。
画面に映るのは、昨日持ち帰ったプログラムファイルだ。このファイルが何なのか、春樹は気になって
昨日の夜に一度試しに実行させてみた。
 ウイルスプログラムだとか、ハッキング用のものだったりとか、一瞬躊躇ったが、実行してみるしか
手はなくて、春樹は思い切ってプログラムを立ち上げたのだが、春樹の期待を裏切ってか、ファイルは
実行できなかった。アプリケーションエラーのメッセージが出たまま、そこで止まってしまう。
 春樹はそれ以上どうすることも出来なくて、画面を前にため息を吐くばかりだった。
座っていても埒が明かないのは確かで、春樹は身震いすると、大学に行ことにした。研究室に行けば
何か分かるかもしれない、そんな淡い期待を込めて。

 しんと冷えた朝の空気が肺に入ってくる。呼吸をするたび、冷たさで身が凍りそうだ。溶け出した雪を
避けながら、足元が濡れないように注意して歩く。
 大学の門をくぐると、日曜日だというのに、学生を何人か見つけた。卒論や修論の追い込みで大学に
通ってくるのだろう。実際、情報科棟の中も何人かの学生とすれ違った。
 研究室でも、既に先客がいた。
「おはようございます」
「進藤?」
「進藤君!」
振り返ったのは船田と日高だった。何かしゃべっていたようで、2人とも驚いた顔をして春樹を見た。
 珍しい組み合わせに春樹も驚く。研究室でこの2人がしゃべっているのを見るのは初めてじゃないだ
ろうか。
「今日も来てたんですね」
「追い込みだからね、卒論。進藤君はどうしたの」
「ええ、まあ・・・」
春樹は部屋にはいると、持っていたバックからノートパソコンを取り出す。
「実は、ちょっと先輩にも見てもらいたものがあって」
春樹はノートパソコンを立ち上げて、昨日サーバーから取り出した見覚えの無いプログラムを開いた。
「昨日、サーバー整理してたら、このフォルダが俺のところに置いてあって。・・・何かのプログラムみたい
なんです。でも、ためしに起動してみたんですけど、エラーで立ち上がらなくて」
 そう言って春樹は2人にノートパソコンの画面を見せる。2人は画面をのぞいた。日高も船田もじっと
その画面を見詰めて何かを考えていた。春樹が不信に思って声をかけると2人は直ぐに首を振った。
「間違って進藤のところに入ってたのか?俺のじゃないと思うけど。立ち上がらないんじゃ、何のプログラム
かもわかんないな」
「・・・僕にも見覚えないなあ」
それが、何故だか白々しく聞こえて、春樹は直感的にこの2人は何かを知っているのではないかと思った。
知っているのにも関わらず、白を切るのだとするなら、これ以上詮索しても2人から得られるものは無い。
春樹は素直に引き下がった。
「そうですか。一体誰がこんなもの俺のトコに置いていったんだろうな」
春樹がノートを閉じながら言うと、日高が皮肉そうに笑った。
「案外、赤平の形見だったりしてな」
「な・・・」
「冗談だ」
驚いて日高を見れば、直ぐにもとの顔に戻っていた。この人間の考えていることはやはり分からない。春樹が
ノートパソコンを鞄に仕舞うと、その隣で船田がぼそっと言った。
「解析でもしたらわかるかもね」
「・・・そんなこと、できるんですか?」
「どうかな・・・」
春樹は後期の授業でコンパイルやらアセンブラやら言語処理やらの講義をいくつか強制的に取らされているが、
実のところあまり分かっていない。
 高度すぎて着いていけないと弱音を吐くと、板橋辺りは、「オタク向け授業だから諦めな」と言って
慰めてくれるが、今後必要になると言われると、あっさりと捨てるわけにも行かず、赤平などに教えてもらう
こともよくあった。
 プログラムを解析するということが、実際どのような作業なのか春樹にはいまいちぴんと来ないが、板橋
あたりなら、何か分かるかもしれない。彼は一流のオタクだと春樹は思っている。
 そう思えば、ここにいる必要はもうなかった。春樹は一刻も早く帰って、板橋を捕まえることだけに
頭が動く。
「・・・先輩達のものが間違って混ざってたら困ると思って来たんですけど、そうでもないみたいなので、
俺、今日は帰ります。他の先輩でも、もし誰かファイルがなくなったっていう人がいたら連絡ください」
「なんだ、それだけの為に来たのか」
日高が呆れて春樹を見る。
「電話でも連絡してくれたらよかったのに」
「ははは、そうですね。でも大学に来たら何か分かるかと思って。俺のアパート大学から歩いてすぐだし」
電話よりも実際顔をみて反応を確かめたかったなどということは、絶対の秘密だ。このプログラムの
意図するところが見えない今は、誰にも手の内を見せるわけにはいかない。
 少なくとも、この2人には何か知っている節がある、それだけで今のところは十分だった。
春樹が帰ろうとする素振りを見せると、日高が突然別の話題を振ってきた。
「そういえば、赤平の事件で、ヒ素が使われたって言ってただろう?」
「はい」
「工学部のヒ素扱ってる研究室、全部調べられたらしい」
驚いてその顔を見たのは春樹だけではなく、船田も日高を見ている。驚いているよいうより、怯えている
ように近いと思ったのは、春樹の主観だろうか。船田が赤平が殺された日に大学で目撃されたなどという
のせいで、春樹がそう見えてしまったのかもしれない。
「・・・まあ、普通はそこから調べますよね」
「でも、工学部のどの研究室からもヒ素が紛失したっていう情報は出なかったんだってさ」
春樹は驚いて日高の顔を見る。そういった情報をどこで手に入れてくるのか。そして、そんなことをわざわざ
気にするようなタイプには見えない日高が、何故自分にそんなことを話すのか。
「・・・そういう噂だよ、噂。さっき石川研のヤツがそう話してただけ」
「犯人はどっからヒ素なんて調達してくるんでしょうね」
「さあねえ」
「やっぱり、内部犯・・・なんでしょうか」
「内部ねえ」
どこまでを内部犯っていうんだろうな、日高はそういいながら自分のデスクトップの方へ向きを変えて
しまった。もうこれ以上は話すつもりはないらしい。
「引き止めて悪かったな」
そう言った後は振り返ることなく、自分のプログラムに没頭し始めた。
 春樹は隣の船田を見る。船田は無表情のまま、手元の資料を丸めている。
「船田先輩?」
「あ、ああ。僕も、卒論、詰めないといけないから」
やや引きつった笑いで返すと、船田も自分のパソコンの前に戻っていく。春樹はその不可解さを抱え
ながら、研究室を後にした。


 気を急いて向かった板橋の部屋は、空振りに終わった。チャイムを鳴らしても出ない。仕方なく電話を
かければ、出かけているとのことだった。
 帰ってきたら連絡するように告げて、春樹は二つ隣の自分の部屋に戻る。
炬燵に潜り込むと、どっと疲れが出た。
見えないことへの苛立ちと、そこに隠れている真実を知ったときの不安。それでも春樹は、自分の手で
赤平の死の真実を知りたいと願うし、引く訳には行かなかった。
 鞄から、ノートパソコンと、研究室のメンバーの名簿を取り出す。
名簿を見ながら、春樹は名前の隣にチェックを入れていく。小林助教授の言葉を信用する限り、そして
赤平が自分で中から鍵を掛けなかったという前提をつくると、この名簿の中に犯人はいる。
 制約下での犯人探しは的外れかもしれないが、春樹は警察ではない。身近なところから調べて、潰して
行くしかない。
 春樹は名簿の3年生に全て×印をつけた。彼らは鍵を持っていないのが唯一の理由だが、取りあえずは
それだけで外した。まずは一番怪しいと思う人物から当たった方がいい。
 そうして、院2の2人と、4年の2人も消す。自宅にいたアリバイを証明できるといったあの言葉を、春樹は
信じることにする。×印の隣にアリバイと書き込んだ。
 残るは、純子、日高の院1の2人と、船田。そして、何故か赤平の鍵を持っていた暁の4人だ。皆それぞれに
何かを隠し持っている気がするが、それが赤平の死とどのような関係があるのか春樹には想像もつかない。
 怪しさで一歩リードしているのは船田だ。事件当日の目撃や、先ほどの態度。何かを知っているはずだ。
そうは思っても、春樹には船田から聞き出す手駒がない。
 いい手が思いつかないまま唸っていると、春樹の部屋のチャイムが鳴った。
のそのそと炬燵から抜け出して、玄関を開ければ、そこには真っ白い顔をした要が立っていた。
「よう」
「ごめん、突然来て」
「いいけど。まあ、上がれよ」
春樹は努めて明るく声をかけたが、要は小さく頷いただけだった。要の身長は未だ伸び続けているらしく
入学当初は僅かに春樹の方が大きかったが、3年になってからは春樹よりも5センチも高くなった。しかし、
その身体も今は小さく見える。
 要は黙って春樹の後に続いた。炬燵に身体の半分まで潜り込ませて、開いていたノートパソコンに
目を遣る。
「課題?」
「いや・・・」
春樹はポットからお湯を淹れて、インスタントのコーヒーを要の前に出す。要はそれを受け取ると、首を
かしげた。
「・・・謎のファイル」
春樹は詳細を語った。隣にある名簿を渡して、×印の付いていない4人の名前を告げる。しかし、その
関係は未だに点のままだった。
「板橋が帰ってきたら、解析でもして貰おうと思ってさ。あいつ出かけてるみたいで」
そういうと、要は目を瞬かせた。
「・・・板橋なら、部屋にいたよ」
「は?」
「さっき行ったら、居たよ」
「なんだよ。帰ってきたなら、言えってーの」
背もたれ代わりのベッドに背を着くと、春樹は携帯電話に手を伸ばす。板橋の番号を出して、電話を
掛けようとすれば、要がそれを制するように言った。
「今、宇宙がいるんだ」
春樹の手も止まる。
「さっき、板橋の部屋に行って、3人でしゃべってて。僕が出てきたんだ。今頃2人でゲームでもしてる
んじゃないかな」
「そう・・・」
板橋の部屋で遊んでいた宇宙は少しだけ世界の重圧から逃れられた顔をしていた。今は粕谷からも要から
も距離を置いた方がいいと、要は思っているのだろう。
 板橋に宇宙を預けたのも納得が出来る。
春樹は携帯電話を畳むと、机に戻した。
「宇宙、どんな様子?」
「相変わらず、かな」
受け取ったコーヒーに口をつけて、要は春樹を見る。
「母さんのこと聞かれた」
「なんて」
「母さん、どんな人だったかって」
要は母親の事を今でも思い出すのだろうか。一番最後に一番最悪な思い出を作っていった母。今でも
こうやって要を苦しめる母親が春樹には少しだけ憎い。
 どうして、息子よりも自分の欲望を優先してしまったのか。そこまで切羽詰った状況だったのか。
春樹が口を出せるはずもなく、そして今更それを言ってもどうしようもないことは分かっているが、春樹
には、悔しくてたまらない。
「母さん、なんで、あの人だけ、つれて行っちゃったんだろうな」
マグカップを置くと、要は頭を抱えた。宇宙の出現だけでも頭が一杯なのに、杉下の息子まで現れて、
要は自分がどうしていいのか分からなくなっている。
「そうやって、聞かれる度、宇宙が隣にいるだけで、僕は追い詰められていくんだ。なんで母さんを
救えなかったんだ、なんで星夜を救えなかった、なんで自分だけ助かって、のうのうと暮らしてるんだって」
「そんなこと・・・」
「・・・そんなこと、勿論一言も言わないよ。言わないけど、感じるんだ」
「要・・・」
「僕や宇宙は、やっぱり人殺しの息子なんだ。僕が止めなかったから・・・あの時、僕さえ止めていれば
宇宙やあの子の人生だってめちゃめちゃになったりしなかったのに」
「そうじゃないだろ、お前だって、あの時は精一杯だったんだろ?」
「でも・・・!きっと止められたはず。・・・なんで止められなかったんだって、あの子達に無言で迫られて
いる気がして。宇宙は一体僕に何を求めてるの?なんで僕の傍に来たの・・・」
要は不安なのだ。自分があの中で共犯者だと思い込んで、その所為で不幸になってしまった子ども達が
自分のことを恨んでいると感じている。
「もう、僕を解放してほしい・・・」
顔を上げた要に、一筋の涙が落ちる。
「・・・宇宙が重荷なんだ」
その一言に、春樹が反応した。
「馬鹿」
春樹はあまりの気持ちの高ぶりに、思わず手が出た。ぱしっと軽い音が要の頬を鳴らす。叩いた自分に
びっくりして、春樹は慌てて手を引っ込めた。
 要は頬を押さえて春樹を見る。赤く充血しきった瞳からは次々と雫が零れ落ちた。
「進藤も僕の事、そうやって拒むの?」



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