天 体 観 測
大きく一つ呼吸を整えると、春樹はS大学の門をくぐった。
市内のホールで入学式を終え、その足でS大に戻ってきたのだ。式の中で学長が大学は高校とは
あらゆる面で違うという話を永遠としていたように思う。春樹はそれをさして得るものもなく聞いた。
式は退屈で、感動もなかった。春樹は隣に座った女子学生に2,3言何かを話しかけられた気がしたが
それを適当にやり過ごし、式が終わると同時にホールを後にした。
そのまま歩いてS大にまで戻ると、S大は既に新入生や在校生でごった返していた。沿道には
サークル勧誘のための在校生の列が出来、プラカードや着ぐるみを着た学生が通りすがる
スーツ姿の学生を盛んに勧誘している。
春樹はそれの全てを拒絶しながら真っ直ぐと進んでいく。時々人にぶつかりながら、目的の
場所まで黙々と歩いた。
松本市は長野県の中では比較的春の訪れが早いのではないだろうか、春樹は自分が思っていた以上に
春めいている景色に驚いている。桜の花びらは膨らみかけているし、吸い込む空気もどことなく
甘い春の香りがする。
白馬などの豪雪地帯を想像していた春樹にとって拍子抜けした気分だった。それでも、遠くの山を
見渡せば、白化粧した山々が連なり、厳しい冬の名残を見せ付けている。
東京から離れ、一人この新天地で大学生活を始めるに当たっては申し分のない気分だった。
「進藤?」
春樹は自分の名を呼ばれ、一瞬はっとする。
だが名前など、呼び掛けられるはずのないこの地で、自分を呼ぶわけはないと思い直し
その声を無視して歩き出す。
声は、先ほどよりも大きく春樹の名を呼んだ。
「おーい、進藤だろ?進藤春樹!」
フルネームで呼ばれると、さすがにその「進藤」が自分を指していると自覚せずにはいられない。
春樹は不信に思いながらも声の方を振り返った。
「やっぱり、進藤だ」
見覚えがない、とっさにそう思ったが、相手は自分をはっきり認識しているようだった。
声の主はにっこりと笑った。背丈は春樹とほぼ同じくらいか、わずかに2,3センチ春樹よりも
小さいかもしれない。
色白の肌に、くっきりした二重の瞳がすっと細くなって笑みを浮かべている。スーツの
胸ポケットに花が挿さっているところを見ると、相手も新入生らしい。よく見ればネクタイの
結びも、どことなくぎこちない感じがする。それでも、ダークグレーのスーツは新入学生に
してみればわりとよく似合っている感じがした。
「まさかとは思ったけど、同じ大学だったなんて、びっくりしたよ。こんな偶然ってあるんだ。
でも、進藤、小学生の頃から全然変ってないね」
(じゃあ、お前は全然変っちまった誰か、なんだな・・・)
春樹はぼんやり小学生の頃のクラスメイトを思い出してみるが、目の前の男とかぶるような
人間を思い出すことができない。
「あのさ、すっげー悪いんだけど、名前聞いてもいい?」
恐る恐る春樹が問い掛けると、声の主から作っていた笑みが消え、幾分トーンを落とした声が
返って来た。
「・・・そっか、ごめん。覚えてるはずないよね。僕、進藤の姿見つけて、1人で浮かれてた」
「あ、いや、名前聞けば思い出すかもしれないし・・・」
春樹は頭をかきながら言い訳を繕う。
「・・・僕、望月要っていうんだけど」
知ってるかな?という言葉は春樹のあーっという叫び声でかき消された。春樹は少し興奮気味に
しゃべる。
「お、お前、要か?」
「覚えてる?」
「・・・勿論、覚えてるって。っていうか、お前、あの頃と全然違うから、名前言われなきゃわかんねーよ」
声の主――要は、自分の手のひらを広げて見つめた。
「そんなに、変ったかな」
「全然。別人みたい、ってまあ、お前が転校してから8年も経つんだから、変っててもおかしくないよな」
要は途端、ぱあっと顔を明るくして、先ほどよりももっと明るい笑みを浮かべている。
「ホントに覚えててくれたんだ」
「あんな風に別れて、忘れられるわけないだろ?」
春樹の脳裏に蘇るのは8年前の燃え尽きたアパート。嘗て要が住んでいたはずのそれは、真っ黒な
骨組みだけを残し、全てが灰となって消えた。
そして、それから二度と会えなくなった要を、春樹は夜空を見上げるたび、思い出した。
「・・・ごめん、何も告げずに、転校しちゃって」
春樹は目を閉じた。目の前の端正な顔をした青年が望月要だという現実を受け入れるのに、
深呼吸3回分くらいは必要な気がする。
こんなところで、出会えるとは思っていなかったが、こんなところだから会えたのだろう。戸惑いは
次第に、嬉しさでかき消されていく。
春樹は要を見て、照れくさそうに笑った。あの頃と、視線が違う。見下ろしてしゃべった要はもう
どこにもいない。自分にも、要にも多くの時間が流れていたのだろうと、春樹は思った。
「いいよ、もう。初めは正直、ちょっとショックだったけど、こうやってお前にまた会えたし、さ」
「覚えててくれて、ありがとう」
「俺、物覚えいい方じゃないけど、要のことは絶対忘れない自信があったんだ。S大来たのも、
要の言ったことのせいだし」
「そうなの?」
春樹はばつの悪そうな、それでいて、嬉しそうな顔で言った。
「・・・お前が、長野に行けば、満天の星空が見れるっていうから・・・」
「だから、S大に入ったの?」
「ああ」
春樹は浅黒い顔を赤くしながら頷いた。要は驚きと戸惑いと溢れんばかりの喜びの表情で、春樹を
見つめる。
「・・・進藤、ホントに全然、変らないね」
「俺、昔から、『お前って昔から全然変らない』ってよく言われる」
確かに、春樹の体格は成長期にあまり成長しなかった。要と別れた5年時にはすでに160センチあった
大柄な体格は、年とともに標準になり、そして、けして大きくはないと形容される部類になってしまった。
「俺、小5で160まででかくなったけど、あれから9センチしか伸びてないんだ」
「僕、転校してから25センチ伸びたよ」
あの頃、軽く頭一つ分あった身長差は今では殆どない。おまけに要はあの頃の暗く、おとなしいといった
形容を見事に払拭するほど、社交的な佇まいをしている。
春樹はまっとうな成長期を遂げた人間を尊敬と羨望の眼差しで見た。
「成長するやつは、成長するんだなー」
「進藤は、あの頃から大人だったもんね」
「ばか、今でも子どもだってーの」
そう言うとお互い笑った。
「ところで、進藤、どこ行くつもりだったの?・・・なんだか、すごい勢いで歩いてたけど」
「あ、ああ、そうだった。学生センターに行こうと思って」
「学生センター?」
「ん・・・。自動車学校の申し込みに行こうと思ってさ、なんだっけ、Mモト自動車なんとかって
いう所でさ、先着20人、料金30%オフって、朝チラシ貰った」
春樹はスーツのポケットから貰ったチラシを要に差し出す。
要はそれを一瞥すると、すぐに春樹に返した。
「余計なお世話かもしれないけど、ここはやめたほうがいいよ。この自動車学校、入学金やら
講習料は割引にするくせに、なかなかクリアさせてくれなくて、追加料金とってきたり、
結構、あくどい事してるらしいよ」
「知ってるのか?」
「地元だもん」
「・・・要、もしかして、自宅生?」
「うん」
春樹は呆然として、要を見た。星空を追いかけて長野に来たら、要に会った。要はずっとここに
いたのだ。
「そっかー。地元の人間が評判悪いって言うなら、やめようかな・・・。せっかく安く取れると
思ったんだけど」
「進藤は、早く免許取りたいんだ?」
「だって、お前、ここ、車がないと、どこにもいけないんだぜ?」
「まあね」
要は苦笑いした。
春樹が松本に来て真っ先に驚いたのは、交通網の違いだった。歩けば必ずどこかの駅にたどり着く
東京と違って、駅まで行くのに何十分と掛かる。代わりにバスに乗ろうと思ったが、肝心のバスも
本数が少なく、そして料金が高い。
街行く人がどうして車にばかり乗るのか、春樹は改めてその理由を実感した。車がなければどこにも
いけないのだ。
春樹の実家には父親の車が一台あるが、この車は日曜に家族で出かけたり、大きな荷物を伴う
買い物をするときくらいにしか使われない。
それに比べ、こちらでは、大人1人に1台というのが当たり前らしい。車がなければ、遊びも買い物も
通勤だって出来ないのだそうだ。
引っ越して3日目に春樹はそれが本当のことだと実感した。自転車で片道5キロかけて家具やら
生活雑貨を買うために駆けずり回るのに耐えられず、自分もさっさと免許を取ることに決めたのだ。
「じゃあ、僕が免許取ったところ、紹介しようか?多分、紹介割引とかあると思うし。30%もオフ
にはならないと思うけど、あそこはまともだったから」
「なんだよ、要、免許もってんの?」
「うん。大学受かってすぐに取った。・・・だって、車ないと、不便だもん」
要は悪戯な目つきで春樹を見て笑った。春樹はやっぱりそんなもんだよな、と呟やく。
春樹が要から自動車学校の話を聞かされていると、後ろから颯爽と歩いてくる人間がいた。
その人間は、春樹たちの後ろでぴたっと止まり、滑舌のよいしゃべりで要の名を呼んだ。
「望月、入学おめでとう」
春樹と要がほぼ同時に振り返ると、そこには爽やかに微笑む青年の姿があった。
「あ、一真先輩」
要は一真先輩と呼んだ青年に軽く会釈をする。春樹もなんとなく頭を下げた。
「友達?」
「あ、はい。小学校の同級生に偶然再会して」
「そう。じゃあ、君もS大生?」
「はい」
「うん。入学おめでとう」
一真は春樹にもにっこりと笑いかけた。人当たりのよさそうな笑顔だった。垢抜けた感じが
するのは、上級生だからなのだろうか。要が先輩と呼ぶからには上級生なのだろうと、春樹は
思うが、彼が一体幾つなのか、春樹には読みきれなかった。
「一真先輩は、僕の高校の先輩なんだ。っていっても、一緒に通ったことはないんだけど」
「・・・?」
「ああ、だからね、部活のOBなんだ」
「はじめまして。理学部4年の彦坂一真(ひこさかかずま)です。望月とはね、高校が一緒で、
俺が部活に顔を出したときに知り合ったんだ」
「あ、俺、進藤です。進藤春樹。工学部です」
「え?進藤、工学部なの?一緒だ」
「何、要も工学部なのか?」
「うん。偶然だね」
「そうかー、2人とも、工学部か・・・」
その反応をみて、一真が声のトーンを幾分落として呟いた。
「あの・・・工学部だとなんかマズイんですか?」
「ああ、いや、別にマズイことなんてないけど、工学部って2年から長野市にキャンパス移る
だろ?」
「そうみたいですね」
春樹はよくよく調べずに大学に入学したせいで、S大のキャンパスが長野県中に点在している
ことを知らなかった。学部ごとにほぼキャンパスが分断され、ここ松本キャンパスは1年の
教養部と理学部と文学部を有している。春樹たち工学部は2年次には長野市に移らなくては
ならないのだ。土地が確保できなかったのか、その理由を春樹は知らないが、1年しか経たない
のに、また引越しをするなんて、考えただけでげっそりした。
「一真先輩?」
「ああ、実は、サークルの勧誘だったんだけど、1年しかいられないなら、こっちで無理に誘う
のも悪いかなって思ってさ」
「サークル、ですか?」
「そう」
一真は要と春樹に手にしていたチラシを渡した。ピンク色の紙に「天文サークル」とゴシック体の
文字が印刷されている。その下には、「星空を眺めながら、星座の一つでも覚えて、ロマンチックな
デートに活用しよう!」とどこまでが洒落なのかわからないあおり文句が付いていた。
「天文、サークル」
「うん。天文部みたいに、部活じゃないから、望遠鏡で星座を観測して、どうのってわけじゃない
んだけどさ。とりあえず、星見ながら集まってしゃべって、楽しい夜を演出しようって感じの
軽いサークルなんだけどね」
まただ、また、要が星を呼び寄せる。いや、星座が要を呼び寄せているのだろうか。この奇妙な
連鎖に春樹は鳥肌が立った。要の方を見やると要と目が合った。
そして、どちらともなく頷くと、「入ります」と声をそろえて言った。
「ホント?よし、じゃあ、さっそく、サークル棟までおいで。女の子もいるから、一年しかないけど
きっといい出会いが見つかるよ」
一真はそういうと、くるっと踵を返し、軽い足取りで先を歩いていった。多分これからサークル棟に
連れて行かれるのだろう。
春樹は要を見た。
「よかったのか?」
「ああ、うん。お世話になった先輩だし。星、見れるし。進藤は?」
「ああ、俺も、どうでもいいよ、サークルなんて。まあ、お前いるし、面白いかもな」
そういうと、春樹は要と一緒に一真のあとを追って行った。
<<3へ続く>>
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