天 体 観 測
築20年以上は経っている木造アパートの2階に要の家はあった。外付けの階段を足音を
立てないように素早く上り、こっそりと玄関のドアを開ける。アパートは6畳2間に小さな
キッチンが付いた質素な作りで、向かって左側が要や弟達の部屋に割り当てられていた。
右側にはキッチンとリビングに使っている部屋があり、こちらは明かりがついており、隙間から
漏れてくる声で、母が男となにやら言い争っている声が聞こえた。
このところ、会えばいつも言い争いになっているその男は、杉下という名前だったと思う。
双子の弟、宇宙(そら)と星夜(せいや)の父親であるが、戸籍上はどうなっているのか、
要は知らない。
要は弟達が眠る部屋に音を立てないように入る。星座早見版は机の上に置きっぱなしにしたまま
になっていた。弟を寝かしつけるときに机の上に置いて、そして忘れてしまったのだ。要は
弟達の間を縫うように歩いて机の上の星座版を手にした。
(これがあれば、はくちょう座も進藤に教えられる)
そう思うと、心が弾んだ。きっとびっくりする。学校の裏山は東京では割と暗いところで、
少なくともはくちょう座の形ははっきりと確認できるはずだった。
要は緊張と興奮で踊る胸を落ち着かせ、もう一度弟達の間をすり抜けた。
途中、弟の宇宙の腕を蹴ってしまい、宇宙が小さく唸った。
(あ、やばい…)
宇宙が起きて泣き出す前に部屋を出て逃げなければ、母親に見つかってしまう、そうなったら
進藤との約束が果たせなくなる、要は素早く部屋の外に出て、靴を履いた。
ちょうどその時だった。
ガチャンと食器の割れる音が立て続けに3度鳴り、その後に甲高い声で猛烈に何かを叫ぶ
声がした。母の声だとは思えない声だった。要は初め何が起きているのか分からなかった。
ただ、扉一枚隔てたこの奥で大変な「何か」が起きていることは確かだった。
そのまま確かめずに家を出ることはできず、要は母親達がいる部屋のドアをゆっくりと、
そして気が付かれないように開ける。叫び声は一層大きくなった。
母親が発狂している姿を見て要は硬直した。それは今まで見てきたどの母親とも違っていた。
目の前に広がる光景をまるでスローモーションを見るかのように要は見ていたが、それを
認識するまでにかなりの時間を有した。
叫ぶ母の手には包丁が握られている。普段から、包丁は危ないから台所以外では持っては
ダメだと、使うときは、細心の注意を払いなさいと、何度も言われているその道具は、今まさに
母の手の中で凶器へと変わっていた。
男が宥めようと何かを必死でしゃべっているが、要にも、そして母にも届いていない。
母親の振りかざした包丁は、男の頬をかすめた。
ぴしっと横に入った傷から血が垂れ、男の咥えていたタバコが畳の上に落ちる。男は僅かに
放心したが、次の瞬間、般若の様な形相になって、母親に飛び掛ってきた。
「てめえ、ふざけるなよ」
壁際に追い込んで、男は母の肩を掴んだ。
「…あなた、ちゃんと言ったわよね、あっちとは別れるって、ねえ、ちゃんと言ったでしょ?」
母は虚ろな顔で同じことを何度も繰り返している。
「言ったけど、今すぐじゃねえ、俺だって俺の生活があるんだ」
「そうやって、もう何年待たせてるの?あの子達、来年から幼稚園に行くのよ?」
「うるさい」
男は逆上した気持ちを抑えきれず、揉みあいになって、やがてその手は母親の首にかかった。
「ひいっ」
要は、ぐいっと母親が持ち上がったように思った。首を締め付けられ顔が紅潮していく。
要が慌てて止めに入ろうとした瞬間、母の右手がぶんっと力強い動きで動いた。
「うぎゃあああ」
男は蛙がつぶれたような声で叫ぶと母親から手を離し、2,3歩後ろによろめいた。
男のわき腹には、先ほどまで母の手にあった包丁がざっくりと刺さっていた。白いシャツが
そこを中心に真っ赤に変色していく。男は壁にもたれかかると、そのまま、崩れ落ちた。
額から脂汗が湧き上がり、畳にぼたぼたという音をならして落ちてゆく。
「う・・・うそ、だろ・・・」
杉下は自分のわき腹に刺さる包丁を顔を歪めて引き抜いた。抜いた拍子に血液がそこから
溢れ出し、畳にしみこんでいった。掴んだ包丁が畳の上に転がる。
必死にわき腹を押さえるが一度漏れ出た血液は絶え間なく溢れ続けている。こんな時、
刺さった包丁は止血する前に抜いてはならないのだと、要はずっと後で知った。
男の息が苦しそうに上がっていく。誰に向かって発しているのか分からない。もしかしたら
既に目の前は何も見えていないのかもしれない。
「た、助けて・・・くれ・・・」
母は、放心していた。へなへなとその場に座り込むと、男の方を向いた。ここから、母の表情は
わからなかった。
要は震える身体を必死で動かし、母を呼んだ。母の後ろに立つと今まで争っていた残骸が
幾つも散らばっていた。
「かあさん・・・」
母は緩慢な動作で振り返った。
「要・・・」
「きゅ、救急車呼ばなきゃっ・・・」
要は電話を取りに玄関に向かおうとした。振り返って、踏み出した足を、母に止められた。
「要・・・あの子達のこと、お願いね」
「え?」
「母さん、だって、この人のこと、刺してしまったもの・・・」
要は咄嗟に考える。人を刺した、悪いことをした人間がどうなってしまうのか。刑務所に
連れて行かれる。罰を与えられる。人を殺したら、死刑になるのだろうか?
そんなことが頭の中でぐるぐると回りだす。母が死刑?実感もその意味も分からない。
ただ、この状況が怖くて、要は逃げたくて仕方なかった。もう殆ど動けなくなっている男と
虚ろな目をした母。
そこは母の狂気で覆い尽くされてしまった。もう、そこには正気な人間は1人もいなかった。
要でさえまともな思考ができない。
要は母を置いて、弟2人を連れてここから逃げる、そんなことを考えている。
相変わらず足が震えている。背負ったリュックが重くて仕方ない。この中には春樹と星を
見るためのグッズが詰め込まれている。このまま春樹のところまで逃げてしまいたかった。
纏まらない考えから逃げるために、要は目を閉じる。ぎゅっと堅く瞑り、自分がするべき
ことをもう一度巡らせる。
母を庇う、逃げる、進藤との約束、逃げる、弟をお願い?、いや、逃げるんだ、どうでもいい
母はどうするんだろう・・・、助けなきゃ、誰を、弟を、母を、逃げなきゃ、ここから・・・
・・・違う、そうじゃない。そんなことで悩んでいる場合じゃない。
救急車を呼ぶことが一番じゃないか。
要が混沌とした心の中から釣り上げた結論に達し、頑なに閉じた瞳を開けようとした瞬間
要の瞼は真っ赤に染まった。
「な、に・・・?」
その瞳に真っ先に飛び込んできたのはカーテンに燃え広がる火の粉だった。
「うわあああっっっ」
あまりに驚いて要はその場で腰を抜かした。
「か、か、火事・・・かあさん・・・火事っ」
母はまるで明日は雨だよと言った返事でもするように
「そうねぇ」
と振り返っていった。
「何、言ってるの・・・み、水。消化、しなきゃ・・・に、逃げなきゃ・・・かあさん・・・」
カーテンは既に半分くらいまで焼け焦げている。焦げた下の方を見ると、畳や新聞紙、座布団が
早くも黒焦げになり始めている。そこは、先ほど男が咥えていたタバコが落下した辺りだ。
男の座るあたりにも火の粉が舞って、シャツを焦がした。
「かあさんっ・・・」
「早く、行きなさい。いい?要、弟達を、お願いね」
「母さんは?ねえ、どうするの?逃げるんでしょ?一緒に逃げなきゃ、何言ってるの?早くっ」
「だって、母さんは、この人がいるから」
「やだ、何言ってるの、水、水掛ければ収まるから・・・」
要は腰がぬけたまま、立ち上がれずに、座ったままで後ずさりした。
母はなぜ逃げないのだ。なぜ、火を消さないのだ。要は母の行動が分からない。
そのうち、黒い煙があちらこちらから湧き上がってきて、あたりの温度が一気に上昇した。
壁に掛かっていた時計がぐにゃっと曲がった。そう思った瞬間に、まるで水をこぼしたか
のように壁一面に火が行き渡った。
「あ、熱いっ・・・母さん、何してるの、逃げてよ!!!」
叫ぶと煙が気管支に入って要は咽た。生理的な涙なのか、悲しくて泣いているのか自分でも
分からない。
「いいから、速く、要はあの子達を連れて逃げなさい」
母は一度だけ正気に戻ったかのようにぴしゃりと言って要を見据えた。そして、のろのろと男の元へ
近づくと、母は男を胸に抱きかかえて、嬉しそうに笑ったのだ。
「これで、あなたは、私のものよ」
母は確かにそう言った。そういって、うっとりと笑った。まるで恍惚のような笑を湛えて。
要は熱さと恐怖で吐き気を催す。自分だけでも逃げなきゃ、そう思ったときにはもう母の
姿は煙の中に消えて薄っすらとシルエットでしか捕らえることが出来なかった。
要は四つん這いになりながら、リビングを抜け出した。玄関のドアを開けて、逃げかけて
隣で眠る弟を思い出す。
ドアの前で要は精一杯叫んだ。
「そーらー!!!!せいやー!!」
煙でやられた喉はカラカラで、叫び声は上手く出せなかった。2人の弟は寝つきがいい。よほど
何かがなければ、2人ともおきてこない。
要はもう一度ありったけの力を込めて弟の名を呼んだ。
「せいやーーーー、そらーーーーーー」
はあはあ、と肩で息をしながら顔を上げると、眠そうに顔を擦りながら隣の部屋の襖の隙間から
弟が顔を覗かせている。
「・・・そらっ・・・いいから早く、こっちに来い・・・」
「にーちゃ・・?」
要は腕を伸ばす。宇宙がその手を取った。要は勢いよく宇宙を手繰り寄せるとしっかりと
抱きしめた。
「どーちたの?」
幼い弟は状況が把握できていない。要は宇宙を抱きしめたまま叫ぶ。
「せいやーーーーーーーーー」
宇宙が驚いて泣き出した。
「せいやーーーーーーーーー、でてこいーーーーーーーー!!!」
(動け、僕の身体、動け・・・)
要は星夜を助けるために、部屋に入ろうとするのだが、金縛りにでも掛かったかのように、
そこから一歩も動けない。
大声で叫ぶ子どもに、隣の部屋の住人が驚いて顔を出した。
「あんた、夜中に、なにして・・・」
部屋の中から煙が外に噴出している。
「っひいいい、火事か!119番は?誰か中にいるだ?!!」
「お、お、弟があっ・・・」
隣の住人は慌てて部屋に戻ると、家族を部屋から叩き出して、叩き出された家族は、隣人の
ドアを叩いて、火事を知らせる。
反対側の隣の部屋から、中年の親父が出てきて、驚いて119番通報する。
「要か・・・お前も逃げろ!!」
「せ、せい、星夜がっ・・・」
「中に星夜がおるだか!?どっちだ、右か、左か?」
「左の奥に・・・」
隣の親父は左側の部屋の襖を勢いよくあけた。その途端いきなり部屋中が真っ赤に轟々と燃え
始め、とても突き進める状況ではなくなってしまった。
「あああああーーーーーー、せいやーーーーーーーーー」
「くそっ・・・要、ダメだ、このままじゃ、俺達も危ない、逃げるぞ!!!」
隣の親父は諦めて玄関の外に出る。玄関でへばる要と泣き叫ぶ宇宙を両脇に抱えて、親父は
錆びた鉄の階段を駆け下りる。
「いやだーーーーーーー、せいや、せいやーーーーーーーーー」
親父のわき腹でもがく要を親父は悲痛の面持ちで抱きしめる。
「・・・っち、なんて火の回りが速いんだっ!!!」
「一体、何が起きたんだよ、おい」
「出火元、どこだよ?え?望月さんとこ?なにしてるんだよ!!!」
「誰か残ってないか?!」
「消防車は?消防車は呼んだのか?!」
アパートの住人が次々に外に飛び出して不安そうに成り行きを眺めている。一階に住む若い
男性が消火器や水で、消火を行うが、火は一向に消える気配がない。それどころか、エネルギー
を命一杯蓄えた火はあっという間に要の部屋の両隣を巻き込んだ。
「ひぃいいいいい、俺の部屋がっ!!」
「おい!!このままじゃ、アパート全焼しちまうぜ!!」
「あんた、そこの、若いにいちゃん、もういい、はよ降りてこい!!階段が焼けて降りれなく
なる。早く!!」
「くそう!!わしの家が!!!」
一つ、一つと火が燃え渡る度、人々の悲鳴が上がる。
なんてことをしたんだ、母さん。
なんで、火を消さなかったんだ!!なんで、星夜を助けられなかったんだ、僕は!!!
僕が・・・僕が・・・
人々が苦痛の叫びを上げる度に要はその現実の怖さに自分を呪った。
親父の腕から抜け出して、震える手足を自分で抱きかかえる。
(僕が・・・僕が・・・母さんと星夜を殺したんだ・・・)
遠くでサイレンの音が聞こえる。もう遅い。2階部分はほぼ全室に火が行き渡ってしまった。
(僕が・・・この家を・・・)
最後に見上げた空は、真っ赤に染まっていた。
デネブの姿は見えるはずもない。
(進藤・・・ごめん・・・約束してたのに・・・)
段々と近づいてくるサイレンの音を聞きながら、
要の意識はそこでぶつりと途切れた。
<<9へ続く>>
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