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全ては覇者の寵愛を受け、汝、その僕となれ---







1995年夏。





また嫌な夢を見た。
幼い頃の他愛のない一場面だ。コントロールのよい球を投げる悠。バッターボックスで
その球を迷い無く振り切る亮太、そして、がっくりと肩を落としながら、球を追いかける慎吾。
康弘が慎吾に「早く走って取って来いよ」と大声で叫んでいる。キャッチャーの満は立ち上がって
眩しそうにその姿を見あげた。
 翔はファーストベースで亮太が駆け抜けるのを、尊敬と羨望と少しの優越感の元に眺めている。
『リョウはすごい、俺の幼馴染は、こんなにも野球が上手い』二塁に進む背中を見ながら翔は思う。
ごくありふれた少年達の野球ごっこだ。そして、小学校を卒業するまで幾度となく続けた遊び。
ただ、楽しくて、それが全てだったあの頃の思い出。

 翔は枕元の目覚まし時計を手にすると時間を確認した。時刻は6時を少し過ぎたところだった。
「ちっ」
目覚めるには少しだけ早い時間に、睡眠を切り取られた口惜しさで翔は舌打ちした。
 時計を元に戻し、もう一度目を閉じる。目覚ましがなるまでの数十分を眠りに当てたかったのだ。
だが、一度目覚めた脳は、すっかり覚醒してしまい、次から次へと思考がとめどなく流れてくる。
 こんな夢を見ると決まってこうなる。目覚ましより少しだけ早く覚醒して、後は、思考の袋小路。
ベッドに横になっていれば、止まらない思考に反吐を掛けたくなる。たまらなくなって、翔は起き上がった。
 壁を背にベッドの上に胡坐をかく。眼鏡もコンタクトもないので、世界はぼやけて見えるが、
手探りで枕元のタバコと灰皿を引き寄せる。ボックスから1本取り出すと、吸い口を軽く吹いて咥えた。
『お前、タバコなんかすってんのか?体力なくなるから、やめろよ』
まじめな顔をして非難した亮太の姿が過ぎった。
『俺、もう野球、しないし』
そんな亮太の忠告を翔は軽くあしらった。そう、もう野球などしない。亮太とは同じグラウンドには
立たない。同じ道は歩まない。
(いや、歩めないだけだ・・・)
手馴れた手つきでタバコに火を付けると、ゆっくりと息を吐いた。メンソールが肺の中に染みて、
一気に目が冴える。
 母親には何度も忠告されているが、到底やめる気にはならない。既にニコチン中毒になりつつある。
翔がタバコを吸うことに、慎吾や悠は勿論、あの満でさえもいい顔をしなかった。
「タバコ吸うなら帰れよ」
もっとも、寮生活の満には、部屋にタバコの匂いが付くわけにはいかなかったという理由があるのだが。
 元々、酒でもタバコでもよかった。身近にあるのなら、ドラッグに手を染めていたかもしれない。とにかく
中毒になれるものがあるのなら、翔には何でもよかったのだ。
 そうして、逃げているときだけは、自分のフィールドを確保している気がしていた。気休めでも錯覚でも
自分を騙していられるのなら、翔は永遠に逃げ続けたかった。
 幼馴染の天才から。


 初めて亮太に出会ったのは、物心着く前だった。母親同士が小学生からの友人ということもあり、
翔は生まれたころから、亮太と一緒だった。
 亮太の父は熱狂的な「大洋」ファンで、万年最下位の弱小チームをこよなく応援していた。そして
亮太が3歳になったときから、「英才教育じゃ」と言っては、亮太に素振りをさせるという熱の入れようだった。
父は亮太を「将来、横浜大洋ホエールズを日本一にする男」と信じていた。その後、大洋の球団名が
横浜ベイスターズに変わり98年の劇的な日本一を迎えた時は、「亮太がプロになるまで優勝すんじゃない!!」と
観戦していたテレビに向かって吠えたほどだった。
 そんな亮太の父の影響からか、自然と翔も野球っ子として亮太と同じ様に育った。亮太の家に遊びに行けば
キャッチボールや、プラスチックのバッドでビニール製のボールを打ったりした。2人ともそうやって亮太の父に
遊んでもらうことが大好きだったし、亮太の父も
「翔のボールはコントロールがいいなー」
と言って、何度も褒めてくれた。亮太も翔もどんどんと野球が好きになり、そして上手くなった。
唯一つ決定的に違ったことは亮太には天性のスラッガーとしての才能があったことだった。
 彼の父をして、「天才バッター」と言わしめるほどの才能を、遺憾なく発揮するのはその二十年も
後のことだが、少なくとも翔は、亮太の天性の質を早くから見抜いていた1人だった。
 翔は、小さい頃から器用だった。何事もそつなくこなす。練習しなくても、勉強しなくても、そこそこ
できる。ちょっとやれば大抵のことは出来る。しかし、そういう小回りの効く分、大胆なことは苦手だった。
 そして、翔は自分の力量を正しく理解していた。小学生の間は、
「リョウはすごい。一緒に野球が出来て、すげー楽しい」
と、純粋に思っていたことが、年を重ねるたび、
「リョウはすごい」
だけが残り、そこに自分が一緒に並べていけなくなることをひしひしと感じていた。
 意気揚々として一緒に入った野球部も、中学3年の最後の夏は、苦痛でしかなかった。ただ、それは
周りの人間には理解できなかったようだ。亮太は当然のこと、翔も当たり前のようにレギュラー入りを
果たし、ショートは彼の定位置だったからだ。
 県下一上手いショートだと、監督も亮太も言ったものだったが、日本一のスラッガーに何を言われても
あまり嬉しくはなかった。

 中三の夏の関東大会で、亮太は一気に注目されるようになった。元々地元では超中学生級のスラッガーがいる
と、有名だったのだが、関東大会で面白いようにホームランを連発する姿に見ていた高校スカウトマンや、同級
の人間だけが注目したわけでなく、ミーハーな女子のファンがバス待ちまでするというおまけがついた。
 翔たちの中学は、毎年強豪と呼ばれる中学だったが、その年は特に「天才スラッガーとコントロールのよさと
広い守備に定評があるショートの幼馴染コンビが関東大会に旋風を吹き荒らす」と試合結果が出る度に、地元紙
には大きく取り上げられた。結果、関東大会では見事優勝旗を持ち帰ったのだ。
 そして、そこで、翔は完全に吹っ切れたのだ。
甲子園常連の小田南高に進学を決めたときには、学校中の誰もが「久瀬亮太と一緒に甲子園制覇」を目指す
ものだと思っていた。
 ところが、翔の口から飛び出してきた言葉は、
「もう、野球はしない」
だったのだから、周りはかなり慌てふためいた。そんな翔の態度に薄々気が付いていた亮太も、小田南に行くと
知ってからは僅かな望みを抱いていたのだが、高校に入って、その望みは完全に砕け散った。
「お前も知ってるだろ?小田南は駅前でバイトするのにちょうどいいとこなんだよ」
翔は高校に進学すると同時にバイトを始め、野球部の熱い誘いには一度も応じることは無かった。


 悪ガキ5人組と名づけたのは小学校2年の担任の堤教諭だった。勿論5人とは、翔と亮太、そして体は小さいが
天真爛漫な慎吾と寿司屋の息子康弘、それから年の割りに大人び過ぎた松下満のことである。
 この後、慎吾が無理矢理仲間に連れ込んだ芹沢悠を巻き込んで、翔たち6人は七根小では超が付くほど有名人
になった。
 彼等は時間があれば野球やら探検やら、秘密基地やらを作って遊んだものだった。学校中で一目置かれる
存在であり、彼等のやることは七根小の流行の最先端となった。
 新しい遊びを考えるのは満だった。それに翔と亮太が乗っかり、慎吾が回りに言いふらしながら広めた。
すると、数日のうちにその遊びはクラス中に広まり、面白いと分かると学年中に飛び火することもあった。
彼等の最大のヒットは雨の日にでも出来る室内ゲームで、それは、消しゴムと鉛筆と紙さえあれば出来る単純なもの
だったが、おもちゃそのものを持ってくると没収されるという規則をギリギリのところでかわしたこの遊びは、
七根小の雨の日の遊びとして、長く親しまれることとなった。
 満という存在は翔の中で、かなり微妙な位置を占めていた。彼は、翔以上に器用な子どもだった。やれば
そこそこ出来るという同じスタンスを持ちながらも、満はけして舞台裏を見せるような子どもではなく、時には
やらなくても出来る天才のように映ることもあった。満は自分から率先して前に出るのが好きではなかったらしく
派手なことを始めても、結局目立つのは亮太や慎吾といった根っから明るい人間なのだ。
 そういうところでは翔とよく似てはいるが、翔よりも「上手」だと翔自身思っていた。それが、何よりも翔の
自尊心を刺激し、亮太とは別のところでコンプレックスを抱くはめになっていた。

 悪ガキ5人組+1の崩壊はあっさりとしたものだった。6年の2学期に、悠が埼玉に引っ越したのを境に、中2の春に
満が大阪へ、その半年後に慎吾は父親の海外出張で1年アメリカへと渡る。
 亮太と翔の仲間というより慎吾の親友だった康弘は慎吾というつながりを失うと、自然と2人からも遠ざかっていった。
そうして、彼等はまた2人になった。

翔はタバコを半分ほど吸うと、残りはぐしゅっと潰してベッドから降りた。カーテンの向こうは朝日が
差し始めてやけにキラキラとして見える。翔は灰皿をテーブルの上に置くとカーテンを開けた。
 あまりにすがすがしい天気に翔は辟易しながら窓を開ける。6月の朝は少し肌寒かった。
誰もいないはずの家の前の通りを見下ろす。隣の家の猫が塀の上を駆け上がっていくのが見えた。
「何してるんだろ、俺」
翔は窓のサッシ部分に腰を乗せて、家の前の東へと続く道を眺める。軽く目を閉じると、
小気味よいリズムを刻む足事が聞こえてくる気がした。
『翔、迎えにきた。一緒に走りに行こうぜ』
その足音は翔の家の前で止まり、この窓を見上げそういうのだ。
『今行く』
その姿を確認して、翔は外に飛び出す。そして、2人は朝のロードワークをこなすのだ。
毎朝、朝練の前に3キロの走りこみと軽い柔軟。それを終えてから2人は朝の部活へと自転車を
走らせる。
 中学の三年間、ずっと続けてきたことだった。
あれから、一年半がすぎて、今や翔の体はすっかり鈍っていた。多分3キロ走ったらバテるに
違いない。中学の時のようなグラブ裁きももう無理だろう。
 後悔はしていないつもりだったが、どうせなら野球を辞めると同時に自分の野球の記憶も
全部消えて欲しかった。
 何も覚えていない方がずっとか楽だ。いっそ亮太の記憶ごとなくなればいいのに。
翔は閉じた目を開く。自分はこんなにも変わったのに、この道は何一つ変わらない。
静かな朝に自転車のペダル音が響いた。前のカゴに大きなスポーツバッグを載せて、小田南の
ジャージを着た青年が、翔の眺めていた道の先から勢いよく自転車を走らせている。
 翔は目を見張った。
6月だというのに、早くも日に焼けた小麦色の肌。ジャージから伸びた腕は中学の頃よりも更に
がっしりと筋肉が付いていた。
 自転車は翔の家の前で止まった。その見上げた顔も驚きの表情を隠せないようだ。翔はそれが
おかしくて、鼻で笑いながら、片手を挙げ、軽く挨拶を交わす。
「よう、相変わらず、はえーな」
「・・・お前、そんなトコで何してんの?」
「お前のこと、見送ってやろうと思って」
「翔は、俺のこと怒ってたんじゃないのか?」
亮太は高校になって一段と低くなった声をさらに細めて呟いた。
 翔は亮太と話した最後のときのことを思い出して、口を閉ざす。
(俺、コイツと二度と口を聞かないって言って走り去ったんだった・・・)
あれからもう半年も経っている。高校に入ってから、亮太と話す度に拗れていく会話。毎回、最後は
翔が押し黙るか、キレるかして険悪なムードで終わる。
 それでも、翔は自分を怒らせる亮太が悪いと自分の非を認める気にはならなかった。
「俺は、半年もお前に対して怒ってるほど暇じゃないんだ」
「そうか」
亮太の返事は真意を読み取れなかった。ただ、何か言いたそうな表情で翔を見上げる。目が合う。亮太の
黒い瞳が2,3度瞬いて、翔から視線を外した。
 言いたいことがあるなら、ちゃんと言えばいいのに。そう思うのだが、そんな翔も、結局は何も
言えないままのことが多い。
「部活・・・」
「え?」
「お前、今から朝練なんだろ?遅れるぜ?」
「あ、ああ」
亮太はじゃあな、と軽く手を振ると翔の家の前の道を右に曲がり、すぐに姿は見えなくなった。
 姿が消えると、大きなため息が出た。亮太との間に出来た溝は今やこんなにも深い。
それを埋めたいのか、さらに深くしたいのか、翔には分からなかった。




<<2へ続く>>




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