なかったことにしてください  memo  work  clap




 一塁側のベンチに座り、陽斗は歩のピッチングを見て胸をなでおろしていた。
いつも通りだ。いつもと変わらない安定したフォーム。切れのあるスライダー。コントロール
のいい速球。どれをとっても申し分ない。
 準決勝の相手は、やはりT高になった。4回戦で圧勝したT高は、この前の練習試合の時
よりも強く見えた。相手もベストメンバーをそろえている。前に見たピッチャーとは違う
人間がバッテリーを組んでるようだ。
 やはり、あの練習試合は2番手が出ていたのだろう。この前よりも強いT高を倒さなくては
甲子園は無い。
 陽斗はベンチに座りながら、勝ちたいという気持ちで胸を焦がしていた。今なら少しだけ
湧井の気持ちが分る気がする。
 特別な相手は誰にだってある。どうしても全力で潰しておきたい相手。それは陽斗にとって
タブーのような相手、金子だ。
 中学の頃、弱かった自分を散々弄んだ人間。未だに勝てない意識で縛り付けている男。
憎いというより怖い。おぞましい記憶と自分の弱さに嫌悪する。
 陽斗は相手高校のベンチに目をやった。遠くからでも金子の巨体は目に付く。金子は自信
満々な体でベンチまえで素振りをしていた。
 試合が始まる前、歩は陽斗と一言だけしゃべった。
「今日は、絶対勝つから。陽斗はベンチで見てて。陽斗を引きずり出すようなことはさせない」
「信じてます・・・・・・!」
金子を直接自分の手で倒す事は出来ないけれど、陽斗はベンチの中で歩にその気持ちを託した
つもりだった。
 私怨。K高戦の後で颯太が湧井にそう言った。自分も同じだ。金子には私怨がある。けれど
それでもいいじゃないか。モチベーションがあがってチームに迷惑を掛けないなら、私怨で
戦ってもいいじゃないか、と陽斗は半ば開き直っていた。





 円陣の中心で湧井が声を上げた。
「漸く準決勝まで来た。今日勝てば甲子園が見えてくる。・・・・・・去年はここで・・・・・・準決勝
で悔しい思いをしたんだから、絶対今年は勝つ!」
「ウッス!」
「T高、今度こそ絶対倒すぞ」
「ウッス!」
「甲子園行くぞ!」
「ウッス!」
陽斗は円陣の中で歩に無言で心を送る。ベンチで信じてると。絶対に勝ってくれると。
 誰もが声を上げてエールを組むと、一斉に駆け出す。
 プレイボールの声で試合が始まると、スタンドもベンチも一気に活気付いた。



 後攻の豊山南の1回の守備はあっけないものだった。
3者凡退。歩は誰にも塁を許さず、あっさりとアウト3つを取っていった。
 歩の立ち上がりは、いつも通りに戻っていた。ただ野球が好きで、ここに立っているという
無垢な思いと、自分がエースであるという揺らぎ無い自信。
 陽斗に尊敬されるピッチャーであり続けている事、陽斗に嫌われていないという安堵感
から、歩はすっかり立ち直っていた。
 陽斗に心を揺さぶられたその意味を深く考えないまま、歩は陽斗からの気持ち、そして陽斗
への気持ちを頭の奥に追いやった。
 野球に集中して欲しいと、自分を忘れて欲しいとまで言ってくれた陽斗の優しさを無駄に
したくない。
 今は忘れよう。そう決めてマウンドに上がった。
久しぶりの高揚感。心地よくボールが手に吸い付いて、スライダーもストレートも思い
通りに投げられている。
 今日の相手は強豪T高だけど、今の自分なら負けることは無いと、歩はオーラ全開で目の
前の打者に向かっていった。
その結果がちゃんとついてくる。
颯太はマウンドから降りてくる歩に最高の笑みを浮かべてナイスピッチングと叫んだ。
「歩、今日調子最高だな」
「颯太のリードのおかげ」
「なんだそれは。・・・・・・立ち直ってよかった」
「うん。心配掛けてごめん。颯太にも嫌な思いさせちゃって・・・・・・今日は飛ばしてくよ」
「おう!」
湧井や黒田、海野もそんな歩に小さな安堵の溜め息を吐いた。
「エース様、頼むぜ」
背中に掛かる声に振り返ると、3年生が笑っている。歩は改めて顔を引き締めて頷いた。


「ナイスピッチング!」
ベンチに戻ってきた歩に、陽斗はタオルを手渡しながらもう片方の手でハイタッチを交わす。
「球が切れてますね、今日は」
「陽斗を前に、不甲斐ないピッチングなんてやってられないもん。引き摺り下ろされたく
ないしね」
歩はベンチに座ると、既に汗まみれになっている顔をタオルでごしごしと擦った。
 スタンドからの応援の声が一層大きく聞こえる。ブラスバンドの軽快な音楽と、応援団
の図太い声。高校生のはしゃぐ黄色い声が入り混じって、お祭りとも混乱とも言えるような
状態になっていた。
「みんなアユ先輩のボールに半狂乱ですよ」
「あはは、言い過ぎ言い過ぎ。まだ1回終わったばっかりだよ」
しゃべっていると、隣に彰吾がやってきて、やはり安堵の表情で歩にナイスピッチングと
声を掛けた。
「今日はいけそうだな」
「今のところはね・・・・・・。相手も強豪のピッチャーだから、こっちは一点もやるつもりは
ない気で投げてるよ」
「どんなのが、出てくるんでしょうか」
「さあねえ・・・・・・」
そう言うと、3人はマウンドに向かう相手高校のピッチャーを注目する。
「・・・・・・さて、T高のピッチャーのお出ましだな。どんな球投げるか、お手並み拝見って
ところだな・・・・・・」






 準決勝に相応しい試合、解説者ならそう言いそうな展開になっていた。
 4回を終わったところで0対0。両校とも3塁を踏ませる事なく緊迫した投手戦が続いた。
歩のピッチングは揺らぐことなく、颯太の思い描いたコースに見事に決まり続けていて
申し分は無い。
 ただ、T高のピッチャーも相当の実力で、勘のいい彰吾ですら、その球を捕らえる事が
出来ずにいる。
「温存しておいただけの事はあるな・・・・・・」
湧井が険しい表情でベンチから眺めている。5回裏の攻撃は下位打線からだった。ネクスト
サークルに立つ歩を陽斗はやや心配な表情で眺めた。
「アユ先輩、疲れてないですよね」
「球数はそんなに行ってないだろ。・・・・・・なんとか打線、援護してやりたいけど、あの相手
ピッチャー、外で見てるより、数倍速くて切れのある球なげるからな・・・」
「左投げであのコントロール・・・・・・『プロ注』らしいですよ」
「やっぱりスカウト来てるのか」
湧井は一層険しい目でマウンドを見つめた。





 前の打者はあっという間に三振で倒れた。バットに掠りもしないで、完全に振り遅れて
いる。相手ピッチャーながら、歩はその速さと切れに感心していた。
「上手いな・・・・・・」
歩は呼吸を整えて、ネクストサークルを出た。


「お前、本当にピッチャーだったのか」
歩が打席に立つと、マスク越しに金子が歩をいやらしい目付きで見上げた。小ばかにする
ような口調に歩は顔を歪ませる。
「そうですけど、何か」
「お前みたいなチビがエースなんて、豊山南も終わってるな」
鼻で笑ったのが歩のところまで聞こえた。
「俺がエースで何か悪いですか?!」
歩は思わず金子を睨みつけていた。なんて嫌なやつなんだろう。この男は嘗て陽斗を苛めて
いた男なのだという。
 陽斗とこの男の間で起きたことを一切知らないけれど、それでもこうやって見るだけで
陽斗がどれだけ嫌な思いをしてきたか想像に難くない。
「別に悪くは無いさ。ただ可愛そうだって思っただけ」
「どういう意味か分りません」
歩は金子の言葉を無視して、ピッチャーを見た。
 金子の薄ら笑う声が歩の中に木霊する。一球目はど真ん中ストレート。歩はバットを出す
ことも出来なかった。



「アユ先輩・・・・・・なんだか・・・・・・」
ベンチで歩の打席を見つめていた陽斗は思わず独り言が漏れていた。隣に座る彰吾が陽斗を
振り返る。
「何?なんだかって、変なの?」
「変っていうか・・・・・・金子先輩に、話しかけられてるみたいで・・・・・・」
陽斗は言った傍から、背筋がぞくっとした。
 あの人は危険だ。ああやって打者をすぐに翻弄する。
「話しかけられると、困る?」
「・・・・・・動揺させるような事を言われると・・・・・・」
「そんなこと言うの?」
「時々」
あの時もそうだった。T高との練習試合で、金子は自分に対して嘗ての行為を思い出させては
自分を動揺させた。
 金子は、あの仕打ちを忘れてはいないはずだ。自分の受けた屈辱は絶対に晴らす。そう言う
人間。だからこそ、自分はあんな目に遭ったのだ。
 陽斗の胸に不安が過ぎる。何かが起きる嫌な予感。
アユ先輩、あの人としゃべってはいけない・・・・・・!



「あいつは出てこないのか」
金子は真ん中に入ったストレートに満足しながら、ピッチャーに返球する。
「・・・・・・誰ですか」
「山下陽斗、俺の可愛い後輩」
一々鼻につくしゃべり方だった。無視すればそれで終わるはずなのに、その言葉に歩は
理性が少しずつ欠けていく。
「陽斗は出ません。・・・・・・それに、今は豊山南の生徒です」
「どこの生徒だろうと、俺の可愛い後輩には違いない」
「・・・・・・」
「あいつ、ホントに可愛かったんだぞ。なんでも言う事聞く従順なヤツでさ。俺がやれって
言った事、何でもやったんだぜ?」
「だから?」
「・・・・・・お前、アイツが俺にどんなことしたか知りたくない?」
「別に」
「アイツのテクは、俺が仕込んだんだ」
「?」
一瞬、何の話をし始めたのか、歩には分らなかった。テク?何の事だ?ピッチャーの事?
変化球でも教えたのか?
 そんなことが頭に過ぎるが、次に金子が吐いた台詞に歩は絶句した。
「アイツ、ホントにいやらしいこと好きでさ・・・・・・すげえ上手くしゃぶる」
「!?」
金子の卑猥な笑いに、鈍感な歩もそれが、どんな意味であるのか、うっすらと気づき始めた。
 陽斗が金子にどんなことをしたのかなんて、想像したくない。あれだけ陽斗が怯えていた
のだから、陽斗にとってそれは消し去りたい過去だ。
 それをほじくり返して、傷口を開かせるようなことをなんでこの男はするんだろう。
大切な自分の後輩。大切な陽斗。これ以上傷つける事は許さない。
「そんなこと、俺に言って何のメリットがあるんですか!」
歩は怒りを沈めながら、ボールを待った。
 言い切って、金子の言葉に耳を塞いだ。前だけ見る。ピッチャーがモーションに入って
歩はその姿だけを追った。
 ボールは僅かにコントロールを失ったのか、歩の目の前をゆっくりと進んでいくように
見えた。
 歩はそのボールを捕らえたと思った。
力いっぱい振りぬく。金属バットは高い音を立ててグランドに響き渡った。
ボールは弧を描いて、センター方向に飛んでいく。歩は全力で走り出した。
この日、初めてのツーベースになった。
「アユ先輩、ナイス!!」
歓声と共に、陽斗の声が歩の耳にも届く。歩は唇を噛み締めて、二塁ベースでガッツポーズ
を決めた。








 結局得点には繋がらないまま5回の攻撃は終わった。相手のピッチャーの調子もよく、お互い
が三振の山を築いている状態だった。
「中々均衡破れませんね」
「こういう試合は先に集中力をなくした方が負ける」
「アユ先輩なら大丈夫ですよね?」
「・・・・・・わからん。今のところは大丈夫としか言いようが無い」
ベンチの中でも、攻撃中は固唾を呑んで見守ることしかできない。
 打ち崩すのは難しい。相手のミスを誘ってなんとか点数をもぎ取るしか無いだろう。
陽斗は祈る気持ちで拳を握り締めていた。


 7回に、再び歩に打順が回ってきた。ツーアウトで、ランナーはいない。相変わらず0対0
の均衡は破られないまま、試合は続いている。
 歩は打席に向かいながら、次こそ金子の戯言は無視しようと決めていた。
自分を動揺させるためにあんな事を言っているのは分っている。それに乗ってはダメだ。
汚い人間に腹は立つが、冷静になっていないと負けてしまう。
 アイツとはマウンドに立って勝負してやる。歩は固い決意で打席に立った。
「・・・・・・おい」
「・・・・・・」
「なんだよ、無視すんなよ」
「・・・・・・」
「山下陽斗は出てこないのか。ホントに」
「・・・・・・。出ません。俺が投げきるって宣言してますから」
「そうか」
金子はニヤっと笑うと、腹の奥から黒く湧き出るような不気味な台詞を吐いた。
「じゃあ、俺が引きずり出してやるよ」
「?」
金子はピッチャーにサインを送る。ピッチャーは瞬間戸惑った表情を浮かべたが、渋々頷いて
モーションに入った。
 歩は金子の顔を脳裏から吹き消すようにボールに集中する。次も絶対打つ。

「!!!」
しかし、そうやって見つめたボールは、どんどん自分の方に向かってきて、ヤバイ、そう
気がついたときは、歩はバットを離してわき腹を押さえて蹲っていた。
「ううっ・・・・・・」
デッドボールのサインが上がる。
 歩は蹲ったまま、その場から立ち上がれなくなっていた。ピッチャーが顔を歪ませてマウンド
で汗を拭っている。
「すまんのう、あのピッチャーのこのコース、コントロールがいまひとつなんだ」
金子は悪びれた様子もなく口先で謝った。
「くそっ・・・・・・」
歩は浅い呼吸の下で、陽斗の事を思った。金子の汚さを、陽斗はずっと味わってきたんだと
思うと、悔しくて歯がゆい。
 このまま終わるものか。
歩はよろよろと立ち上がって、塁に走り出す。
「アユ先輩っ!!」
「歩!」
「タカラ!!大丈夫か!!」
豊山南のスタンドとベンチが悲鳴で埋め尽くされていた。







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