なかったことにしてください  memo  work  clap




 その瞬間、本当に黒田に食べられたと思った。



 黒田の唇は思っていた以上に厚く腫れぼったく感じて、それに反応して唇を開いて受け
入れている自分が湧井は恐ろしくなる。
掴んだシャツから腕が離れて、湧井は朦朧とする意識をこっちの世界へと引っ張り戻そう
ともがいた。
 黒田の手が腰の辺りで蠢いている。
「ふぅっ・・・んんっ・・・」
閉じていた目を薄っすらと開ければ、アップの黒田の顔が飛び込んできて湧井は再び固く
目を閉じた。
なんで、なんで・・・・・・。


なんで、俺、黒田とキスなんてしてんだっ・・・・・・


 届かないと思い込んでいた黒田への淡い気持ち。それがバレて、それどころか、黒田は
自分も同じだと言った。
「湧井が欲しい」
耳の奥で木霊する台詞は湧井の中を確実に熱くさせていく。黒田の手が湧井の腰を強く掴んで
さっきから密着したところが熱くて堪らない。
 何かの間違いだ。
こんな場面になっても、湧井は信じられない気持ちの方が大きい。
きっと、これは夢なんだ。目が覚めればリビングで寝そべっていて、母親に夏期講習の
ことでブチブチ文句を言われるんだ。
 夢なら・・・・・・一番見たくない悪夢だ。こんな甘い気持ちにさせて、目が覚めればどん底に
突き落とされる。
 自己満足の妄想なんて虚しいだけじゃないか。
「はっ・・・んん・・・」
上がる息の隙間で、湧井はそんなことを思った。
 けれど、湧井の思いに反するように黒田の行動はエスカレートしていって、湧井はついに
立っていられなくなった。
 黒田の胸を押しのけて顔を離すと、黒田は僅かに腰に回した手を緩めた。
ずるり、湧井はロッカーに背中を預けて床に滑り落ちる。
「はぁっ・・・はぁっ・・・」
蒸気が体中から上がってる。肩で息をしながら湧井は思った。
 黒田は湧井に合わせるように床に座り込んで、湧井を正面から眺める。その表情に、先ほど
の様な笑いも余裕も見えなかった。
「夢なら・・・・・・」
湧井が搾り出す声で言う。
夢ならさっさと覚めてほしい、そう言おうとした湧井をさえぎって黒田は言葉を発した。
「夢なら、永遠に覚めないでほしい」
「・・・・・・」
「湧井を夢の中に閉じ込めて、永遠にこうしてたい」
「!?」
「本気だから」
「黒田・・・・・・」
「お前がどう思ってるのか分らないけど、俺は本気だから」
真っ直ぐに見つめる黒田に湧井の瞳が揺れる。射抜かれるような視線が背筋をゾクゾクさせた。
「お、俺だって・・・・・・」
本気だ。本気でずっと好きだった。自分1人ずっと好きだったはずなのに。
「俺だって?」
「・・・・・・お前、ずるいよ・・・・・・」
「?」
「自分だけ、かっこよく決めてさ・・・・・・俺なんて、泣いて喚いて動揺して・・・・・・」
「そういう湧井、可愛い」
「やめろ、馬鹿」
黒田は蹲った湧井の腕を引き寄せると、首まで真っ赤になっている湧井の顔に再び近づいた。
 反射的に湧井が目を閉じると、黒田の唇がまた吸い付いてきて湧井は肩を震わせた。
本当に夢じゃないのだろうか。黒田は自分と同じ気持ちでこんな事をしてるのだろうか。
次に目を開けたら、クスクスと笑い声を立てて自分を貶めて笑っているんじゃないだろうか。
湧井の胸の中は不安が渦巻いていて、この行為を素直に受け止められない。
 黒田の唇が薄っすらと開くと、湧井もそれに合わせさせられた。
唇の隙間を黒田の舌がスルリと這っていく。湧井は力が抜けて更に唇が開いた。
黒田の舌は、絡めだすように、搾り取られるように湧井の舌を引き出してお互いの口の中
で別の生き物のように動く。
 引き寄せられた腕は黒田の腰に回されて、黒田とより密着した。
黒田の左手が首筋から後頭部を撫で上げる。黒田の腕が耳の横を通過する度、ドクンと
心臓が跳ね上がった。
 本気で俺の事を想ってる・・・・・・?
俺1人が黒田を想ってるわけじゃなくて・・・・・・?
黒田が自分のことをどう思っているかなど、恐ろしくて想像した事もなかった。白昼夢
みたいな淡い幻想は何度もしたことがあるけれど、虚しかったことしかない。
 所詮自分も黒田も高校球児以外で接点などあるはずが無いとどこかで諦めていた。
恋愛対象になるはずがない。自分が信じられないほどおかしい道を歩いているのだから
黒田が同じ道を歩んでいるなど、ありえないと思っていた。
 黒田が好きで、同じフィールドに立って野球をする。湧井にとってそれが精一杯の幸せ
だったし、それ以上望む事はしてはいけないと決めていた。
 自分の中で密かに燃えた恋は、自分の手で葬って終わりにする。高校野球と共に終わりに
すると誓っていた。
「はふっ・・・・・・」
漏れる息が自分でも驚くほど艶やかで、自分のどこにこんな声が潜んでいたのかと湧井は
その息使いを聞きながら恥ずかしくなった。
 黒田のキスは湧井には上手いのか下手なのか判断は付かない。こんな事をする相手を黒田
以外にもった事が無いからだ。
 けれど、黒田とのキスは心臓が倍の早さで波打ちそうなほど興奮で詰まっていた。
好きな相手とキスが出来る。その快楽と幸せは「上手」「下手」など超えてしまうのだろう。




「黒田・・・・・・お前、ホントに・・・・・・俺の事・・・・・・」
唇を5センチ外したところで湧井は漸く思いを口にした。
 本当にお前も俺の事が好きなのか。
そう告げようとした瞬間、部室の部屋のドアに鍵の刺さる音が響いた。
「!?」
ガチャガチャと鍵の音がして、誰かが外側から鍵を開けようとしてるようだった。
 湧井はその音に驚いて黒田を思わず突き飛ばすと、顔を擦った。水滴が腕に付いて、顔中が
まだ涙だらけなのに気づく。
 黒田は机の上から湧井にタオルを差し出して立ち上がった。
 鍵の音が止むと、ドアノブが回された。しかし、当然最初から開いていた鍵は今の行為で
閉まってしまったわけで、ドアは開かれなかった。
『あ、れ?』
ドアの向こうで声がする。
『なんで開かないんだ?』
黒田はドアに向かっていくと、施錠されてしまった鍵を開けてドアを開いた。


 はとが豆鉄砲でも食らったような顔をして立っていたのは海野瑞樹だった。
「黒田?!」
「ウッス」
「・・・・・・なんだ、先客がいたのかー。鍵開けようとしてるのに、開かないからびっくりしたよ。
・・・・・・黒田も荷物取りに来たの?」
「ああ」
黒田は入り口から身体をずらして海野を中に入れた。
「もう、俺達の夏も終わったもんなあ。あ、甲子園聞いてた?西丘高校も負けちゃったし、
そしたらなんだかいてもたってもいられなくて、ここに来ちゃった・・・・・・って?!」
そこまでしゃべって海野は驚いて固まった。
「湧井?!」
湧井は机の向こう側、ロッカーの隅で未だに蹲っていた。
 立ち上がろうとして、腰が抜けてしまったまま動けなくなっていたのだ。それに気づいて
湧井はまた顔が熱くなる。あんなに濃厚なキスをして黒田はもうけろっとしているのに、
自分は思い出してしまって立ち直れない。
「よう」
湧井はロッカーに持たれたまま片手を挙げた。机の陰に隠れて海野のところからは顔くらい
しか見えない。
「湧井もいたの?!」
「いちゃ悪いか」
「・・・・・・別に悪くないよ。てか、そんなところに這いつくばってなにしてんの?」
無邪気に声をかける海野に湧井がタオルを首に回しながら不貞腐れていった。
「休憩!」
「ふうん・・・・・・?」
海野は顔が蒸気してる湧井の顔などさほど気にせず、自分のロッカーの前に向かった。
「そういえばさ、湧井この前渡した夏期講習、申し込みした?」
「・・・・・・いや、まだ」
「まだなの?締め切り迫ってるよ」
「分ってるって」
「湧井、志望校どこ出してるの?」
「T大とM大・・・・・・推薦取れれば」
「どっちも野球強いもんね。湧井は大学でも野球続けるのかー」
「海野はどうなんだよ?」
「俺ー?入れるところと行きたい所がねー」
「・・・・・・野球」
「ああ、大学行っても続けるかってこと?多分ね。部活には入ると思うけど、こんなに本気
になることはもう無いだろうなあ・・・・・・」
海野はロッカーの荷物を引きずり出しながら感慨深げに言う。
 この先、いろんなことがあるだろうけど高校3年間の夏だけは特別になるだろうと海野は
思う。中学の部活でもこんなに真剣になったことはなかった。
 多分大学に進学して野球を続ける事になっても、この昂揚した気分はもう手に入らない
だろう。湧井と野球をした3年間。誰よりも熱くて野球が好きだった湧井が隣にいた。
 海野にとって幸せな時間だった。
「湧井が豊山南に来るって知って、ホントにびっくりしたけど、楽しかったなあ」
「秋季リーグの応援で会ったとき、海野が豊山南行くって言っただろ?」
「・・・・・・そういえば、そんなこともあったっけ」
海野は懐かしそうに3年前を思い出す。
「お前が行く高校なら、野球部あると思ったから」
「真逆、それで決めたとか言わないよね?!」
「そうだよ。お前が行くならそこそこマシな野球部があると思ったんだよ」
「ええっ!俺がここ選んだのは、家が近かったからだよ!」
「だろうな。今考えれば、海野の進学理由なんてそんなもんだったんだよな。入ってみて
愕然とした。お前に騙された」
「お、俺のせいかよ!」
漸く調子の戻ってきた湧井はニタリと笑って海野を見た。
 誰にも分らなくていい。黒田と野球が出来るところならどこでもよかったなんて、口が
裂けても言えない。
 それでも、湧井は自分が選んだ高校が豊山南でよかったと思う。黒田だけじゃない。海野
も、後輩の青木彰吾や自分を慕ってきた宝田歩や、さらにその歩を慕ってきた山下陽斗に
こうやってめぐり合えたのだから。
 湧井にとっても幸せな時間だった。



「本当に終わったんだなあ、俺達の夏・・・・・・」
呟いた海野の一言が、湧井の中に静かに広がっていった。






 片付けを済ませると、湧井達は部室を後にした。湧井は黒田や海野の倍近くの荷物を
抱えてげっそりした。
「なんで俺だけこんなに」
「溜め込んだお前が悪い」
「そうだよ、黒田の言うとおり」
「黒田に言われるのは我慢出来るけど、海野に言われるとむかつくぜ」
「どういう意味!」
「まんま!」
湧井はにんまりと笑った。湧井はなんだかんだ言いながら、海野のことが好きだ。一緒に
がんばった仲間は掛け値なしで大切な存在なのだろう。
 海野は最後まで、いじり倒されて駅前で別れた。



 電車から降りると湧井は黒田と2人で歩いた。黒田とは中学の校区が一緒だが家はそれほど
近くはない。降りる駅は同じだけれど、途中で反対方向に別れる。
 湧井は思わぬ海野の登場で、すっかり落ち着いてしまっていた。さっきまでの黒田との
やり取りが幻のような、やっぱり夢のような気がしていた。
 だから黒田が妙に近くに並んでいる事も、何度も自分を見下ろしていることも何を意味
しているのか分らなかった。
 海野のいたときのテンションのまま湧井は黒田と他愛の無い話を続けた。
 暫く歩いて、別れ際に黒田は漸く湧井に言った。
「湧井、うち来る?」
「今から?」
「・・・・・・ああ」
「荷物あるからなあ」
「半分持つ」
「・・・・・・まあ別にいいけど。お前の家なんて、行くの久しぶりだな」
余りにも普通に誘うから、湧井は黒田の意図がどこにあるかなんて、微塵も感じる事ができず
黒田の誘いに素直に乗ってしまった。
 黒田の家に着いて、黒田の家に誰もいない事を知らされて、黒田の部屋に上がるまで、
湧井は何も気づいてなかったのだ。
 自分がどれだけ黒田に渇望されていたかなんて。





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