なかったことにしてください  memo  work  clap




 湊との出会いは紺野には忘れられない季節になった。
初夏の風と共に湊はやってきて、紺野の中に夏の暑さと一緒に、若くてほろ苦い思い出を
残していった。
高校に入学して家族との溝は益々広がり、級友の中でも紺野は浮いた存在になった。
クラスの中で1人、机につっぷして休み時間を潰したり、ぼうっと過ごす紺野に声を掛ける
クラスメイトは多くは無い。気を使って声を掛ける程、級友は「友達」に困っていないのだ。
 4月当初に出来た友達も直ぐに疎遠になってしまった。
 そんな時にやってきたのが教育実習生の湊だった。
 サラサラの黒髪に紺野より小柄な体格。男のくせに音楽の教師なんて、と紺野の湊に
対する初めの印象は大して良いものではなかった。彼の中で、湊はただ自分のクラスに
やって来て、そして去っていくだけの人間。湊は自分の人生の一部をただ掠っていくだけ、
興味すらもてなかった。
 紺野が初めて湊を意識したのは、湊の白くて長い指を見たときだった。
選択授業なんて面倒くさいだけだと思いながら入った音楽室で、紺野は湊のピアノに、
湊の指に釘付けになってしまったのだ。
 クラスの女子にせがまれてグランドピアノの前で名も知らない曲を弾いている湊を見て
紺野は体中の血液が沸騰する思いをした。
 それが淡くて苦い恋だと自覚するのはずっとずっと後のことなのだけど。
「先生、すっごーい」
「あたし『ラ・カンパネラ』生で聞くの初めて〜。ちょー感動したー」
「指がどうやって動いてるんだか、見ててもわかんなかったし〜」
「僕も初めて聞いたときは、どうなってるのかさっぱり分んなかったよ」
鍵盤の上を滑るように、踊るように湊の指は音を奏でた。
 指だけが別の生き物のように鍵盤を蠢いているみたいだ、そう思って紺野は再び湊の手を
見た。細く白く、そして綺麗な長い指がピアノの上の出席簿をトントンと叩いている。
「センセー、もう一回弾いて」
「はいはい、また今度ね。授業始まるよ」
あの指は、紺野にとって少しだけ特別になった。





「髪の毛、ずっとそうなんか?」
「いきなり何の話?」
音楽準備室で、指導要領に目を通していた湊に、紺野は隣に座って来て言った。
 事務用の椅子に行儀悪く反対に座って、背もたれに顎を乗せる。いつものことなので、
湊もさして驚きもせずに、作業の手も止めなかった。
「大学でも、髪の毛、黒い?」
「ああ、染めてないのかってこと?……美容師志望の友人に遊びで髪の毛弄られた事は
あるけど、態々美容院でカラーしたことはないかな」
「ふうん……」
「なんで?」
「なんか、つまんなくね?」
湊の手が止まる。顔を上げて少し考えると、目を細めて紺野を見た。
「紺野は髪の毛いじりたいんだ?……若者の反抗ってヤツ」
湊が冗談交じりで笑うと、紺野は不貞腐れたようにぷいっと横を向いてしまった。紺野にも
綺麗なサラサラとした黒髪がある。
「この学校は茶髪にするだけで、校則引っかかるみたいだね」
「堅いんだよ、あいつらの頭は」
「僕も紺野の言う『あいつら』の中に入ってること忘れないでね。……でも、僕はいいと
思うけどなあ、紺野のこの髪の毛。黒くて艶があって綺麗で」
そう言って、湊は隣にいた紺野の髪を一筋すくい上げた。
 湊の手が頭皮に触れる。瞬間触れられたそこから、一気に熱が体中を駆け巡った。
「止めろ……って」
紺野は椅子ごと後ろに下がると、身体を震わせた。この痺れは何なんだろう。
「ごめんごめん。でも、勿体無いよ。綺麗な髪なんだから。紺野は黒い髪、似合ってると
思うよ」
湊のその台詞はお世辞なのか、紺野をたしなめる為だったのか、紺野には分らなかった。
 けれど、褒められた所為で、それから2年も紺野は髪の毛を染める事はなかった。
湊はそれだけ言うとまた資料に目を落とす。ペンでチェックを入れながら、ぶつぶつと
1人呟いていた。
 その手を紺野は見る。白くて綺麗な指。あの指がたった今、自分の髪の毛をすくったのだ。
あの指は、紺野にとって完全に特別になった。







 ダイニングテーブルの上に湊は鍵を置いた。
「家の鍵。無いと困るでしょ」
湊の手が鍵から離れると、差し出された相手の視線は鍵よりも湊の指を追った。あの頃と
変わらない、白くて長い指だ。背筋が痺れる。触りたいと思って我に返った。そして、湊の
手が完全に引っ込んでしまうと、戸惑いながら鍵を手にした。
「うっす」
ありがとうが言えない不器用さに湊は困ったように笑った。
「どうぞ。その代わり、ちゃんと約束は守ってよ」
深追いしないところが、自分でも甘いとは思うけど、湊はそう言って話を切り上げた。
 2人目の他人は、自分にとってどんな存在になるんだろう。3人の不思議に繋がった家族
はどこに向かうんだろうと湊は鍵を手にした紺野を見て思った。






 1人増えるだけで、テーブルは随分と狭く感じるんだな。湊はダイニングテーブルに3人分
の朝食の準備をした。
 朝の空気は日を追うごとに冷さが増し、呼吸をすると、しんと体中に冬の訪れを教えて
いるようだ。
 湊はスウェットのままで、トースターにパンを突っ込みコーヒーを沸かす。そろそろ武尊
が降りてくる時間だ。湊がアイロンをかけたシャツを着て、慌しく駆け下りてくる。ダイニング
の扉を開けながら、おはようございますと、低血圧っぽい声で挨拶をしてくるんだ。
 そういう日常が今日も始まるんだろう。
「紺野も起きて来るんかな」
カーテン越しに朝日が差し込んで、湊は眩しそうに伸びをした。




 3人揃っての朝食は妙に照れくさい感じがした。恋人とホテルに泊まった次の朝に、一緒に
コーヒーを飲んでるみたいな、初々しさと恥ずかしさが混じったようなあの感じに似ていると
湊は思う。距離が一気に縮まるんだ、朝食っていうのは。
 テーブルについて、寝ぼけた顔をしている紺野に湊は勧めた。
「ご飯、出来てるよ。早く食べないと、学校遅れるよ」
「・・・・・・ああ」
金髪の髪の毛が寝癖で跳ねている。紺野は湊が引っ張り出してきたスウェットを着たまま
食卓の上の焼かれたばかりのパンを凝視した。
「僕、今日は遅番だから、帰ってきたら適当にご飯食べて」
「じゃあ、今日はコンビニだなあ」
呟く武尊に湊は苦笑いした。
「武尊さん、ホント自炊しないんだね」
「男子厨房に入らず・・・で育ってしまったんで。お湯くらいなら沸かせますけど」
「お坊ちゃまー」
茶化す湊に、武尊も笑った。
 わだかまりが小さくなっている気がする。湊がゲイだということを、武尊はどう処理した
のだろう。武尊が張っていたオブラートみたいな膜は、いつの間にか溶けているのように
感じた。


 その瞬間まで、湊も武尊もいつものような朝が始まると思っていた。
メンバーが増えても変わらない、穏やかな朝はやってくるのだと、すがすがしい気分で思って
いたのに、一本の電話がその場の空気を一気に凍らせてしまった。

Pipipipi・・・・・・

 朝食に響く着信メロディ。3人は無言になって一斉に机の上の携帯電話を見下ろした。
武尊の近くで鳴り響く着信。武尊の手は止まっていた。

Pipipipi・・・・・・

鳴り続ける着信音に、一番初めに反応したのは湊だった。
「出なくていいの?」
「……あ、はい。あ、いえ……後で掛けなおすから」
そう言った直後、ぷつりと音は切れた。メロディの残像が頭を巡る。
 無言になる前に、湊は口にしていた。
「おうち、からじゃないの?」
「?!・・・・・・わかりますか?!」
「うん。だって、着信音、『となりのトトロ』でしょ。かわいいなって思って」
「・・・・・・娘のリクエストなんで」
「そう」
武尊の口から出てくる単語に、当たり前に分っている事実が痛く感じた。武尊には娘がいる。
自分の知らない家族があるんだ。壊れかかっていても、まだ繋がっている。武尊のいるべき
場所は本当はここじゃないんだ。
 そう思うだけで、ちくちくと痛み出す心を湊はどうしていいか困ってしまった。
 武尊は自分にとって、何なんだろう。自分は武尊にどう映っているんだろう。
恋人でも友達でもなく、家族になろうと言ったのは自分だったはずなのに。
「何だ?」
沈黙した2人を訝しげに紺野が見比べる。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・?なんだよ?」
それ以上は、言葉には出来なかった。






水曜日は武尊達を送り出してから一日中ピアノの前に座っていた。友人から送られてきた
スコアに何度も目を通す。ライブはもう目の前に迫っていた。
「クラシックとポップスはなんとかなるとして・・・・・・これ、どうなの」
湊はスコアの中から「when I fall in love」を取り出した。ジャスの王道みたいな曲だ。
数年前にヒットした映画「めぐり逢えたら」で誰かがカバーしていた事くらいしか、湊は
知らない。スコアの隅には繊細な字で歌詞が書かれていた。


「When I fall in love
It will be forever
Or I'll never fall in love」


「恋に落ちるなら、永遠に。そうでなければ恋などしない、か。0か100しかないのか、恋は」
厄介なもんだと、湊は笑った。
 不慣れなジャズのコード進行に躊躇いながら、湊はたどたどしく「when i fall in love」
を弾く。まるで自分の恋のように不恰好な演奏になった。
 3年付き合った恋人には、もう未練は無い。確かにあの時はひどく切なかったし、別れを
切り出されなければ、今も変わらず付き合っていたと思う。
 けれど彼は湊を捨てた。そして、湊は彼への想いをゼロにしたのだ。
じゃあ、武尊に向かって伸びているこの想いは、いつか100になってしまうんだろうか。
今は0でもなく100でもない、武尊へ続く淡い気持ち。惹かれるだけ傷つくと分っているから
ブレーキを掛けなければと警告しているのに、どこかで「100にならなきゃ大丈夫。100に
ならなきゃ恋じゃない」なんて言い訳してる。もうゼロにすることなんて出来なくなって
いることに、湊は目を逸らした。







 窓の外が暗くなりかけたころ、リビングのドアが開いた。こんな時間に帰って来るのは
紺野しかいない。
 湊はピアノに向かったまま、紺野を迎え入れた。
「おかえり」
「・・・・・・あんた、いたの」
紺野は湊がいたことに驚いているようだった。
「水曜日は仕事休みなんだよ。紺野も早かったね」
「別に。やる事なかったし」
制服姿でいるという事は、今のところ湊との約束を守っているらしい。
「そう」
紺野は湊の前を通り過ぎると、鞄ごとソファーに埋もれた。いつもそこは武尊が座っている
場所だ。湊は違和感を感じながらも、紺野を視界から消して、再びピアノに向かった。
 紺野は湊の演奏を見た。弾いている曲は分らないけれど、そんなことはどうでもよくて
ただ、湊の指を見ていた。
「・・・・・・なあ」
曲が終わると、紺野はソファーに埋もれたままで言った。
「なあって」
「何」
湊も煩わしそうに振り向く。ピアノに向かっているときは、邪魔されたくないのだ。
「・・・・・・なあ、あいつってさ」
「あいつって誰」
「あいつだよ。一緒に住んでるヤツ」
「武尊さん?あいつなんて言わないの」
「いいだろ、別に。あいつ、なんでこんなトコいるんだよ」
「まあ、色々あってね」
湊から暗い色の溜め息が出た。今一番触れたくない話題だ。
「色々って何だよ。あいつ、家族がいるんだろ?」
「うん。そうだね」
そう、家族がいるんだ、武尊には。その現実は湊の心を重くする。
「この前の朝だって、娘から電話とか、ありえなくね?」
紺野がどんなつもりで言っているのか、湊は想像もつかないけれど、湊だって、あの電話
は反則だと思った。
 一気に目が覚めてしまう。武尊が帰ろうとしている場所があるという事を、思い出して
しまうじゃないか。
 あれから、武尊は娘に連絡したんだろうかとか、明日には帰ってしまうんじゃないかとか
そんな余計な事を考えずにはいられなくなる。
 武尊の幸せはここではなくて、別の場所にあるのに、ここにいた方が幸せなんじゃない?
って錯覚しそうになっている自分が悔しい。
「あのね」
「なんだよ」
「人には色々事情があるでしょ。今だって紺野は僕達に言えない家族こと持ってる。武尊
さんも、色々あって、ここにいるの」
「子ども捨てて家出なんて、最低な親だな」
「紺野!」
「・・・・・・子どもが可愛そうだ」
傷ついた顔が見え隠れしている。武尊が紺野の親の立場を理解するなら、紺野は武尊の子ども
の味方になる。おかしなものだな、と湊は思った。
「そうだね。・・・・・・でも、大丈夫。あの人は、すぐここを出て行くから」
「・・・・・・」
3人が抱え込んだ気持ちは、ぼんやりとして、はけ口もなく、それぞれの胸に溜め込んだまま
時間だけが過ぎていく。均衡を崩すことは望まないのに、誰かが壊すことを欲していると言う
矛盾を抱えて。



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