なかったことにしてください  memo  work  clap




 ダイニングテーブルに差し出された鍵を見詰めて、武尊は戸惑っていた。
目の前には数分前に出会ったばかりの青年――多分、自分よりも2,3歳は若いだろう――
湊が優しく微笑んでいる。
『ウチにいたらいい』
その提案はありがたいと共に、武尊のプライドをひどく揺さぶった。
 見ず知らずの他人に頼るような生き方をしてもいいのだろうか。自分はそんなに「落ちぶれて」
見えるのだろうか。
 湊という青年は一体どう言うつもりでそんな提案をしてきたのだろう。
武尊は湊の提案に返事もせず、差し出された鍵にも手を出さず、暫く部屋を見渡していた。
この家には、家族の匂いが残っている。
例えば、食器棚に並べられた1人で使うには多すぎるコップ。大きな冷蔵庫。そして、この
ダイニングテーブル。
 湊は、両親は海外赴任で姉は嫁いだのだと言った。ここに残るのは、彼らの残骸とでも
言うべきもの達なのだろう。
 使われずに眠ったままの物達が、広い家の中に所狭しと押し込められている風景は、切なく
なる。
 まるで、この家に捨てられたような気分になるのではないか。
武尊は、妻や娘が出て行ってしまった家を想像して胸が詰まった。それならば、自分が家
を出たほうがマシだ。思い出が詰まった家で1人過ごすのは辛い。
 1人。そうだ、湊は1人で暮らしていると言った。「困る人はここにはいないよ」とも。
だったら、あの洗面所にあった歯ブラシはなんだろう。ここは湊1人の家だけど、恋人が
通ってきているのではないのだろうか。
 武尊は首を振った。
「提案はありがたいですが、それでは湊君の生活を壊してしまう」
「壊れる?」
「・・・・・・洗面所に歯ブラシが2つありました。一方は恋人のものでしょう?」
指摘されて湊は顔を歪めた。
「目ざといなあ」
「すみません」
「別に、謝らなくてもいいけど。大して間違っては無いから」
「だったら、余計にです。彼女がやってきたときに俺なんかがいたら迷惑でしょう」
武尊が言うと、湊は急に悲しそうな顔になって俯いた。
「いいよ、そんなの気にしなくて」
「でも」
「ううん、いいんだ。・・・・・・もう、来ないから」
「え?」
湊は溜め息を吐くと、両肘を突いてその上に浮かない表情の顔を乗せた。
「振られたの。さっき。この家に帰って来る数分前に」
「あっ・・・・・・」
武尊の表情が固まる。
「武尊さんって分りやすい人?露骨に不味い事言ったって顔してるよ」
「真逆、そんなオチがあるなんて思っても見なかったので」
2人見合うとお互い苦笑いが起きる。
「僕ね、あの橋の下で武尊さん見つけたとき、なんであんなことしたんだろうって自分でも
不思議に思ったんだけど、武尊さんの瞳見て何となく分った。同類なんだって。この人も
同じように傷ついて、絶望してる人だって。だから拾っちゃったんだろうなあ」
「傷の舐めあいみたいなもの?」
「そうやって癒える傷もあるでしょ」
本当に傷は癒えるだろうか。武尊は提案に戸惑う。ただ、湊が完全な善意で自分を誘って
いるわけじゃない事が分ると、幾分ほっとした。
 湊も傷を癒したがっている。こんな自分でも役に立つのなら、湊の誘いに乗ってもいい
かも知れない。
「湊君が嫌でなければ」
「勿論、嫌ならそんな誘いしないでしょ」
「そうですけどね」
湊は頷くと、鍵を更に武尊の方に押しやった。
「じゃあ、ウチで傷を癒していけばいいよ。好きなだけウチにいてくれればいいから」
「ありがとうございます」
「うん。決まったね」
「・・・・・・暫くお世話になります」
「あとさ、その敬語なんとかならないのかな。多分僕の方が年下だし。そうだよね?」
「29です」
「やっぱり。僕25だから。・・・・・・普段もそうなの?」
「そうじゃないですけど」
「じゃあ普通にしててよ。僕達『家族』になるんだし」
「・・・・・・わかりました」
「ほら、それ」
「うん、そうだね。気をつけるよ」
 武尊は差し出されたテーブルの鍵を手に取ると、自分のキーホルダーに付け加える。湊は
それを目を細めて見詰めた。
 数時間前までのこの鍵の持ち主は、もう二度とこの鍵を手にすることは無い。
けじめだといって、別れ際に返された家の鍵。湊も彼のアパートの鍵を無言で渡した。
儀式みたいに厳かでそして白けた。
次の持ち主が決まってよかったな。使われてよかったな。机の引き出しの中で眠らずに
済んでよかったな。
 湊は鍵に向かってそんなことを思った。





 武尊はこの家から仕事に向かい、この家に帰って来る。
湊の仕事は日によって時間がばらばらだが、大体は武尊よりも早く帰ってきて、2人分の
夕食を用意して待っていてくれた。
「すごい、料理も出来るんですか」
「大したものはできないけど、1人で暮らしてる時間が長くなると、自炊したくなるんだよ」
「そういうもんですか」
「うん。外食ばかりだと身体が疲れる」
「年寄りみたいな発言ですね」
「ホントだって。やってみればわかるから」
 2人の新しい生活が始まっても、武尊の微妙な敬語は続いていた。
「さあ、早く着替えてきてよ。ご飯冷めちゃうから」
「あ、はい」
久しぶりに他人と一緒に夕食を食べた。しかも出来立ての湯気が昇る料理を囲んで。
 湊の作る料理は美味しかった。具沢山の味噌汁やふっくらとした真っ白いご飯。かぼちゃ
の煮物や焼きなす。繊細でも凝ってるわけでもなかったけど、普通の料理が普通に出てくる、
それがとても美味しかった。
 何よりも、誰かと一緒に食卓を囲むという行為がこんなにも心を落ち着かせてくれる
ものなのだと武尊は実感した。





 一緒に暮らし始めて5日が過ぎた。
 湊との暮らしは意外と直ぐに馴染んで、武尊自身心地よかった。勿論、妻や娘の事を忘れる
日は一日も無かったけれど、離れている分冷静になって今後の事を考えられる気がしたのだ。
 初めの日以来、湊とはお互いの傷の事に触れる事はなかった。
気を使ってそこに触れなかったわけではなく、それ以外の会話で溢れていたと言った方が
いい。
 湊とは気が合うのだろうと、武尊は思った。生きてきた環境も仕事も全然違うけれど、
流れていく時間の感覚が自分と合っている。
 ゆっくりと1人を楽しんだり、美味しいものを食べたり、テレビを見てそれに文句をつけたり。
そう言う一つ一つの行動が自分に邪魔にならないし、自分も邪魔になっていないと分る。
 何時まで続くか分らない不安定な生活。男同士の奇妙な二人暮らしだけれど、武尊はこの
生活が悪くないと感じていた。

 朝食の片付けを済ませると、湊は慌しく出勤の準備を始めていた。
今日使う教材、レッスン名簿をチェックしながら鞄に詰め込むと、思い出したように
武尊に声を掛ける。
「今日は、遅番のレッスン日だから、帰りは10時過ぎるからご飯は適当にしてくれる?」
「遅番レッスンとかあるんですか」
「うん。学生さんとかね、仕事帰りのOLさんとかサラリーマンもいるよ」
「サラリーマン!」
「そうそう。珍しいけど、男の人でも時間作って習いに来る人いるんだ。初心者ばっかり
だけど」
「すごいですね」
「武尊さんもやってみる?」
冗談交じりで湊が言うと、武尊は顔をブルブル振った。
「無理無理!俺の音感の無さは一種の才能だと思ってるから!」
湊は、風呂上りに武尊が歌っていた鼻歌を思い出して苦笑いした。自分でも音痴なのは自覚
があるらしい。
「湊君の演奏を聴くのは嫌いじゃないんですけど」
武尊は、湊がピアノの練習をしている隣で、ソファに体を預けて雑誌を読みながら、その
音楽に耳を傾けているのが日課になりつつあった。
「じゃあ、武尊さんは聞く専門だね」
「多分、聴くだけならプロになれます」
湊は軽く笑って鞄を肩に掛けなおした。
 武尊も出勤の準備をする。
朝は慌しく、2人同時に家を出るとそこで別れた。





 家を出てから、残業も減らした。どうせやってもやらなくても、明日になればまた仕事が
あるのだ。無理して残業する理由も見当たらないし、武尊は8時になると会社を後にした。
 帰りがけにコンビニで弁当を買うと、湊の家――今は自分の家に向かう。
門扉の前まで来ると、一軒だけ明かりの無い家に胸が痛んだ。
人が待っていない家に帰るというのはこんなにも寂しいものなのか。
武尊には、無人の家に帰るという記憶が殆どない。学生時代は自宅生だったし、その後
直ぐに結婚したおかげで、家に帰ればご飯が待っているという暮らしが当たり前だった。
 残業で遅くなっても、門灯は消さずにちゃんと武尊を迎え入れてくれたし、妻は冷めた
夕食をレンジで温めなおしてくれた。
 ここにはそう言う生活がない。
湊が家にいるときには、さほど違和感を感じなかったが、彼はいつもこんな気持ちでココに
帰って来るのだろうか。
 自分だったら、こんな広い家に1人で暮らすのは嫌だと思う。思い出の欠片ばかり見えて
しまう家ならば尚更で、さっさと1人暮らし用の小さなアパートに移ってしまう気がする。
 妻と娘が去った家を想像して、ぶるっと震えた。




「ただいま」
身についた習慣というのは恐ろしいもので、返ってくる声はないと分っていても、武尊は
真っ暗な玄関に向かって声を掛けていた。
 静かな廊下に響く自分の足音。
湊から貸してもらった部屋は二階の一室だが、武尊は着替えも何もせずに、キッチンへ
向かった。
 それからコンビニの弁当をレンジで温めなおして食べた。テレビをつけても、静かだった。
1人の夕食は虚しい。妻はあの日、武尊が男がいる事を問いただした日も、武尊の為に冷たく
なったご飯をレンジで温めなおしてくれて、そして武尊が遅い夕食を食べ終わるまで隣に座って
いてくれた。
 この矛盾が余計に武尊を苦しめる。彼女はそうする事が義務だったとでも思っていたの
かもしれない。
 最後の一口をお茶で流し込んでいると、チャイムが鳴った。
「誰だろう、こんな時間に・・・・・・湊君、鍵忘れたのかな」
武尊はペットボトルのお茶を飲み干すと、慌てて玄関に向かった。





 玄関の扉を開けて、武尊は暫くリアクションを忘れた。
湊のはずであるわけが無いとは分っていたのに、湊以外の男を目の前にして、どう声を
掛けていいのか分らなくなっていたのだ。
「いらっしゃい」も「こんばんは」も武尊が掛けるべき挨拶では無い気がする。武尊はこの
家に住んではいるが、湊の家族ではない。
「あの・・・・・・?」
瞬間でからからに乾いた喉から搾り出した声に、相手は淡々と尋ねた。
「湊、いる?」
「・・・・・・」
「何?」
「いえ、まだ仕事から帰ってきてませんが。湊君に用ですか?」
目の前に立っている青年は複雑な表情を浮かべていた。
 武尊を舐めるように眺めて、苦笑いする。視線が痛い。
「なんだ、心配する必要なかった。・・・・・・自殺でもするんじゃないかって一瞬でも思った
俺は馬鹿だな」
「はい?」
青年の台詞の意味が分らず、武尊は首を傾げた。
 品定めするように青年は武尊を見る。武尊よりも背は低かったけれど、妙に威圧感があって
武尊は圧倒された。
 暫く無言で見合った後、青年は手にしていた袋を武尊に突きつけた。
「これ、湊に返しておいて」
「忘れ物ですか?・・・・・・あと10分もすれば多分帰ってきますけど。帰りは10時過ぎって言って
いたので、待っててもらえれば会えると思いますよ」
用事があるのなら、あと10分程まっていればいい。上がって待っていてもらおうか。余計な
気遣いだろうか。
 青年は黒髪を掻き揚げて、武尊まで届くように溜め息を吐く。その仕草は武尊から見ても
セクシーに映った。
 湊も中性的なイメージがあるけれど、彼もまた同じように感じる。彼も音楽家なのだろうか。
長い指が髪の隙間から現れるのを武尊は見惚れていた。
武尊がそんなことを思案していると、青年は皮肉そうに唇を歪めた。
「それ、俺に対する挑発か何かなの?」
「は?」
「だってあんた、湊の新しい恋人なんでしょ?」
武尊は青年から受け取った荷物を思わず手放した。
 ガシャン、夜の闇に耳を塞ぎたくなるような音が響く。コロコロと袋の中から指輪が一つ
転がって、武尊の足にぶつかるとそこで倒れた。
 武尊は目を丸くして、その指輪と青年を交互に見詰めていた。



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